雨が上がった翌朝、私はカフェに出なかった。
「おばあちゃん、今日ちょっと体調悪いから、休んでいい?」
「あらあら、大丈夫かい? 昨日から頭が痛いって言ってたもんねぇ。ゆっくり休みなさい」
おばあちゃんが心配そうに私のおでこに手を当てた。熱はない。おばあちゃんもそれはわかったはずだ。でも、何も言わなかった。「ゆっくりね」と言って、カフェに向かっていった。
凛が「お姉さん大丈夫?」と廊下で声をかけてくれた。
「うん。大丈夫。ちょっと疲れただけ」
「無理しないでね。今日は私がやっておくから」
私がやっておくから。
その言葉に——もう、何も感じなかった。感じないことに気づいて、それが一番怖かった。数日前なら胸がちくりとしたはずだ。「私のキッチンなのに」と思ったはずだ。でも今は——何も。
凛の足音が階段を降りていく。カフェのドアが開く音。おばあちゃんの「凛ちゃん、おはよう」という声。コーヒーミルのゴリゴリという音。包丁のトン、トン、トンという音。
いつもの朝の音が——下から聞こえてくる。
私がいない朝の音。
私がいなくても鳴る音。
布団を頭までかぶった。
一日中、部屋にいた。
何もしなかった。本を読む気になれない。スマートフォンを見る気にもなれない。ただ布団の中で、天井を見たり、壁を見たり、窓の外を見たりしていた。
昼過ぎに、おばあちゃんが昼ごはんを持ってきてくれた。おにぎりと味噌汁。味噌汁は凛が作ったものだろう。鰹節の出汁の香りがする。
「食べられそう?」
「うん。ありがとう」
おにぎりを一つ食べた。おいしかった。誰が握ったのかはわからない。おばあちゃんかもしれないし、凛かもしれない。どちらでもいい。どちらでも——同じだ。
味噌汁を一口飲んだ。
おいしかった。
当たり前だ。凛の味噌汁はおいしいのだ。鰹節から取った出汁は、顆粒だしとは深みが違う。
——私の味噌汁は、もうこの家の食卓に並ぶことはないのだろう。
並べる必要がないのだ。凛の味噌汁がある限り。わざわざ劣った味噌汁を出す理由がない。誰もそんなことは言わない。誰も「愛の味噌汁はもう要らない」なんて言わない。ただ——作る機会が来ないだけだ。
来ないだけ。ないだけ。
そういう形で、静かに、消えていく。
「カフェ、今日もお客さん来てるよ。十人くらい。凛ちゃんがよくやってくれてるよ」
おばあちゃんがにこにこしながら報告してくれた。
十人。私がいない日に、十人。
「すごいね」
「愛が元気になったら、また一緒にやろうね」
「うん」
また一緒にやろう。
何を——やるのだろう。
水を運ぶ。皿を下げる。会計をする。
それを——「一緒にやる」と言うのだろうか。
おばあちゃんが部屋を出て行った後、味噌汁の残りを飲み干して、お椀を枕元に置いた。
天井を見た。
おじいちゃんが選んだ木の、おじいちゃんが見ていた天井。
私も——同じ天井を見ている。
同じ天井の下に住んで、同じ空気を吸って、同じ家で暮らして。
なのに——おじいちゃんが遺したものは、私ではなく凛に届いた。
おじいちゃんの味の記憶。おじいちゃんの情熱。おじいちゃんの「宝物」。
全部——凛のところに流れていく。
私は——ここにいるのに。
翌日も、カフェに出なかった。
おばあちゃんは心配したけれど、「まだちょっと」と言えば、それ以上は追及しなかった。おばあちゃんは優しいから。無理強いしない人だから。
でも——もしかしたら、追及する必要がないのかもしれない。
私が休んでも、カフェは回る。おばあちゃんは困らない。凛がいるから。
困らないから——追及する必要がない。「ゆっくりしてなさい」と言えるのは、いなくても大丈夫だからだ。
三日目。
四日目。
五日目。
カフェに出ない日が続いた。
