①ケモカフェ! 〜ifストーリー〜   作:灰色の雪

4 / 10
おばあちゃんの横顔

翌朝、目覚ましが鳴る前に目を開けた。

時計を見る。五時四十分。まだ薄暗い。窓の外で、一番鶏の声がする。

昨夜、眠る前に決めたことを思い出す。誰よりも早くキッチンに立つ。凛より先に。今日は私が朝ごはんを作る。ここは私のキッチンなのだから。

布団を跳ね除けて、洗面所に向かう。顔を洗う。歯を磨く。髪を結ぶ。エプロンをつける。クマの刺繍に触れる。おばあちゃんの手縫い。

階段を降りる足音を殺した。凛を起こしたくない。起こしてしまったら、また「手伝う?」と言われる。今日は一人で作りたい。一人で、全部。

キッチンに入った。

誰もいない。静かだ。窓の外が白み始めている。蛇口から水を出して、両手ですくって顔にかけた。冷たい。目が覚める。

さあ、何を作ろう。

冷蔵庫を開ける。卵、牛乳、ベーコン、トマト、レタス。パンもある。

フレンチトースト。

それにしよう。おばあちゃんの好物だ。卵液にバニラエッセンスをほんの少し入れるのが私のやり方で、おばあちゃんはいつも「愛のフレンチトーストは特別だねぇ」と言ってくれる。

パンを厚めに切る。卵を割る。両手で、丁寧に。殻が入らないように。牛乳と砂糖を混ぜて、バニラエッセンスを二滴。パンを卵液に浸す。両面がしっかり吸い込むまで待つ。

フライパンにバターを溶かす。じゅわっという音。この音が好きだ。朝のキッチンに、バターの甘い匂いが広がる。

パンを並べる。弱火でじっくり。焦がさないように。何度もやってきたことだ。何度もやってきたから、できることだ。

ひっくり返す。きれいな焼き色。よし。

サラダも作る。レタスをちぎって、トマトを切って、ベーコンをカリカリに焼いて散らす。ドレッシングは手作り。オリーブオイルと酢と塩と胡椒とはちみつ。おばあちゃんが「市販のより好き」と言ってくれるレシピ。

コーヒーは——私には淹れられない。それはおばあちゃんの仕事だ。代わりに、おばあちゃん用にカップを温めておく。お湯を注いで、カップを温める。おばあちゃんがいつもやっていることを、先にやっておく。

六時半。全部できた。

テーブルに並べる。フレンチトーストが二枚ずつ、三人分。サラダ。温めたカップ。オレンジジュース——私の分。

「おはよう、愛。早いねぇ」

おばあちゃんが降りてきた。テーブルを見て、目を丸くした。

「まぁ……朝ごはん、もう作ってくれたの?」

「うん。フレンチトースト。おばあちゃんの好きなやつ」

「嬉しいねぇ……。ありがとう、愛」

おばあちゃんが微笑む。この笑顔。この「ありがとう」。これが聞きたかった。これのためにキッチンに立っているんだ。

「おはようございます」

凛が階段を降りてきた。髪がまだ少し寝癖で跳ねている。目をこすりながらキッチンに入ってきて、テーブルの上を見た。

「わ。フレンチトースト。お姉さんが作ったの?」

「うん」

「朝早くから偉いね。ありがとう」

凛が椅子に座る。素直に「ありがとう」と言う子だ。嫌味がない。

三人で「いただきます」を言った。

おばあちゃんがフレンチトーストをひと口食べて、「うん、おいしいよ。愛のフレンチトーストは特別だねぇ」と言ってくれた。いつもの言葉。いつもの声。安心する。

凛がフレンチトーストを食べた。

もぐもぐと咀嚼して、飲み込んで——

「おいしい。バニラの香りがいいね」

おいしい。バニラの香りがいいね。

それだけだった。

それだけ、だった。

嘘じゃない。嘘じゃないことは、もうわかっている。凛の「おいしい」は本心だ。でも、分析がひとつ添えられている。「バニラの香りがいいね」。味を構成する要素を一つ取り出して、そこを褒めている。全体を褒めているのではなく、部分を褒めている。

