①ケモカフェ! 〜ifストーリー〜   作:灰色の雪

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砂糖菓子の城

お菓子を作らなくなって、五日が経った。

正確には、作れなくなった。

最後に作ったのは、凛にシフォンケーキを出した日の夜に焼いたクッキーだった。何度焼いても満足できなくて、三回分の生地を無駄にして、結局全部捨てた。それ以来、製菓道具に触っていない。

触ろうとすると、手が止まる。

ボウルを出そうとして、止まる。卵を割ろうとして、止まる。泡立て器を握ろうとして、止まる。体が動かないのではない。頭が命令を出さないのだ。作って、どうするのか。誰に食べさせるのか。食べた人がどんな顔をするのか。それを想像した瞬間に、手が凍る。

凛のフィナンシェを食べたおばあちゃんの顔。凛のオムライスを食べた橋本さんの顔。凛のだし茶漬けを食べた松田さんの顔。

あの顔を——私のお菓子では、引き出せない。

わかっている。わかっているから、作れない。

部屋の隅に、製菓道具の箱がある。おじいちゃんが誕生日にプレゼントしてくれた道具一式。計量スプーン、パレットナイフ、絞り袋、口金、シフォン型、マフィン型。全部、使い込んで少しくたびれている。

箱の蓋は閉じたままだ。開ける気になれない。開けたら、おじいちゃんの顔を思い出してしまうから。

「愛のスイーツは、みんなを幸せにする力があるねぇ」

あの言葉を思い出すたびに、以前は温かくなった胸が——今は、冷たくなる。

 

朝。

六時半に起きた。凛より早く起きることは、もう諦めていた。凛は毎朝六時にはキッチンに立っている。私がどれだけ早く起きても、凛は既にそこにいる。まるで朝という時間が凛の領域であるかのように。

階段を降りると、予想通りキッチンから音がしていた。でも今日は包丁の音ではなく——泡立て器の音だった。

しゃかしゃか。しゃかしゃか。規則正しく、速い。

キッチンの入り口から覗くと、凛が何かを作っていた。ボウルの中に白い泡。メレンゲだ。

凛がメレンゲを立てている。

私が——ずっとやってきたこと。ハンドミキサーがないから、手動で泡立て器を回す。腕が疲れて、角が立つまでに何分もかかる。私の場合は。

凛のメレンゲは——もう角が立っていた。

「おはよう、お姉さん」

「……おはよう。何作ってるの?」

「ダコワーズ。知ってる?」

「ダコワーズ……」

名前は聞いたことがある。フランスの焼き菓子で、メレンゲとアーモンドプードルを使った生地に、クリームを挟んだもの。本で見たことがあるけど、作ったことはない。難しそうで、手を出せなかった。

「メレンゲにアーモンドプードルを混ぜて、絞り出して焼くの。サクサクでふわっとしてて、おいしいよ。お店で出そうと思って」

お店で出す。

当然のようにそう言った。凛にとって、タカラのメニューに自分のお菓子を追加することは——もう日常の一部なのだ。

「……いいね」

「お姉さんも食べてみて。味見係お願い」

味見係。

私は——味見係だ。

作る側ではなく、食べる側。判定する側。でも、判定したところで何も変わらない。凛のお菓子は完成されている。私の「おいしい」は、確認でしかない。

凛がメレンゲにアーモンドプードルと粉糖を加えて、さっくりと混ぜ合わせた。ゴムベラの使い方が正確で、気泡を潰さないように底から持ち上げるように折り込んでいく。教科書通りの——いや、教科書を超えた手つき。

