その日は、雨だった。
夏には珍しい、朝から降り続く静かな雨。山が霧に包まれて、窓の外が白く煙っている。蝉の声が消えて、代わりに雨粒が屋根を叩く音だけが家を満たしていた。
雨の日は、お客さんが来ない。
山道がぬかるむし、車で来るにも視界が悪い。SNSで話題になって以来、週末には十人以上来るようになったカフェも、雨の日だけは静かに戻る。
おばあちゃんが「今日はのんびりしようかねぇ」と言って、カフェの開店を遅らせた。凛もキッチンに立つ気配がなく、自分の部屋——おじいちゃんの部屋で何かをしているらしい。
私は自分の部屋にいた。することがなかった。
カフェの手伝い——もう、あまりやることがない。料理は凛が作る。配膳は凛とおばあちゃんで回せる。お客さんが多い日は水を運んだり会計をしたりするけれど、雨の日は客が来ない。
本を読もうとした。図書館で借りた製菓の本。でもページをめくる気になれない。この本のレシピを丁寧に再現しても、凛の「普通に作っただけ」に届かないことが——もうわかってしまったから。
窓の外を見た。雨。灰色の空。山の緑が霧に滲んでいる。
ぼんやりしていると、階下からおばあちゃんの声がした。
「あら、そういえば……」
何かを思い出したような声。独り言のような、でも少し弾んだ声。
続いて、物音。棚を開ける音。何かを引っ張り出す音。
「凛ちゃーん、愛ー、ちょっとおいで」
おばあちゃんに呼ばれて、階段を降りた。
居間に行くと、おばあちゃんがちゃぶ台の前に座っていた。目の前には、古びた段ボール箱がある。ガムテープが黄ばんでいて、側面に油性ペンで「書斎」と書いてある。おじいちゃんの字だ。角ばった、少し不器用な字。
凛もおじいちゃんの部屋から降りてきた。
「どうしたんですか?」
「倉庫を片付けた時に出てきたんだけどねぇ、開けてなかったの。おじいちゃんの書斎の荷物でねぇ……」
おばあちゃんが段ボール箱の蓋を開けた。中から出てきたのは、古い本が数冊と、ファイルと、それから——ノート。
何冊かのノートが、輪ゴムでまとめられていた。表紙が焼けて茶色くなっている。
「おじいちゃん、日記をつけてたんだよねぇ。こまめな人だったから」
おばあちゃんが輪ゴムを外して、ノートを一冊取り出した。表紙に「二〇一七年」と書いてある。おじいちゃんが亡くなる一年前の日記だ。
「まぁ、懐かしいねぇ……」
おばあちゃんがページをめくり始めた。
私はちゃぶ台の向かい側に座って、おばあちゃんの手元を見ていた。凛はおばあちゃんの隣に座った。
おじいちゃんの字が、ノートの上に並んでいる。角ばった、不器用だけど丁寧な字。日付の横に、その日あったことが数行ずつ書かれている。
「『五月十二日。カフェにお客さんが三人。愛がカレーを作った。うまかった。愛は毎日上手になる。頼もしい。』」
おばあちゃんが読み上げた。
胸が——ぎゅっと締まった。
おじいちゃんの声が聞こえるようだった。あの穏やかな声。「うまかった」という短い感想に、おじいちゃんの不器用な優しさが詰まっている。
「『五月二十日。愛がチーズケーキを作ってくれた。クリームチーズが少し足りなかったようだが、十分うまい。おばあちゃんも喜んでいた。愛の笑顔が一番のデザートだ。』」
おじいちゃん。
こんなことを書いてくれていたんだ。「愛の笑顔が一番のデザートだ」なんて。おじいちゃんらしい。ベタで、真っ直ぐで、照れくさい言葉。
涙がこみ上げそうになった。でも——凛の前では泣けない。ぐっと堪えた。
おばあちゃんがページをめくっていく。日常の記録。カフェのこと。天気のこと。常連さんのこと。おばあちゃんのこと。私のこと。
おじいちゃんの日記の中では、私はいつも褒められていた。「愛が手伝ってくれた」「愛の料理がうまくなった」「愛がクッキーを焼いてくれた」。小さな出来事を、おじいちゃんは毎日丁寧に記録していた。
嬉しかった。読んでもらえるたびに、おじいちゃんがまだそこにいるような気がした。
「ねえ、おばあさん。他の年のもありますか?」
