ジェンティルドンナが現世に来た。   作:灯火011

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午前3時の邂逅

 午前3時前。深夜の冷たい空気が、未知の街の輪郭をうっすらと浮かび上がらせていた。

 

 見知らぬ巨大な建造物、無機質なアスファルト、そして等間隔で街を照らす水銀灯の冷たい光。ジェンティルドンナは、トレセン学園指定のジャージ姿のまま、静まり返った大通りを歩いていた。時折通り過ぎる自動車のヘッドライトが、彼女の豊かな栗毛と、頭頂部でピンと立つ二つの耳を照らし出していく。

 

「嘆いていても始まりませんわね。まずは、この世界の『管理者』に接触を図るのが筋というものですわ」

 

 彼女の思考は極めて冷静だった。未知の領域に放り出されたという事実は揺るがない。ならば、次にとるべき行動は情報収集と現状の把握である。彼女は歩きながら周囲を観察し、やがて交差点の一角に赤色灯を回している小さな建物――交番を見つけ出した。

 

 迷うことなく、彼女はその引き戸を開ける。

 

「こんばんは。少々、よろしいかしら」

 

 凛とした声が、深夜の交番に響いた。

 

 中にいたのは二人の警察官。一人は白髪交じりのベテラン巡査部長・佐藤。もう一人は、まだ20代半ばの若い巡査・高橋だった。二人は、突然現れた長身で堂々たる体躯の少女に目を丸くした。

 

「えーっと……どうしたの、お嬢ちゃん。こんな夜更けに」

 

 佐藤が、怪訝な顔で尋ねる。彼の視線は、ジェンティルドンナの頭の上の耳と、ジャージの隙間から伸びる立派な尻尾に向けられていた。

 

「道に迷った、というよりは……私自身、自分が今どこにいるのかすら正確に把握できていない状態なのです。ここはどこか、教えていただけますか?」

 

「ここは県庁所在地の中心部だけど……君、身分証は? 随分と気合いの入ったコスプレだけど、何かイベントの帰り?」

 

 コスプレ。先ほどすれ違った人間も口にしていた単語だ。ジェンティルドンナは軽く眉をひそめた。

 

「コスプレではありませんわ。私はジェンティルドンナ。日本ウマ娘トレーニングセンター学園に所属しています。身分証は……生憎、練習中のアクシデントでこちらに来てしまったため、持ち合わせておりません」

 

 その言葉を聞いた瞬間、若い高橋巡査が「ぶっ」と吹き出しそうになるのを慌てて堪えた。

 

「ジェ、ジェンティルドンナって……あの、ウマ娘の? いや、確かにジャージの再現度ハンパないし、スタイルもそれっぽいけど……」

「高橋、知ってるのか?」

「ええ、まあ。有名なゲームとかアニメのキャラクターですよ。史実の競走馬を擬人化したっていう……」

 

 高橋の説明を聞き、佐藤は深くため息をついた。深夜によくある、酔っ払いか、あるいは現実と虚構の区別がついていない若者の徘徊だと判断したのだ。

 

「はいはい、ウマ娘ね。わかったから、とりあえず親御さんの連絡先か、本当の名前を教えてくれるかな。イタズラにしては手が込んでいるけど、警察は暇じゃないんだよ」

 

 まるで子供をあしらうような態度。それは、常に頂点に君臨し、他者から敬意を集めてきた「貴婦人」に対しては決定的な無礼だった。これがオルフェーヴルらであれば、間違いなく問題を起こしていたことだろう。

 

 しかし、流石は貴婦人。ジェンティルドンナは声を荒げるような真似はせず、ただ静かに、絶対的な威圧感を伴ってスッと高橋の目の前まで歩み寄った。

 

「な、なんだよ……」

 

 後ずさりしそうになる高橋に対し、ジェンティルドンナは自らの頭を少し下げ、栗毛の間にそびえる耳を彼に向けた。

 

「言葉で説明しても理解できないのであれば、ご自身の感覚で確かめなさい。その方が早いですわ」

「は? 確かめるって……」

「耳を触ってみなさいと言っているのです。それが作り物かどうか、あなたのその手で」

 

 彼女の瞳には、有無を言わせぬ絶対的な光があった。高橋はゴクリと唾を飲み込み、恐る恐る手を伸ばす。指先が、その茶色い耳に触れた。

 

「――ッ!?」

 

 高橋はビクッと肩を震わせた。

 

 明らかに、カチューシャやヘアピンのような硬い感触ではない。ビロードのようになめらかな毛並みの下には、確かな体温があった。そして何より、高橋の指が触れた瞬間、その耳が彼を威嚇するかのように、ピクッと自律的に動いたのだ。

 

 手に伝わるのは、あまりにも生物的な柔らかな軟骨の感触。そして、微かに感じる、血液の脈動だった。

 

「うそ、だろ……? あ、温かい……生きて、る……?」

「尻尾も確認なさいますか?」

 

 ジェンティルドンナが腰をわずかに捻ると、豊かで力強い尾が、まるで意思を持っているかのようにバサリと空気を打った。その風圧が、高橋の頬を撫でる。作り物で出せる動きではない。骨があり、筋肉があり、神経が通っている「本物の器官」だった。

 

「さ、佐藤先輩……これ、ガチです。マジモンの耳と尻尾です! コスプレとか、そういう次元じゃない……生えてます!」

「馬鹿なこと言うな! そんなわけ……」

 

 佐藤も慌てて立ち上がり、ジェンティルドンナの耳に触れようとしたが、彼女はスッと身を引いた。

 