絞り袋に生地を入れて、天板の上に丸く絞り出す。すべてが同じ大きさ、同じ厚さ。機械みたいだ。人間の手から出ているとは思えない均一さ。

「お姉さんは、絞り出し得意?」

「え……うん、アイシングでよくやるから、まあまあ……」

「アイシングか。繊細な作業だよね。私、アイシングって実はあんまりやらないんだ」

「そうなの?」

「うん。うちのお母さんが『飾りより中身で勝負しろ』って人だから。見た目にこだわるなら、生地と素材で勝負しろって」

生地と素材で勝負しろ。

世界的なパティシエの教え。重い言葉だ。

「でも、お姉さんのアイシングクッキー、おばあさんが写真見せてくれたよ。うさぎの。かわいかった」

心臓がぎゅっと縮んだ。

おばあちゃんが——凛に——あのクッキーの写真を見せた。

いつ撮ったんだろう。私が渡す前に? それとも以前に作ったものの写真? どちらにしても——おばあちゃんは、私のクッキーを凛に見せたのだ。

「かわいかった」と凛は言った。

かわいかった。

おいしかった、ではなく。すごかった、ではなく。かわいかった。

見た目を褒めてくれた。それは——中身については言及しないということだ。

考えすぎだ。写真で見ただけなのだから、味の話ができるわけがない。それはわかっている。でも——「かわいかった」の後に「食べてみたい」が来なかったことが、ちくりと刺さった。

凛のダコワーズがオーブンに入った。

百八十度で十二分。凛は時間を正確に把握している。レシピを見ていない。頭に入っているのだ。何十回、何百回と作ってきたのだろう。体が覚えている時間。

私はシフォンケーキの焼き時間を、毎回本で確認していた。百七十度で三十分。何度作っても、不安で確認してしまう。間違えるのが怖くて。

凛は間違えない。間違える余地がないほど、体に刻み込まれている。

オーブンの前で待つ間、凛がクリームを仕込んでいた。バタークリームだ。バターを室温に戻して、粉糖を加えて、ホイップする。

「お姉さん、バタークリーム作ったことある?」

「……ない」

「そっか。ホイップクリームよりちょっと手間だけど、ダコワーズにはバタークリームじゃないとダメなの。サクサクの生地にふわっとしたクリーム、っていう食感のコントラストが大事だから」

凛が説明してくれる。教えてくれている。悪意なく。純粋な好意で。

でも——教えてもらうたびに、私の「知らない」が増えていく。知らないことが可視化されていく。バタークリームを作ったことがない。ダコワーズを作ったことがない。ケチャップを先に炒めることを知らなかった。鰹節で出汁を取ったことがなかった。

私が「知らない」ことを、凛は全部「知っている」。

独学の限界。

その言葉が、頭の中にぼんやりと浮かんでは消える。

凛のお母さんは世界的なパティシエだ。凛は物心ついた時からプロの技術を見て、学んで、自分のものにしてきた。レシピの意味を理解し、素材の扱い方を体で覚え、失敗から学ぶ方法すら教わってきた。

