凛がうちに来て、一週間が経った。
一週間。たった七日。それだけの時間で、カフェ「タカラ」は別の場所になった。
いや——別の場所になったのではない。「タカラ」は「タカラ」のままだ。のれんは同じ。テーブルは同じ。おばあちゃんのコーヒーミルの音も同じ。でも、その中身が——入れ替わっていくのを、私は毎日見ていた。
きっかけは、常連の橋本さんだった。
凛のおにぎり定食を食べた日の翌日、橋本さんが知り合いを三人連れてきた。「うちの近所にすごいカフェがあるんだよ」と。その三人がそれぞれまた知り合いに話して、次の日には見知らぬお客さんが五人来た。
五人。普段のタカラなら、一日の来客数がそのくらいだ。それが常連さんとは別に来たのだ。
おばあちゃんは目を丸くして、でも嬉しそうだった。「おじいちゃんの頃にも、こんなに来てくれたことはなかったよぉ」と、目を細めていた。
さらに三日後。
凛がフィナンシェとマドレーヌを作って店に出した日、お客さんの一人がスマートフォンで写真を撮った。きれいに焼き上がった焼き菓子と、おばあちゃんのコーヒーと、窓の外に見える山の緑。その写真が、SNSに上がった。
「山奥の隠れ家カフェ。おばあちゃんのコーヒーと天才少女のスイーツ」
そんなキャプションがついていた。
天才少女のスイーツ。
その投稿がどれだけの人に届いたのか、私にはわからない。でも、それから二日で——カフェの様子が一変した。
朝の開店前から、車が来た。ナンバープレートが、この辺りのものではない。都会から来た人たちだ。若い女の人が多い。スマートフォンを構えて、カフェの外観を撮っている。
「すみません、まだ開いてないですか?」
「あ、えっと……十時からなんですけど……」
「じゃあ待ちます!」
九時半の時点で、外に五人並んでいた。タカラに「並ぶ」お客さんがいるなんて、初めてのことだった。
おばあちゃんは慌てていた。「こんなに来てくれるの、どうしよう」と嬉しそうに困っていた。凛が「大丈夫です、回せます」と言って、てきぱきとキッチンの準備を始めた。
私も——準備をした。テーブルを拭いて、椅子を並べて、窓を開けて。いつもの手順。いつもの仕事。
でも、ドアを開けた瞬間に入ってきたお客さんたちの目が向かったのは——カウンターの中にいる凛だった。
「あの子?SNSに載ってた天才少女って」
「かわいい……!写真撮っていいですか?」
「フィナンシェってまだありますか?」
凛の名前を知らないのに、凛を目当てに来ている。
私は入り口で「いらっしゃいませ」と言うだけの人間になっていた。
その日は、十五人のお客さんが来た。
タカラの一日の記録だった。テーブルが四つしかないから、入れ替えで対応した。おばあちゃんがコーヒーを淹れ続けて、凛がスイーツと料理を作り続けて。
私は——配膳をした。
料理をテーブルに運ぶ。空いた皿を下げる。水を注ぐ。お会計をする。必要な仕事だ。カフェを回すためには誰かがやらなければならない。
でも——この仕事には、名前がない。
料理を作る人は「料理人」。コーヒーを淹れる人は「バリスタ」。私は——「ウェイトレス」? 違う。ウェイトレスならまだいい。ウェイトレスは接客のプロだ。私がやっているのは、もっと曖昧な何か。穴を埋める仕事。隙間を塞ぐ仕事。
私がいなくても、料理は出る。コーヒーは淹れられる。でも、私がいないと皿を運ぶ人がいない。
それは——必要とされていると言えるのだろうか。
「愛ちゃん、お水もらえる?」
「はい、すぐ持っていきます」
「あと、あのフィナンシェ、追加で二つ!」
「はい!……凛ちゃん、フィナンシェ追加二つ!」
凛に注文を伝える私。注文を受けて作る凛。完成品を運ぶ私。お客さんが「おいしい!」と言う。
「おいしい」は——凛に向けられている。
私はその「おいしい」を、横で聞いている。
「この子が作ったの?すごい!何歳?」
「中一です」
「中一!? 天才じゃん……」
