①ケモカフェ! 〜ifストーリー〜   作:灰色の雪

7 / 10
日記

その日は、雨だった。

夏には珍しい、朝から降り続く静かな雨。山が霧に包まれて、窓の外が白く煙っている。蝉の声が消えて、代わりに雨粒が屋根を叩く音だけが家を満たしていた。

雨の日は、お客さんが来ない。

山道がぬかるむし、車で来るにも視界が悪い。SNSで話題になって以来、週末には十人以上来るようになったカフェも、雨の日だけは静かに戻る。

おばあちゃんが「今日はのんびりしようかねぇ」と言って、カフェの開店を遅らせた。凛もキッチンに立つ気配がなく、自分の部屋——おじいちゃんの部屋で何かをしているらしい。

私は自分の部屋にいた。することがなかった。

カフェの手伝い——もう、あまりやることがない。料理は凛が作る。配膳は凛とおばあちゃんで回せる。お客さんが多い日は水を運んだり会計をしたりするけれど、雨の日は客が来ない。

本を読もうとした。図書館で借りた製菓の本。でもページをめくる気になれない。この本のレシピを丁寧に再現しても、凛の「普通に作っただけ」に届かないことが——もうわかってしまったから。

窓の外を見た。雨。灰色の空。山の緑が霧に滲んでいる。

ぼんやりしていると、階下からおばあちゃんの声がした。

「あら、そういえば……」

何かを思い出したような声。独り言のような、でも少し弾んだ声。

続いて、物音。棚を開ける音。何かを引っ張り出す音。

「凛ちゃーん、愛ー、ちょっとおいで」

おばあちゃんに呼ばれて、階段を降りた。

居間に行くと、おばあちゃんがちゃぶ台の前に座っていた。目の前には、古びた段ボール箱がある。ガムテープが黄ばんでいて、側面に油性ペンで「書斎」と書いてある。おじいちゃんの字だ。角ばった、少し不器用な字。

凛もおじいちゃんの部屋から降りてきた。

「どうしたんですか?」

「倉庫を片付けた時に出てきたんだけどねぇ、開けてなかったの。おじいちゃんの書斎の荷物でねぇ……」

おばあちゃんが段ボール箱の蓋を開けた。中から出てきたのは、古い本が数冊と、ファイルと、それから——ノート。

何冊かのノートが、輪ゴムでまとめられていた。表紙が焼けて茶色くなっている。

「おじいちゃん、日記をつけてたんだよねぇ。こまめな人だったから」

おばあちゃんが輪ゴムを外して、ノートを一冊取り出した。表紙に「二〇一七年」と書いてある。おじいちゃんが亡くなる一年前の日記だ。

「まぁ、懐かしいねぇ……」

おばあちゃんがページをめくり始めた。

私はちゃぶ台の向かい側に座って、おばあちゃんの手元を見ていた。凛はおばあちゃんの隣に座った。

おじいちゃんの字が、ノートの上に並んでいる。角ばった、不器用だけど丁寧な字。日付の横に、その日あったことが数行ずつ書かれている。

「『五月十二日。カフェにお客さんが三人。愛がカレーを作った。うまかった。愛は毎日上手になる。頼もしい。』」

おばあちゃんが読み上げた。

胸が——ぎゅっと締まった。

おじいちゃんの声が聞こえるようだった。あの穏やかな声。「うまかった」という短い感想に、おじいちゃんの不器用な優しさが詰まっている。

「『五月二十日。愛がチーズケーキを作ってくれた。クリームチーズが少し足りなかったようだが、十分うまい。おばあちゃんも喜んでいた。愛の笑顔が一番のデザートだ。』」

おじいちゃん。

こんなことを書いてくれていたんだ。「愛の笑顔が一番のデザートだ」なんて。おじいちゃんらしい。ベタで、真っ直ぐで、照れくさい言葉。

涙がこみ上げそうになった。でも——凛の前では泣けない。ぐっと堪えた。

おばあちゃんがページをめくっていく。日常の記録。カフェのこと。天気のこと。常連さんのこと。おばあちゃんのこと。私のこと。

おじいちゃんの日記の中では、私はいつも褒められていた。「愛が手伝ってくれた」「愛の料理がうまくなった」「愛がクッキーを焼いてくれた」。小さな出来事を、おじいちゃんは毎日丁寧に記録していた。