毎朝、おばあちゃんが「今日は出られそう?」と聞いてくれる。「まだちょっと」と答える。おばあちゃんが「そう。無理しないでね」と言う。
このやり取りが——日課になっていく。
五日目の夕方、おばあちゃんの声のトーンが少し変わった。
「愛。本当に体調が悪いのかい?」
ドアの向こうから、おばあちゃんの声がする。いつもより——低い。心配ではなく、確認の声。
「……うん」
「嘘じゃないね?」
「……嘘じゃないよ」
嘘だった。体はどこも悪くない。頭も痛くないし、熱もない。食欲だって——ないけど、食べられないわけではない。
体が悪いのではなく——心が動かないのだ。
カフェに行く理由が見つからない。行って何をするのか。水を運ぶ。皿を下げる。会計をする。凛の料理がおいしいと言われるのを横で聞く。おばあちゃんと凛が息の合った動きでキッチンを回すのを見る。
それを——できない。
できない、のではなく——したくない。
したくない、のではなく——
怖い。
あの場所に行くのが——怖い。
自分の居場所がないことを、改めて確認してしまうのが怖い。皿を運びながら、ここに自分がいる意味がないと気づいてしまうのが怖い。凛の「おいしいよ」とおばあちゃんの「おいしいよ」の温度差を、また測ってしまうのが怖い。
だから——部屋にいる。
部屋にいれば、何も見なくて済む。何も聞かなくて済む。何も——比べなくて済む。
「……おばあちゃん」
「ん?」
「ごめんね」
「謝ることないよ。愛は何も悪いことしてないんだから」
おばあちゃんの声が——優しかった。いつもの、温かい、おばあちゃんの声。
でも——その優しさの向こうに、もう一つの声が聞こえた。カフェの方から。凛の声。「おばあさん、そろそろ閉店ですけど、明日の仕込みどうしますか?」
おばあちゃんが「はいはい、今行くよ」と答えて、私の部屋のドアの前から離れていった。足音が階段を降りていく。
カフェの方から、二人の声が聞こえる。明日の仕込みの相談。メニューの確認。食材の発注。
全部——凛とおばあちゃんで決まっていく。
私がいない場所で。
私がいなくても。
六日目の朝。
布団の中で目を開けると、部屋の空気が重かった。
窓を開けていないから当然だ。三日くらい前から、窓を開ける気力がない。カーテンも閉めっぱなし。部屋の中は薄暗くて、時間の感覚がぼんやりしている。
朝なのか昼なのかわからないまま、しばらく天井を見ていた。
ふと——自分の手を見た。
布団から出した右手。少し前まで赤く荒れていた手。毎日料理をしていた手。包丁を握っていた手。泡立て器を回していた手。
荒れが——治りかけていた。
キッチンに立たなくなって六日。水仕事をしなくなって六日。手が——回復している。
手の甲が少し白くなって、指先のひび割れが塞がりかけている。小さな火傷の跡は消えていないけれど、新しい傷は増えていない。
きれいになっていく。
料理をしない手は——きれいになっていく。
凛の手みたいに。白くて、細くて、傷のない——
違う。凛の手は毎日料理をしていてもきれいだ。ハンドクリームを塗っているから。手のケアをしているから。「手は道具だから」と言っていた。
私の手は——何もしなくなったから、きれいになりかけている。
何もしない手。
何も作らない手。
何も——生み出さない手。
手を布団の中に戻した。
七日目。
ノックの音で目が覚めた。
おばあちゃんではなかった。ノックの仕方が違う。おばあちゃんはコンコンと柔らかく叩く。このノックは——もっと短くて、はっきりしている。
「お姉さん、起きてる?」
凛だった。
「……起きてるよ」
「入っていい?」
「……うん」
ドアが開いた。凛が入ってきた。手に——お皿を持っている。
フレンチトースト。