天才。何度も聞く言葉。凛に向けられるその言葉を、私は何度も何度も聞いた。聞くたびに、自分の中の何かが少しずつ削れていくのを感じた。
午後三時。ようやく客足が落ち着いて、キッチンの片付けをしていると、おばあちゃんが椅子にどさりと座った。
「ふう……おばあちゃん、こんなに忙しかったの久しぶりだよぉ」
「おばあさん、大丈夫ですか?」
凛がすぐにおばあちゃんに駆け寄って、お水を持ってきた。おばあちゃんの背中をさすりながら、心配そうな顔をしている。
「大丈夫だよぉ。嬉しい悲鳴だよ」
「無理しないでくださいね。明日は私がもっとやりますから」
「ほっほっ、頼もしいねぇ」
凛がおばあちゃんの背中をさすっている。
私は——キッチンで皿を洗っていた。
おばあちゃんのところに駆け寄るべきだった。私が水を持っていくべきだった。私がおばあちゃんの背中をさするべきだった。
でも、凛の方が早かった。
凛はいつも早い。気づくのが早い。動くのが早い。手を差し伸べるのが早い。
私は——遅い。遅いのだ。何もかも。
翌日から、さらにお客さんが増えた。
SNSの投稿が拡散されて、「隠れ家カフェ」として話題になったらしい。山奥という立地が逆に魅力になって、「ドライブがてら行ける映えカフェ」という紹介のされ方をしていた。
「映え」。タカラが「映え」だなんて。
おじいちゃんが建てた古い木造のカフェが、「レトロでかわいい」と言われている。ボロいのではなく、レトロ。古いのではなく、味がある。見方が変わるだけで、同じものが違って見える。
「凛ちゃんのスイーツを目当てに来るお客さんが多いねぇ」
おばあちゃんが嬉しそうに言う。
「はい。でも、おばあさんのコーヒーも絶対飲むべきだって、私のSNSのアカウントでも書いておきました」
「まぁ、凛ちゃんったら。照れるよぉ」
凛がSNSで紹介してくれたおかげで、コーヒーの注文も増えた。おばあちゃんは一杯一杯丁寧に淹れている。忙しいけど、生き生きとしている。
凛が来る前のおばあちゃんは——穏やかだけど、どこかゆったりとした時間の中にいた。常連さんが数人来て、コーヒーを淹れて、のんびり過ごす。それがタカラの日常だった。
今のおばあちゃんは——動いている。手が止まらない。でも、疲れているというよりも、張り合いがある顔をしている。「おじいちゃんと一緒にやってた頃を思い出すよぉ」と、一度だけぽつりと言ったのを聞いた。
おじいちゃんと一緒にやっていた頃。
おじいちゃんが料理を担当し、おばあちゃんがコーヒーを担当していた頃。二人で力を合わせてカフェを回していた頃。
今——おばあちゃんの隣でキッチンに立っているのは、私ではなく凛だ。
おばあちゃんにとって、凛は——
考えるな。考えるな。
「愛、三番テーブルのお水お願い」
「うん」
水を運ぶ。空いた皿を下げる。会計をする。明日の食材を確認する。
私の仕事。私にもできる仕事。でも——私にしかできない仕事ではない。
「あ、愛ちゃん。オムライスひとつお願い」
橋本さんの声。
「はい!——あ、えっと……」
私は一瞬迷った。今日のオムライスは、私が作るのか、凛が作るのか。
数日前から、メニューの料理は凛が作ることが多くなっていた。自然とそうなった。凛の方が速いし、お客さんが多い日は効率が求められるし、何より——凛のオムライスの方が人気だった。
でも、橋本さんは私のオムライスを知ってくれている。いつも食べてくれていた。
「橋本さん、いつものでいいですか?」
「ん? ああ……うん、凛ちゃんのやつでいいよ」
足元が揺れた。
揺れた——わけじゃない。床はちゃんとここにある。でも、体の中心が一瞬ぐらついた。
凛ちゃんのやつでいいよ。
橋本さんが——いつも「愛ちゃんのカレー楽しみだよ」と言ってくれた橋本さんが——凛のオムライスを選んだ。
「いいよ」。良い、ではなく——「でいいよ」。「で」。他の選択肢を吟味した結果ではなく、当たり前のように。
「……はい。凛ちゃん、オムライスひとつ」
「はーい」
凛が返事をして、フライパンを振る。あの手首の返し。あの半熟の卵。あの、別次元のオムライス。