それがどういうことなのか——考えたくないけど、わかってしまう。

全体としては「おいしい」の範囲だけど、特筆すべきはバニラの香りくらい。他の部分——卵液の配合、焼き加減、パンの選び方——には、触れるほどのものがなかった。

たぶん、凛はそこまで考えて言っていない。ただ感じたことを口にしただけだ。でも、私の耳は——もう、普通に聞くことができなくなっていた。

凛の言葉の裏を読んでしまう。温度を測ってしまう。「すごく」がつくか、つかないかを数えてしまう。

こんなの、おかしい。こんなの——前の私じゃない。

「お姉さん、これ卵液にパン何分くらい浸してる?」

「えっと……十五分くらい」

「やっぱり。しっかり染みてるもんね。もうちょっと短くすると、表面カリッと中ふわっていう感じにもできるよ。どっちが好きかは好みだけど」

また——指摘だ。

いや、指摘じゃない。提案だ。「どっちが好きかは好みだけど」とちゃんと付け加えている。凛なりの気遣いだ。

でも。

昨日の肉じゃがのじゃがいも。今日のフレンチトーストの浸し時間。凛と食卓を囲むたびに、私の料理に「もっとこうできる」が付け加えられていく。

おばあちゃんは一度も言わなかった。常連さんも一度も言わなかった。みんな「おいしいよ」だけだった。

それは——私の料理に改善点がなかったからではなく、誰も言わなかっただけだ。

凛が来るまで、このキッチンには鏡がなかった。

凛という鏡が現れて、初めて——自分の料理の姿が映し出されている。映し出されたそれは、思っていたものとは、少し違っていた。

「ごちそうさまでした。おいしかったよ、お姉さん」

凛が皿を持って立ち上がる。自分で洗い場に持っていく。

「凛ちゃん、いいんだよ、お客さんなんだから」

「泊めてもらってるんだから、これくらいさせてください」

おばあちゃんと凛のやり取りを聞きながら、私は自分のフレンチトーストの最後のひと切れを口に入れた。

おいしい。

自分で食べても、おいしいと思う。バニラの香りがして、甘くて、ふわふわで。

おいしいのに——なぜだろう、今日は味がよくわからなかった。

 

カフェの開店準備をする。

いつもの手順。テーブルを拭いて、椅子を並べて、窓を開けて。花瓶の水を替えて、メニュー表を確認して。のれんを出す。

凛も手伝ってくれた。何も言わなくても、やるべきことを察して動く。テーブルの拭き方ひとつとっても効率的で、一枚のテーブルを拭く時間が私の半分くらいしかかからない。

「凛ちゃん、手際がいいねぇ」

おばあちゃんが感心する。

「小さい頃からお母さんのお店手伝ってたので」

お母さんのお店。世界的なパティシエのお店。そこで鍛えられた手際を、山奥のカフェに持ち込んでいる。場違いなほどの——スキル。

「そういえば凛ちゃん、昨日言ってた和食メニュー、今日作ってみる?」

おばあちゃんが聞いた。昨日の話を、おばあちゃんは覚えていた。楽しみにしていたのだろう。

「はい!作りたいです。——おだしから取っていいですか?」

「もちろんだよぉ。鰹節は棚の上にあるからねぇ」

凛がキッチンに入っていく。鰹節を取り出して、削り始めた。

鰹節を削る凛の手つきを、私はまた見てしまっていた。削り器の持ち方が安定していて、均一な厚さの鰹節がひらひらと落ちていく。私は鰹節を削ったことがない。いつも顆粒だしを使っていた。本格的な出汁の取り方は知っていたけど、面倒で——いや、面倒だったのではなく、顆粒だしで十分だと思っていた。常連さんにもおばあちゃんにも、それで「おいしい」と言ってもらえていたから。