「朝ごはん。お姉さんの好きなやつ、聞いたから」
好きなやつ。おばあちゃんに聞いたのだろう。私がフレンチトーストが好きだと。
凛が机の上にお皿を置いた。フレンチトースト二枚。粉糖が振ってあって、横にベリーソースが添えてある。私が作る時はメープルシロップだけだったけど、凛はベリーソースを作ったらしい。
きれいだった。
朝ごはんのフレンチトーストなのに——作品みたいだった。
「食べて。冷めるとおいしくなくなるから」
凛がベッドの端に腰を下ろした。遠慮なく座るその仕草が、猫みたいだと思った。
「……ありがとう」
フォークを手に取った。フレンチトーストを切る。断面がふわふわで、卵液がしっかり染みている。口に入れた。
バニラの香り。
バニラ——私がいつも入れている、バニラエッセンスの香り。
「おばあさんに聞いた。バニラエッセンス入れるんでしょ、お姉さんのフレンチトースト」
凛が——私のレシピを再現した。
私の「特別」を。おばあちゃんが「愛のフレンチトーストは特別だねぇ」と言ってくれた、あのバニラの香りを。
凛が——再現した。
おいしかった。
私が作るフレンチトーストより——おいしかった。
同じバニラエッセンスを使って、同じレシピで——凛が作った方が、おいしい。卵液の染み込み方が均一で、焼き加減が完璧で、パンの食感がしっとりとカリッの境目を完璧に突いている。ベリーソースの酸味がバニラの甘さを引き立てている。
私の「特別」が——凛の手にかかると、もっと「特別」になる。
私だけの味だと思っていたものが——私でなくても作れる。私より上手に。
「……おいしい」
「よかった」
凛が少し笑った。いつもの、猫が日向で目を細めるような笑み。
フレンチトーストを食べ終えた。皿の上には何も残っていない。ベリーソースまできれいに拭き取ってしまった。おいしかったから。
おいしかったのに——おなかの底が、冷たかった。
「ねえ、お姉さん」
凛が——真っ直ぐ私を見ていた。
猫みたいな目。大きくて、くるくるしていて、でも今は——どこか真剣な光がある。
「ほんとに体調悪いの?」
「……え?」
「一週間も。熱もないのに」
凛の目が——見透かしている。
この子は——鋭い。最初から鋭かった。料理の味を正確に分析し、オーブンの癖を半日で掴み、人の感情を——
「お姉さんが休み始めたの、おじいさんの日記を読んだ次の日からでしょ」
心臓が——止まりかけた。
「……関係ないよ」
「嘘」
凛が即座に言い切った。生意気な口調で。でもその目は——怒っていなかった。
「お姉さん、私が来てから——ずっと辛そうだった」
「そんなことない」
「ある。最初に会った時から。私のオムライスを食べた時の顔、覚えてるよ。おばあさんのコーヒーを飲んだ時の私の反応を見てた顔も。フィナンシェの時も。ダコワーズの時も。アイシングの時も。全部——」
「やめて」
声が出た。自分でも驚くほど鋭い声が。
凛が——口をつぐんだ。
部屋が静かになった。窓の外で、蝉が鳴いている。いつの間にか夏が戻っていた。雨の後の蝉は、いっそう激しく鳴く。
「……ごめん。大きい声出して」
「ううん。私こそ——ごめん」
凛が——目を伏せた。
「私——ちょっと、自分のことしか見えてなかった。おばあさんが喜んでくれるのが嬉しくて、お客さんが増えるのが楽しくて。お姉さんがどう感じてるか——ちゃんと考えてなかった」
「凛ちゃんは何も悪くないよ」
「それ、やめてほしい」
凛が顔を上げた。目が——赤い。
「『何も悪くない』って言われるの、一番きつい。私が悪くないなら、お姉さんが苦しんでる原因がどこにもないことになるじゃん。でも苦しんでるのは事実でしょ。なら原因はどこかにあるはずで——私がその一部じゃないなんて、嘘でしょ」
