また、キヴォトスに先生以外のホモサピエンス雄はいない。
鬼方カヨコは激怒した。必ず、かの無知無自覚な先生をわからせねばならぬと決意した。カヨコには大人の感覚がわからぬ。カヨコは、便利屋68の課長である。
今日は便利屋の仕事が無く、先生に会うために、もとい、生活費を稼ぐためシャーレでのバイト、つまり当番を遂行すべく部室へ来た。
幸いにも今日の当番は自分ひとり。今日が書類修羅場の最終日とあって先生も外へ出る事無く、二人で書類仕事をこなした。退屈な仕事ではあるが、真剣な表情で取り組む先生を時おり盗み見ては自分でも気づかぬうちに笑みをこぼした。
生来真面目なカヨコである。時々休憩をはさみ、一言二言言葉を交わしながら二人で励めば、夕方になるころには、ついに終えることができた。
“お疲れ様。今日はありがとう”そう言って、先生は朗らかに笑い、「そっちもお疲れ様」とカヨコは返した。知らず、口元には笑みが浮かんだ。
さて、仕事も終わった。茜に染まり始めた空を見れば、帰るには良い時間だろうか。いや、まだ少し早い。でも残る用事も無いし…… 仕事終わり、部室のソファで休憩と少しぼーっとしていると、おもむろに先生が立ち上がった。
“お茶を淹れよう。好きなだけ休憩していってね”
「……ありがと」
給湯室に向かっていく先生を見送りながら、呆けた頭でとりとめもない思考が回り始めた。
(今日の先生、いつにも増して、なんか……)
仕事中、休憩中、そして今。先生の様子を時に正面から、時にチラりと盗み見ては思っていた。
普段の先生は、時に情けない面を見せることもあるし書類の山に追い込まれることもあるが、基本的に溌剌とした姿を見ることが多い。これは生徒に良い恰好をしようとしているのか、カラ元気なのか、カヨコにはあずかり知らぬことであるが、普段の先生は、そうだ。
だが今日の先生は違った。どことなく静か、なんとなくダウナー。体調が悪いわけではなさそうだが、溌剌とした雰囲気ではなかった。
これは、カヨコは初めて見るため知識でしか知らない姿であったが、今日処理した書類が1週間前から続く書類のサンクトゥムの根本であるためだった。計画的に処理したので徹夜はしなかったものの、残業地獄は堪えたようで、さすがの超人先生も書類地獄最終日ともなればいつものように元気溌剌とはいかなかったのである。
普段知る先生も、カヨコは嫌いではない。
まず、目がよい。パソコンやタブレットを見ては目を細めたり真剣なまなざしで文字を追ったりとせわしなく動くかと思えば、カヨコが一言「ねぇ」と声をかけるだけでサッとやわらぎ、何を置いても目を合わせる。この時、静かにやさしく“どうしたの?”“何かあった?”と一声かけるのも忘れない。それがたとえどんなに些細な疑問でも、くだらない世間話のための一言でも、変わらず優しい目を向けてくれる。そしてどんな内容であれ、その目は“君の話を聞くよ”と雄弁だ。
表情もよい。真剣に資料を追う時、少し嫌そうに報告書と向き合う時、口に含んだコーヒーが思ったより熱くて驚いた時。派手には動かない。だが確かに豊かな動きを見せる。そしてカヨコに目を向ける時、話す時、そこには常に優しい笑みと、楽しそうな、ポジティブな表情を必ず浮かべる。
それに声。声だ。キヴォトスでは“大人”というものは少なくないが、大人の、男性の、肉声の、と条件を付けていくと少ない。低く柔らかなそしてやや掠れたハスキーボイス。普段は複数人の当番がいることが多い部室で、姦しい女子たちの中にあってよく通るその声は、常に聞き取りやすく柔らかに響く。
そしてしっかりとアイロンされたワイシャツとスラックス、ネクタイを締め、かっちりとしながらも絶妙なこなれ感のある着こなし。
目が、表情が、声が、そして仕草が。すべてが生徒のために。心配りを忘れず、一人一人に向き合った姿。まさしく先生の鑑と言える大人。でも時々抜けてる一面もあって、完璧とは言えない。それがカヨコの知る普段の先生であった。
今日の先生はそんな普段とは違う姿を見せてくれた。カヨコは無自覚に盗み見ては、これもまた無自覚に頬を染めた。
いつもとは目が、表情が違う。画面を見て表情が変わるのは常の通りだが、何となく気だるげで、ふとした折に嫌そうに目を細める。コーヒーが思ったより苦かったのか、普段はしないのに、やや顔をしかめることもあった。
カヨコが声をかけても、その目は細めたまま。ただ目尻が下がり、優しいまなざしに変わる。そして挟まる声掛けも、普段のようにはっきりとはせず、やや間延びした声で“ん~…?”“なぁに?”だ。