橋本さんの前に完成品が置かれる。
「おお、今日もうまそうだ」
「今日もうまそうだ」。「今日も」。
もう橋本さんにとって、タカラのオムライスは凛のオムライスなのだ。私のオムライスは——「前のやつ」になった。思い出の中の、古いバージョンに。
松田さんも同じだった。
いつも多くを語らない松田さんが、凛のだし茶漬けを食べて、「これはいい」と言った。松田さんの「いい」は最上級の褒め言葉だったはずだ。でも最近は「いい」を連発している。凛の料理に対して。
「凛ちゃん、ここの水、おいしいだろ。山の水だからな」
松田さんが凛に話しかけている。松田さんが自分から話しかけるのは珍しい。私にはいつも短い言葉しかかけなかった。「えらいね」「いいよ」。それで十分嬉しかったけど。
凛には——会話をしている。出汁の話、水の話、食材の話。松田さんも、実は料理に詳しい人だったのだ。私は知らなかった。知る機会がなかった。松田さんが語る相手が——いなかったのだ。おばあちゃんと同じように。
私がいたのに。
私がいたのに、足りなかった。
一週間が経つ頃には、カフェの運営体制が完全に変わっていた。
料理は凛が作る。コーヒーはおばあちゃんが淹れる。私は——配膳と洗い物と会計を担当する。
誰かが「そうしよう」と決めたわけではない。自然とそうなった。凛の料理の方がお客さんに喜ばれるから。凛の方が手際がいいから。凛がキッチンに立っている方が、カフェがうまく回るから。
合理的な結果だ。誰も悪くない。
でも——私はキッチンから追い出されたのだ。追い出されたのではなく、いつの間にか——キッチンに私の立つ場所がなくなっていた。
キッチンは狭い。コンロは二口。まな板は二枚。二人が限界の空間。おばあちゃんがコーヒーを淹れるカウンター側に立ち、凛が調理台側に立つと——私が入る隙間がない。
物理的に、入れない。
前は入れた。おばあちゃんと私の二人なら、ちょうどよかった。体をすり抜けながら、「ちょっと通るね」「はいはい」と声を掛け合って。その距離感が好きだった。
今、そこに凛がいる。おばあちゃんと凛が、「ちょっと通るね」「はーい」とやっている。同じ声。同じ距離。同じ——親密さ。
私はカウンターの外にいる。お客さん側に。
「愛、無理してお店出なくていいんだよ?」
ある日、おばあちゃんがそう言った。
夕食後、凛が自分の部屋に戻った後。おばあちゃんと二人きりの台所で。
「最近お客さん多いから、疲れてるんじゃないかい? 夏休みなんだから、遊びに行ってもいいんだよ?」
おばあちゃんの声は、優しかった。心から心配してくれている声だった。
遊びに行ってもいい。
それは——「いなくてもいい」ということだ。
おばあちゃんは——そんなつもりで言ったのではない。そんなつもりではないことは、わかっている。孫の体を心配している。夏休みなのに毎日カフェにいるのを気にかけている。普通の、当たり前の、おばあちゃんの優しさ。
でも——一週間前なら、その言葉は出なかったはずだ。
一週間前のタカラには、凛がいなかった。私がいないとカフェが回らなかった。料理を作る人がいなかった。だから「遊びに行っておいで」なんて言えなかった。
今は——凛がいる。私がいなくても、キッチンは回る。おばあちゃんの隣には凛がいる。お客さんの料理は凛が作る。
私が——いなくても。
「……うん。ありがとう、おばあちゃん。でも私、お店にいたいの。手伝いたいの」
「そうかい? 無理しなくていいんだよ?」
「無理してないよ。楽しいもん」
嘘だ。
楽しくない。
毎日カフェに出るたびに、自分が透明になっていく感覚がある。お客さんは凛を見る。おばあちゃんは凛と話す。常連さんは凛の料理を楽しみにしている。
私は——そのあいだを、水の入ったピッチャーを持って歩き回っている。
でも、カフェに出ないわけにはいかない。出なくなったら——本当に居場所がなくなる。家にいても、カフェにいても、同じだけど。カフェにいれば、少なくとも——おばあちゃんの近くにはいられる。
