地を這うような重低音から始まり、空を切り裂くように高らかに響き渡るG1のファンファーレ。東京競馬場を埋め尽くす十万人近い大観衆から、地鳴りのような手拍子と歓声が沸き起こった。
その凄まじい熱気は、厚いガラスに守られた最上階の貴賓室まで、明確な振動として伝わってきていた。
「悪くない開戦の合図ですわね」
ジェンティルドンナは窓辺に立ち、微かに目を細めた。彼女の耳がピンと立ち、眼下のスターティングゲートへ向かう馬たちの足音、観客の心拍数の高まりすら拾い上げているかのようだった。
「これより、芝2400メートルの頂上決戦が始まります。貴女の目には、彼らの走りがどう映るか……興味深いですね」
九条は少し離れた場所から、冷静な声で告げた。
「ええ、とくと拝見いたしますわ」
そして、ガシャンッ! という金属音と共に、十八頭のゲートが一斉に開いた。
『スタートしました! 揃った飛び出し!』
場内実況の声が響く。色鮮やかな勝負服を纏った騎手たちが、相棒の首筋に低く身を沈め、一団となって最初のコーナーへと殺到していく。
ジェンティルドンナの瞳は、全体を俯瞰しつつも、個々の馬と騎手の細かな動きを完璧に追っていた。
「……なるほど。四つ足の構造上、スタートダッシュの初速は人間の姿であるウマ娘に分がありますわね。しかし、トップスピードに乗るまでの滑らかさと、その巨体を支える四肢の安定感は流石ですわ」
彼女の目は、単なる観客のそれではない。頂点を極めたアスリートとしての、冷徹な分析眼だった。
「九条。あの中団に控えている鹿毛の馬……先ほどのパドックで一番気合いが乗っていた子ですが、騎手と少し呼吸が合っていませんわね。馬は前に行きたがっているのに、騎手が手綱を引いて抑え込もうとしている」
「……ええ。おそらく、前半はスタミナを温存し、最後の直線で勝負をかける作戦なのでしょう。ですが、馬自身の闘争心がそれを上回ってしまっている、いわゆる『折り合いを欠いている』状態です」
「愚かですわね」
ジェンティルドンナは、微かに鼻で笑った。
「闘争心こそが力の源。それを無理に抑え込めば、いざという時の爆発力すら削がれてしまいます。人馬一体と言うならば、騎手は馬の意志を尊重し、その闘気を完璧な形で推進力へと変換する技術を持たねばならないはずですわ」
レースは中盤を過ぎ、大欅の向こう側、第三コーナーへと差し掛かった。ペースが上がり、馬群が徐々に縦長にばらけ始める。
「さあ、ここからが勝負所です」
九条の声に僅かに力が入る。
第四コーナー。東京競馬場名物の、長く、そして残酷なほどに過酷な直線コースが目前に迫る。先頭集団がコーナーを曲がりきった瞬間、大観衆の歓声が絶叫へと変わった。
「いけぇぇぇッ!!」
「そのまま粘れェェェ!!」
十万人の欲望と祈りが交錯する中、馬たちが最後の死闘を繰り広げる。ムチが入り、騎手たちの渾身のゲキが飛ぶ。限界を超えてなお前へ出ようとする馬たちの筋肉が隆起し、汗が飛び散る。
ジェンティルドンナの視線は、馬群を縫うようにして強襲をかけてきた一頭の芦毛の馬に釘付けになっていた。
「……良い末脚です」
外側から一気に他馬をごぼう抜きにしていくその走りは、力強さと美しさを兼ね備えていた。彼女がかつて幾度となく見せてきた、他者を絶望させる圧倒的なスパートを彷彿とさせる。
「抜け出した! 見事に差し切ったァァァ!!」
実況の絶叫と共に、芦毛の馬が先頭でゴール板を駆け抜けた。
凄まじい歓声と怒号が競馬場を揺るがす。勝者は誇らしげに首を上げ、敗者は項垂れる。それは、勝負の世界における絶対の真理であり、ジェンティルドンナが掲げる美学だった。
■
「……ふぅ」
ジェンティルドンナは、ゆっくりと息を吐き出し、窓辺から離れた。
彼女の表情は、ギャンブルという側面を知った直後のような不快感は消え去り、純粋な闘いを見届けた満足感に満たされていた。
「素晴らしいレースでした。姿形は違えど、頂点を目指す者の魂は同じ。彼らの走りに、嘘は、ありませんでした」
「ご満足いただけたようで何よりです」
九条はタブレットを置き、ジェンティルドンナに問いかけた。
「……一つ、お伺いしてもよろしいですか。ジェンティルドンナさん。もし、貴女が今のあのレース、あの同じ状況に立たされていたとしたら……どうされましたか?」
それは、彼女の圧倒的な身体能力を知るがゆえの、九条なりの純粋な興味だった。
彼女のトップスピードは時速70キロを超える。常識で考えれば、この世界の馬たちを全く寄せ付けないはずだ。
ジェンティルドンナは歩みを止め、少しだけ首を傾けた。そして、優雅に、しかし絶対の自信に満ちた笑みを浮かべて口を開いた。
「愚問ですわね、九条様」
彼女の声は、静かでありながら、この部屋の空気を完全に支配するほどの覇気を帯びていた。
「わたくしならば……」
一瞬の間。
彼女の瞳の奥に、かつて数多のライバルたちをねじ伏せ、頂点に君臨し続けた「貴婦人」としての猛烈な闘志が閃いた。
「――先頭で駆け抜けた事でしょう。相手が誰であっても、どのような状況であっても。……ええ、圧倒的な力の差を見せつけて、ね」
それは傲慢さから来る言葉ではなく、揺るぎない事実としての宣言だった。九条は、彼女の放つオーラに息を呑み、沈黙するしかなかった。
「……さて」
ジェンティルドンナは再び窓辺へと歩み寄り、西日に照らされ始めた緑のターフを、じっと見下ろした。
先ほどの激闘の余韻が残る、美しい芝生だ。
「九条様。一つ、お願いがありますの」
「……はい、何でしょうか」
ジェンティルドンナは振り返らずに、窓ガラスに触れた。
その横顔には、抑えきれない好奇心と、闘争への渇望が浮かんでいた。
「こちらのターフを走らせて頂きたいの。よろしくて?」