夏休みが、残り三日になった。
数えたわけではない。カレンダーが目に入っただけだ。八月二十九日。三十一日で夏休みが終わる。九月一日から、学校が始まる。
学校。
あの場所のことを、しばらく考えていなかった。教室。机。黒板。クラスメイト。先生。給食。全部が遠い世界のことのように思える。
部屋から出なくなって——もう十日以上が経っていた。正確な日数はわからない。数えるのをやめたから。
おばあちゃんは毎朝「今日は出られそう?」と聞いてくれていたけど、三日前から聞かなくなった。代わりに、ドアの前に朝ごはんを置いていくようになった。ノックして、「ここに置いておくからね」とだけ言って、去っていく。
追及しないのは——優しさだろうか。
それとも——諦めだろうか。
どちらでもいいと思った。どちらでも——結果は同じだから。
八月二十九日の午後。
部屋の中でぼんやりしていると、階下から物音がした。いつものカフェの営業音ではない。もっとばたばたした音。何かを運んでいるような、重いものを引きずるような音。
気にならないふりをした。でも音は続いた。おばあちゃんの声。凛の声。それから——知らない男の人の声。
何かが——起きている。
好奇心ではなかった。ただ、音がうるさくて横になっていられなかっただけだ。
部屋を出て、階段の上から下を覗いた。
玄関が開いていて、作業着を着た男の人が二人、大きな板を運び込んでいた。木材だ。カンナで削られた真新しい木の匂いが、階段の上まで漂ってくる。
「こっちに置いてください。ありがとうございます」
凛が指示を出している。作業着の人が頷いて、板を居間の隅に立てかけた。
「愛?起きてたの?」
階段の下からおばあちゃんが見上げた。
「……何やってるの?」
「カフェの改装の続きでねぇ。テイクアウトの窓口を広げるのと、あと——」
おばあちゃんが嬉しそうに笑った。
「スイーツ用のショーケースを入れることになったんだよ」
ショーケース。
「凛ちゃんのお菓子が人気で、テイクアウトで買いたいっていうお客さんが増えてねぇ。ガラスのショーケースを置いて、焼き菓子を並べようって話になったの」
ショーケース。
ガラスのショーケース。焼き菓子を並べる。凛の焼き菓子を。フィナンシェ。マドレーヌ。ダコワーズ。アイシングクッキー。
ショーケース。
「いつか、カフェの隣に小さなスペースを作って、そこで作ったお菓子をお店に出せたらいいな」
私の夢が——聞こえた。頭の奥で。遠い場所から反響してくる、かつての自分の声。
小さなスペース。お菓子を並べる場所。
それが——ショーケースという形で、実現しようとしている。
私のお菓子ではなく——凛のお菓子で。
「それでね、凛ちゃんがすごいのよ。ショーケースのデザインまで考えてくれて——」
おばあちゃんの声が続いていたけれど、途中から聞こえなくなった。耳に膜が張ったみたいに、音が遠くなって、自分の心臓の音だけが聞こえる。
どくん。どくん。どくん。
「愛?大丈夫?」
「……うん。大丈夫」
「降りておいで。一緒に見よう?」
「……あとで」
部屋に戻った。
ドアを閉めた。
ベッドに——座れなかった。床に崩れるように座り込んだ。
ショーケース。
ガラスの。
お菓子を並べる。
凛の。
あのカフェに。
おじいちゃんが作ったカフェに。
私が——「いつか」と思っていた場所に。
「いつか」は——来なかった。
「いつか」が来る前に——凛の「今」が来てしまった。
私がずっと「まだ」と言い続けている間に。「まだそのレベルじゃない」と後退り続けている間に。勇気が出るのを待ち続けている間に。
凛が——やってしまった。
やってしまった、という言い方は正しくない。凛は正当な実力で、正当な評価を得て、正当な場所を手に入れた。
私が手に入れられなかった場所を。
私が欲しかった場所を。
夢。
夢は——もう、叶わない。
叶わないのではない。叶う場所が——もうない。
カフェの中に、ショーケースができる。そこには凛のお菓子が並ぶ。世界的なパティシエの娘が作る、完璧なフィナンシェやマドレーヌやダコワーズが。