凛が聞いた。
おばあちゃんが段ボール箱の中を探って、別のノートを取り出した。
「これは……二〇一四年だね。愛が来る前の年かな」
おばあちゃんがページをめくる。
「おじいちゃん、若い頃から日記つけてたからねぇ。昔の分もどこかにあると思うんだけど——あら」
おばあちゃんの手が止まった。
あるページで、指がぴたりと止まった。
「…………」
おばあちゃんの表情が——変わった。目が大きく開いて、口元が微かに震えた。何かを見つけた顔。何かを——思い出した顔。
「おばあちゃん? どうしたの?」
「…………これ……」
おばあちゃんの声が、かすれていた。
私はちゃぶ台越しに、逆さまのノートを見た。おじいちゃんの字。いつもの角ばった字。でも——そのページだけ、字が違っていた。
震えていた。
字が——震えている。
いつもの丁寧で不器用な字ではなく、何かに圧倒された人間の筆跡。興奮か、衝撃か、感動か。ペンを持つ手が震えるほどの何かに触れた人間が書いた字。
おばあちゃんがノートを凛に見せた。
「凛ちゃん……ちょっと、これ読んで……」
凛がノートを受け取った。ページを見る。目が——動く。左から右へ、行を追っている。
私は——ちゃぶ台の向かい側から、凛の目の動きだけを見ていた。ノートの文面は、逆さまで読めない。
凛の目が——途中で止まった。
そして——ゆっくりと顔を上げて、おばあちゃんを見た。
「これ……」
「凛ちゃん、読んでくれる? おばあちゃん、ちょっと……目がうるんじゃって……」
おばあちゃんが目元を押さえている。
凛がノートを両手で持ち直して、声に出して読み始めた。
「『二〇一四年、九月七日。日曜日。晴れ。』」
凛の声が、静かな居間に響く。雨の音が遠くなる。
「『今日、市のお菓子品評会に行ってきた。おばあちゃんに内緒で。別に隠すほどのことでもないが、一人で出かけるのが久しぶりで、少し照れくさかった。』」
おじいちゃんが一人でお菓子の品評会に行った。私がおばあちゃんたちのもとに引き取られる前の年の話だ。
「『会場には子どもから大人まで出品していて、なかなか面白かった。素人の品評会だが、レベルが高いものもあった。カフェの参考になるものがないか見て回った。試食もした。どれもおいしかった。』」
凛が淡々と読んでいく。品評会の様子。おじいちゃんが一つひとつ試食して、感想をメモしている。「クッキーがよく焼けていた」「パウンドケーキがしっとりしていた」。おじいちゃんらしい、まじめな記録。
そして——
「『最後のブースで、ケーキを一切れもらった。小さな女の子が出品していた。年は七、八歳くらいだろうか。母親がそばにいた。』」
凛の声が——わずかに揺れた。
読み続ける。
「『何のケーキだったか、正確には覚えていない。シフォンだったか、スポンジだったか。食べた瞬間、頭が真っ白になって——』」
凛が——一度、息を吸い込んだ。
「『——何が何だかわからなくなった。』」
居間が静まり返っていた。雨の音だけが、遠い場所で鳴っている。
「『口の中に入れた瞬間、目の前の景色が変わった。大げさだと思われるかもしれないが、本当にそうだったのだ。味、というものが何なのか——初めて理解した気がした。今まで食べてきたもの、作ってきたもの、全部が——前座だったのではないかとすら思った。』」
おじいちゃんの字が——ここから加速している。行間が詰まって、字が大きくなって、ペンの圧が濃くなっている。
「『この子は何者だ。七つか八つの子どもが、なぜこんなものを作れるのだ。理解できない。理解できないが、舌が覚えている。体が覚えている。この味を——忘れることはないだろう。』」
凛が読んでいる。おじいちゃんの言葉を。震える筆跡を。
「『女の子の名前を聞きそびれた。母親に話しかけようとしたが、人混みに紛れてしまった。会場のスタッフに聞いたが、出品者リストには名前しか載っておらず、連絡先は教えてもらえなかった。』」
名前。
出品者リストの名前。