凛の言葉は——正確だった。
刃物のように正確で、刃物のように鋭くて、刃物のように——痛かった。
でも——嘘ではなかった。何一つ、嘘ではなかった。
「…………」
言葉が出なかった。
何を言えばいいのかわからなかった。凛を責めたいわけじゃない。凛を嫌いなわけじゃない。凛のことは——たぶん、好きだ。いい子だと思う。真っ直ぐで、正直で、才能があって、おばあちゃんを大事にしてくれて。
でも——凛がいるだけで、私のすべてが消えていく。
それを——どう言えばいいのか。
「お姉さん」
「……なに」
「私——お母さんとケンカした理由、ちゃんと言ってなかったよね」
唐突な話題の転換に、少し戸惑った。
「お母さんは世界的なパティシエで、私にも同じ道を歩かせたがってて。技術は教えてくれた。たくさん。でも——私が自分で考えたレシピを持っていくと、いつもダメ出しされた。『基本ができてない』『素材を理解してない』『まだ早い』って」
凛が——膝の上で、自分の手を見ていた。白くて、細くて、傷のない手。
「お母さんの言うことは全部正しかった。技術的には、全部正しかった。でも——私が作りたいものと、お母さんが作らせたいものが違った。私は——お母さんのコピーになりたくなかった。お母さんの味を再現する機械になりたくなかった」
凛の声が——少しだけ震えていた。いつもの自信に満ちた声ではなく、固い殻の内側にある、柔らかい部分の声。
「だから家出したの。バカみたいでしょ。世界的なパティシエが母親で、何でも教えてもらえる環境にいて。お姉さんから見たら——贅沢な悩みだよね」
「……そんなこと——」
「思ってるでしょ。少しは」
凛が——少しだけ笑った。自嘲的な笑み。
「私は——お母さんの娘である前に、自分でいたかった。桜庭紗英の娘じゃなくて、桜庭凛として。でも——どこに行っても、何を作っても、『お母さん譲りだね』って言われる。私の味じゃなくて、お母さんの味のコピーだって」
凛が——唇を噛んだ。
「おじいさんの日記に書いてあった『桜庭の子』——あれ、読んでて苦しかった。おじいさんが感動してくれたのは嬉しい。でも——あの時の私が作ったものは、お母さんに教わった通りのレシピで、お母さんのやり方を完璧に再現しただけのもの。七歳の私に、自分のオリジナルなんてなかった。おじいさんが追い求めてた味は——私の味じゃない。お母さんの味だった」
凛の声が——静かに落ちていった。
「私は——自分の味を、まだ持ってない」
その言葉が——部屋の空気の中に溶けていった。
蝉の声。遠いカフェの物音。おばあちゃんがカップを洗う音。
凛が——私を見た。
「お姉さんのフレンチトースト、バニラエッセンスを入れるの——誰かに教わったの?」
「……ううん。自分で思いついた。何回か作ってるうちに、入れたらおいしいかもって」
「それ」
凛が——指を立てた。
「それが——私にはないもの」
「え?」
「自分で思いついて、自分で試して、自分の答えを見つけること。私はいつもお母さんの正解をなぞってきた。『バニラエッセンスを入れたらおいしいかも』って自分で閃いて、実際にやってみて、それが自分の味になる——そういう経験が、私にはほとんどない」
凛が——自分の手を握った。
「お姉さんは独学でしょ。全部自分で考えて、自分で失敗して、自分で覚えた。それって——すごいことだと思う。私には——できないことだと思う」
「……でも、結果は——」
「結果は私の方が上手いよ。それは認める。技術的には、今の私の方が上。でも——技術と味は違う。技術は教われる。味は——自分で見つけるしかない」
凛が立ち上がった。