その横に——私のアイシングクッキーが並ぶ余地があるだろうか。
ある。物理的にはある。ショーケースに空きスペースがあれば、並べることはできる。
でも——並べられるだろうか。凛のダコワーズの隣に、私のクッキーを。
並べたら——比べられる。
比べられたら——
「…………」
目を閉じた。
夢の形を思い出そうとした。
カフェの隣の小さなスペース。手作りの棚に、私のお菓子が並んでいる。おばあちゃんが「愛のお菓子、おいしいよぉ」と言って、お客さんに勧めてくれる。お客さんが食べて、「おいしい」と笑ってくれる。
その風景は——もう、どこにもない。
カフェは大きくなった。お客さんは増えた。メニューは変わった。内装は変わった。ショーケースが入る。凛のお菓子が看板になる。
私が夢見ていた「タカラ」は——もう存在しない。
存在しないものの隣に、小さなスペースは作れない。
夕方。
階下の物音が落ち着いた頃、私はもう一度階段を降りた。
誰もいなかった。おばあちゃんと凛はカフェにいるのだろう。閉店後の片付けか、明日の準備か。
居間の隅に、木材が立てかけてあった。ショーケースの部材だろう。まだ組み立てていない。明日か明後日に組み立てるのかもしれない。
木の匂いがした。新しい木の匂い。おじいちゃんがカフェを建てた時も、こんな匂いがしたのだろうか。
カフェに続くドアの前に立った。
開けたら——カフェの中が見える。
手をかけた。
少しだけ——開けた。
隙間から、カフェの中が見えた。
新しいテーブル。新しい椅子。窓際のカウンター席。テイクアウト窓口。壁にかかった新しいメニュー表。凛が手書きしたイラスト入りのメニュー。
そして——カウンターの端に、おばあちゃんと凛が座っていた。
二人とも——カフェの中を見回していた。改装された店内を。変わっていくタカラを。
おばあちゃんが——微笑んでいた。
穏やかで、幸せそうで、少し泣きそうな微笑み。
「おじいちゃんに見せたかったねぇ……」
おばあちゃんの声が、隙間から聞こえた。
「おじいちゃんが夢見てた形に、近づいてる気がするよ……」
おじいちゃんが——夢見てた形。
知らなかった。おじいちゃんがカフェをどんなふうにしたかったのか——私は知らなかった。おじいちゃんが生きている間、私はただ「今のタカラ」を守ることしか考えていなかった。おじいちゃんのタカラを、そのまま残すことしか。
でも——おじいちゃんにも、夢があったのだ。
もっと大きくしたい。もっとたくさんの人に来てほしい。もっとおいしいものを出したい。
その夢を——凛が叶えようとしている。
おじいちゃんが見つけられなかった「桜庭の子」が、おじいちゃんのカフェを、おじいちゃんの夢の形に近づけている。
運命だと——おばあちゃんは言った。
運命なのかもしれない。本当に。
おじいちゃんが凛を引き合わせた。凛がカフェを変えた。おばあちゃんが笑っている。
それは——美しい物語だ。
その物語の中に——私は、いない。
いるはずだったのに。
おじいちゃんの代わりにカフェを守ると決めたのは私だったのに。おばあちゃんの隣にいると決めたのは私だったのに。
決めたのに——立てなくなった。キッチンに立てなくなった。カフェに出られなくなった。部屋から出られなくなった。
私が止まっている間に——世界が進んでしまった。
凛がキッチンに立った。メニューが変わった。お客さんが増えた。カフェが改装された。ショーケースが入る。
全部——私が部屋にいる間に。
私が——いない間に。
ドアを静かに閉めた。
カフェから離れて、階段を上がった。
自分の部屋に——戻ろうとして。
足が——おじいちゃんの部屋の前で止まった。
今は凛が使っている部屋。ドアが半開きになっていた。凛はカフェにいるから、中には誰もいない。
中を覗いた。
凛の荷物が部屋の隅にきちんと並べてあった。小さなリュック。着替えの入った袋。ハンドクリーム。ノート。ペン。
ノートが目に入った。凛が毎晩何かを書いていたノート。レシピノートだろうか。日記だろうか。
