翌朝、目覚ましが鳴る前に目を開けた。
時計を見る。五時四十分。まだ薄暗い。窓の外で、一番鶏の声がする。
昨夜、眠る前に決めたことを思い出す。誰よりも早くキッチンに立つ。凛より先に。今日は私が朝ごはんを作る。ここは私のキッチンなのだから。
布団を跳ね除けて、洗面所に向かう。顔を洗う。歯を磨く。髪を結ぶ。エプロンをつける。クマの刺繍に触れる。おばあちゃんの手縫い。
階段を降りる足音を殺した。凛を起こしたくない。起こしてしまったら、また「手伝う?」と言われる。今日は一人で作りたい。一人で、全部。
キッチンに入った。
誰もいない。静かだ。窓の外が白み始めている。蛇口から水を出して、両手ですくって顔にかけた。冷たい。目が覚める。
さあ、何を作ろう。
冷蔵庫を開ける。卵、牛乳、ベーコン、トマト、レタス。パンもある。
フレンチトースト。
それにしよう。おばあちゃんの好物だ。卵液にバニラエッセンスをほんの少し入れるのが私のやり方で、おばあちゃんはいつも「愛のフレンチトーストは特別だねぇ」と言ってくれる。
パンを厚めに切る。卵を割る。両手で、丁寧に。殻が入らないように。牛乳と砂糖を混ぜて、バニラエッセンスを二滴。パンを卵液に浸す。両面がしっかり吸い込むまで待つ。
フライパンにバターを溶かす。じゅわっという音。この音が好きだ。朝のキッチンに、バターの甘い匂いが広がる。
パンを並べる。弱火でじっくり。焦がさないように。何度もやってきたことだ。何度もやってきたから、できることだ。
ひっくり返す。きれいな焼き色。よし。
サラダも作る。レタスをちぎって、トマトを切って、ベーコンをカリカリに焼いて散らす。ドレッシングは手作り。オリーブオイルと酢と塩と胡椒とはちみつ。おばあちゃんが「市販のより好き」と言ってくれるレシピ。
コーヒーは——私には淹れられない。それはおばあちゃんの仕事だ。代わりに、おばあちゃん用にカップを温めておく。お湯を注いで、カップを温める。おばあちゃんがいつもやっていることを、先にやっておく。
六時半。全部できた。
テーブルに並べる。フレンチトーストが二枚ずつ、三人分。サラダ。温めたカップ。オレンジジュース——私の分。
「おはよう、愛。早いねぇ」
おばあちゃんが降りてきた。テーブルを見て、目を丸くした。
「まぁ……朝ごはん、もう作ってくれたの?」
「うん。フレンチトースト。おばあちゃんの好きなやつ」
「嬉しいねぇ……。ありがとう、愛」
おばあちゃんが微笑む。この笑顔。この「ありがとう」。これが聞きたかった。これのためにキッチンに立っているんだ。
「おはようございます」
凛が階段を降りてきた。髪がまだ少し寝癖で跳ねている。目をこすりながらキッチンに入ってきて、テーブルの上を見た。
「わ。フレンチトースト。お姉さんが作ったの?」
「うん」
「朝早くから偉いね。ありがとう」
凛が椅子に座る。素直に「ありがとう」と言う子だ。嫌味がない。
三人で「いただきます」を言った。
おばあちゃんがフレンチトーストをひと口食べて、「うん、おいしいよ。愛のフレンチトーストは特別だねぇ」と言ってくれた。いつもの言葉。いつもの声。安心する。
凛がフレンチトーストを食べた。
もぐもぐと咀嚼して、飲み込んで——
「おいしい。バニラの香りがいいね」
おいしい。バニラの香りがいいね。
それだけだった。
それだけ、だった。
嘘じゃない。嘘じゃないことは、もうわかっている。凛の「おいしい」は本心だ。でも、分析がひとつ添えられている。「バニラの香りがいいね」。味を構成する要素を一つ取り出して、そこを褒めている。全体を褒めているのではなく、部分を褒めている。
それがどういうことなのか——考えたくないけど、わかってしまう。