凛が鍋に水を入れて、昆布を沈めた。

「水出しの方がいいんですけど、時間ないから煮出しますね」

誰に向かって言っているのだろう。おばあちゃんか。私か。それとも——自分自身への確認か。

昆布を弱火にかけて、沸騰する直前に取り出す。そこに鰹節を入れて、火を止めて、二分待って、漉す。

キッチンに、出汁の香りが広がった。

鰹節と昆布の——深くて、優しくて、どこか懐かしい香り。

「……いい匂いだねぇ」

おばあちゃんが目を閉じた。その顔は——幸せそうだった。

このカフェのキッチンで、本格的な出汁が取られたのは初めてかもしれない。おじいちゃんは洋食派だったし、私は顆粒だしで済ませていたし。この香りは、タカラにとって初めての香りだ。

凛がその出汁で味噌汁を作った。具は豆腐とわかめとネギ。シンプルだけど、ひと口飲んでみると——

「……おいしい」

私は思わず声に出していた。

出汁が違うだけで、こんなに違うのか。味噌の味がまろやかに感じる。角がない。豆腐の甘みが引き立っている。

私が毎日作ってきた味噌汁とは——根本が違った。

レシピの差ではない。テクニックの差でもない。基盤の差だ。出汁という料理の土台が違えば、その上に乗るものすべてが変わる。

凛はおにぎりも握った。塩むすびと、梅干しと、鮭。三種類。握り方が——

「お姉さん、おにぎり握る時、最初にちょっとだけ手を水で濡らすと、ご飯がくっつかないよ」

知っている。それくらい知っている。

でも凛に言われると——自分がやっていたかどうか、急に自信がなくなる。

昼に出したおにぎり定食は、常連さんに好評だった。

橋本さんが味噌汁をひと口飲んで、目を見開いた。

「この味噌汁……出汁、鰹節から取ってるね?」

「凛ちゃんが作ってくれたんです」

私が答えた。自分で言って、自分の声が他人のもののように聞こえた。

「へえ、凛ちゃんが。うまいなぁ。こういう味噌汁が飲みたかったんだよ」

飲みたかったんだよ。

その言葉が意味するものを、私は正確に理解した。

橋本さんは毎日来てくれている。毎日、私の味噌汁を飲んでくれている。「おいしいよ」と言ってくれている。でも——本当は、こういう味噌汁が飲みたかった。

私の味噌汁は——「こういう味噌汁」ではなかったのだ。

橋本さんは私の味噌汁を否定していない。おいしいと思ってくれていたのは本当だろう。でも、凛の味噌汁を飲んで「飲みたかった」という言葉が出るということは——私の味噌汁では、その欲求が満たされていなかったということだ。

足りていなかった。

ずっと、足りていなかった。

誰も言わなかっただけで。

松田さんがおにぎりを食べながら静かに言った。

「凛ちゃん、和食もできるのか。大したもんだ」

大したもんだ。松田さんが二日連続で凛を褒めている。私には一度も「大したもんだ」とは言ってくれなかった。「えらいね」は言ってくれた。「いい」も言ってくれた。でも「大したもんだ」は——その言葉は、格が違う。

おばあちゃんが、カウンターの中から常連さんたちの様子を見ていた。おばあちゃんの表情は——嬉しそう、というよりも、安堵に近かった。

安堵?

なぜ——安堵するのだろう。

わからない。わからないけど、おばあちゃんの目が——凛を見る時の目が、日を追うごとに変わっている気がする。最初は「いい子だね」という温かい目だった。それが——もっと深い何かに変わり始めている。

 

午後の静かな時間。

私はキッチンの奥で皿を洗っていた。凛はカウンターに座って、おばあちゃんとまた話をしている。

今日の話題は、カフェの歴史だった。

「タカラは、おじいちゃんと一緒に始めたんですか?」

「そうだよぉ。もう三十年以上前になるかねぇ。おじいちゃんが料理を作って、おばあちゃんがコーヒーを淹れて。小さなお店だけど、二人でやるのが楽しくてねぇ」

「おじいさん、料理上手だったんですか」

「上手だったよぉ。カレーが得意でねぇ。スパイスを自分でブレンドして、何時間もかけて作るの。お客さんに大人気だったんだよ」

おじいちゃんの話。私は水の音の向こうで、耳を澄ませていた。

「おじいちゃんが亡くなってからは……私がカレーを作ったんですけど、同じ味にはならなくて」

皿を洗う手が止まった。

おばあちゃんが、今——なんて言った?