嬉しかった。読んでもらえるたびに、おじいちゃんがまだそこにいるような気がした。

「ねえ、おばあさん。他の年のもありますか?」

凛が聞いた。

おばあちゃんが段ボール箱の中を探って、別のノートを取り出した。

「これは……二〇一四年だね。愛が来る前の年かな」

おばあちゃんがページをめくる。

「おじいちゃん、若い頃から日記つけてたからねぇ。昔の分もどこかにあると思うんだけど——あら」

おばあちゃんの手が止まった。

あるページで、指がぴたりと止まった。

「…………」

おばあちゃんの表情が——変わった。目が大きく開いて、口元が微かに震えた。何かを見つけた顔。何かを——思い出した顔。

「おばあちゃん? どうしたの?」

「…………これ……」

おばあちゃんの声が、かすれていた。

私はちゃぶ台越しに、逆さまのノートを見た。おじいちゃんの字。いつもの角ばった字。でも——そのページだけ、字が違っていた。

震えていた。

字が——震えている。

いつもの丁寧で不器用な字ではなく、何かに圧倒された人間の筆跡。興奮か、衝撃か、感動か。ペンを持つ手が震えるほどの何かに触れた人間が書いた字。

おばあちゃんがノートを凛に見せた。

「凛ちゃん……ちょっと、これ読んで……」

凛がノートを受け取った。ページを見る。目が——動く。左から右へ、行を追っている。

私は——ちゃぶ台の向かい側から、凛の目の動きだけを見ていた。ノートの文面は、逆さまで読めない。

凛の目が——途中で止まった。

そして——ゆっくりと顔を上げて、おばあちゃんを見た。

「これ……」

「凛ちゃん、読んでくれる? おばあちゃん、ちょっと……目がうるんじゃって……」

おばあちゃんが目元を押さえている。

凛がノートを両手で持ち直して、声に出して読み始めた。

 

「『二〇一四年、九月七日。日曜日。晴れ。』」

凛の声が、静かな居間に響く。雨の音が遠くなる。

「『今日、市のお菓子品評会に行ってきた。おばあちゃんに内緒で。別に隠すほどのことでもないが、一人で出かけるのが久しぶりで、少し照れくさかった。』」

おじいちゃんが一人でお菓子の品評会に行った。私がおばあちゃんたちのもとに引き取られる前の年の話だ。

「『会場には子どもから大人まで出品していて、なかなか面白かった。素人の品評会だが、レベルが高いものもあった。カフェの参考になるものがないか見て回った。試食もした。どれもおいしかった。』」

凛が淡々と読んでいく。品評会の様子。おじいちゃんが一つひとつ試食して、感想をメモしている。「クッキーがよく焼けていた」「パウンドケーキがしっとりしていた」。おじいちゃんらしい、まじめな記録。

そして——

「『最後のブースで、ケーキを一切れもらった。小さな女の子が出品していた。年は七、八歳くらいだろうか。母親がそばにいた。』」

凛の声が——わずかに揺れた。

読み続ける。

「『何のケーキだったか、正確には覚えていない。シフォンだったか、スポンジだったか。食べた瞬間、頭が真っ白になって——』」

凛が——一度、息を吸い込んだ。

「『——何が何だかわからなくなった。』」

居間が静まり返っていた。雨の音だけが、遠い場所で鳴っている。

「『口の中に入れた瞬間、目の前の景色が変わった。大げさだと思われるかもしれないが、本当にそうだったのだ。味、というものが何なのか——初めて理解した気がした。今まで食べてきたもの、作ってきたもの、全部が——前座だったのではないかとすら思った。』」

おじいちゃんの字が——ここから加速している。行間が詰まって、字が大きくなって、ペンの圧が濃くなっている。

「『この子は何者だ。七つか八つの子どもが、なぜこんなものを作れるのだ。理解できない。理解できないが、舌が覚えている。体が覚えている。この味を——忘れることはないだろう。』」