全体としては「おいしい」の範囲だけど、特筆すべきはバニラの香りくらい。他の部分——卵液の配合、焼き加減、パンの選び方——には、触れるほどのものがなかった。
たぶん、凛はそこまで考えて言っていない。ただ感じたことを口にしただけだ。でも、私の耳は——もう、普通に聞くことができなくなっていた。
凛の言葉の裏を読んでしまう。温度を測ってしまう。「すごく」がつくか、つかないかを数えてしまう。
こんなの、おかしい。こんなの——前の私じゃない。
「お姉さん、これ卵液にパン何分くらい浸してる?」
「えっと……十五分くらい」
「やっぱり。しっかり染みてるもんね。もうちょっと短くすると、表面カリッと中ふわっていう感じにもできるよ。どっちが好きかは好みだけど」
また——指摘だ。
いや、指摘じゃない。提案だ。「どっちが好きかは好みだけど」とちゃんと付け加えている。凛なりの気遣いだ。
でも。
昨日の肉じゃがのじゃがいも。今日のフレンチトーストの浸し時間。凛と食卓を囲むたびに、私の料理に「もっとこうできる」が付け加えられていく。
おばあちゃんは一度も言わなかった。常連さんも一度も言わなかった。みんな「おいしいよ」だけだった。
それは——私の料理に改善点がなかったからではなく、誰も言わなかっただけだ。
凛が来るまで、このキッチンには鏡がなかった。
凛という鏡が現れて、初めて——自分の料理の姿が映し出されている。映し出されたそれは、思っていたものとは、少し違っていた。
「ごちそうさまでした。おいしかったよ、お姉さん」
凛が皿を持って立ち上がる。自分で洗い場に持っていく。
「凛ちゃん、いいんだよ、お客さんなんだから」
「泊めてもらってるんだから、これくらいさせてください」
おばあちゃんと凛のやり取りを聞きながら、私は自分のフレンチトーストの最後のひと切れを口に入れた。
おいしい。
自分で食べても、おいしいと思う。バニラの香りがして、甘くて、ふわふわで。
おいしいのに——なぜだろう、今日は味がよくわからなかった。
カフェの開店準備をする。
いつもの手順。テーブルを拭いて、椅子を並べて、窓を開けて。花瓶の水を替えて、メニュー表を確認して。のれんを出す。
凛も手伝ってくれた。何も言わなくても、やるべきことを察して動く。テーブルの拭き方ひとつとっても効率的で、一枚のテーブルを拭く時間が私の半分くらいしかかからない。
「凛ちゃん、手際がいいねぇ」
おばあちゃんが感心する。
「小さい頃からお母さんのお店手伝ってたので」
お母さんのお店。世界的なパティシエのお店。そこで鍛えられた手際を、山奥のカフェに持ち込んでいる。場違いなほどの——スキル。
「そういえば凛ちゃん、昨日言ってた和食メニュー、今日作ってみる?」
おばあちゃんが聞いた。昨日の話を、おばあちゃんは覚えていた。楽しみにしていたのだろう。
「はい!作りたいです。——おだしから取っていいですか?」
「もちろんだよぉ。鰹節は棚の上にあるからねぇ」
凛がキッチンに入っていく。鰹節を取り出して、削り始めた。
鰹節を削る凛の手つきを、私はまた見てしまっていた。削り器の持ち方が安定していて、均一な厚さの鰹節がひらひらと落ちていく。私は鰹節を削ったことがない。いつも顆粒だしを使っていた。本格的な出汁の取り方は知っていたけど、面倒で——いや、面倒だったのではなく、顆粒だしで十分だと思っていた。常連さんにもおばあちゃんにも、それで「おいしい」と言ってもらえていたから。
凛が鍋に水を入れて、昆布を沈めた。
「水出しの方がいいんですけど、時間ないから煮出しますね」
誰に向かって言っているのだろう。おばあちゃんか。私か。それとも——自分自身への確認か。
昆布を弱火にかけて、沸騰する直前に取り出す。そこに鰹節を入れて、火を止めて、二分待って、漉す。
キッチンに、出汁の香りが広がった。
鰹節と昆布の——深くて、優しくて、どこか懐かしい香り。