見てはいけない。
わかっている。他人のノートを覗くなんて、してはいけない。
でも——足が動いていた。
部屋に入って、ノートの前にしゃがみ込んだ。
表紙には何も書いていない。無地の青いノート。
手が——伸びた。
開いてしまった。
最初のページに、レシピが書いてあった。フィナンシェ。凛の字で、材料と手順が細かく書き込まれている。余白にメモが走り書きされている。「焦がしバターの温度を5度下げる」「アーモンドプードルの粒度を変えてみる」。研究ノートだ。
数ページめくる。ダコワーズ。マドレーヌ。シュークリーム。タルト。全部、レシピと改良メモが書かれている。
ページが進むにつれて——日付が入り始めた。ここに来てからの日付だ。
「八月○日。タカラのキッチンは狭いけど使いやすい。おばあさんのコーヒー用の道具が場所を取ってるから、動線を工夫する必要がある」
「八月○日。おにぎり定食を出した。常連の橋本さんが喜んでくれた。おばあさんも嬉しそうだった。ここの水でご飯を炊くとおいしい。山の水は柔らかい」
凛の日常。タカラでの日々。
ページをめくる手が——止まらなかった。
「八月○日。お姉さんがカフェに出てこなくなった。三日目。おばあさんは心配してるけど、無理に呼ばない方がいいと思う。お姉さんは——たぶん、私がいることが辛いんだと思う」
息が——詰まった。
「わかってる。最初からわかってた。お姉さんが私のオムライスを見た時の目。おばあさんのコーヒーに私が反応した時の、お姉さんの横顔。フィナンシェの時。ダコワーズの時。全部——見てた」
凛は——書いていた。
私のことを。
「でも——どうすればいいのかわからない。私が下手に作ればいいのか。わざと失敗すればいいのか。そんなことをしたらお姉さんを馬鹿にしていることになる。私にできるのは——私のベストを出すことだけ。でもそれが——お姉さんを傷つけている」
凛の字が——少し乱れていた。書きなぐったような箇所がある。消しゴムで消した跡もある。
「お母さんとのケンカを思い出す。私の『ベスト』が、誰かを苦しめる。お母さんの期待を背負うのが苦しくて逃げてきたのに、ここでもまた——私が私でいるだけで、誰かが苦しんでいる」
「八月○日。お姉さんの部屋にフレンチトーストを持っていった。バニラエッセンス。おばあさんに聞いた。お姉さんの特別なやつ。——再現してしまう自分が嫌だ。再現できてしまう自分が嫌だ。お姉さんの『特別』を、私が作れてしまうことが——申し訳ない」
凛が——「申し訳ない」と書いていた。
私のために。
「お姉さんと話した。泣きそうだった。お姉さんじゃなくて、私が。お姉さんは泣かなかった。泣かないお姉さんが——怖かった。泣いてくれた方がまだよかった。泣かないのは——もう泣く気力もないということだから」
ページが滲んでいた。
水滴の跡。丸く広がった染み。何箇所も。
凛は——泣きながら書いていた。
「私は——ここにいていいのかわからない。おばあさんは『いつまでもいていい』と言ってくれた。嬉しかった。ここが好きだ。おばあさんが好きだ。タカラが好きだ。でも——お姉さんを追い出してまでいたい場所なんてない」
「追い出してなんかいない、と自分に言い聞かせる。でも——結果的に、お姉さんの場所を奪っている。お姉さんのキッチンを、お姉さんの役割を、お姉さんのおばあちゃんの時間を。意図してないのに。意図してないから——余計にたちが悪い」
凛の——苦しみが、ノートの上に散らばっていた。
きれいな字と、乱れた字が交互に現れる。冷静な分析と、感情の奔流が混在している。
「八月○日。ショーケースの話をおばあさんにした。おばあさんが喜んでくれた。嬉しかった。でも——お姉さんに申し訳なかった。お姉さんがカフェの隣にお菓子のスペースを作りたがっていたこと、おばあさんから聞いた。それを——私が先にやろうとしている」
知っていたのだ。
凛は——私の夢を知っていた。
知っていて——ショーケースの話を進めた。