私は——図書館の本とインターネットで覚えた。誰にも教わらず、誰にもチェックされず、自分で「できた」と思ったらそれが完成だった。基準が——自分しかなかった。

自分しか基準がない世界で、私は「上手にできる」と思っていた。おばあちゃんが「おいしい」と言ってくれるから。常連さんが「すごい」と言ってくれるから。

でもそれは——小さな世界の中での評価だった。

山奥のカフェ。常連さんが数人。おばあちゃんと二人きり。その世界の中で、私は「お菓子が上手な子」だった。

凛が来て——世界が広がった。広がった途端に、私の「上手」が普通以下だとわかった。

オーブンが鳴った。

凛がダコワーズの生地を取り出す。きれいに焼けている。表面がサクッとして、中はふんわり。割ると、アーモンドの香ばしい匂いが広がる。

バタークリームを挟んで、粉糖を振って、完成。

小さな円形のお菓子が、天板の上に整然と並んでいる。全部同じ形。全部同じ大きさ。全部同じ焼き色。

「はい、お姉さん。味見して」

凛が一つ差し出した。

受け取った。

ひと口かじった。

サクッ。

表面が割れて、中のふわっとした生地が舌に触れる。アーモンドの風味。バタークリームの滑らかさ。甘さは控えめなのに、素材の味が何層にもなって押し寄せてくる。

——おいしい。

おいしかった。フィナンシェの時と同じだ。文句なく、圧倒的に、おいしい。

でも——今回は、「おいしい」と声に出すのに、少しだけ時間がかかった。

口の中にダコワーズの味が広がっている。サクサクとふわふわのコントラスト。バターの芳醇さ。アーモンドの香ばしさ。完璧なバランス。

完璧。

完璧なお菓子を食べるたびに、私のお菓子が——遠くなる。

「……おいしい。すごくおいしい」

言った。言えた。嘘じゃない。本当においしい。

「ありがと。じゃあ、お店に出すね」

凛が当たり前のように言う。味見をして「おいしい」と言ったら、即採用。そのスピード感が——私には眩しかった。

私はいつも「まだお店に出せるレベルじゃない」と言っていた。おばあちゃんが「出そうよ」と言ってくれても、「もっと練習しないと」と断っていた。

謙虚だったのだろうか。

それとも——怖かったのだろうか。

お店に出して、お客さんに食べてもらって、「おいしい」と言ってもらえなかったら。「普通だね」と言われたら。何も言わずに残されたら。

それが怖くて——出せなかった。

凛は怖くない。怖くないのは、自信があるからだ。自信があるのは、実力があるからだ。実力があるのは、教育を受けてきたからだ。

私には——何もない。

独学の技術と、おばあちゃんの「おいしいよ」だけで、ここまで来た。でも「ここ」が——どこなのか、もうわからない。

 

カフェの開店時間になった。

今日もお客さんが来た。平日なのに、六人。SNSを見て来た人たちだ。凛のダコワーズが早速話題になっていて、「新作が出たらしい」と聞きつけて来たらしい。

凛がカウンターの中で、てきぱきとダコワーズを皿に盛りつけている。おばあちゃんがコーヒーを淹れている。二人の連携が——日に日に滑らかになっている。

言葉が少なくなっている。

最初の頃は「凛ちゃん、お砂糖取って」「はい」というやり取りがあった。今は——目配せだけで通じている。おばあちゃんがカップを置く位置、凛が皿を出すタイミング。呼吸が合っている。

おじいちゃんとおばあちゃんが一緒にキッチンに立っていた頃も、きっとこんな感じだったのだろう。

言葉なしで通じる二人。

私は——おばあちゃんと、そこまでの呼吸の一致には至れなかった。一緒にキッチンに立つことはあったけど、「ちょっと通るね」「はいはい」と声をかけ合う必要があった。それが嫌だったわけじゃない。むしろ、好きだった。声を掛け合うあの感じが、一緒にやっているという実感をくれた。

でも——声が必要だということは、まだ体で通じていないということでもある。

凛とおばあちゃんは、もう声が要らない。

「すみません、このダコワーズ、テイクアウトできますか?」

お客さんの声。

「はい、できますよ。いくつ入りますか?」

凛が応対している。テイクアウト窓口のおかげで、店内で食べないお客さんにも対応できるようになった。凛が提案した窓口が、凛のお菓子を売っている。

全部——凛の作ったシステムの中で、凛のお菓子が動いている。

私は——テーブルの水を替えていた。

「愛ちゃん」

橋本さんに声をかけられた。

「はい?」

「最近、料理作ってないの?」

心臓が跳ねた。

「え……」

「前はさ、愛ちゃんのカレーとかオムライスとか、毎日食べてたじゃない。最近は凛ちゃんが作ってるけど。愛ちゃんのも食べたいなって思ってさ」

橋本さんの声は優しかった。気遣ってくれている。私が料理を作らなくなったことに——気づいてくれていた。

嬉しかった。嬉しいはずだった。

でも——その言葉の裏に、もうひとつの意味が透けて見えた。

「愛ちゃんのも食べたい」。「も」。凛のも食べるけど、愛ちゃんのも。

「も」は——主ではない。添え物だ。

以前は「愛ちゃんのカレー楽しみだよ」だった。今は「愛ちゃんのも食べたいな」。主役から、添え物に。

「……ありがとうございます。そのうち、また作りますね」

そのうち。いつだろう。

作れるだろうか。凛のオムライスを知っているお客さんの前で、私の薄焼き卵のオムライスを出せるだろうか。凛の出汁を知っている人の前で、私の顆粒だしの味噌汁を出せるだろうか。