おじいちゃんは——聞きそびれた。でもリストには——
「『名前だけ控えた。覚えておかなくてはいけない気がしたから。』」
凛が——ページをめくった。
次のページに、大きな字で——名前が書いてあった。
凛が声に出さなかったので、私にはまだ見えなかった。でも凛の目が——止まっていた。
「凛ちゃん?」
おばあちゃんが凛の顔を覗き込んだ。
凛の顔が——白かった。読みながら少しずつ血の気が引いていたのかもしれないが、今はっきりと——白い。
「……読んで」
おばあちゃんが、静かに促した。
凛が——唇を薄く開いた。
「『桜庭。名字だけしか載っていなかった。桜庭。覚えておく。』」
桜庭。
おじいちゃんが——品評会で出会った天才少女の名字が——桜庭。
私は凛を見た。凛は——ノートを見つめたまま、動かない。
おばあちゃんが——凛に聞いた。
「凛ちゃん……もしかして——小さい頃に……お菓子のコンテストに出たこと……ある?」
凛が——ゆっくりと顔を上げた。
「…………あります」
「二〇一四年?」
「……お母さんに連れられて……何回か出ました。小さい頃だから、あんまり……覚えてないですけど」
凛の声が——初めて聞く声だった。いつもの生意気で落ち着いた声ではなく、小さくて、頼りなくて、自分でも何が起きているのかわからないという声。
おばあちゃんが——段ボール箱の中から、別のノートを引っ張り出した。二〇一四年の続き。同じ年の十月以降の日記。
ページをめくるおばあちゃんの手が震えている。めくる。めくる。めくる。
「あった……」
おばあちゃんが、あるページを開いた。
「読むよ……」
おばあちゃんが自分で読み始めた。声が震えていた。
「『十月十五日。桜庭の手がかりを探している。市の品評会の事務局に問い合わせたが、個人情報は教えられないと言われた。当然だ。だが——諦められない。』」
おじいちゃんが——探していた。
あの少女を——凛を——探していた。
「『十一月二日。近隣の菓子店を回って聞いてみた。桜庭という名前のパティシエがいないか。手がかりはなかった。』」
おじいちゃんが——菓子店を回っていた。あの穏やかなおじいちゃんが、一軒一軒、店を訪ねて歩いていた。
「『十二月二十四日。クリスマスイブだ。おばあちゃんと愛にケーキを作った。愛が喜んでくれた。愛の笑顔を見ると、幸せな気持ちになる。だが——あの味を、まだ忘れられない。あの子のケーキを食べたあの瞬間を、毎日思い出す。』」
毎日、思い出していた。
あの味を。
私にケーキを作りながら——凛の味を思い出していた。
「『二〇一五年、三月。インターネットで「桜庭 パティシエ」と検索してみた。桜庭紗英という人が出てきた。世界的に有名なパティシエらしい。もしかして、この人の子どもだろうか。だが確証がない。』」
おじいちゃんが——桜庭紗英の名前にたどり着いていた。凛の母に。でも確証がなくて、それ以上は追えなかった。
おばあちゃんがページをめくる。二〇一五年。二〇一六年。日記は続いている。そして——ところどころに、「桜庭」の文字が現れる。
「『六月八日。また品評会に行ってきた。あの子はいなかった。』」
「『九月。今年も見つからなかった。あの味を——もう一度食べたい。もう一度だけでいい。食べたら死んでもいい、というのは大げさだが——近い気持ちだ。』」
食べたら死んでもいい。
おじいちゃんが——そこまで書いていた。
「『二〇一七年、一月。体の調子が悪い。病院に行った。おばあちゃんには軽いと言ったが、本当は——あまりよくないらしい。時間があるうちに、やり残したことをやらなくてはいけない。桜庭の子を見つけたい。あの味を——確かめたい。』」
おじいちゃんが亡くなる一年前。体調が悪くなり始めていた頃。その時にも——凛を探していた。
「『三月。桜庭紗英のお店が東京にあることがわかった。行きたいが、体が動かない。手紙を書こうか。いや、何と書けばいい。「あなたの娘さんが作ったケーキを数年前に食べて忘れられません」? 不審者だ。やめておこう。』」