凛が読んでいる。おじいちゃんの言葉を。震える筆跡を。

「『女の子の名前を聞きそびれた。母親に話しかけようとしたが、人混みに紛れてしまった。会場のスタッフに聞いたが、出品者リストには名前しか載っておらず、連絡先は教えてもらえなかった。』」

名前。

出品者リストの名前。

おじいちゃんは——聞きそびれた。でもリストには——

「『名前だけ控えた。覚えておかなくてはいけない気がしたから。』」

凛が——ページをめくった。

次のページに、大きな字で——名前が書いてあった。

凛が声に出さなかったので、私にはまだ見えなかった。でも凛の目が——止まっていた。

「凛ちゃん?」

おばあちゃんが凛の顔を覗き込んだ。

凛の顔が——白かった。読みながら少しずつ血の気が引いていたのかもしれないが、今はっきりと——白い。

「……読んで」

おばあちゃんが、静かに促した。

凛が——唇を薄く開いた。

「『桜庭。名字だけしか載っていなかった。桜庭。覚えておく。』」

桜庭。

おじいちゃんが——品評会で出会った天才少女の名字が——桜庭。

私は凛を見た。凛は——ノートを見つめたまま、動かない。

おばあちゃんが——凛に聞いた。

「凛ちゃん……もしかして——小さい頃に……お菓子のコンテストに出たこと……ある?」

凛が——ゆっくりと顔を上げた。

「…………あります」

「二〇一四年?」

「……お母さんに連れられて……何回か出ました。小さい頃だから、あんまり……覚えてないですけど」

凛の声が——初めて聞く声だった。いつもの生意気で落ち着いた声ではなく、小さくて、頼りなくて、自分でも何が起きているのかわからないという声。

おばあちゃんが——段ボール箱の中から、別のノートを引っ張り出した。二〇一四年の続き。同じ年の十月以降の日記。

ページをめくるおばあちゃんの手が震えている。めくる。めくる。めくる。

「あった……」

おばあちゃんが、あるページを開いた。

「読むよ……」

おばあちゃんが自分で読み始めた。声が震えていた。

「『十月十五日。桜庭の手がかりを探している。市の品評会の事務局に問い合わせたが、個人情報は教えられないと言われた。当然だ。だが——諦められない。』」

おじいちゃんが——探していた。

あの少女を——凛を——探していた。

「『十一月二日。近隣の菓子店を回って聞いてみた。桜庭という名前のパティシエがいないか。手がかりはなかった。』」

おじいちゃんが——菓子店を回っていた。あの穏やかなおじいちゃんが、一軒一軒、店を訪ねて歩いていた。

「『十二月二十四日。クリスマスイブだ。おばあちゃんと愛にケーキを作った。愛が喜んでくれた。愛の笑顔を見ると、幸せな気持ちになる。だが——あの味を、まだ忘れられない。あの子のケーキを食べたあの瞬間を、毎日思い出す。』」

毎日、思い出していた。

あの味を。

私にケーキを作りながら——凛の味を思い出していた。

「『二〇一五年、三月。インターネットで「桜庭 パティシエ」と検索してみた。桜庭紗英という人が出てきた。世界的に有名なパティシエらしい。もしかして、この人の子どもだろうか。だが確証がない。』」

おじいちゃんが——桜庭紗英の名前にたどり着いていた。凛の母に。でも確証がなくて、それ以上は追えなかった。

おばあちゃんがページをめくる。二〇一五年。二〇一六年。日記は続いている。そして——ところどころに、「桜庭」の文字が現れる。

「『六月八日。また品評会に行ってきた。あの子はいなかった。』」

「『九月。今年も見つからなかった。あの味を——もう一度食べたい。もう一度だけでいい。食べたら死んでもいい、というのは大げさだが——近い気持ちだ。』」

食べたら死んでもいい。

おじいちゃんが——そこまで書いていた。

「『二〇一七年、一月。体の調子が悪い。病院に行った。おばあちゃんには軽いと言ったが、本当は——あまりよくないらしい。時間があるうちに、やり残したことをやらなくてはいけない。桜庭の子を見つけたい。あの味を——確かめたい。』」