「おばあさんに聞いた。『愛もお菓子を並べたいって言ってたの?』って。おばあさんは『そうだよぉ、でも愛はまだ自信がないみたいでねぇ』と答えた。——ショーケースにお姉さんのお菓子も並べればいい、と思った。でも——今のお姉さんには言えない。言ったら——もっと傷つけてしまう」
凛は——考えていた。
私のことを。
私が部屋に閉じこもっている間、凛は——私のことを考えて、苦しんでいた。
ノートの最後のページに、こう書いてあった。
「もし——お姉さんが望むなら、私はここを出る。出るべきなのかもしれない。でも——出たくない。ここが好きだから。おばあさんが好きだから。お姉さんのことも——好きだから。お姉さんのシフォンケーキ、おいしかった。独学であそこまで作れるのは、本当にすごい。お母さんに教われば——なんて、前に言ったけど、違うかもしれない。お姉さんにはお姉さんの道がある。私が歩いてきた道とは、違う道が。その道の先に——お姉さんだけの味がある。私が逆立ちしても作れない味が。——そう信じたい。信じてる」
ノートを閉じた。
手が震えていた。
凛は——こんなことを書いていた。
こんなことを考えていた。
毎晩、このノートに向かって。ペンの音を立てながら。泣きながら。
私が隣の部屋で天井を見つめている時、凛は——私のことを書いていた。
ノートを元の位置に戻した。正確に。凛が置いていた角度と同じように。
部屋を出た。
廊下に立った。
自分の部屋に戻ろうとした。
でも——足が動かなかった。
凛のノートの言葉が頭の中で渦を巻いている。
「お姉さんを追い出してまでいたい場所なんてない」
「お姉さんのことも——好きだから」
「お姉さんだけの味がある。私が逆立ちしても作れない味が」
凛は——嘘をつけない子だ。ノートに嘘を書く子ではない。あれは——凛の本心だ。
凛は苦しんでいた。私と同じように。いや——私とは違う形で。
私は「奪われる側」の苦しみを感じていた。凛は「奪ってしまう側」の苦しみを感じていた。
どちらも——辛い。
どちらも——誰にも言えない。
凛は私に「ごめんね」と言った。二回。あの日、私の部屋で。
あの「ごめんね」の後ろに——ノート何ページ分もの苦しみがあったのだ。
自分の部屋に戻った。
ドアを閉めた。
——また、ここだ。
また暗い部屋。また閉めたカーテン。また、膝を抱えたベッドの上。
でも——少しだけ、何かが違った。
凛のノートを読んでしまった罪悪感。凛の苦しみを知ってしまった動揺。そして——凛が書いた言葉への、かすかな——何と呼べばいいのかわからない感情。
「お姉さんだけの味がある」
凛が——そう書いた。
私だけの味。
それが何なのか——わからない。凛にもわからないのだろう。「そう信じたい」と書いていた。確信ではなく、祈りのように。
私だけの味。
あるだろうか。そんなものが。
独学で覚えた、図書館の本のレシピを再現しただけの、おばあちゃんに「おいしいよ」と言ってもらうためだけに作ってきたお菓子に——「私だけ」と呼べる何かがあるだろうか。
机の引き出しを開けた。
星のクッキーは——割れたまま、ラップに包まれて、引き出しの奥にあった。
取り出した。
ラップを開いた。
割れた星。二つのかけら。ピンクのアイシングが剥がれた生地。カチカチに固くなった、もう食べられないクッキー。
手のひらに乗せた。
軽い。こんなに軽かったのか。
おじいちゃんが「きれいだね」と言ってくれたクッキー。仏壇に飾ってくれたクッキー。一週間後に大事そうに食べてくれたクッキー。
おじいちゃんの「きれいだね」は——愛情だったのか、評価だったのか。
どちらでもいい。
そう——思った。初めて。
どちらでもよかったのだ。最初から。
おじいちゃんが「きれいだね」と言ってくれた。それが全てだ。それが——愛情であれ評価であれ、おじいちゃんがあの笑顔で言ってくれたことは事実で、それは永遠に変わらない。
日記に「世界を幸せにする力がある」と書いてあっても。凛のケーキに「頭が真っ白になった」と書いてあっても。