「……いい匂いだねぇ」
おばあちゃんが目を閉じた。その顔は——幸せそうだった。
このカフェのキッチンで、本格的な出汁が取られたのは初めてかもしれない。おじいちゃんは洋食派だったし、私は顆粒だしで済ませていたし。この香りは、タカラにとって初めての香りだ。
凛がその出汁で味噌汁を作った。具は豆腐とわかめとネギ。シンプルだけど、ひと口飲んでみると——
「……おいしい」
私は思わず声に出していた。
出汁が違うだけで、こんなに違うのか。味噌の味がまろやかに感じる。角がない。豆腐の甘みが引き立っている。
私が毎日作ってきた味噌汁とは——根本が違った。
レシピの差ではない。テクニックの差でもない。基盤の差だ。出汁という料理の土台が違えば、その上に乗るものすべてが変わる。
凛はおにぎりも握った。塩むすびと、梅干しと、鮭。三種類。握り方が——
「お姉さん、おにぎり握る時、最初にちょっとだけ手を水で濡らすと、ご飯がくっつかないよ」
知っている。それくらい知っている。
でも凛に言われると——自分がやっていたかどうか、急に自信がなくなる。
昼に出したおにぎり定食は、常連さんに好評だった。
橋本さんが味噌汁をひと口飲んで、目を見開いた。
「この味噌汁……出汁、鰹節から取ってるね?」
「凛ちゃんが作ってくれたんです」
私が答えた。自分で言って、自分の声が他人のもののように聞こえた。
「へえ、凛ちゃんが。うまいなぁ。こういう味噌汁が飲みたかったんだよ」
飲みたかったんだよ。
その言葉が意味するものを、私は正確に理解した。
橋本さんは毎日来てくれている。毎日、私の味噌汁を飲んでくれている。「おいしいよ」と言ってくれている。でも——本当は、こういう味噌汁が飲みたかった。
私の味噌汁は——「こういう味噌汁」ではなかったのだ。
橋本さんは私の味噌汁を否定していない。おいしいと思ってくれていたのは本当だろう。でも、凛の味噌汁を飲んで「飲みたかった」という言葉が出るということは——私の味噌汁では、その欲求が満たされていなかったということだ。
足りていなかった。
ずっと、足りていなかった。
誰も言わなかっただけで。
松田さんがおにぎりを食べながら静かに言った。
「凛ちゃん、和食もできるのか。大したもんだ」
大したもんだ。松田さんが二日連続で凛を褒めている。私には一度も「大したもんだ」とは言ってくれなかった。「えらいね」は言ってくれた。「いい」も言ってくれた。でも「大したもんだ」は——その言葉は、格が違う。
おばあちゃんが、カウンターの中から常連さんたちの様子を見ていた。おばあちゃんの表情は——嬉しそう、というよりも、安堵に近かった。
安堵?
なぜ——安堵するのだろう。
わからない。わからないけど、おばあちゃんの目が——凛を見る時の目が、日を追うごとに変わっている気がする。最初は「いい子だね」という温かい目だった。それが——もっと深い何かに変わり始めている。
午後の静かな時間。
私はキッチンの奥で皿を洗っていた。凛はカウンターに座って、おばあちゃんとまた話をしている。
今日の話題は、カフェの歴史だった。
「タカラは、おじいちゃんと一緒に始めたんですか?」
「そうだよぉ。もう三十年以上前になるかねぇ。おじいちゃんが料理を作って、おばあちゃんがコーヒーを淹れて。小さなお店だけど、二人でやるのが楽しくてねぇ」
「おじいさん、料理上手だったんですか」
「上手だったよぉ。カレーが得意でねぇ。スパイスを自分でブレンドして、何時間もかけて作るの。お客さんに大人気だったんだよ」
おじいちゃんの話。私は水の音の向こうで、耳を澄ませていた。
「おじいちゃんが亡くなってからは……私がカレーを作ったんですけど、同じ味にはならなくて」
皿を洗う手が止まった。
おばあちゃんが、今——なんて言った?
