ジェンティルドンナが現世に来た。   作:灯火011

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貴婦人とターフの幻影

 祭りの後の静寂。

 

 十万人もの観衆が去り、夕闇が迫りつつある東京競馬場。西日に照らされた広大な芝(ターフ)には、先ほどの激闘を物語る無数の蹄の跡が残されていた。

 

 その神聖なるコースのスタート地点に、ジェンティルドンナは立っていた。

 

「……本当に走るのですね。関係者と、一部の居残り組には緘口令を敷きましたが」

 

 コース脇のラチ(柵)越しに、九条が呆れたような、しかしどこか期待を含んだ声で確認する。彼の周囲には、政府関係者のほかに、特別に立ち会いを許された数名の競馬場職員と、噂を聞きつけて残っていた数人の騎手たちの姿があった。

 

「ええ。この身で直接、この世界のターフの感触を味わっておきたいのですわ」

 

 ジェンティルドンナはジャージのジッパーを軽く下げ、ふわりと風に栗毛をなびかせた。

 

 彼女の視線の先には、2400メートル先のゴール板が見えている。

 

「計測の準備はよろしいかしら、九条?」

「……いつでも」

 

 九条がストップウォッチを構え、合図の右手を上げる。

 

「スタート!」

 

 九条の手が振り下ろされた瞬間、ジェンティルドンナの姿がブレた。

 

「なっ……!?」

 

 見守っていた騎手の一人が、思わず声を漏らす。

 

 蹄鉄を履いた四つ足の馬とは違う。スニーカーの底で芝を蹴る、二本足の少女の走り。しかし、その推進力とストライドの広さは、彼らが知るいかなるアスリートの常識をも凌駕していた。

 

 ――風が鳴る。

 

 荒れた芝の感触を確かめるように、彼女は序盤、ゆったりとした、それでも常人からすれば異常な速度のペースで第一、第二コーナーを回り、向こう正面へと抜け出していく。

 

「美しい……」

 

 誰かがポツリと呟いた。

 

 ただ己の肉体のみで風を切り裂き、ターフと対話するかのように走るその姿は、一つの完成された芸術品のようだった。

 

 大欅の向こう側を抜け、第三、第四コーナーへ。

 

 最後の直線に入った瞬間、ジェンティルドンナの纏う空気が一変する。

 

「さあ――いきますわよ」

 

 声は誰にも届かない。

 

 しかし、彼女が「ギア」を上げたことは、見ている全員に伝わった。

 

 爆発的な蹴り足から生まれる、圧倒的なトップスピード。

 

 芝を蹴り上げる力強い音が、静まり返ったスタンドに木霊する。

 

 夕日を背に受け、黄金色のオーラを纏っているかのように駆け抜けるその姿は、まさに『剛毅なる貴婦人』。

 

 誰の影も踏ませない。

 

 誰にも並び掛けさせない。

 

 彼女はそのまま、完璧なフォームでゴール板を駆け抜けた。

 

 

「タイムは……ッ!?」

 

 関係者たちが、一斉に九条の手元を覗き込む。

 

 九条は、ストップウォッチの液晶画面に表示された数字を見て、息を呑んだ。そこには、『2:23.1』という数字が刻まれていた。

 

 それは、かつてこの世界の「ジェンティルドンナ」が、三歳にして屈強な古馬たちをねじ伏せ、ジャパンカップを制した際のタイムと全くの同秒数だった。

 

「……驚異的だ。本当に、人間の姿のままで……」

 

 静まり返るギャラリーをよそに、ジェンティルドンナは軽く息を吐きながら、優雅な足取りで九条たちの元へと戻ってきた。

 

「ふぅ。少し芝が荒れていましたが、なかなか走り甲斐のあるコースでした」

 

 涼しい顔で汗を拭う彼女に、関係者たちは畏敬の念を抱いて道を開ける。

 

 

 ――その時だった。

 

 

 群衆の中から、一人の男が歩み出てきた。

 

 勝負服から着替えたばかりの、静かで穏やかな瞳をした男。この国を代表するトップジョッキーの一人だった。

 

「……」

 

 男は、ジェンティルドンナの姿を食い入るように見つめていた。その瞳には、どこか懐かしむような、深い郷愁の色が浮かんでいた。

 

 ジェンティルドンナもまた歩みを止め、彼と視線を交わした。ウマ娘の優れた直感か、それとも、運命的な何かか。彼女の何かが、目の前の男がただの観客ではないことを告げている。

 

「……あら」

 

 ジェンティルドンナは、ふと首を傾げた。

 

 初対面のはずの人間。

 

 違う世界で生きる男。

 

 なのに、なぜか彼の持つ空気感に、不思議な既視感を覚えたのだ。

 

「どこかで、お会いしましたかしら?」

 

 貴婦人の問いかけに、男は少しだけ目を細め、静かに微笑んだ。

 

「……いや、初めましてだ」

 

 彼は、彼女の背後に広がる夕暮れのターフに視線を移し、そして再び彼女を真っ直ぐに見つめ返した。

 

「ただ……、君ではない『君』に、最高の夢を見せてもらった一人だよ」

 

 それは、大観衆の中で共に駆け抜けた相棒へ向けるような、優しく、誇り高い響きだった。

 

 その言葉の真意を、ジェンティルドンナは瞬時に悟る。彼が誰なのか。かつて「自分」と共に、どのような景色を見たのか。

 

「……ふふっ」

 

 ジェンティルドンナは、口元を隠して笑った。

 

「それはそれは。……さぞかし、素晴らしい夢だったのでしょうね」

 

「ああ」

 

 男は深く頷いた。それを見たジェンティルドンナは、くるりと背を向け、ジャージの裾を翻した。

 

「ええ、当然です。最強であるジェンティルドンナが魅せた夢なのですから。共に駆け抜けた事、誇りに思いなさい」

 

 圧倒的な強者のオーラを放ちながら、上機嫌でターフを後にする貴婦人の背中を、ジョッキーはいつまでも眩しそうに見送っていた。

 

 二つの世界の時間が、確かに交差した瞬間だった。

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