「お姉さん。私は——お姉さんのお菓子をちゃんと食べたことがない。シフォンケーキは食べた。でも——お姉さんが本当に作りたいもの、お姉さんの一番のお菓子は、まだ食べてない」
「……一番のお菓子なんて——」
「あるでしょ。一番好きなやつ。一番気合入れて作るやつ。一番——自分らしいやつ」
自分らしいお菓子。
一番好きなお菓子。
考えた。考えようとした。でも——頭の中は白いままで、何も浮かばなかった。
以前なら——すぐに答えられた。アイシングクッキー。星の形の、うさぎの形の、花の形の。色を選んで、模様を描いて、ひとつひとつ丁寧に仕上げていく、あのクッキー。
でも今は——
「……わからない」
「わからない?」
「自分らしいお菓子が何なのか——わからなくなっちゃった」
声が震えた。
初めて——凛の前で、声が震えた。
凛が——何かを言いかけて、止まった。
しばらく黙っていた。
それから——小さく息を吐いて、ドアに向かった。
「……わからないなら、見つければいい。私もまだ見つけてないから。一緒に探せばいいじゃん」
ドアの前で振り返った。
「お姉さん。私は——お姉さんの敵じゃない。でも——お姉さんにとって辛い存在なのは、わかってる。わかってて、ここにいる。ごめんね。でも——おばあさんのこと、好きだから。ここが——好きだから」
凛の目が——赤かった。泣いてはいなかった。泣くのを堪えているのかもしれなかった。
「ごめんね」
もう一度そう言って、凛は部屋を出て行った。
ドアが閉まった。
凛の足音が廊下を歩いていく。階段を降りていく。カフェのドアが開く音。おばあちゃんの「あら、凛ちゃん」という声。
日常が——続いていく。
私の部屋の外で。
一人になった部屋で、私はベッドに座ったまま動けなかった。
凛の言葉が——頭の中で反響している。
「技術は教われる。味は——自分で見つけるしかない」
「お姉さんが本当に作りたいもの、お姉さんの一番のお菓子は、まだ食べてない」
「わからないなら、見つければいい」
優しい言葉だった。凛なりの——不器用だけど、真っ直ぐな優しさだった。
でも——
その優しさを受け取る場所が、今の私にはなかった。
凛は言った。「自分の味をまだ持ってない」と。それは凛の苦しみで、凛の真実だろう。
でも——凛の「自分の味を持っていない」と、私の「自分の味を持っていない」は、意味が違う。
凛は、世界最高峰の技術を持った上で、まだ自分のオリジナルを模索している。基盤がある。土台がある。何を作っても一定以上のクオリティが保証される実力がある。その上で、「もっと先」を探している。
私は——基盤がない。土台がない。独学で積み上げたものは、凛の「普通」に及ばない。何を作っても、凛の足元にも及ばない。
凛の「見つかっていない」は——高い山の頂上付近で、さらに高い峰を探しているということだ。
私の「見つかっていない」は——そもそも山に登れていない。
登れていないのに、何を探すのだろう。
「一緒に探せばいいじゃん」
一緒に。
凛と一緒に。
凛の隣で、同じ方向を見て、同じものを探す。
でも——見えている景色が違う。凛の目に映る世界と、私の目に映る世界は、同じ場所に立っていても——まるで違うものだ。
一緒になんか——探せない。
一緒にいたら——また比べてしまう。
また——自分の小ささを、思い知ってしまう。
「……ごめんね、凛ちゃん」
誰もいない部屋で呟いた。
凛が泣きそうな顔で「ごめんね」と言ってくれた。それに対して、私は何も返せなかった。「いいよ」とも「大丈夫だよ」とも言えなかった。
何も——返せなかった。
凛は悪くない。
おばあちゃんも悪くない。
常連さんも悪くない。
おじいちゃんも悪くない。
誰も悪くない。
誰も悪くないのに、私だけが——ここにいる。