おじいちゃんらしい。真面目で、律儀で、人に迷惑をかけることを恐れる人。だから手紙も出せなかった。
「『五月。愛がシフォンケーキを焼いてくれた。おいしかった。愛は毎日上手になる。愛のスイーツは、みんなを幸せにする力がある。——あの子のスイーツは、世界を幸せにする力がある。いつか二人が出会ったら、面白いだろうな。そんなことは起きないかもしれないが。夢みたいな話だ。』」
みんなを幸せにする力がある。
世界を幸せにする力がある。
同じページに——二つの言葉が並んでいた。
私の名前の横に——「みんなを」。
桜庭の子の横に——「世界を」。
同じ「幸せにする力がある」。でも——スケールが違う。
「みんな」と「世界」。
その距離が——ノートの上では数センチなのに、現実では——無限に遠かった。
おばあちゃんが——泣いていた。
声を出さずに、ぽろぽろと涙を流していた。ノートを抱きしめて。
「おじいちゃん……見つかったよ……」
その声は——震えていて、掠れていて、でもどこか安堵に満ちていた。
「桜庭の子——凛ちゃんだったんだよ……おじいちゃんがずっと探してた子が……ここに来てくれたんだよ……」
おばあちゃんが凛を見た。
涙で潤んだ目で——凛を。
「おじいちゃんが生きてたら……どんなに喜んだか……」
凛は——黙っていた。
白い顔のまま、黙っていた。目が赤くなっている。でも泣いてはいなかった。唇を引き結んで、ノートの上の文字を見つめていた。
「……私、全然覚えてないんです。小さい頃の品評会のこと。お母さんに連れられて行っただけで……何を作ったかも……」
「それでいいんだよぉ。覚えてなくてもいいの。おじいちゃんが覚えてたんだから。おじいちゃんが、ずっとずっと——忘れなかったんだから」
おばあちゃんが凛の手を取った。
両手で。しわだらけの手で、凛の白い手を包んだ。
「凛ちゃんがここに来てくれたのは——運命だったのかもしれないねぇ。おじいちゃんが引き合わせてくれたのかもしれない」
運命。おじいちゃんが引き合わせた。
その言葉を聞いた瞬間——私の中で何かが音を立てた。
音のない音。何かが折れる音。何かが割れる音。何かが——静かに崩れていく音。
私は——ちゃぶ台の向かい側にいた。
おばあちゃんと凛の、向かい側に。
二人の間にはノートがあった。おじいちゃんの日記。震える筆跡。「桜庭」の文字。数年にわたる探索の記録。死の間際まで追い求めた味の記憶。
そのすべてが——凛に向けられたものだった。
おじいちゃんが人生の最後の数年間をかけて探していたのは——私ではなく、凛だった。
私のお菓子を「おいしい」と言ってくれた。「みんなを幸せにする力がある」と言ってくれた。嘘ではなかっただろう。おじいちゃんは嘘をつく人ではない。
でも——同じ日記の、同じページに、もう一つの言葉があった。
「世界を幸せにする力がある」。
「みんなを」と「世界を」。
おじいちゃんは——両方を本気で書いたのだろう。私のお菓子にも、凛のお菓子にも、それぞれの力があると思ってくれていたのだろう。
でも——「みんな」の後に「世界」を書いている。
同じページに。同じ流れで。比較として。
比較していないと言われても——読んだ者の目には、比較に映る。
おじいちゃんが品評会に行って、凛のケーキを食べて、「頭が真っ白になった」と書いた。「目の前の景色が変わった」と書いた。「今まで食べてきたもの全部が前座だったのではないか」と書いた。
私のケーキを食べて——おじいちゃんは、そんなことを書いただろうか。
書いていない。
「うまかった」「おいしかった」「上手になった」。穏やかな言葉。温かい言葉。孫の成長を喜ぶ、祖父の言葉。
でも——「頭が真っ白になった」は、ない。「景色が変わった」は、ない。「食べたら死んでもいい」は——ない。
おじいちゃんの魂を揺さぶったのは——私のお菓子ではなかった。
ずっと、そうだったのだ。
