東京競馬場での試走から数週間後。
ジェンティルドンナは、政府が彼女のために用意した都内の最高級タワーマンションの最上階、その広大なペントハウスのバルコニーに立っていた。
眼下には、無数の光の粒が海のように広がる東京の夜景。そして、その光の海を切り裂くように伸びる、幾筋もの幹線道路と首都高速の流線が、静かな唸りを上げていた。
「……随分と、この世界の景色にも目が慣れてきましたわね」
彼女は、特注のシルクのガウンを羽織り、夜風に栗色の髪をなびかせながら、手元のグラスを傾けた。中に入っているのは、政府が用意した最高級のヴィンテージ・ワイン……ではなく、彼女が最近お気に入りとしている、果汁100%の高級葡萄ジュースである。
「お気に召したようで何よりです」
背後のリビングから、内閣官房の九条が静かに歩み寄ってきた。彼の手には、いつものように分厚いタブレット端末が握られている。
「ええ。食事の質も、トレーニング環境も、当初の約束通り完璧ですわ。……私のデータ収集の進捗はいかがかしら?」
「順調、とは言い難いのが現状です」
九条は眼鏡のブリッジを押し上げ、小さく息を吐いた。
「貴女の細胞のテロメア構造、筋繊維の異常な回復力、そして何より、あのトップスピードを生み出す未知のエネルギー代謝のメカニズム。我が国のトップの科学者たちが総出で解析にあたっていますが、解明できたのはほんの氷山の一角に過ぎません。……現代科学の常識を、根本から覆すレベルの現象ばかりですから」
「ふふっ。この世界の人間たちの叡智を結集しても、私の全容を測るには至らない。当然の結果ですわね」
ジェンティルドンナは不敵に笑い、グラスのジュースを飲み干した。
「それで? 肝心の『元の世界への帰還』に関する手掛かりは?」
その問いに、九条は一瞬だけ言葉を濁し、そして重々しく首を横に振った。
「……申し訳ありません。貴女がこちらへ転移してきた際の空間の歪みや、特異点のような痕跡は、現在に至るまで一切発見されていません。我が国の観測衛星や、世界中の研究機関のデータと照合しても、異常を示す数値は皆無です。物理法則の壁を越える手段は、今の我々の技術では……皆目見当もつきません」
つまり、帰り方は全く分からない。
それが、日本政府が出した現時点での結論だった。普通の少女であれば、家族や友人のいる元の世界へ帰る道が閉ざされたことに絶望し、泣き崩れてもおかしくない残酷な宣告。
しかし、侮るなかれ。ジェンティルドンナの表情には、微塵の焦りも、絶望の色も浮かばなかった。
彼女はただ静かに、夜景を見下ろしたまま、小さく、そう、とだけ呟いた。
「……ジェンティルドンナさん。我々は引き続き、あらゆる可能性を探るつもりですが……」
「お気になさらないで。なんとなく、予想はしていましたから」
ジェンティルドンナは振り返り、九条を真っ直ぐに見据えた。
「逆境に立たされた時、嘆いて立ち止まるのは弱者の特権です」
その瞳には、絶望や悲観ではなく、絶対的な自信と覇気が宿っていた。
「ですが、わたくしはジェンティルドンナ。道が閉ざされたのなら、自ら切り拓くまで」
彼女はバルコニーの手すりに手をかけ、眼下に広がる巨大な都市を、まるで自らの領地を見下ろすかのように睥睨した。
「ここには、私の同胞であるウマ娘はいない。私の力を脅かすライバルもいない。……少しばかり退屈ではありますが、それもまた一興」
彼女の唇が、美しく、そして残酷なまでに誇り高く弧を描く。
「元の世界への扉が開くまで、どれほどの時間がかかるかは分かりません。ですが、私がジェンティルドンナであることに変わりはない。ならば……」
夜風が、彼女の言葉を遠くへと運んでいく。
「この未知なる世界においても、堂々と、最も美しく君臨して差し上げますわ。私こそが、ジェンティルドンナこそが、どの世界においても、最強の存在なのですから」
圧倒的な力と、揺るぎない高貴な魂。
貴婦人の、現実世界における果てしなき頂点への歩みが、今、静かに幕を開けたのだ。
(了)