出せない。

出せない——と思っている自分がいる。

以前は出せた。自信を持って出せた。「おいしい」と言ってもらえるとわかっていたから。

でも今、「おいしい」の基準が変わってしまった。凛の料理が基準になってしまった。その基準で見たら、私の料理は——

「おいしい」の範囲には入るかもしれない。でも「すごくおいしい」には——届かない。

「すごく」のない「おいしい」を、もらう覚悟が——私にはなかった。

 

午後。

カフェが落ち着いた時間帯に、凛がアイシングクッキーを作り始めた。

私は——息が止まりそうになった。

「お姉さんがアイシングやるって聞いて、興味出てきて。やってみようかなって」

凛が絞り袋を手に取った。

アイシングは——私の領域だった。料理では敵わなくても。フィナンシェでもダコワーズでもシフォンケーキでも敵わなくても。アイシングクッキーだけは——私が一番長くやってきたことだった。

何年も練習した。最初は線がガタガタで、色がはみ出して、全然かわいくならなかった。何十枚も失敗して、少しずつコツを掴んで、ようやく「かわいい」と言ってもらえるものが作れるようになった。

あのうさぎのクッキー。目が少し左右で違うけど、アイシングの線がまっすぐ引けるようになって、色の組み合わせも考えて。独学で——ここまで来た。

アイシングだけは。

アイシングだけは——負けたくなかった。

凛が生地を焼いている間、私はカウンターの椅子に座って見ていた。見たくないのに、見ずにいられなかった。

焼き上がったクッキーを冷まして、凛がアイシングの準備を始めた。粉糖と卵白を混ぜて、硬さを調節する。色素を加えて、色を作る。

凛の手が——迷わない。

初めてやるとは思えなかった。でも、初めてなのだ。凛が「興味出てきて」と言ったのだから。初めてのはずなのに、手が迷わない。素材の扱い方を知っているから。絞り袋の持ち方を知っているから。力加減のコントロールができるから。