おじいちゃんが私に「みんなを幸せにする力がある」と言ってくれた時——おじいちゃんの心の奥には、すでに凛の味があった。「世界を幸せにする力」を知っている人間が、私に「みんなを幸せにする力がある」と言ってくれた。
それは——嘘ではない。
嘘ではないけれど——全部ではない。
おじいちゃんの「おいしい」の最上級は——私に向けられたものではなかった。
おじいちゃんにとっての最高の味は——私のお菓子ではなく、凛のお菓子だった。
何年もかけて探し続けるほど。手紙を書こうか迷うほど。死の間際まで忘れられないほど。
そこまでの衝撃を——私は、おじいちゃんに与えたことがない。
一度も。
一度も——ない。
「愛?」
おばあちゃんの声が聞こえた。
「愛、大丈夫? 顔が真っ白だよ……」
顔が——真っ白。
おじいちゃんが凛のケーキを食べた時、「頭が真っ白になった」と書いた。私は今、おじいちゃんの日記を聞いて——顔が真っ白になっている。
可笑しい。全然可笑しくないのに、可笑しいと思った。
「だ、大丈夫。ちょっと——びっくりしただけ」
「そうだよねぇ。おばあちゃんもびっくりだよ。おじいちゃんが、こんなに探してたなんて……」
おばあちゃんがまた泣いている。嬉しくて泣いている。おじいちゃんが見つけられなかった「桜庭の子」が、自分の家に泊まっている。おじいちゃんの代わりに、おばあちゃんが見つけた。見つけたのではなく——向こうから来てくれた。カフェのドアを開けて、「ここ、カフェ?」と言いながら。
運命だと、おばあちゃんは言った。
運命。
私がこの家に来たのも——運命だと思っていた。両親が離婚して、行き場がなくて、おばあちゃんとおじいちゃんが引き取ってくれて。それが運命だと思っていた。
でも——おばあちゃんが「運命」という言葉を使ったのは、凛に対してだった。
私に対しては——何と言ってくれただろう。「おいで、愛。ここがあなたのお家だよ」と言ってくれた。温かい言葉だった。十分すぎるほど温かい言葉だった。
でも「運命」とは——言わなかった。
運命は——特別な言葉だ。偶然を超えた必然。出会うべくして出会った、という意味を持つ言葉。
私がこの家に来たのは——両親の離婚という不幸の結果だ。運命ではなく、事故だ。行き場のない子どもを引き取った。それは——おばあちゃんの優しさであって、運命ではない。
凛がこのカフェに来たのは——おじいちゃんが何年も探し続けた「桜庭の子」が、偶然たどり着いた。おじいちゃんの死後に。あたかもおじいちゃんが導いたかのように。
それを——おばあちゃんは「運命」と呼んだ。
私は——「運命の子」ではない。
引き取られた子。
凛は——導かれた子。
その差が——おじいちゃんの日記に、はっきりと刻まれている。
「お姉さん」
凛の声がした。
凛が——私を見ていた。猫みたいな大きな目。いつもの生意気さが消えていて、代わりに——戸惑いがあった。
「私……全然覚えてなくて。小さい頃のこと。何を作ったかも覚えてないし……おじいさんに会ったことも覚えてないです」
「……うん」
「だから……なんか、ごめんなさい」
凛が——謝った。
何に対して謝っているのか、凛自身もわかっていないのだろう。ただ、この場の空気が——私にとって辛いものであることを、凛は感じ取ったのかもしれない。
鋭い子だ。
鋭くて、正直で、悪意がなくて。
「謝ることないよ。凛ちゃんは何も悪くないよ」
声が——自分のものではないように聞こえた。遠くから響いてくる、他人の声。
「おじいちゃんがそんなに感動したなんて、すごいことだよ。凛ちゃんのお菓子は——本当にすごいから」
言った。言えた。笑顔すら浮かべた。
凛が——少しだけ、眉を寄せた。何かを言いかけて、飲み込んだ顔。
「……ありがとう」
凛がそう言って、視線を落とした。
おばあちゃんがノートをめくり続けている。おじいちゃんの日記を読み続けている。桜庭の記述がある場所を探して、一つひとつ拾い上げている。