暗い部屋の中で。閉めきった窓の向こうで蝉が鳴いていて。夏の光が——カーテンの隙間から細く差し込んでいて。
その光が——眩しいのに、カーテンを開ける気になれない。
光の中に出たら——また、凛の隣に立つことになる。
凛の隣に立ったら——また、自分の影の薄さを知ることになる。
だから——ここにいる。暗い部屋の中に。
ここにいれば——誰とも比べなくて済む。
誰にも「おいしい」と言わなくて済む。
誰の「おいしい」の温度も——測らなくて済む。
八日目の朝。
目が覚めた時、最初に感じたのは——空腹だった。
昨日の夕飯を食べていなかった。おばあちゃんが持ってきてくれたけど、「ありがとう、後で食べるね」と言って、結局手をつけなかった。
おなかが鳴った。ぐう、と、情けない音。
空腹は——正直だ。心がどれだけ沈んでいても、体はごはんを求める。
起き上がった。
ふらっとした。数日間ほとんど動いていなかったから、立ちくらみがする。壁に手をついて、ゆっくり立ち上がった。
部屋の中を見回した。
薄暗い。窓の外は明るいのに、カーテンが閉まっているから。空気がこもっている。蒸し暑い。
カーテンに手をかけた。
開けようとして——止まった。
開けたら、カフェが見える。カフェの窓が見える。その中で、おばあちゃんと凛が笑っているのが——見えてしまうかもしれない。
手を下ろした。
カーテンは閉めたまま、部屋を出た。
廊下を歩いて、階段を降りる。キッチンに行けば何か食べられる。おにぎりの残りか、パンか——
キッチンに入った瞬間、足が止まった。
テーブルの上に——ラップのかかったお皿が置いてあった。
フレンチトースト。
付箋が貼ってある。
小さな字。凛の字だ。丸くて、でもどこか角張った、几帳面な字。
「おねえさんへ。バニラエッセンス多めにしました。レンジで温めてね。——凛」
凛が——また、作ってくれた。
私が部屋から出てこないから。私が食べていないから。
凛は——知っている。私が辛いことを。私が凛のせいで辛いことを。それを知った上で——フレンチトーストを作っている。
私が好きだと聞いた味を。私の「特別」を再現して。バニラエッセンスを多めにして。
優しい。凛は——優しい子だ。生意気で、正直で、容赦なくて、でも——根っこの部分は、優しい。
その優しさが——つらい。
ラップを外して、レンジに入れた。温めている間、キッチンの窓からカフェの方を見た。
のれんが揺れている。開店しているのだ。中から、おばあちゃんの笑い声が聞こえる。お客さんが来ているのだろう。
レンジが鳴った。
フレンチトーストを取り出して、テーブルに座った。
フォークで切って、口に入れた。
バニラの香り。多めに入れたと書いてあった通り、いつもより甘い香りが強い。それが——優しくて、泣きそうになった。
一枚食べた。もう一枚食べた。全部食べた。
おいしかった。
私が作るよりも——おいしかった。
でも——食べ終えた後、空っぽのお皿を見つめながら、思った。
凛が作ったフレンチトーストを食べて——おいしいと思った。それは事実だ。
でも——私が食べたかったのは、凛のフレンチトーストだろうか。
違う。
私が食べたかったのは——自分のフレンチトーストだった。
自分で作った、自分の味の、自分のフレンチトースト。バニラエッセンスを自分で入れて、自分で焼いて、おばあちゃんに「おいしいよ、愛」と言ってもらう——あのフレンチトースト。
でも——今の私には、それを作る気力がない。
気力が——ない。
おばあちゃんに「おいしいよ」と言ってもらっても、凛のフレンチトーストの方がおいしいとわかっている。わかっていて作るのは——自分をわざと傷つけるようなものだ。
作れない。作りたいのに。作りたいのに——作れない。