おじいちゃんが——私の星のクッキーを仏壇に飾って、一週間も眺めて、「もったいなくて食べられないよ」と笑ったことは——事実だ。
それは——凛のケーキへの感動とは、別のものだ。
比べるものではない。
比べるものでは——なかったのだ。最初から。
でも——それがわかっても、何も変わらない。
わかったところで——私のお菓子が上手くなるわけではない。凛に追いつけるわけではない。カフェの居場所が戻るわけではない。おばあちゃんの時間が私だけのものに戻るわけではない。ショーケースに私のお菓子が並ぶわけではない。
何も——変わらない。
理解することと、受け入れることと、そこから歩き出すことは——全部別のことだ。
理解はした。
でも——受け入れられない。
歩き出せない。
星のクッキーを引き出しに戻した。
布団にもぐった。
もう——何日目かわからない。
夏休みが——あと二日で終わる。
終わっても——何も始まらない気がした。
夜。
眠れないまま横になっていると、階下からおばあちゃんの声が聞こえた。
「凛ちゃん、ちょっと相談があるんだけどねぇ」
「はい?」
「愛のことなんだけど……」
体が——硬直した。
息を止めた。
おばあちゃんの声が——薄い床板を通して聞こえてくる。
「もう十日以上、部屋から出てこないでしょう。体が悪いんじゃないと思うんだよ……。おばあちゃん、愛のことが心配で……」
おばあちゃんが——泣いている。
声が震えている。鼻をすする音。
「愛は昔からね、辛いことがあっても言わない子なの。お母さんとお父さんが離婚した時もね、泣かなかったの。『大丈夫だよ』って笑ってたの。小学三年生の子がね……」
おばあちゃんが——私のことを話している。
凛に。
「おばあちゃん、わかってるんだよ。愛が辛いの。凛ちゃんが来てから——愛が少しずつ元気がなくなっていったの。気づいてたの。気づいてたのに——何もできなくて……」
おばあちゃんが——気づいていた。
最初から。
私が凛の前で笑顔を作っていた時から。オムライスの「おいしいよ」の温度差に気づいた時から。キッチンの隅でナプキンを折っていた時から。カフェに出なくなった時から。
全部——気づいていた。
「愛はね、おじいちゃんが亡くなった時に『私がおじいちゃんの代わりにカフェを守る』って言ったの。小学五年生の子がだよ。それからずっと——自分のことよりカフェのこと、おばあちゃんのことを優先してきたの。自分の気持ちを後回しにして……」
おばあちゃんの声が——震えて、途切れて、また続く。
「おばあちゃんが気づかなきゃいけなかったんだよ。愛が無理してることに。愛が自分を犠牲にしてることに。でもね——愛があんまり上手に笑うから……おばあちゃん、甘えてしまったんだよ。愛の笑顔に……」
涙の音が聞こえた。
おばあちゃんの涙。
私のために——泣いている。
「凛ちゃんが悪いんじゃないよ。凛ちゃんは何も悪くないの。おばあちゃんが——悪いんだよ。愛の気持ちに気づいてて、何もしなかった、おばあちゃんが……」
「おばあさん——」
凛の声。低くて、かすれていた。
「おばあさんは悪くないです。悪いのは——」
「誰も悪くないんだよ、凛ちゃん。誰も悪くないの。でも——愛が苦しんでるの。おばあちゃんの大事な愛が。どうしたらいいか——わからないんだよぉ……」
おばあちゃんが——わからないと言っている。
七十年生きてきたおばあちゃんが。私を育ててくれたおばあちゃんが。いつも穏やかで、いつも正しくて、いつも優しかったおばあちゃんが。
わからない、と。
私は——天井を見つめていた。
涙が——出なかった。
出なかったけれど——何かが崩れた。
心の奥の、ずっと堪えていた壁が——静かに、音もなく、崩壊した。
おばあちゃんは——気づいていた。
知っていた。
私が辛いことを。凛のせいで辛いことを。でも——どうすることもできなかった。凛を追い出すわけにはいかない。凛は何も悪くない。カフェは繁盛している。おじいちゃんが探していた子だ。
おばあちゃんは——板挟みだったのだ。