「ここにも書いてある……『あの味を死ぬまで追い求めることになるかもしれない。それでもいい。あの衝撃を知ったことが、自分の人生の宝だ。』」
死ぬまで。
おじいちゃんは——本当に、死ぬまで追い求めた。そして——見つけられなかった。
見つけられなかったのに——見つけたのだ。おじいちゃんが亡くなった後に。凛が自分の足でここに来ることで。
私は立ち上がった。
「おばあちゃん、私——ちょっと部屋に戻るね。頭が痛くて」
「えっ、大丈夫かい? 薬持ってこようか?」
「ううん、大丈夫。少し横になれば治るから」
「無理しちゃだめだよ?」
「うん。ありがとう」
居間を出た。階段を上がった。自分の部屋に入った。ドアを閉めた。鍵はない。でも、閉めた。
ベッドに——座らなかった。床に座り込んだ。壁に背中をつけて、膝を抱えて。
雨の音が聞こえる。
窓の外は灰色だ。
おじいちゃんの日記が——頭の中で反復している。
「頭が真っ白になった」
「目の前の景色が変わった」
「食べたら死んでもいい」
「世界を幸せにする力がある」
「死ぬまで追い求めることになるかもしれない」
全部——凛のことだ。
全部、凛の——お菓子のことだ。
おじいちゃんが私に向けた言葉を思い出す。
「うまかった」
「おいしかった」
「上手になった」
「みんなを幸せにする力がある」
「愛の笑顔が一番のデザートだ」
……温かい言葉だ。温かくて、優しくて、おじいちゃんらしい言葉だ。
でも——その温かさは、「凛の味を知っている人間の温かさ」だったのだ。
あの味を知っている。あの衝撃を知っている。「世界を幸せにする力」を知っている。それを知った上で——私に「みんなを幸せにする力がある」と言ってくれた。
おじいちゃんは、私に——期待してくれていたのだろうか。
それとも——私では届かないことを、知っていたのだろうか。
「いつか二人が出会ったら、面白いだろうな」と日記に書いていた。「そんなことは起きないかもしれないが。夢みたいな話だ」と。
出会った。おじいちゃん。出会ったよ。
面白くなんかない。面白くなんか——全然ない。
おじいちゃん。
おじいちゃんは——私のお菓子を食べる時、心のどこかで——凛の味と比べていたの?
「うまかった」と日記に書きながら——「でもあの味には及ばない」と思っていたの?
私の笑顔が一番のデザートだと書いたのは——私のお菓子がデザートになれないから、笑顔で補ったの?
違う。そんなわけがない。おじいちゃんは——そんな人じゃない。
でも——日記の文字は動かない。
「みんなを」と「世界を」は——同じページに書かれている。
その事実は——消えない。
どれくらい座り込んでいたのかわからない。
雨が少し弱くなった。窓の外が、灰色から白に変わっている。
下から——おばあちゃんの声が聞こえる。
「おじいちゃん——ありがとうね。凛ちゃんを連れてきてくれて……」
まだ泣いているのだろう。嬉しくて。おじいちゃんへの感謝で。
おじいちゃんが何年も探して、見つけられなかった子が——ここにいる。それはおばあちゃんにとって、おじいちゃんからの最後の贈り物のようなものなのだろう。
贈り物。
凛は——おじいちゃんからの贈り物。
私は——
私は、誰からの贈り物でもない。両親が手放した子。おばあちゃんが拾ってくれた子。
拾ってくれた。
その言い方は——ひどいかもしれない。おばあちゃんは「拾った」なんて思っていない。「愛は宝物だよ」と言ってくれた。
宝物。
タカラ。
カフェの名前が——「タカラ」。
おじいちゃんがつけた名前だ。宝物という意味。何が宝物なのか——おばあちゃんと過ごす時間が宝物だと、おじいちゃんは言っていた。
凛の味は——おじいちゃんにとって、もうひとつの「タカラ」だったのかもしれない。
死ぬまで追い求めた味。人生の宝だと書いた味。
私は——おじいちゃんの宝物に、なれていたのだろうか。
なれていたと思いたい。あの笑顔は本物だったと思いたい。「愛の笑顔が一番のデザートだ」は、本心だったと思いたい。
