月の光だけが静かに照らす、トレセン学園のダートコース。ジェンティルドンナは一人、力強く土を蹴り上げていた。
「まだまだ……! 私の頂点は、決してこんなものではありませんわ」
息はほとんど上がっていない。己の限界をさらに押し広げるため、彼女はただひたすらに前を見据え、加速していく。全身の筋肉が完璧な連動を見せ、最高速に達しようとした――その時だった。
ぐにゃり、と。
突如として視界が歪んだ。
「……っ!?」
足元の感覚が消える。鋼のように強靭な彼女の脚が、生まれて初めてもつれた。抗う間もなく、強烈な目眩が彼女の全身を襲う。
(何が……起きて……)
疑問を口にするより早く、ジェンティルドンナの意識は深い闇へと沈んでいった。
■ ■ ■
耳をつんざく喧噪。絶え間なく響く低い駆動音と、嗅ぎ慣れない排気ガスの匂いで、彼女は目を覚ました。
「……あら? ここは?」
身を起こす。掌に触れたのは、手入れの行き届いたターフでもダートでもない。硬く、無機質で冷たいアスファルトだった。周囲は薄暗い裏路地のような場所だ。
時間にしてみれば深夜帯であろう。辺りは暗い。
衣服の埃を払い、立ち上がって大通りへと歩みを進める。視界に飛び込んできたのは、眩いばかりの巨大なネオンサインと、行き交う無数の人々。そして、道路を埋め尽くすように走る自動車の群れだった。
「随分と騒がしい街ですわね。東京……に似ていますが、何かが違いますわ」
違和感の正体は、すぐに判明した。すれ違う人々が皆、足を止め、彼女を見てヒソヒソと囁き合っているのだ。
「ねえ、あの子……何のコスプレ?」
「耳も尻尾も動いてるぞ。すげーリアルだな……」
「ウマ娘のジェンティルドンナじゃん! 完成度高っ!」
「……コスプレ? うまむすめ、の?」
彼女の耳がピクリと動く。行き交う人間の視線は、彼女の頭頂部にある耳と、腰から伸びる尾に釘付けになっていた。のみならず、彼女を「架空のキャラクター」か何かのように呼んでいる。
彼女の世界において、ウマ娘はありふれた存在だ。奇異の目で見られることなどあり得ない。
ふと、交差点の巨大な街頭ビジョンに目が留まる。そこには『週末の重賞レース』という文字と共に、四つ足で走る美しい馬たちと、その背に乗る小柄な騎手(ジョッキー)の姿が映し出されていた。
「四つ足の……動物が走って……? それに、人が乗っていますの……?」
圧倒的な違和感。自分が常識としていた世界が、ここには存在しないという事実。ここがトレセン学園のある世界ではないと、彼女の優れた頭脳が即座に理解した。
普通の少女であれば、パニックに陥っていただろう。しかし、彼女は類まれなる「力」を持つ貴婦人である。
ふっ、と短く息を吐き、彼女は毅然と胸を張った。混乱など微塵も感じさせない、堂々たる立ち姿だ。
「どうやら、とんでもない所へ来てしまったようですわね」
未知の世界の風が、彼女の美しい栗毛を揺らす。
「ですが……私がジェンティルドンナであることに変わりはありません。この世界がなんであろうと、私の歩みを止める理由にはなりませんわ」
客観的に見れば、圧倒的なアウェイ。しかし貴婦人の瞳には、未知なる世界への静かな闘志が宿っていた。