おじいちゃんが亡くなる一年前。体調が悪くなり始めていた頃。その時にも——凛を探していた。

「『三月。桜庭紗英のお店が東京にあることがわかった。行きたいが、体が動かない。手紙を書こうか。いや、何と書けばいい。「あなたの娘さんが作ったケーキを数年前に食べて忘れられません」? 不審者だ。やめておこう。』」

おじいちゃんらしい。真面目で、律儀で、人に迷惑をかけることを恐れる人。だから手紙も出せなかった。

「『五月。愛がシフォンケーキを焼いてくれた。おいしかった。愛は毎日上手になる。愛のスイーツは、みんなを幸せにする力がある。——あの子のスイーツは、世界を幸せにする力がある。いつか二人が出会ったら、面白いだろうな。そんなことは起きないかもしれないが。夢みたいな話だ。』」

みんなを幸せにする力がある。

世界を幸せにする力がある。

同じページに——二つの言葉が並んでいた。

私の名前の横に——「みんなを」。

桜庭の子の横に——「世界を」。

同じ「幸せにする力がある」。でも——スケールが違う。

「みんな」と「世界」。

その距離が——ノートの上では数センチなのに、現実では——無限に遠かった。

おばあちゃんが——泣いていた。

声を出さずに、ぽろぽろと涙を流していた。ノートを抱きしめて。

「おじいちゃん……見つかったよ……」

その声は——震えていて、掠れていて、でもどこか安堵に満ちていた。

「桜庭の子——凛ちゃんだったんだよ……おじいちゃんがずっと探してた子が……ここに来てくれたんだよ……」

おばあちゃんが凛を見た。

涙で潤んだ目で——凛を。

「おじいちゃんが生きてたら……どんなに喜んだか……」

凛は——黙っていた。

白い顔のまま、黙っていた。目が赤くなっている。でも泣いてはいなかった。唇を引き結んで、ノートの上の文字を見つめていた。

「……私、全然覚えてないんです。小さい頃の品評会のこと。お母さんに連れられて行っただけで……何を作ったかも……」

「それでいいんだよぉ。覚えてなくてもいいの。おじいちゃんが覚えてたんだから。おじいちゃんが、ずっとずっと——忘れなかったんだから」

おばあちゃんが凛の手を取った。

両手で。しわだらけの手で、凛の白い手を包んだ。

「凛ちゃんがここに来てくれたのは——運命だったのかもしれないねぇ。おじいちゃんが引き合わせてくれたのかもしれない」

運命。おじいちゃんが引き合わせた。

その言葉を聞いた瞬間——私の中で何かが音を立てた。

音のない音。何かが折れる音。何かが割れる音。何かが——静かに崩れていく音。

 

私は——ちゃぶ台の向かい側にいた。

おばあちゃんと凛の、向かい側に。

二人の間にはノートがあった。おじいちゃんの日記。震える筆跡。「桜庭」の文字。数年にわたる探索の記録。死の間際まで追い求めた味の記憶。

そのすべてが——凛に向けられたものだった。

おじいちゃんが人生の最後の数年間をかけて探していたのは——私ではなく、凛だった。

私のお菓子を「おいしい」と言ってくれた。「みんなを幸せにする力がある」と言ってくれた。嘘ではなかっただろう。おじいちゃんは嘘をつく人ではない。

でも——同じ日記の、同じページに、もう一つの言葉があった。

「世界を幸せにする力がある」。

「みんなを」と「世界を」。

おじいちゃんは——両方を本気で書いたのだろう。私のお菓子にも、凛のお菓子にも、それぞれの力があると思ってくれていたのだろう。

でも——「みんな」の後に「世界」を書いている。

同じページに。同じ流れで。比較として。

比較していないと言われても——読んだ者の目には、比較に映る。

おじいちゃんが品評会に行って、凛のケーキを食べて、「頭が真っ白になった」と書いた。「目の前の景色が変わった」と書いた。「今まで食べてきたもの全部が前座だったのではないか」と書いた。

私のケーキを食べて——おじいちゃんは、そんなことを書いただろうか。

書いていない。

「うまかった」「おいしかった」「上手になった」。穏やかな言葉。温かい言葉。孫の成長を喜ぶ、祖父の言葉。

でも——「頭が真っ白になった」は、ない。「景色が変わった」は、ない。「食べたら死んでもいい」は——ない。

おじいちゃんの魂を揺さぶったのは——私のお菓子ではなかった。

ずっと、そうだったのだ。

おじいちゃんが私に「みんなを幸せにする力がある」と言ってくれた時——おじいちゃんの心の奥には、すでに凛の味があった。「世界を幸せにする力」を知っている人間が、私に「みんなを幸せにする力がある」と言ってくれた。