「おじいちゃんのレシピを見ながら作っても、なんか違うんだよねぇ。火加減なのか、タイミングなのか……。でも愛ががんばって近づけてくれて、今はだいぶ近いよ」

「だいぶ近い」。

近い。同じではなく、近い。

知っていた。私のカレーがおじいちゃんのカレーと同じではないことは。何度作っても、おじいちゃんの味にはならなかった。レシピ通りにやっているのに。手順も分量も同じなのに。でも、何かが違う。その「何か」が何なのかわからないまま、二年が過ぎた。

おばあちゃんは——ずっと気づいていたのだ。私のカレーがおじいちゃんのカレーとは違うことに。気づいていて、何も言わなかった。「おいしいよ」と言ってくれていた。「だいぶ近い」ことを褒めてくれていた。

でも「同じだよ」とは——一度も言わなかった。

「おじいさんのカレー、食べてみたかったな」

凛がぽつりと言った。

「ほんとにねぇ。おじいちゃんが生きてたら、凛ちゃんに食べさせたかったよ」

おばあちゃんの声が、少し湿り気を帯びた。

食べさせたかった。凛ちゃんに。

おばあちゃんは、凛なら——おじいちゃんのカレーの味がわかると思っているのだ。コーヒーの味がわかるように。出汁の味がわかるように。凛なら、おじいちゃんのスパイスの配合の意味を、一口で理解するだろう。

私は二年かけて「だいぶ近い」カレーを作った。凛は——

考えるな。やめろ。

蛇口をひねって、水を強くした。水の音で、二人の会話が聞こえなくなった。

じゃあじゃあと水が流れる。皿はもう洗い終わっている。きれいな皿に水をかけ続けている。意味のない動作。でも止められない。止めたら、また聞こえてしまうから。

「愛?水、出しっぱなしだよ?」

おばあちゃんの声が飛んできて、慌てて蛇口を閉めた。

「あ、ごめん。ぼうっとしてた」

「大丈夫かい?最近ぼうっとすること多くない?」

「大丈夫だよ。ちょっと暑くて」

「無理しちゃだめだよ? 熱中症になるから、水分取るんだよ?」

おばあちゃんが心配してくれる。いつもの心配。いつもの優しさ。

「うん、ありがとう」

大丈夫。大丈夫。大丈夫。

 

午後三時。常連さんが帰って、カフェが静かになった。

おばあちゃんと凛がカウンターで向かい合って座っている。おばあちゃんがコーヒーを淹れて、凛に出した。自分の分も淹れた。二つのカップから湯気が立ち上る。

「今日のは深煎りにしてみたんだよ。凛ちゃんの好みに合うかわからないけど」

「いただきます」

凛がカップを持ち上げて、ひと口。

「……おいしい。深煎りの方が、チョコレートっぽい風味が出ますね。私はこっちの方が好きかも」

「ほんとかい?嬉しいねぇ。じゃあ、明日も深煎りにしようかねぇ」

明日も深煎りにしよう。

おばあちゃんが——凛の好みに合わせて、コーヒーの焙煎を変えると言っている。

おばあちゃんのコーヒーは、いつも同じだった。中煎り。おじいちゃんと一緒に研究した味。常連さんもその味が好きで通ってくれていた。私が飲めなくても、「これがタカラの味だよ」と教えてくれていた。

