数日後。
日本政府が威信をかけて用意した都内最高層のペントハウス。内閣官房の九条が、その豪奢なリビングの扉をノックし、足を踏み入れた時、彼は思わず己の目を疑った。
「……ジェンティルドンナさん。これは、一体何の騒ぎですか?」
広大なイタリア製の大理石テーブル、そして最高級の革張りソファの上には、およそこの空間には似つかわしくない書類の山が築き上げられていた。
分厚いバインダーに綴じられたデータファイルの束、日本中央競馬会(JRA)が発行する種牡馬の血統辞典、国内外の競走馬のセリ市の分厚いカタログ、さらにはトレーニングセンターの施設図面や、最新のスポーツ力学・獣医学の専門書に至るまで。
それらの紙のタワーの中心で、ジェンティルドンナは優雅に脚を組み、特注のチタンフレームで作られたリーディンググラス(読書用眼鏡)をかけながら、凄まじい速度でページをめくっていた。
「あら、九条。ちょうど良いところに来ましたわね」
彼女は書類から目を離さず、手元のティーカップをスッと持ち上げた。淹れたてのダージリンの香りが、インクと紙の匂いが充満する部屋に微かに漂う。
「データ収集の合間の息抜きにと、この世界の競馬の歴史と現状、そして『血統』というシステムについて少しばかり調べさせていただきましたの。……ええ、とても興味深いシステムです。私がいた世界とは違い、強者の血と意志が、文字通り物理的な『遺伝』として次世代へと受け継がれていく。実に、ロマンがありますわね」
「はぁ……。それは何よりですが、なぜこれほど大量の専門資料を? まさか、貴女の身体を研究している我が国の科学者たちに、ウマ娘について、獣医学的なアプローチから反論でもなさるおつもりですか?」
九条の額に冷や汗が滲む。彼女の並外れた頭脳が、数日のうちに現代のスポーツ科学や獣医学を完全にマスターしてしまったのだとすれば、研究チームの面目は丸潰れになるからだ。
「ふふっ、違いますわ。そんな些末なことではありません」
ジェンティルドンナはパタン、と分厚い血統書を閉じ、ゆっくりとリーディンググラスを外した。
その瞳の奥には、いつかターフを見下ろした時と同じ、否、それ以上に熱く、ギラギラとした純粋な「支配欲」と「闘争心」が燃え盛っていた。
「九条。私自身の身体データは、これまで通り……いえ、これまで以上に惜しみなく提供して差し上げます。その代わり……わたくしを、この世界の『馬主(オーナー)』、ならびに『調教師』として直ちに登録なさい」
「……はい?」
冷静沈着なエリート官僚である九条の口から、間抜けな声が漏れた。
「耳が遠くていらっしゃるの? 馬主と、調教師です。私がこの世界の公式なレースに『出走』できないことは、ルール上も物理的にも理解していますわ。ですが、この私の、溢れんばかりの力と技術、そして頂点を知る強者のメンタリティを、ただの実験データとして腐らせておくのは、この世界においても大きな損失というものです」
彼女は立ち上がり、テーブルの上に広げられた一枚の血統表を、白魚のような指でトン、と叩いた。
「私が直接走れないのであれば、私の『分身』たるあの美しく気高き馬――サラブレッドたちを、わたくし自身の手で鍛え上げ、導き、蹂躙し、この世界の頂点に立たせて差し上げるまでのこと。ええ、まずは手始めに……設備の整った広大な牧場と、トレーニング施設を一つ買い取っていただけるかしら?」
「ま、待ってください! 牧場を買い取る!? 馬主資格はともかく、調教師の免許は国家資格であり、長い修業期間と難関な試験が……それに、馬の買い付けや施設の維持には莫大な費用が……!」
国家予算の『予備費』が、異世界から来た一人のウマ娘の壮大な道楽――いや、真剣勝負の覇業のために湯水のように溶けていく未来を幻視し、九条の顔面から血の気が引いていく。
「あら。異世界からの賓客には、最高のもてなしと、望むものを可能な限り提供する。それが日本国政府の、総理大臣の約束でしたわよね?」
ジェンティルドンナは、一切の反論を許さない絶対的な微笑みを浮かべた。その無言の圧力の前に、九条はただ力なく首を垂れるしかなかった。
それは、日本競馬界の勢力図が、国家権力をバックにつけた理不尽な「最強の貴婦人」によって、根底から塗り替えられる恐怖の未来が確定した瞬間だった。
「ご理解いただけたようで何よりですわ」
満足そうに頷いたジェンティルドンナは、再び視線をテーブルの上の資料へと落とした。
彼女の視線の先。北海道で触れ合った、あの気高き名牝『ジェンティルドンナ』の繁殖記録が記されたページ。
ひときわ彼女の目を惹きつけてやまない一つの名前に、彼女はそっと指先を這わせた。
「ほほほ……」
父は、圧倒的なマイルの支配者として名を馳せたモーリス。
そして母は、三冠牝馬にしてG1を七勝した最強の貴婦人、ジェンティルドンナ。
その血統の字面を見ただけで、彼女の中のウマ娘としての優れた直感が、歓喜に打ち震えていた。この馬には、間違いなく私と同じ「狂気にも似た闘争心」と「底知れぬ力」が眠っている、と。
「私から分かたれた、愛しき『娘』……」
ジェンティルドンナは、その名前に愛おしげに指先で触れながら、窓の外に広がる日本の空を見上げた。
(私自らがターフを走れずとも、一切の退屈をする暇などない。己の血を継ぐ分身を、己の持つすべての知識と力をもって導き、この世界のすべての競走馬を平伏させる)
それこそが、彼女が新たに見出した、現実世界における君臨の形だった。
「ああ……これほどまでに血が騒ぐのは、いつ以来かしら」
夕日を背に、彼女は美しく不敵な笑みを浮かべる。そして、誰に聞かせるでもなく、静かに、しかし絶対の確信を持って言い放った。
「ジェラルディーナ……素晴らしい響きですわね。わたくしの血を継ぐあなたを、この世界の絶対的な最強牝馬として――ええ、わたくしが手ずから、完璧に鍛え上げて差し上げますわ」
未知なる世界に降り立った貴婦人の、新たなる頂点への歩みが、今、静かに幕を開けたのだ。
〆
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