私と凛の間で。
私がカフェに出なくなったのは——おばあちゃんを苦しめたくなかったから。「凛がいるのが辛い」と言ったら、おばあちゃんが板挟みになるから。
でも——言わなくても、おばあちゃんは苦しんでいた。
言っても苦しめる。言わなくても苦しめる。
どうすれば——おばあちゃんを苦しめずに済むのだろう。
答えは——ない。
私がいる限り。凛がいる限り。この家にいる限り。
答えは——
天井の木目が——滲んだ。
あれ。
目が——熱い。
視界が——ぼやけていく。
何かが——頬を伝った。
涙だった。
泣いている。
私は——泣いている。
何日も何日も泣けなかったのに。泣く気力もないと思っていたのに。
おばあちゃんの声が聞こえた瞬間に——堰が切れた。
声を殺して泣いた。枕に顔をうずめて、体を丸めて、声が漏れないように。
おばあちゃんに聞こえたら——おばあちゃんがもっと悲しむから。
だから——声を殺す。
いつもそうだ。いつも——声を殺してきた。
お父さんとお母さんが離婚した時も。おじいちゃんが亡くなった時も。
「大丈夫だよ」って笑って。「平気だよ」って笑って。
笑って——笑って——笑って——
もう——笑えない。
枕が濡れていく。
夏の夜の暗闘の中で、私は声もなく泣き続けた。
どれくらい泣いたのかわからない。気づいた時には、階下は静かになっていた。おばあちゃんも凛も寝たのだろう。
涙が——止まっていた。
枯れたのかもしれない。体の中の水分が全部出たのかもしれない。
目が腫れている。鼻が詰まっている。頭がぼんやりする。
でも——泣いた後の、あの不思議な軽さが——かすかにあった。何も解決していないのに。何も変わっていないのに。体だけが——少しだけ軽い。
ベッドから起き上がった。
窓に近づいた。
カーテンに手をかけた。
開けた。
月が出ていた。
山の稜線が銀色に光っている。星がいくつか見える。蝉はもう鳴いていない。夜の虫の声だけが、静かに響いている。
月明かりが——部屋の中に差し込んだ。
机の上が照らされた。
何もない机。本もノートも製菓の道具もない、空っぽの机。
その机の隅に——製菓道具の箱がある。おじいちゃんがプレゼントしてくれた道具一式。
月明かりが箱の表面を照らしている。
箱の蓋に——おじいちゃんの字で名前が書いてあった。
「愛へ」
おじいちゃんの字。角ばった、不器用な、丁寧な字。
愛へ。
私への——贈り物。
ずっとここにあった。ずっと——この部屋にあった。
箱に手を伸ばした。
蓋を——開けた。
中の道具は、前と同じだった。計量スプーン。パレットナイフ。絞り袋。口金。シフォン型。マフィン型。全部——使い込んで、少しくたびれている。
シフォン型を取り出した。
アルミの、銀色の型。真ん中に筒が立っている。何度もシフォンケーキを焼いた型。洗っても落ちない、うっすらとした焼き色が内側についている。
手に持った。冷たい。
空のシフォン型。
中には何もない。生地もない。メレンゲもない。紅茶の香りもない。
空っぽだ。
私みたいに——空っぽだ。
でも——型はここにある。
割れていない。壊れていない。歪んでいない。何度使っても——同じ形を保っている。
ここに生地を流し込めば——また、シフォンケーキが焼ける。
焼ける——だろうか。
今の私に——焼けるだろうか。
わからない。
わからないけど——型はここにある。
おじいちゃんがくれた型。「愛へ」と書かれた箱の中の、小さな型。
握りしめた。
冷たいアルミが——手のひらの体温で、少しずつ温まっていく。
月が——少し傾いた。
夜が——深くなっていく。
夏休みが——あと一日で終わる。
シフォン型を——箱に戻さなかった。
枕元に置いた。
横になって、目を閉じた。
冷たいアルミの感触が——指先に残っている。
何も変わっていない。
何も解決していない。
でも——型はここにある。
明日——
明日——どうするかは、まだわからない。
わからないけど——
型は——ここにある。
それだけが——今夜の、たった一つの、確かなこと。