「おじいちゃんのレシピを見ながら作っても、なんか違うんだよねぇ。火加減なのか、タイミングなのか……。でも愛ががんばって近づけてくれて、今はだいぶ近いよ」
「だいぶ近い」。
近い。同じではなく、近い。
知っていた。私のカレーがおじいちゃんのカレーと同じではないことは。何度作っても、おじいちゃんの味にはならなかった。レシピ通りにやっているのに。手順も分量も同じなのに。でも、何かが違う。その「何か」が何なのかわからないまま、二年が過ぎた。
おばあちゃんは——ずっと気づいていたのだ。私のカレーがおじいちゃんのカレーとは違うことに。気づいていて、何も言わなかった。「おいしいよ」と言ってくれていた。「だいぶ近い」ことを褒めてくれていた。
でも「同じだよ」とは——一度も言わなかった。
「おじいさんのカレー、食べてみたかったな」
凛がぽつりと言った。
「ほんとにねぇ。おじいちゃんが生きてたら、凛ちゃんに食べさせたかったよ」
おばあちゃんの声が、少し湿り気を帯びた。
食べさせたかった。凛ちゃんに。
おばあちゃんは、凛なら——おじいちゃんのカレーの味がわかると思っているのだ。コーヒーの味がわかるように。出汁の味がわかるように。凛なら、おじいちゃんのスパイスの配合の意味を、一口で理解するだろう。
私は二年かけて「だいぶ近い」カレーを作った。凛は——
考えるな。やめろ。
蛇口をひねって、水を強くした。水の音で、二人の会話が聞こえなくなった。
じゃあじゃあと水が流れる。皿はもう洗い終わっている。きれいな皿に水をかけ続けている。意味のない動作。でも止められない。止めたら、また聞こえてしまうから。
「愛?水、出しっぱなしだよ?」
おばあちゃんの声が飛んできて、慌てて蛇口を閉めた。
「あ、ごめん。ぼうっとしてた」
「大丈夫かい?最近ぼうっとすること多くない?」
「大丈夫だよ。ちょっと暑くて」
「無理しちゃだめだよ? 熱中症になるから、水分取るんだよ?」
おばあちゃんが心配してくれる。いつもの心配。いつもの優しさ。
「うん、ありがとう」
大丈夫。大丈夫。大丈夫。
午後三時。常連さんが帰って、カフェが静かになった。
おばあちゃんと凛がカウンターで向かい合って座っている。おばあちゃんがコーヒーを淹れて、凛に出した。自分の分も淹れた。二つのカップから湯気が立ち上る。
「今日のは深煎りにしてみたんだよ。凛ちゃんの好みに合うかわからないけど」
「いただきます」
凛がカップを持ち上げて、ひと口。
「……おいしい。深煎りの方が、チョコレートっぽい風味が出ますね。私はこっちの方が好きかも」
「ほんとかい?嬉しいねぇ。じゃあ、明日も深煎りにしようかねぇ」
明日も深煎りにしよう。
おばあちゃんが——凛の好みに合わせて、コーヒーの焙煎を変えると言っている。
おばあちゃんのコーヒーは、いつも同じだった。中煎り。おじいちゃんと一緒に研究した味。常連さんもその味が好きで通ってくれていた。私が飲めなくても、「これがタカラの味だよ」と教えてくれていた。
それを——凛の好みに合わせて変える。
変えること自体は悪いことじゃない。お客さんの好みに合わせるのは、カフェとして当然だ。でも——私はこう思ってしまった。
私のために変えてくれたことは、なかった。
コーヒーが飲めない私のために——例えばカフェオレを用意してくれるとか、甘いコーヒーを試してくれるとか、そういうことは一度もなかった。おばあちゃんは私がコーヒーを飲めないことを「そういうものだ」と受け入れていた。合わせる必要がなかった。