そう、声。声が違う。二人だけの部室。キーボードの打鍵音と空調の稼働音、時々挟まるペンの滑る音。静かな空間では大きく張る必要もないから、やや気だるげに、時に囁くように。少し吐息の混じった柔らかな低音が部室に響く。そのたびに、カヨコは耳が熱い気がして、無意識のうちに自らの耳たぶに触れた。
さらにいつもなら、先生はワイシャツにはネクタイを締める。着崩したりしない。外ならばジャケットやコートを羽織ることもあるが、室内ではワイシャツにネクタイをかっちりと。
だが今日はネクタイが緩んでいた。しかも第一ボタンを外している。普段見えない喉仏のその下、肌色が少し見えていた。しかも、いつもと違うことが気になるのか、時々喉元、ネクタイに手をやっては少し緩めるような、逆に締めるような動作をする。
そして息を吐く。当然呼吸はしている。それとは別に、ため息とも言えないような小さな、悩まし気な息を吐くのだ。最初のうちはどうしたの? と声をかけたが“なんでもないよ”“う~ん、ちょっと疲れがあるのかなぁ”と返ってくる。総じて気にしなくていいと言われたのでいちいち反応しないようにしたが、その口元や表情に目が釘付けになりかけ、無理やり引きはがすとしたのは一度や二度ではない。
そんなこんなで、今日の先生はいつもの3割、否、5割増しで色気があった。
(疲れてる時……、油断してる時の先生って、あんな感じなんだ……)
知識としては知っていた。シャーレ当番生徒間で話される、疲れた時や追い込まれた時、すなわち先生に余裕がなくなった時、見せる姿。
本人としても隠すつもりもなく、普段から実はだらしない面も見せたりしていると思っているし、時間の経過とともに多少緩くても良いだろうと考えるようになったこともあって、周知の事実ではあった。
しかし、冷静沈着な生徒と見られることの多いカヨコと言えど18歳。まだまだ多感な思春期の少女にとって、初めて見る大人の、なんだかインモラルな色気はちょっとばかり効いた。つまり、えっちな雰囲気にドキドキした。
“紅茶で良かったかな。コーヒーはもういいよね”
ぼーっと今日を振り返っていたら、給湯室から先生が帰ってきた。
「うん、ありがと」
答えながらティーカップを受け取る。銘柄は詳しくないが、疲れた頭に良い香りが染み込んだ。
“砂糖、要る? 一応ミルクと持ってきたけど”
微笑んで、スティックシュガーとコーヒーフレッシュをいくつかテーブルに置いた。
「もらおうかな。さすがに一日書類と向き合うと疲れるね」
“あはは、そうだね。昨日までは結構協力してくれる子も多かったんだけど、今日は不思議とみんな都合がつかなくてね。鬼方が来てくれて助かったよ。”
言いながら、自然とカヨコの隣に腰を下ろした。三人がけのソファの両端に座る形。そして自分の分の紅茶を一口。砂糖は入れないようだ。カヨコはその口元と静かに動く喉仏に視線が吸われ…… 慌てて逸らした。
そうして、放課後ティータイムは始まった。
カヨコは元々口数の多い方ではない。先生もそれを知っているから、無理に会話をしようとしない。互いに少しずつ、静かに近況や他愛のない話題を話し、それに応える。二人のティータイムは静かだった。
「――そんな感じで、この前の依頼は成功した。依頼料もちゃんと支払われた」
“そっか。みんな頑張ってるんだね。経営顧問としても安定して運営できているならそれ以上は無いよ”
「うん。最近は羽振りがいいとは言えないけど、結構ちゃんと食べられてる」
“うんうん、いいことだね。ちゃんと生活できているようで安心したよ”
少し俯いて、先生が微笑んだ。
“そうそう、この前教えてくれた曲、聞いてみたよ。私の好みだった。さすがだね”
「良かった。先生なら好きかなって思ったんだ」
“特に最後のところが好きだな。ああいうの落ちサビって言うんだっけ”
「そう。私も結構好きかな」
胸に暖かいものが灯った気がした。
「――丁目の子は、もう大丈夫そう。この前2匹で居たのを見たんだ」
“そっか。友達ができたんだね。仲良くしてくれるといいね”
「うん。あの子は結構、寂しがり屋だったから」
“懐かれてたよねぇ。ちょっと羨ましかったんだ、実は”
少しだけ上目遣い。こそばゆい。
そうして話していると、気づけばカップの中は空になっていた。空も夕暮れを越して、紫色が広がりはじめている。
“もういい時間だね。そろそろ帰るかい?”