それは——嘘ではない。

嘘ではないけれど——全部ではない。

おじいちゃんの「おいしい」の最上級は——私に向けられたものではなかった。

おじいちゃんにとっての最高の味は——私のお菓子ではなく、凛のお菓子だった。

何年もかけて探し続けるほど。手紙を書こうか迷うほど。死の間際まで忘れられないほど。

そこまでの衝撃を——私は、おじいちゃんに与えたことがない。

一度も。

一度も——ない。

 

「愛?」

おばあちゃんの声が聞こえた。

「愛、大丈夫? 顔が真っ白だよ……」

顔が——真っ白。

おじいちゃんが凛のケーキを食べた時、「頭が真っ白になった」と書いた。私は今、おじいちゃんの日記を聞いて——顔が真っ白になっている。

可笑しい。全然可笑しくないのに、可笑しいと思った。

「だ、大丈夫。ちょっと——びっくりしただけ」

「そうだよねぇ。おばあちゃんもびっくりだよ。おじいちゃんが、こんなに探してたなんて……」

おばあちゃんがまた泣いている。嬉しくて泣いている。おじいちゃんが見つけられなかった「桜庭の子」が、自分の家に泊まっている。おじいちゃんの代わりに、おばあちゃんが見つけた。見つけたのではなく——向こうから来てくれた。カフェのドアを開けて、「ここ、カフェ?」と言いながら。

運命だと、おばあちゃんは言った。

運命。

私がこの家に来たのも——運命だと思っていた。両親が離婚して、行き場がなくて、おばあちゃんとおじいちゃんが引き取ってくれて。それが運命だと思っていた。

でも——おばあちゃんが「運命」という言葉を使ったのは、凛に対してだった。

私に対しては——何と言ってくれただろう。「おいで、愛。ここがあなたのお家だよ」と言ってくれた。温かい言葉だった。十分すぎるほど温かい言葉だった。

でも「運命」とは——言わなかった。

運命は——特別な言葉だ。偶然を超えた必然。出会うべくして出会った、という意味を持つ言葉。

私がこの家に来たのは——両親の離婚という不幸の結果だ。運命ではなく、事故だ。行き場のない子どもを引き取った。それは——おばあちゃんの優しさであって、運命ではない。

凛がこのカフェに来たのは——おじいちゃんが何年も探し続けた「桜庭の子」が、偶然たどり着いた。おじいちゃんの死後に。あたかもおじいちゃんが導いたかのように。

それを——おばあちゃんは「運命」と呼んだ。

私は——「運命の子」ではない。

引き取られた子。

凛は——導かれた子。

その差が——おじいちゃんの日記に、はっきりと刻まれている。

 