でも凛には——合わせる。凛の好みを聞いて、焙煎を変えて、「明日もこうしよう」と言う。
それは——凛がコーヒーを「わかる」人間だから。わかる人間の言葉には、応えたくなる。わかる人間の好みには、寄り添いたくなる。
私は「わからない」人間だった。おばあちゃんのコーヒーの世界に、最初から入れなかった人間だった。
「凛ちゃん、ちょっと聞いてもいいかい」
おばあちゃんが、少し改まった声で言った。
「はい?」
「凛ちゃんは……どうして一人旅をしてるんだい?」
私も気になっていたことだった。中学一年生が一人で山奥まで来るのは普通じゃない。でも聞いていいのかわからなくて、聞けなかった。
凛が少し黙った。カップの中のコーヒーを見つめている。
「……お母さんと、ちょっとケンカして」
「ケンカ?」
「お菓子の方向性で。お母さんは私に自分の店を継がせたいんですけど、私は——自分のやり方でやりたくて。それで言い合いになって、頭冷やしたくて家を出ました」
凛の声は平坦だった。感情を押し殺しているのではなく、もう何度も反芻して、温度がなくなった話のように聞こえた。
「お母さん、心配してるんじゃないかい?」
「連絡はしてます。……たぶん、放っておいてくれてると思います。お母さんもそういう人なので」
世界的なパティシエの母と、天才的な娘の確執。物語みたいだ。私の知らない世界の話。
「大変だったんだねぇ」
おばあちゃんが凛の手に自分の手を重ねた。
その仕草を見た瞬間——胸の奥が、ずきりと痛んだ。
おばあちゃんの手。しわだらけの、温かい、優しい手。私の頭を撫でてくれる手。私の手に重ねてくれる手。
それが——凛の手の上にある。
おばあちゃんは優しい人だ。困っている子がいれば、手を差し伸べる。それがおばあちゃんだ。私もそうやって育ててもらった。両親が離婚して、行き場のなかった私を引き取ってくれた。
だから、凛に同じことをするのは——おばあちゃんにとって自然なことだ。
自然なことなのに。
自然なことなのに、どうしてこんなに苦しいの。
「凛ちゃん、急いで帰らなくていいなら——ゆっくりしていきなさい。ここにいたいだけ、いていいんだからね」
おばあちゃんが言った。
いたいだけ、いていい。
それは——かつて、小学三年生の私に向けられた言葉と同じだった。
両親のもとにいられなくなった私を、おばあちゃんが迎え入れてくれた時。「愛、いたいだけいていいんだからね」と——そう言ってくれたのだ。抱きしめてくれて、頭を撫でてくれて。
同じ言葉。同じ温度。同じ——手。
違うのは、向けられている相手だけ。
「……ありがとうございます」
凛が小さく頭を下げた。目が少し赤い。強がっているけど、寂しかったのかもしれない。母親とケンカして、一人で旅をして、山奥のカフェにたどり着いた女の子。
可哀想だと思った。
可哀想だと思うべきだった。
でも——同時に、もう一つの感情が、暗い水底から浮かび上がってくる。言葉にしたくない感情。認めたくない感情。
——私の場所を、取らないで。
最低だ。
凛は家出同然で一人旅をしている中学生で、おばあちゃんの優しさに救われている。そんな子に向かって「場所を取るな」なんて、最低だ。人として最低だ。
おばあちゃんの優しさは有限じゃない。凛に優しくすることと、私に優しくすることは矛盾しない。おばあちゃんは二人とも大事にしてくれている。どちらかを選んでいるわけじゃない。
わかっている。
頭では、わかっている。
「愛、コーヒー淹れたけど——あ、愛はオレンジジュースだったね。ごめんごめん」