それを——凛の好みに合わせて変える。

変えること自体は悪いことじゃない。お客さんの好みに合わせるのは、カフェとして当然だ。でも——私はこう思ってしまった。

私のために変えてくれたことは、なかった。

コーヒーが飲めない私のために——例えばカフェオレを用意してくれるとか、甘いコーヒーを試してくれるとか、そういうことは一度もなかった。おばあちゃんは私がコーヒーを飲めないことを「そういうものだ」と受け入れていた。合わせる必要がなかった。

でも凛には——合わせる。凛の好みを聞いて、焙煎を変えて、「明日もこうしよう」と言う。

それは——凛がコーヒーを「わかる」人間だから。わかる人間の言葉には、応えたくなる。わかる人間の好みには、寄り添いたくなる。

私は「わからない」人間だった。おばあちゃんのコーヒーの世界に、最初から入れなかった人間だった。

「凛ちゃん、ちょっと聞いてもいいかい」

おばあちゃんが、少し改まった声で言った。

「はい?」

「凛ちゃんは……どうして一人旅をしてるんだい?」

私も気になっていたことだった。中学一年生が一人で山奥まで来るのは普通じゃない。でも聞いていいのかわからなくて、聞けなかった。

凛が少し黙った。カップの中のコーヒーを見つめている。

「……お母さんと、ちょっとケンカして」

「ケンカ?」

「お菓子の方向性で。お母さんは私に自分の店を継がせたいんですけど、私は——自分のやり方でやりたくて。それで言い合いになって、頭冷やしたくて家を出ました」

凛の声は平坦だった。感情を押し殺しているのではなく、もう何度も反芻して、温度がなくなった話のように聞こえた。

「お母さん、心配してるんじゃないかい?」

「連絡はしてます。……たぶん、放っておいてくれてると思います。お母さんもそういう人なので」

世界的なパティシエの母と、天才的な娘の確執。物語みたいだ。私の知らない世界の話。

「大変だったんだねぇ」

おばあちゃんが凛の手に自分の手を重ねた。

その仕草を見た瞬間——胸の奥が、ずきりと痛んだ。

おばあちゃんの手。しわだらけの、温かい、優しい手。私の頭を撫でてくれる手。私の手に重ねてくれる手。

それが——凛の手の上にある。

おばあちゃんは優しい人だ。困っている子がいれば、手を差し伸べる。それがおばあちゃんだ。私もそうやって育ててもらった。両親が離婚して、行き場のなかった私を引き取ってくれた。

だから、凛に同じことをするのは——おばあちゃんにとって自然なことだ。

自然なことなのに。

自然なことなのに、どうしてこんなに苦しいの。

「凛ちゃん、急いで帰らなくていいなら——ゆっくりしていきなさい。ここにいたいだけ、いていいんだからね」

おばあちゃんが言った。

いたいだけ、いていい。

それは——かつて、小学三年生の私に向けられた言葉と同じだった。

両親のもとにいられなくなった私を、おばあちゃんが迎え入れてくれた時。「愛、いたいだけいていいんだからね」と——そう言ってくれたのだ。抱きしめてくれて、頭を撫でてくれて。

同じ言葉。同じ温度。同じ——手。

違うのは、向けられている相手だけ。

「……ありがとうございます」

凛が小さく頭を下げた。目が少し赤い。強がっているけど、寂しかったのかもしれない。母親とケンカして、一人で旅をして、山奥のカフェにたどり着いた女の子。

可哀想だと思った。

可哀想だと思うべきだった。

でも——同時に、もう一つの感情が、暗い水底から浮かび上がってくる。言葉にしたくない感情。認めたくない感情。

——私の場所を、取らないで。

最低だ。

凛は家出同然で一人旅をしている中学生で、おばあちゃんの優しさに救われている。そんな子に向かって「場所を取るな」なんて、最低だ。人として最低だ。

おばあちゃんの優しさは有限じゃない。凛に優しくすることと、私に優しくすることは矛盾しない。おばあちゃんは二人とも大事にしてくれている。どちらかを選んでいるわけじゃない。