「お姉さん」

凛の声がした。

凛が——私を見ていた。猫みたいな大きな目。いつもの生意気さが消えていて、代わりに——戸惑いがあった。

「私……全然覚えてなくて。小さい頃のこと。何を作ったかも覚えてないし……おじいさんに会ったことも覚えてないです」

「……うん」

「だから……なんか、ごめんなさい」

凛が——謝った。

何に対して謝っているのか、凛自身もわかっていないのだろう。ただ、この場の空気が——私にとって辛いものであることを、凛は感じ取ったのかもしれない。

鋭い子だ。

鋭くて、正直で、悪意がなくて。

「謝ることないよ。凛ちゃんは何も悪くないよ」

声が——自分のものではないように聞こえた。遠くから響いてくる、他人の声。

「おじいちゃんがそんなに感動したなんて、すごいことだよ。凛ちゃんのお菓子は——本当にすごいから」

言った。言えた。笑顔すら浮かべた。

凛が——少しだけ、眉を寄せた。何かを言いかけて、飲み込んだ顔。

「……ありがとう」

凛がそう言って、視線を落とした。

おばあちゃんがノートをめくり続けている。おじいちゃんの日記を読み続けている。桜庭の記述がある場所を探して、一つひとつ拾い上げている。

「ここにも書いてある……『あの味を死ぬまで追い求めることになるかもしれない。それでもいい。あの衝撃を知ったことが、自分の人生の宝だ。』」

死ぬまで。

おじいちゃんは——本当に、死ぬまで追い求めた。そして——見つけられなかった。

見つけられなかったのに——見つけたのだ。おじいちゃんが亡くなった後に。凛が自分の足でここに来ることで。

私は立ち上がった。

「おばあちゃん、私——ちょっと部屋に戻るね。頭が痛くて」

「えっ、大丈夫かい? 薬持ってこようか?」

「ううん、大丈夫。少し横になれば治るから」

「無理しちゃだめだよ?」

「うん。ありがとう」

居間を出た。階段を上がった。自分の部屋に入った。ドアを閉めた。鍵はない。でも、閉めた。

ベッドに——座らなかった。床に座り込んだ。壁に背中をつけて、膝を抱えて。

雨の音が聞こえる。

窓の外は灰色だ。

おじいちゃんの日記が——頭の中で反復している。

「頭が真っ白になった」

「目の前の景色が変わった」

「食べたら死んでもいい」

「世界を幸せにする力がある」

「死ぬまで追い求めることになるかもしれない」

全部——凛のことだ。

全部、凛の——お菓子のことだ。

おじいちゃんが私に向けた言葉を思い出す。

「うまかった」

「おいしかった」

「上手になった」

「みんなを幸せにする力がある」

「愛の笑顔が一番のデザートだ」

……温かい言葉だ。温かくて、優しくて、おじいちゃんらしい言葉だ。

でも——その温かさは、「凛の味を知っている人間の温かさ」だったのだ。

あの味を知っている。あの衝撃を知っている。「世界を幸せにする力」を知っている。それを知った上で——私に「みんなを幸せにする力がある」と言ってくれた。

おじいちゃんは、私に——期待してくれていたのだろうか。

それとも——私では届かないことを、知っていたのだろうか。

「いつか二人が出会ったら、面白いだろうな」と日記に書いていた。「そんなことは起きないかもしれないが。夢みたいな話だ」と。

出会った。おじいちゃん。出会ったよ。

面白くなんかない。面白くなんか——全然ない。

おじいちゃん。

おじいちゃんは——私のお菓子を食べる時、心のどこかで——凛の味と比べていたの?

「うまかった」と日記に書きながら——「でもあの味には及ばない」と思っていたの?

私の笑顔が一番のデザートだと書いたのは——私のお菓子がデザートになれないから、笑顔で補ったの?

違う。そんなわけがない。おじいちゃんは——そんな人じゃない。

でも——日記の文字は動かない。

「みんなを」と「世界を」は——同じページに書かれている。

その事実は——消えない。

 

どれくらい座り込んでいたのかわからない。

雨が少し弱くなった。窓の外が、灰色から白に変わっている。

下から——おばあちゃんの声が聞こえる。

「おじいちゃん——ありがとうね。凛ちゃんを連れてきてくれて……」

まだ泣いているのだろう。嬉しくて。おじいちゃんへの感謝で。

おじいちゃんが何年も探して、見つけられなかった子が——ここにいる。それはおばあちゃんにとって、おじいちゃんからの最後の贈り物のようなものなのだろう。

贈り物。

凛は——おじいちゃんからの贈り物。

私は——

私は、誰からの贈り物でもない。両親が手放した子。おばあちゃんが拾ってくれた子。

拾ってくれた。

その言い方は——ひどいかもしれない。おばあちゃんは「拾った」なんて思っていない。「愛は宝物だよ」と言ってくれた。

宝物。

タカラ。

カフェの名前が——「タカラ」。

おじいちゃんがつけた名前だ。宝物という意味。何が宝物なのか——おばあちゃんと過ごす時間が宝物だと、おじいちゃんは言っていた。

凛の味は——おじいちゃんにとって、もうひとつの「タカラ」だったのかもしれない。

死ぬまで追い求めた味。人生の宝だと書いた味。

私は——おじいちゃんの宝物に、なれていたのだろうか。

なれていたと思いたい。あの笑顔は本物だったと思いたい。「愛の笑顔が一番のデザートだ」は、本心だったと思いたい。

でも——もう確かめられない。おじいちゃんはいない。日記の文字だけが残っている。文字は答えてくれない。「あれはどういう意味だったの」と聞いても、ページは白いまま何も返さない。