おばあちゃんがカウンターからオレンジジュースを持ってきてくれた。冷たいグラスに、オレンジ色の液体。
「ありがとう、おばあちゃん」
受け取って、ひと口飲んだ。甘くて冷たい。いつもの味。
カウンターの向こうで、おばあちゃんと凛が深煎りのコーヒーを飲んでいる。同じカップで、同じコーヒーを。その間に、言葉がなくても通じる何かがある。
私はオレンジジュースを飲んでいる。
同じテーブルにいるのに——飲んでいるものが違う。
前は気にならなかった。コーヒーが飲めないことは私の体質だし、おばあちゃんはいつもオレンジジュースを用意してくれるし、それで十分だった。
でも今——凛がいる今——オレンジジュースのグラスが、境界線に見えた。
コーヒーの世界と、オレンジジュースの世界。おばあちゃんと凛が住んでいる世界と、私が住んでいる世界。
同じカフェにいるのに、同じ言語を話していない。
夕方。
閉店作業をしていると、おばあちゃんが棚の奥からアルバムを取り出してきた。
「凛ちゃん、見る?おじいちゃんがカフェを始めた頃の写真」
「見たいです!」
凛が目を輝かせた。二人でソファに座って、アルバムを開く。古い写真。開店当時のカフェの外観。若いおばあちゃんとおじいちゃんが、のれんの前で笑っている。
「わぁ、おばあさん若い。きれい」
「ほっほっ、昔の話だよぉ」
「おじいさんも優しそう。笑顔が素敵ですね」
「そうだろう? おじいちゃんはねぇ、本当に優しい人でねぇ——」
おばあちゃんがおじいちゃんの話を始めた。
おじいちゃんの話は、私もよく聞く。聞くたびに、会いたくなる。でも今日は——少し違った。
おばあちゃんの話し方が、違った。
私に話す時のおじいちゃんの話は、思い出話だった。「おじいちゃんはこういう人だったよ」「おじいちゃんはこれが好きだったよ」。孫に祖父のことを伝える、優しい語り口。
凛に話す時のおじいちゃんの話は——もっと踏み込んでいた。
おじいちゃんがカフェを始めた理由。おじいちゃんが料理にかけていた情熱。おじいちゃんが食べ歩きで出会った味の話。おじいちゃんが最後まで追い求めていた「理想の味」の話。
私には話してくれなかった——いや、話す必要がなかったのだ。私は料理のプロを目指しているわけではないし、おじいちゃんの料理哲学を理解できるほどの素養がないと——おばあちゃんは思っているのだろうか。
それとも、凛なら理解できると思っているから——話しているのだろうか。
「おじいちゃんはねぇ、ずっと言ってたんだよ。『本当においしいものは、食べた人の人生を変える』って」
「食べた人の人生を変える……」
凛が噛みしめるように呟いた。
「凛ちゃんのフィナンシェを食べた時、おばあちゃんねぇ、おじいちゃんのことを思い出したんだよ」
「えっ」
「おじいちゃんがねぇ、よく言ってたの。若い頃に食べたある味が忘れられないって。何十年も前の味を、ずっと覚えてるって。凛ちゃんのフィナンシェを食べた時——あ、おじいちゃんが言ってたのは、こういう味のことかもしれないって思ったんだよ」
おばあちゃんの声が、遠い場所から聞こえるようだった。
私は——キッチンの入り口に立ったまま、二人の背中を見ていた。ソファに並んで座るおばあちゃんと凛。アルバムを挟んで、肩が触れ合っている。
おばあちゃんの横顔が見えた。
その横顔は——穏やかで、懐かしそうで、少し寂しそうで、でも幸せそうだった。
おじいちゃんの話をする時のおばあちゃんは、いつも少し寂しそうになる。でも今は、寂しさよりも——安堵が勝っていた。
昼間にも見た、あの安堵の表情。