わかっている。

頭では、わかっている。

「愛、コーヒー淹れたけど——あ、愛はオレンジジュースだったね。ごめんごめん」

おばあちゃんがカウンターからオレンジジュースを持ってきてくれた。冷たいグラスに、オレンジ色の液体。

「ありがとう、おばあちゃん」

受け取って、ひと口飲んだ。甘くて冷たい。いつもの味。

カウンターの向こうで、おばあちゃんと凛が深煎りのコーヒーを飲んでいる。同じカップで、同じコーヒーを。その間に、言葉がなくても通じる何かがある。

私はオレンジジュースを飲んでいる。

同じテーブルにいるのに——飲んでいるものが違う。

前は気にならなかった。コーヒーが飲めないことは私の体質だし、おばあちゃんはいつもオレンジジュースを用意してくれるし、それで十分だった。

でも今——凛がいる今——オレンジジュースのグラスが、境界線に見えた。

コーヒーの世界と、オレンジジュースの世界。おばあちゃんと凛が住んでいる世界と、私が住んでいる世界。

同じカフェにいるのに、同じ言語を話していない。

 

夕方。

閉店作業をしていると、おばあちゃんが棚の奥からアルバムを取り出してきた。

「凛ちゃん、見る?おじいちゃんがカフェを始めた頃の写真」

「見たいです!」

凛が目を輝かせた。二人でソファに座って、アルバムを開く。古い写真。開店当時のカフェの外観。若いおばあちゃんとおじいちゃんが、のれんの前で笑っている。

「わぁ、おばあさん若い。きれい」

「ほっほっ、昔の話だよぉ」

「おじいさんも優しそう。笑顔が素敵ですね」

「そうだろう? おじいちゃんはねぇ、本当に優しい人でねぇ——」

おばあちゃんがおじいちゃんの話を始めた。

おじいちゃんの話は、私もよく聞く。聞くたびに、会いたくなる。でも今日は——少し違った。

おばあちゃんの話し方が、違った。

私に話す時のおじいちゃんの話は、思い出話だった。「おじいちゃんはこういう人だったよ」「おじいちゃんはこれが好きだったよ」。孫に祖父のことを伝える、優しい語り口。

凛に話す時のおじいちゃんの話は——もっと踏み込んでいた。

おじいちゃんがカフェを始めた理由。おじいちゃんが料理にかけていた情熱。おじいちゃんが食べ歩きで出会った味の話。おじいちゃんが最後まで追い求めていた「理想の味」の話。

私には話してくれなかった——いや、話す必要がなかったのだ。私は料理のプロを目指しているわけではないし、おじいちゃんの料理哲学を理解できるほどの素養がないと——おばあちゃんは思っているのだろうか。

それとも、凛なら理解できると思っているから——話しているのだろうか。

「おじいちゃんはねぇ、ずっと言ってたんだよ。『本当においしいものは、食べた人の人生を変える』って」

「食べた人の人生を変える……」

凛が噛みしめるように呟いた。

「凛ちゃんのフィナンシェを食べた時、おばあちゃんねぇ、おじいちゃんのことを思い出したんだよ」

「えっ」

「おじいちゃんがねぇ、よく言ってたの。若い頃に食べたある味が忘れられないって。何十年も前の味を、ずっと覚えてるって。凛ちゃんのフィナンシェを食べた時——あ、おじいちゃんが言ってたのは、こういう味のことかもしれないって思ったんだよ」

おばあちゃんの声が、遠い場所から聞こえるようだった。

私は——キッチンの入り口に立ったまま、二人の背中を見ていた。ソファに並んで座るおばあちゃんと凛。アルバムを挟んで、肩が触れ合っている。

おばあちゃんの横顔が見えた。

その横顔は——穏やかで、懐かしそうで、少し寂しそうで、でも幸せそうだった。

おじいちゃんの話をする時のおばあちゃんは、いつも少し寂しそうになる。でも今は、寂しさよりも——安堵が勝っていた。

昼間にも見た、あの安堵の表情。

おばあちゃんは、安堵しているのだ。凛がいることに。おじいちゃんのことを、おじいちゃんの料理のことを、おじいちゃんのコーヒーへのこだわりを——わかってくれる人間が、やっと現れたことに。