空のお皿を流しに持っていった。洗った。水の音。さらさらという音。
前は——この音に集中すれば、他のことを考えなくて済んだ。
今は——水の音の向こうに、カフェの笑い声が聞こえる。
止められない。
何も——止められない。
皿を洗い終えて、手を拭いた。
手を——見た。
きれいになっていた。荒れが、ほとんど治っていた。
料理をしていない手。お菓子を作っていない手。何も生み出さない手。
きれいで——何もない手。
その手で——自分の頬に触れた。
涙は流れていなかった。
でも頬は——冷たかった。
キッチンを出て、階段を上がって、部屋に戻った。
ドアを閉めた。
また——暗い部屋。
またここに戻ってきた。
ベッドに座って、膝を抱えた。
窓の外で、蝉が鳴いている。
夏が——もうすぐ終わる。
終わったら——学校が始まる。
学校が始まったら——また毎日、この家とあのカフェの間を行き来する日々が来る。
でも——あのカフェには、もう私の場所がない。
学校にも——友達はほとんどいない。山奥に住んでいるから。放課後に遊ぶ相手がいなかったから。カフェの手伝いがあったから、寂しくなかったのだ。
カフェの手伝い——
それがなくなった今、私には——
何がある?
おばあちゃん。
おばあちゃんがいる。おばあちゃんは私を愛してくれている。それは——変わらないはずだ。凛が来ても。カフェが変わっても。おばあちゃんは——私のおばあちゃんだ。
でも——おばあちゃんの時間は、今、凛で埋まっている。
朝から晩まで。カフェの開店前から閉店後まで。コーヒーの話。料理の話。おじいちゃんの話。メニューの話。改装の話。全部——凛と。
私は——部屋にいる。
ここにいるのに。
この家にいるのに。
おばあちゃんの孫なのに。
ここにいるのに——いないのと同じだ。
いないのと、同じ。
膝に顔をうずめた。
泣かない。
泣かない。
泣いたら——
泣いたら——どうなるのだろう。
泣いたら——誰かが来てくれるのだろうか。
おばあちゃんが来てくれるだろうか。「どうしたの、愛」と言って、抱きしめてくれるだろうか。
来てくれるかもしれない。おばあちゃんは優しいから。
でも——来てもらって、どうするのだろう。
「凛ちゃんがいるのが辛い」と——言えるだろうか。
言えない。
言ったら——おばあちゃんを困らせる。おばあちゃんは凛を追い出せない。追い出す理由がない。凛は何も悪くない。おばあちゃんは凛が好きだ。カフェも凛のおかげで繁盛している。おじいちゃんが探していた子だ。
私が「辛い」と言ったら——おばあちゃんは、凛と私の間で板挟みになる。
それは——おばあちゃんを苦しめることだ。
おばあちゃんを苦しめることだけは——したくない。
だから——言えない。
だから——ここにいる。
暗い部屋の中で。膝を抱えて。一人で。
泣けたら楽なのかもしれない。でも——涙が出ない。涙が出るほどの感情すら——もう残っていない気がする。
残っているのは——ただ、重い。
体が重い。心が重い。空気が重い。
何もかもが——重い。
その重さの中に沈んでいく。
ゆっくり。
静かに。
誰にも気づかれずに。
窓の外で——ひぐらしが鳴き始めていた。
夕方だ。もう——一日が終わる。
何もしない一日が——また、終わる。
明日も——たぶん——同じだ。
明後日も。
その次も。
ずっと。
おばあちゃんの「今日は出られそう?」が聞こえて、「まだちょっと」と答える。おばあちゃんが「そう」と言って去っていく。カフェから笑い声が聞こえる。凛の包丁の音が聞こえる。
私は——ここにいる。
ここにいるのに。
誰にも——見えていない。
ひぐらしの声が——暗くなった部屋に染み込んでいく。
夏が——終わろうとしていた。