でも——もう確かめられない。おじいちゃんはいない。日記の文字だけが残っている。文字は答えてくれない。「あれはどういう意味だったの」と聞いても、ページは白いまま何も返さない。
死者の言葉は訂正されない。
解釈だけが——残される者の手に委ねられる。
そして私は——一番つらい解釈を、選んでしまう。
おじいちゃんが優しかったから。おじいちゃんが嘘をつかない人だったから。だから——「おいしい」も本心だったのだろう。
でも——「あの味には及ばない」も本心だったのだろう。日記に書かれている以上。数年にわたって探し続けた以上。
どちらも本心。どちらも嘘じゃない。
おじいちゃんは——私を愛してくれていた。私のお菓子を喜んでくれていた。
それと同時に——凛の味に心を奪われていた。凛の才能に打たれていた。
二つの感情は矛盾しない。両立する。おじいちゃんの中では、きっと何の矛盾もなかった。
でも——残された私の中では、矛盾している。
「一番」が——二つあるのだ。
私のお菓子は「みんなを幸せにする」。凛のお菓子は「世界を幸せにする」。
どちらが上か。比べるものではないと頭では思う。でも——比べてしまう。比べずにいられない。
「みんな」は「世界」の中に含まれる。「世界」が「みんな」を包含する。つまり——
凛のお菓子は、私のお菓子ができることを、全部できる。その上で、もっと先に行ける。
私のお菓子にできて凛のお菓子にできないことは——ない。
上位互換。
その言葉が、冷たい刃のように頭に浮かんだ。
私は——凛の下位互換なのだ。
おじいちゃんは——それを知っていた。知った上で、私を愛してくれた。知った上で、「みんなを幸せにする力がある」と言ってくれた。
それは——優しさだ。
優しさであり——限界の宣告でもある。
「みんなを」が、私の限界。
「世界を」には——届かない。
おじいちゃんは——知っていた。
知っていて——何も言わなかった。
それが——おじいちゃんの優しさだった。
その優しさが——今、一番つらい。
机の引き出しを開けた。
星のクッキーが——まだあった。ラップに包まれた、カチカチの、ガタガタのアイシングの、星。
手に取った。
おじいちゃんが「きれいだね」と言ってくれたクッキー。仏壇に飾って、一週間後に食べてくれたクッキー。「おいしい」と笑ってくれたクッキー。
おじいちゃんがこのクッキーを食べた時——心の中では、何を思っていたのだろう。
「愛が作ってくれた。嬉しい」と思ってくれていたのだろう。それは本当だろう。
でも同時に——「あの桜庭の子なら、もっとすごいものを作るだろうな」と——
思っていたかもしれない。
思っていなかったかもしれない。
わからない。もう永遠にわからない。
星のクッキーを——握った。
ラップ越しに、固い生地が手のひらに当たる。
強く握った。
ぱきり、と音がした。
クッキーが——割れた。
ラップの中で、星が二つに割れた。
手を開いた。ラップの中に、割れた星のかけらが二つ。ピンクのアイシングが剥がれて、生地の茶色が見えている。
割れてしまった。
おじいちゃんとの、最後のクッキーが。
「…………」
声が出なかった。
手のひらの上の、割れたクッキーを見つめた。
泣かない。泣いたら——本当に終わる。
泣いたら——おじいちゃんの「おいしい」が、全部嘘だったと認めることになる。
泣かない。
泣かないで。
お願いだから——
雨が——また強くなった。
窓を叩く雨粒が、私の代わりに泣いているみたいだった。
割れたクッキーを——引き出しに戻した。捨てられなかった。割れても。もう食べられなくても。おじいちゃんの「きれいだね」がくっついている限り——捨てられなかった。
引き出しを閉めた。
床に座ったまま——壁に頭をつけて——目を閉じた。
暗闇の中で——おじいちゃんの声が聞こえる。
「愛のスイーツは、みんなを幸せにする力があるねぇ」
「あの子の菓子には、世界を幸せにする力がある」
二つの声が——重なって——消えていく。
雨は——まだ、降り続いていた。