おばあちゃんの近くに。
それだけが、今の私がこの場所にいる理由だった。
さらに数日が経った。
カフェの改装の話が出た。
発端は、お客さんの一人が言った何気ないひと言だった。「もっと席があったらいいのに」。凛がそれを拾って、おばあちゃんに提案した。
「テーブルをもう二つ増やしませんか? 窓際にカウンター席も作れると思います。あと、テイクアウト用の窓口があると、席が埋まってても焼き菓子だけ買いたい人に対応できます」
凛が紙に簡単な図面を描いて見せた。現状のレイアウトと、改装後のレイアウト。動線を考えた配置。お客さんの視線を意識した窓の使い方。
中学一年生が描いた図面ではなかった。お母さんのお店を見てきた子の——経営感覚が透けている図面だった。
おばあちゃんが感心したように何度も頷いた。
「凛ちゃん、すごいねぇ。こんなこと考えられるんだねぇ」
「お母さんのお店の改装を何回か見てきたので、なんとなく」
なんとなく。凛の「なんとなく」は、私の「全力」よりもずっと先にある。
「でも、お金がかかるんじゃないかい?」
「テーブルと椅子は中古で安く手に入りますよ。カウンター席は板を一枚渡すだけでいいし、テイクアウト窓口は既存の窓を少し改造すれば——」
凛が具体的な金額まで計算している。どこまで考えているんだろう、この子は。
「おじいちゃんが見たら、びっくりするだろうねぇ……」
おばあちゃんがまたその言葉を言った。びっくりする。おじいちゃんが。
「愛はどう思う?」
おばあちゃんに聞かれた。
凛の提案は、合理的だった。お客さんが増えているのだから、席を増やすのは当然だ。テイクアウト窓口も理にかなっている。反対する理由がない。
でも——改装されたら、タカラは変わる。おじいちゃんが作ったテーブルの配置が変わる。窓際の、おじいちゃんが好きだった席に、カウンターが作られる。
変わるのだ。
「……いいと思う」
「ほんと? よかったぁ。じゃあ、進めようかねぇ」
おばあちゃんが凛と相談しながら、改装の計画を立て始めた。
私は——「いいと思う」と言っただけだった。賛成しただけ。それ以上の言葉は出なかった。
凛が計画を立てて、おばあちゃんが判断する。私は賛成する。三人の中で、私の役割はそれだけだった。
夜、布団の中で考えた。
タカラが大きくなる。席が増える。お客さんが増える。メニューが増える。売上が増える。おばあちゃんが生き生きする。
それは——いいことだ。全部いいことだ。カフェが繁盛することは、おばあちゃんの夢でもあったはずだ。おじいちゃんと一緒に始めたお店が、たくさんの人に愛されること。
よかったね、おばあちゃん。
本当に——よかったね。
なのに、なぜ——「よかったね」の後に続く気持ちが、こんなに暗いのだろう。
タカラが大きくなればなるほど——私の夢が小さくなっていく。
「いつか、カフェの隣に小さなスペースを作って、そこで作ったお菓子をお店に出せたらいいな」
小さなスペース。
タカラの隣の、小さな場所。
でも——タカラはもう「小さなカフェ」ではなくなろうとしている。席が増える。テイクアウト窓口ができる。凛のスイーツがメニューの中心になる。SNSで人が集まる。
私が思い描いていた「小さなスペース」は——あのタカラの隣だから意味があった。おばあちゃんと二人でやっている、静かで穏やかなタカラの隣。そこにそっと、私のお菓子を添える。それが夢だった。
今のタカラの隣に——私の「小さなスペース」が必要だろうか。
凛のフィナンシェやマドレーヌがメニューにある。世界的なパティシエの娘が作るスイーツが、すでにタカラの看板になっている。
そこに、私のアイシングクッキーが——入る余地があるだろうか。
独学で覚えた、アイシングの線が少し震えている、うさぎの目が左右で大きさの違う——あのクッキーが。
ない。
入る余地は——ない。
頭の中で、夢の形が崩れていく音がした。音はしないはずなのに、聞こえた気がした。がらがらと、積み木が倒れるような、小さくて乾いた音。