死者の言葉は訂正されない。

解釈だけが——残される者の手に委ねられる。

そして私は——一番つらい解釈を、選んでしまう。

おじいちゃんが優しかったから。おじいちゃんが嘘をつかない人だったから。だから——「おいしい」も本心だったのだろう。

でも——「あの味には及ばない」も本心だったのだろう。日記に書かれている以上。数年にわたって探し続けた以上。

どちらも本心。どちらも嘘じゃない。

おじいちゃんは——私を愛してくれていた。私のお菓子を喜んでくれていた。

それと同時に——凛の味に心を奪われていた。凛の才能に打たれていた。

二つの感情は矛盾しない。両立する。おじいちゃんの中では、きっと何の矛盾もなかった。

でも——残された私の中では、矛盾している。

「一番」が——二つあるのだ。

私のお菓子は「みんなを幸せにする」。凛のお菓子は「世界を幸せにする」。

どちらが上か。比べるものではないと頭では思う。でも——比べてしまう。比べずにいられない。

「みんな」は「世界」の中に含まれる。「世界」が「みんな」を包含する。つまり——

凛のお菓子は、私のお菓子ができることを、全部できる。その上で、もっと先に行ける。

私のお菓子にできて凛のお菓子にできないことは——ない。

上位互換。

その言葉が、冷たい刃のように頭に浮かんだ。

私は——凛の下位互換なのだ。

おじいちゃんは——それを知っていた。知った上で、私を愛してくれた。知った上で、「みんなを幸せにする力がある」と言ってくれた。

それは——優しさだ。

優しさであり——限界の宣告でもある。

「みんなを」が、私の限界。

「世界を」には——届かない。

おじいちゃんは——知っていた。

知っていて——何も言わなかった。

それが——おじいちゃんの優しさだった。

その優しさが——今、一番つらい。

 

机の引き出しを開けた。

星のクッキーが——まだあった。ラップに包まれた、カチカチの、ガタガタのアイシングの、星。

手に取った。

おじいちゃんが「きれいだね」と言ってくれたクッキー。仏壇に飾って、一週間後に食べてくれたクッキー。「おいしい」と笑ってくれたクッキー。

おじいちゃんがこのクッキーを食べた時——心の中では、何を思っていたのだろう。

「愛が作ってくれた。嬉しい」と思ってくれていたのだろう。それは本当だろう。

でも同時に——「あの桜庭の子なら、もっとすごいものを作るだろうな」と——

思っていたかもしれない。

思っていなかったかもしれない。

わからない。もう永遠にわからない。

星のクッキーを——握った。

ラップ越しに、固い生地が手のひらに当たる。

強く握った。

ぱきり、と音がした。

クッキーが——割れた。

ラップの中で、星が二つに割れた。

手を開いた。ラップの中に、割れた星のかけらが二つ。ピンクのアイシングが剥がれて、生地の茶色が見えている。

割れてしまった。

おじいちゃんとの、最後のクッキーが。

「…………」

声が出なかった。

手のひらの上の、割れたクッキーを見つめた。

泣かない。泣いたら——本当に終わる。

泣いたら——おじいちゃんの「おいしい」が、全部嘘だったと認めることになる。

泣かない。

泣かないで。

お願いだから——

雨が——また強くなった。

窓を叩く雨粒が、私の代わりに泣いているみたいだった。

割れたクッキーを——引き出しに戻した。捨てられなかった。割れても。もう食べられなくても。おじいちゃんの「きれいだね」がくっついている限り——捨てられなかった。

引き出しを閉めた。

床に座ったまま——壁に頭をつけて——目を閉じた。

暗闇の中で——おじいちゃんの声が聞こえる。

「愛のスイーツは、みんなを幸せにする力があるねぇ」

「あの子の菓子には、世界を幸せにする力がある」

二つの声が——重なって——消えていく。

雨は——まだ、降り続いていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。