おばあちゃんは、安堵しているのだ。凛がいることに。おじいちゃんのことを、おじいちゃんの料理のことを、おじいちゃんのコーヒーへのこだわりを——わかってくれる人間が、やっと現れたことに。
私は——わかってあげられなかった。
コーヒーの味がわからない。料理の奥深さを本当の意味では理解できない。おじいちゃんの「理想の味」が何だったのか、想像すらできない。
おばあちゃんは、ずっと一人だったのだ。
おじいちゃんが亡くなってから——食の世界において、おばあちゃんはずっと一人だった。私がそばにいても。毎日一緒にキッチンに立っても。おいしいと言い合っても。
おばあちゃんの本当の言葉を受け止められる相手が——いなかった。
それを、今、凛が満たしている。
「おばあさん」
凛がアルバムから顔を上げて、おばあちゃんを見上げた。
「私、もう少しここにいてもいいですか」
おばあちゃんが凛の頭を撫でた。優しく。ゆっくりと。何度も。
「いつまでもいていいんだよ、凛ちゃん」
いつまでも。
「いたいだけ」ではなく——「いつまでも」。
私に向けられた言葉は「いたいだけ」だった。期限付きの優しさ。凛に向けられた言葉は「いつまでも」。期限のない優しさ。
——そんなの、言葉のあやだ。おばあちゃんは同じ意味で使っている。深読みしすぎだ。おばあちゃんが私と凛で区別をつけるわけがない。
わかっている。わかっているのに——
足が動いた。
音を立てずに、キッチンの入り口から離れた。階段を上がった。自分の部屋に入った。ドアを閉めた。
ベッドに座って、膝を抱えた。
下から、おばあちゃんの笑い声が聞こえる。凛の声も聞こえる。二人で、アルバムを見ながら笑っている。おじいちゃんの話で笑っている。
私のいない場所で、私の家族の思い出が——共有されている。
涙は出なかった。
出なかったけれど——目の奥が熱くて、視界がぼやけた。
机の上に、うさぎのアイシングクッキーがある。もう四日前に作ったものだ。おばあちゃんに渡しそびれたまま、ずっとここにある。
明日こそ渡そう、と毎日思って、毎日渡せなかった。おばあちゃんが凛と一緒にいるタイミングで渡すのが——嫌だった。凛の前で自分のクッキーを出すのが怖かった。比べられるのが怖かった。
手に取った。うさぎの目が相変わらず左右で大きさが違う。アイシングの線が少し震えている。
四日経って、クッキーは少し湿気ていた。端の方が柔らかくなっている。
「……ごめんね」
うさぎに向かって呟いた。何に謝っているのか、自分でもわからない。
窓の外を見た。夕焼けが山の稜線を赤く染めている。蝉の声が弱くなって、ひぐらしの声に変わっていく。
明日も、朝が来る。
明日も、凛がいる。
明日も——おばあちゃんの横顔を、見つめることになるのだろう。
おばあちゃんの——私ではなく、凛を見ている横顔を。
枕に顔を押しつけた。
クッキーを、ゴミ箱に——
手が伸びかけて、止まった。
まだ捨てられない。おばあちゃんのために作ったものだから。おばあちゃんに食べてもらいたくて作ったものだから。
でも——もう、渡せない気がしていた。
四日前に作ったクッキー。四日前の私が、四日前の自信で作ったクッキー。あの頃はまだ——凛のフィナンシェを知らなかった。おばあちゃんの本当の表情を知らなかった。自分の味噌汁が「足りていなかった」ことを知らなかった。
知る前の私が作ったものを、知ってしまった今の私が——出せるわけがない。
うさぎのクッキーを皿に戻した。
明日。
明日、どうするかは——明日、考えよう。
ひぐらしの声が、暗くなった部屋に染み込んでいった。