夢が——終わる。
終わるのではなく、存在できる場所がなくなるのだ。
カフェの隣に小さなスペースを作る。おばあちゃんとずっと一緒にいる。自分のお菓子でみんなを笑顔にする。
全部——全部、もう——
枕を抱きしめた。
泣かない。泣いたら、認めることになる。夢が終わったと、認めることになる。
まだだ。まだ終わっていない。まだ——
まだ。
その言葉にしがみついて、私は目を閉じた。
でも——「まだ」の後に続く言葉が、もう見つからなかった。
改装は、驚くほど早く進んだ。
凛が手配した中古のテーブルと椅子が届いた。凛が図面を描いて、近所の大工さんに頼んで、窓際にカウンター席を作ってもらった。テイクアウト用の窓口も、既存の窓を少し改造するだけでできた。
費用は最小限だった。凛の計算通りだった。
改装が終わったカフェを、おばあちゃんが眺めた。
席が倍になった店内。窓際のカウンター席。テイクアウト窓口。新しいメニュー表——凛が手書きで作ったもので、イラスト入りでおしゃれだった。
「……おじいちゃん、見てるかい」
おばあちゃんが、天井を見上げて呟いた。目が潤んでいた。
「こんなに素敵なお店になったよ……」
凛がおばあちゃんの隣に立っている。おばあちゃんが凛の肩を引き寄せた。
「凛ちゃんのおかげだよ。ありがとうねぇ」
「私は提案しただけです。おばあさんが決断してくれたから」
「ほっほっ、謙虚だねぇ」
二人が笑い合っている。
私は——入り口に立っていた。
改装されたカフェを見ている。新しいテーブル。新しい椅子。新しいカウンター。新しいメニュー表。
新しいタカラ。
これが——おじいちゃんのタカラなのだろうか。
おじいちゃんが建てた小さな木造のカフェ。四つのテーブルと、手作りののれんと、古いメニュー表。おじいちゃんのカレーと、おばあちゃんのコーヒー。それだけの、静かな場所。
あの場所は——もう、ここにはない。
もちろん、建物は同じだ。壁も、床も、天井も同じだ。のれんだって同じものがかかっている。
でも——中身が違う。空気が違う。
これはもう、私が守りたかった「タカラ」ではない。
私が守りたかったタカラは、おばあちゃんと私の二人で——足りていた場所だった。
足りていなかったのだ、と今ならわかる。
常連さんは少なかった。売上も多くはなかった。おばあちゃんは時々寂しそうな顔をしていた。コーヒーの話をする相手がいなかった。
足りていなかった。でも、私はそれに気づかなかった。気づかないふりをしていたのかもしれない。おばあちゃんと二人で十分だと思いたかった。二人だけの世界で、完結していたかった。
でも——凛が来て、タカラは変わった。おばあちゃんは生き生きとし始めた。お客さんが増えた。カフェが賑やかになった。おばあちゃんの笑顔が増えた。
それは——私だけでは、与えられなかった笑顔だ。
「愛、おいで。一緒に写真撮ろう」
おばあちゃんが手招きしている。凛の隣に。新しいタカラの前で。三人で。
「……うん」
笑顔を作った。おばあちゃんの隣に立った。凛が反対側にいる。おばあちゃんのスマートフォンを——常連の橋本さんが「撮ってあげるよ」と構えている。
「はい、チーズ」
シャッター音。
写真の中で、三人が笑っている。
おばあちゃんの右側に凛。左側に私。
おばあちゃんの右手は——凛の肩にかかっていた。左手は——下に降ろされていた。
私の肩には——かかっていなかった。
たまたまだ。
たまたま、右手が先に凛の肩にいっただけだ。両方の肩に手を置くのは体勢的に難しかっただけだ。深い意味はない。
深い意味は——ない。
ないのに。写真を見返した時、その左手の不在が、目に焼きついて離れなかった。
その夜。
みんなが寝静まった後、私はこっそりカフェに降りた。
新しいカウンター席に座った。窓際の、木の板を渡しただけの簡素な席。ここはさっきまでなかった場所だ。今朝まで、ここには何もなかった。