ゆっくりと、ひじ掛けに寄りかかりながら、流し目。
横目に見ながら、どうしようか考える。確かに帰るには良い時間だろう。休憩もできたし、これ以上長居するのも悪い気がする。
でもなんとなく、カヨコは動く気にならなかった。そして、無意識にこぼしてしまった。夕暮れがそうさせたのだろうか。まだ少し、――帰りたくない。
「――この前また、呼び止められた」
“!”
気づかないまま、視線が自分の膝を見ている。呼び止められたの意味を、先生は理解している。
「……やっぱり、私は――」“それは違うよ”
弾かれたように、先生の顔を見た。いつもの優しいまなざし。とても、真剣な。
“鬼方は確かに、誤解されやすいんだろう。でも、それは確かに誤解なんだ。鬼方が悪いわけじゃない”
目をそらせなかった。どこまでも優しいのに、嘘や慰めではなく、本心からの言葉だとわかってしまったから。
続く言葉に声が出た。
“それにね、私は鬼方は美人さんだと思うんだ”
「…は?」
何、何を言った今。
“ほら、美人が真顔になるとさ、独特の、圧? があると思うんだよね。硬い表情に見られてるのが良くないのかも”
「……いや、いやいや、私はこう、こわい顔って言われてて」“そんなことないよ”
間髪入れず。微笑みは爆弾だった。
“鬼方は美人さんだよ。目鼻立ちがスッと整ってて、目力っていうのかな。結構強い。でも猫を見る時なんかは柔らかくて優しくて、きれいだなって思うよ”
「な、なん、は?」
カヨコは混乱した。混乱して顔があっちこっち。
“今日も機嫌よさそうに笑ってたでしょ。あれすごくかわいいと思うんだよね”
「な、は、そんなこと……」
気付かれてた。気付かれてた気付かれてた気付かれてた!
“あと、実は私、鬼方の声が好きなんだよね。落ち着いてて静かで。柔らかく話してみたらきっと誤解も解きやすいと思う”
「は、な、声? 何を……」
好きって言った? 今。声、私の?
“それに色白で、美白? っていうの? 肌もきれいだよね”
「そ、それは――」“ほら、こっち”
もはやセクハラ一歩手前では、なんてセリフは、そっと頬に手を添えられて喉の奥で霧散した。
目と目が合う。
“ほら、美人さんだ。表情が硬いのが良くないなら、一緒に笑顔の練習とかしてみよっか?”
「―――ッ」
柔らかい笑み。私がそうされて、それを向けられて、どう思ってるかなんて、気づいていない顔。
「そ、そんなことしても、結局、こわい、顔だって――」
顔が熱い、頬に触れた手から体温が伝わってしまうような気がして、目線だけあっちこっちに飛ばして、でも、真剣なまなざしから逃れられない。
目が合う。
“ほら、鬼方はこんなにかわいいよ。きっと、いや確実に、君の笑顔はきれいだよ”
カヨコは気が狂いそうだった。
耳元。囁き。
“ね、カヨコ”
狂った。
“あ、ほら、そんな睨むようにしたらだめだよ。常にってわけじゃないけど、表情を柔らかくすれば誤解も…? どうしたの? あ、さすがに顔に触るのはダメだったかな、ごめんね。でもそんなに手首つかまれたらちょっと痛い… あれ、どうしたの? 鬼方? ちょ、倒れる倒れる押さないで。……おに、鬼方さん? どうし――ネクタイほどけちゃうからちょっとそこ引っ張るのはあのちょっと待って”
鬼方カヨコは、激怒したのだ。
私はね、思春期真っただ中で大なり小なり色々心のうちに抱え込みがちな女の子を、依存はさせずに自立していけるように心から応援したいの。
艱難辛苦を取り除いて全てから守ってあげたいわけじゃなくて、たとえ苦難や恐怖が訪れようと、自分で立ち向かう勇気と希望を胸に灯して、諦めない心で解決に向かう。そんな姿を、折れないように、壊れないように丁寧に優しく支えたいの。
友達や恋人とすれ違ったりケンカしても、「ごめんね」と「ありがとう」で繋がって未来を築いていける、そんな誇れる子どもたちを見守ってあげたいの。
だからドロッドロに甘やかしてベッタベタに励まして自己肯定感爆上げにするね。
あとカヨコのかわいさを表現しきれてない気がするからいつか加筆するね。