私は——わかってあげられなかった。

コーヒーの味がわからない。料理の奥深さを本当の意味では理解できない。おじいちゃんの「理想の味」が何だったのか、想像すらできない。

おばあちゃんは、ずっと一人だったのだ。

おじいちゃんが亡くなってから——食の世界において、おばあちゃんはずっと一人だった。私がそばにいても。毎日一緒にキッチンに立っても。おいしいと言い合っても。

おばあちゃんの本当の言葉を受け止められる相手が——いなかった。

それを、今、凛が満たしている。

「おばあさん」

凛がアルバムから顔を上げて、おばあちゃんを見上げた。

「私、もう少しここにいてもいいですか」

おばあちゃんが凛の頭を撫でた。優しく。ゆっくりと。何度も。

「いつまでもいていいんだよ、凛ちゃん」

いつまでも。

「いたいだけ」ではなく——「いつまでも」。

私に向けられた言葉は「いたいだけ」だった。期限付きの優しさ。凛に向けられた言葉は「いつまでも」。期限のない優しさ。

——そんなの、言葉のあやだ。おばあちゃんは同じ意味で使っている。深読みしすぎだ。おばあちゃんが私と凛で区別をつけるわけがない。

わかっている。わかっているのに——

足が動いた。

音を立てずに、キッチンの入り口から離れた。階段を上がった。自分の部屋に入った。ドアを閉めた。

ベッドに座って、膝を抱えた。

下から、おばあちゃんの笑い声が聞こえる。凛の声も聞こえる。二人で、アルバムを見ながら笑っている。おじいちゃんの話で笑っている。

私のいない場所で、私の家族の思い出が——共有されている。

涙は出なかった。

出なかったけれど——目の奥が熱くて、視界がぼやけた。

机の上に、うさぎのアイシングクッキーがある。もう四日前に作ったものだ。おばあちゃんに渡しそびれたまま、ずっとここにある。

明日こそ渡そう、と毎日思って、毎日渡せなかった。おばあちゃんが凛と一緒にいるタイミングで渡すのが——嫌だった。凛の前で自分のクッキーを出すのが怖かった。比べられるのが怖かった。

手に取った。うさぎの目が相変わらず左右で大きさが違う。アイシングの線が少し震えている。

四日経って、クッキーは少し湿気ていた。端の方が柔らかくなっている。

「……ごめんね」

うさぎに向かって呟いた。何に謝っているのか、自分でもわからない。

窓の外を見た。夕焼けが山の稜線を赤く染めている。蝉の声が弱くなって、ひぐらしの声に変わっていく。

明日も、朝が来る。

明日も、凛がいる。

明日も——おばあちゃんの横顔を、見つめることになるのだろう。

おばあちゃんの——私ではなく、凛を見ている横顔を。

枕に顔を押しつけた。

クッキーを、ゴミ箱に——

手が伸びかけて、止まった。

まだ捨てられない。おばあちゃんのために作ったものだから。おばあちゃんに食べてもらいたくて作ったものだから。

でも——もう、渡せない気がしていた。

四日前に作ったクッキー。四日前の私が、四日前の自信で作ったクッキー。あの頃はまだ——凛のフィナンシェを知らなかった。おばあちゃんの本当の表情を知らなかった。自分の味噌汁が「足りていなかった」ことを知らなかった。

知る前の私が作ったものを、知ってしまった今の私が——出せるわけがない。

うさぎのクッキーを皿に戻した。

明日。

明日、どうするかは——明日、考えよう。

ひぐらしの声が、暗くなった部屋に染み込んでいった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。