窓の外を見た。月が出ている。山の稜線が銀色に光っている。
静かだ。昼間の賑わいが嘘みたいに、静かだ。
カフェの中を見回した。新しいテーブル。新しい椅子。新しいメニュー表。壁にかかった時計だけが、前と同じだ。おじいちゃんが選んだ丸い時計。秒針がこちこちと動いている。
おじいちゃん。
おじいちゃんは、このカフェを見てどう思うだろう。
嬉しいだろうか。たくさんのお客さんが来て、おばあちゃんが生き生きしていて。嬉しいに決まっている。おじいちゃんは、おばあちゃんの笑顔が一番好きだった人だから。
でも——おじいちゃんは——私のことも好きだと言ってくれた。
「愛のスイーツは、みんなを幸せにする力があるねぇ」
おじいちゃんの声が、記憶の中で再生される。温かくて、穏やかで、大きな手で頭を撫でてくれた感触も一緒に蘇る。
みんなを幸せにする力。
私のスイーツに——そんな力があるのだろうか。
凛のフィナンシェを食べたおばあちゃんの顔を思い出す。あの驚きの表情。あの、予想を超えられた人間の顔。
私のお菓子で——あの顔をさせたことが、あっただろうか。
ない。
たぶん——ない。
おばあちゃんは私のお菓子をいつも「おいしいよ」と言ってくれた。優しい「おいしいよ」。安心の「おいしいよ」。でも——驚きの「おいしいよ」は、なかった。
おじいちゃんは——どうだったろう。おじいちゃんは、私のお菓子を食べて、本当に「幸せにする力がある」と思ってくれていたのだろうか。
それとも——孫が一生懸命作ったお菓子を、孫がかわいいから褒めてくれていただけなのだろうか。
わからない。もう確かめられない。おじいちゃんは——いないから。
カウンター席から降りて、キッチンの入り口に立った。
暗いキッチン。月明かりが窓から差し込んで、調理台をぼんやり照らしている。
ここに——明日の朝、凛が立つ。
あの白い手で、あの正確な手つきで、あの完璧な料理を作る。
私は——
私は、どこに立てばいいのだろう。
足元を見た。自分の足が、キッチンの入り口の敷居の上にある。中でも外でもない場所。どちらにも踏み出せない場所。
中に入れば——凛の隣で、じゃがいもを剥く係になる。
外に出れば——水のピッチャーを持って、テーブルの間を歩く係になる。
どちらにも——私の名前がない。
しばらくそこに立っていた。
時計の秒針がこちこちと鳴っている。おじいちゃんの選んだ時計。あの頃から変わらない音。
変わらないものが——もうほとんど残っていない。
のれんと、時計と——おばあちゃん。
おばあちゃんだけは——変わらないでいてほしい。
でも、おばあちゃんも——変わり始めている。凛が来てから。凛と出会ってから。
変わることは——悪いことではない。
わかっている。
わかっているのに——
足元の敷居を見つめたまま、どれくらいの時間が経っただろう。
月が少し動いて、キッチンの光の角度が変わった。調理台の上に——何かが見えた。
凛が明日の仕込みのために出しておいた道具。ボウル。泡立て器。計量カップ。
その隣に——私の包丁があった。
私がいつも使っている包丁。おばあちゃんが「愛専用だよ」と言って買ってくれたもの。柄の部分に小さく「A」と刻んでもらった。愛の「A」。
包丁は、まだ——ここにある。
誰かが片付けたわけでも、捨てたわけでもない。まだ、ここにある。
でも——最後にこの包丁を握ったのは、いつだっただろう。
思い出せなかった。
暗いキッチンを出て、階段を上がって、自分の部屋に戻った。
机の上を見た。
うさぎのアイシングクッキーは——もうなかった。
三日前に捨てた。湿気て柔らかくなったクッキーを——ゴミ箱に入れた。おばあちゃんには渡せなかった。結局、最後まで——渡せなかった。
布団に入った。
目を閉じた。
夏の夜は——長い。
蝉もひぐらしも鳴いていない。深夜の山は、どこまでも静かだ。
その静寂の中で——私は、自分の心臓の音だけを聞いていた。
まだ——動いている。
まだ、動いている。
それだけが——今の私に確かなことだった。