お菓子作りの基礎が完璧にできている人間にとって、アイシングは——新しい技法のひとつに過ぎないのだ。

凛が線を引き始めた。

まっすぐな線。震えのない線。私が何年もかけてようやく引けるようになった線を、凛は——初めてで、引いている。

嘘だ。

嘘だと思いたかった。でも目の前で起きていることは現実だ。

凛がクッキーに花の模様を描いていく。花びらの一枚一枚が均等で、色のグラデーションが自然で、全体のバランスが整っている。

初めてとは思えない完成度。でも——やはり完璧ではなかった。

線の太さが少しだけ不安定な箇所がある。色の境目が一か所だけ滲んでいる。初心者の痕跡。

私は——その不完全さに、一瞬だけ安堵してしまった。

安堵してしまったことが——何より醜かった。

他人の失敗に安堵する自分。他人の不完全さを見つけて胸を撫でおろす自分。いつから、こんな人間になったんだろう。

凛が完成品を持ち上げて、首を傾げた。

「んー。線が安定しないな。やっぱり慣れが必要だね」

「……私も、最初はそうだったよ。たくさん練習すれば——」

「うん。もうちょっとやってみる」

凛がもう一枚焼いて、もう一度挑戦した。

二枚目は——一枚目より明らかに上手かった。

線が安定していた。色の境目が鮮明になっていた。花びらのバランスがさらに整っていた。

一枚で——学習した。

一枚の失敗から修正点を見つけ出し、二枚目で改善する。その学習速度が——人間離れしていた。

「おっ、いい感じ」

凛が自分の作品を見て満足そうに笑った。

私は——見ていた。凛の二枚目のアイシングクッキーを。

花の模様。繊細な線。美しい色彩。

私が何年も練習して到達したレベルに——凛は、二枚で追いついた。

二枚。

たった、二枚。

三枚目を焼いたら——追い越されるだろう。四枚目には、私が見たこともないレベルに到達するだろう。

「お姉さんも一緒にやらない? 並べて焼いたら楽しそうじゃない?」

凛が絞り袋を差し出した。一緒に。並べて。楽しそう。

楽しいだろうか。

凛の隣で、凛と同じことをして——凛の二枚目より下手なものを作る姿を、見せること。おばあちゃんに。常連さんに。お客さんに。

並べられたら——比べられる。比べられたら——負ける。

負ける。

勝ち負けの問題じゃないことはわかっている。お菓子作りは競争じゃない。自分が楽しくて、食べてくれる人が喜んでくれれば、それでいいはずだ。

でも——並べられたら、誰の目にも明らかになる。

私のクッキーと凛のクッキーの差が。技術の差が。積み上げてきたものの差が。才能の差が。

「……今日は、いいや。見てるの楽しいから」

私は笑った。笑って、断った。

「そう? じゃあ次やろうね」

凛が三枚目に取りかかった。

予想通りだった。三枚目は——私を超えていた。

線の震えが完全に消えた。色のグラデーションが水彩画のように自然で、花びらの一枚一枚に光と影がある。クッキーの形状に合わせたデザインの配置が計算されていて、余白すら美しい。

「うん、これならいいかも」

凛が三枚目を持ち上げて、光に透かした。

おばあちゃんがカウンターの向こうから覗き込んだ。

「まぁ……凛ちゃん、これ、アイシングクッキーっていうの? きれいだねぇ……」

「はい。お姉さんに触発されて、やってみました」

私に——触発されて。

おばあちゃんが凛のクッキーを手に取って、まじまじと見つめた。

「……これ、初めて作ったの?」

「はい。でも絞りの基本はケーキのデコレーションと同じなので」

おばあちゃんが——息を呑んだ。

初めてで、これ。その驚きがおばあちゃんの表情にはっきりと浮かんでいた。

そしておばあちゃんは——私の方を見た。

一瞬だけ。ほんの一瞬だけ。でも、その一瞬の視線に含まれていたものを、私は読み取ってしまった。

比べている。

おばあちゃんが——私のアイシングクッキーと、凛のアイシングクッキーを、頭の中で比べている。

写真で凛に見せたという、あのうさぎのクッキー。目が左右で大きさの違う、アイシングの線が少し震えている、あのクッキーと——凛の初めてのクッキーを。

おばあちゃんの視線が私から外れた。また凛のクッキーに戻った。

「メニューに入れようか」

おばあちゃんが言った。

凛のアイシングクッキーを——メニューに。

初めて作ったものを。

私は何年もかけて——おばあちゃんに「メニューに入れよう」と言ってもらったことが、ある。あった。何度も。でも私はいつも「まだそんなレベルじゃない」と断っていた。

凛は断らない。

「いいですよ。でもまだ練習が必要なので、ちょっと待ってもらっていいですか? 一週間くらいで安定させます」

一週間。

一週間で、安定させると言っている。私が何年もかけたことを、一週間で。

「もちろんだよぉ。楽しみにしてるねぇ」

おばあちゃんが微笑んだ。

楽しみにしてる。

私のクッキーにも——同じことを言ってくれていた。同じ笑顔で。同じ声で。

でも——私はずっと「まだ」と言い続けて、結局メニューに載せることはなかった。おばあちゃんはずっと待ってくれていた。待ってくれていたのに、私がいつまでも「まだ」と言うから——

待ちくたびれたのだろうか。

そして——凛が来た。「まだ」と言わない子が。「いいですよ」と即答する子が。一週間で安定させると言い切れる子が。

おばあちゃんが待ち続けた「メニューに載るお菓子」を——凛が、あっさりと叶えようとしている。

 

その日の夕方。

閉店後、凛はキッチンでアイシングの練習を続けていた。四枚目、五枚目、六枚目。一枚ごとに目に見えて上達していく。

私は自分の部屋にいた。

机の引き出しを開けた。奥の方に——一枚だけ、アイシングクッキーが残っていた。

うさぎではない。もっと前に作ったもの。星の形。ピンクと白と水色のアイシングで、夜空をイメージして作った。おじいちゃんに初めて「きれいだね」と言ってもらえたクッキー。

捨てられなくて、ラップに包んで引き出しの奥にしまっていた。もう食べられない。カチカチに固くなっている。でも——捨てられなかった。

手に取った。

ラップ越しに、星の形が透けている。アイシングの線はガタガタだ。色も不均一で、水色が一か所滲んでいる。お世辞にも上手とは言えない。

でも——おじいちゃんが「きれいだね」と言ってくれた。

「愛が作ったの? すごいね。きれいだね。おじいちゃん、宝物にするよ」

おじいちゃんはこのクッキーを、仏壇の前に飾ってくれた。何日もそこにあった。「食べないの?」と聞いたら、「もったいなくて食べられないよ」と笑っていた。

結局、おじいちゃんは食べた。一週間後くらいに。「そろそろ食べないと愛に申し訳ないからね」と言って、大事そうにひと口かじって、「うん、おいしい」と笑った。

あの笑顔は——本物だっただろうか。

あの「おいしい」は——孫がかわいくて言ってくれただけじゃないのか。

一週間も飾っていたクッキーは、もうおいしくなかったはずだ。固くなって、風味も落ちて。それでも「おいしい」と言ってくれた。それは——味の評価ではなく、愛情の言葉だ。

愛情の「おいしい」。

凛に向けられた「おいしい」は——**味の評価としての「おいしい」**だ。

どちらが本物かと聞かれたら——どちらも本物だ。でも、意味が違う。重さが違う。

おじいちゃんの「おいしい」は——私を好きだから言ってくれた「おいしい」だ。

凛への「おいしい」は——本当においしいから出てくる「おいしい」だ。

私は——前者しかもらったことがないのかもしれない。

好きだから。かわいいから。がんばっているから。

それ以外の理由で「おいしい」と言ってもらったことが——あっただろうか。

凛は後者をもらっている。好きとか嫌いとか関係なく、初めて会ったお客さんにも「おいしい」と言われている。味そのもので人を動かしている。

私の「おいしい」は——私がいなくなったら、消える。

凛の「おいしい」は——凛がいなくなっても、味の記憶として残る。

その差が——才能の差だ。

星のクッキーをラップごと握りしめた。カチカチの生地が手のひらに食い込む。

おじいちゃん。

おじいちゃんは——私のお菓子を、本当はどう思っていたの。

答えてくれない。もういないから。

答えてくれないことが——一番つらかった。

嘘だったと言ってくれた方がまだましだ。「本当はおいしくなかったよ」と言ってくれた方が、覚悟のしようがある。

でも——おじいちゃんの「おいしい」は、宙に浮いたまま、永遠に確認できない。

優しさだったのか、本心だったのか。

どちらだとしても、もう——意味がない。

凛のお菓子の前では、私のお菓子は——どちらにしても、届かないのだから。

星のクッキーを引き出しに戻した。

机に突っ伏した。

下の階から、凛がアイシングの練習をしている音が聞こえる。絞り袋から出るクリームの、かすかな音。

七枚目か。八枚目か。

一枚ごとに——凛は高みに登っていく。

私は——ここにいる。

星のクッキーと一緒に。引き出しの奥で。

暗い部屋の中で、目を閉じた。

明日には——凛のアイシングクッキーがメニューに載る計画が動き出す。一週間後には——あの三枚目をはるかに超えるものが並ぶだろう。

私のアイシングクッキーは——メニューに載ることなく、終わる。

おばあちゃんに「メニューに入れよう」と言ってもらえたのに。何度も何度も、言ってもらえたのに。

「まだ」と言い続けた私が——悪いのだ。

あの時——「いいよ」と言っていたら。

あの時——勇気を出して、メニューに載せていたら。

凛が来る前に。凛のフィナンシェを知る前に。凛のダコワーズを知る前に。凛のアイシングクッキーを見る前に。

あの頃の、まだ何も知らなかった私が——「いいよ」と言っていたら。

おばあちゃんの笑顔を独占できていたのだろうか。

タカラのメニューに、私の名前が載っていたのだろうか。

「私のお菓子」が——存在できていたのだろうか。

もう——遅い。

遅い。

何もかもが——遅い。

枕に顔をうずめた。泣かない。泣いてどうなるものでもない。

窓の外で、夜の虫が鳴いている。

夏が——半分を過ぎようとしていた。

残りの夏が——どれだけ残っているのか、数える気力すらなかった。

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