「殿方に。何度も触らせる趣味はありませんわ。しかし、これで、私がただの不審者ではないと理解していただけましたか?」

 

 交番内に、重苦しい沈黙が落ちた。高橋の顔は蒼白になり、佐藤もまた、目の前の存在が「人間の常識」の枠外にいることを本能的に悟り始めていた。

 

「……ウマ娘って、設定上は……時速60キロとか、それ以上で走れるんだよな……?」

 

 高橋が、震える声で呟いた。

 

「ええ、当然ですわ。ダートでもターフでも、その程度は造作もありません」

「……証明、してくれないか」

 

 高橋の提案は、半ばパニックに陥った脳が捻り出した、最後の現実逃避だった。もし彼女が本当にウマ娘なら、車並みの速度で走れるはずだ。それが出来なければ、まだ何かの精巧なトリックだと言い張れる。

 

「よろしいですわ。口で語るより、実力を見せるのが私の流儀ですから」

 

 数分後。交番の裏手にある、深夜で車の通りが完全に途絶えた直線道路。片側二車線の広いバイパス道路の路肩に、ジェンティルドンナは立っていた。その後方には、ヘルメットを被った高橋が、警察の白い原付スクーター(スーパーカブ)に跨っている。佐藤は交番の前で、呆然とその光景を見守っていた。

 

「俺が後ろから走る。この道路の先の信号まで約1キロ……俺の原付のフルスロットルから逃げ切れたら、信じる」

「ふふっ。原動機付自転車ごときが、私についてこられるとでも?」

 

 ジェンティルドンナはジャージの裾を軽く払い、アスファルトの上に前傾姿勢をとった。クラウチングスタートの構え。スニーカーの靴底が、硬い路面をしっかりと捉える。彼女の全身から、先ほどまでの静けさが嘘のような、凄まじい闘気が立ち上った。空気がビリビリと震えるのを感じ、高橋は思わず息を呑む。

 

「……行きますわよ」

 

――ダァァァン!!

 

 爆発音が響いたかと錯覚した。ジェンティルドンナが地を蹴った瞬間、アスファルトから微かな粉塵が舞い上がった。彼女の身体は、まるで弾丸のように夜の闇に向かって射出された。

 

「うおっ!?」

 

 高橋は慌ててスロットルを全開にする。小さなエンジンが悲鳴を上げ、スピードメーターの針が跳ね上がる。30キロ、40キロ、50キロ……。原付の法定速度を無視したフルスロットルだ。冷たい夜風が容赦なく高橋の体を叩きつける。

 

 しかし、追いつけない。

 

 ヘッドライトが照らし出す数十メートル先に、ジェンティルドンナの背中があった。彼女は全く力みを感じさせない、美しく、そして暴力的なまでに力強いフォームでアスファルトを蹴っていた。

 

 一歩のストライドが異常に広い。地面に足が着いている時間よりも、空を飛んでいる時間の方が長いのではないかと思えるほどの跳躍力。それでいて、頭の高さは全くブレない。

 

 原付のメーターはすでに60キロを指し、原付は限界を訴えるようにガタガタと震えている。だが、ジェンティルドンナは一度だけチラリと後ろを振り返ると、不敵な笑みを浮かべた。

 

「遅いですわよ!」

 

 そこからさらに、彼女は一段階ギアを上げた。

 

 バツンッ! と、空気を切り裂く音が響き、二人の距離が絶望的なまでに開いていく。時速70キロに迫ろうかという規格外のトップスピード。彼女が駆け抜けた後には、深夜の落ち葉やゴミが竜巻のように舞い上がっていた。

 

「ば、化け物だ……本当に、ウマ娘だ……!」

 

 高橋は震える手でブレーキをかけ、ゆっくりと停車した。

 

 

 目標の信号機の下。ジェンティルドンナは既に立ち止まり、乱れた息を整えることもなく、涼しい顔で夜空を見上げていた。うっすらと汗をかいているものの、それは準備運動を終えたアスリートのそれだった。

 

 追いついた高橋は、バイクを降りるなり膝から崩れ落ちた。

 

「はぁ、はぁ……信じられない。人間の足で、原付を……いや、車をぶっちぎるなんて……」

 

 そこに、遠くから佐藤が息を切らして走ってくる。彼の顔にも、明確な畏怖が刻まれていた。

 

「……高橋。ダメだ、こりゃあ俺たちの手に負える事案じゃない」

 

 佐藤は制服の胸ポケットから無線機を取り出し、震える指でスイッチを押した。

 

『――こちら〇〇交番、佐藤。県警本部、応答願います』

『こちら本部。どうした佐藤、こんな深夜に』

『……緊急事態です。保護、いや、確保が必要な対象者がいます。身元不明。ただし……身体能力が、人間のそれを凌駕しています。繰り返します、対象は未知の身体構造を持つ、自称「ウマ娘」です』

『……佐藤、お前酔ってるのか?』

『至極真面目です! 応援の車両を回してください。我々だけでは対応不可能です。そのまま対象を県警本部へお連れします!』

 

 無線の向こう側で困惑する通信指令室の声を無視し、佐藤は無線を切った。そして、深く一礼するようにジェンティルドンナに向き直る。

 

「……失礼な態度をとって申し訳なかった。ジェンティルドンナさん。あなたの存在は、一介の交番勤務の警官が扱えるレベルを超えています。警察の『上』の人間と、話をしてもらえますか」

 

「ええ、構いませんわ」

 

 ジェンティルドンナは、微塵も動揺することなく鷹揚に頷いた。

 

「むしろ、初めからそうしていただきたかったですわね。さあ、案内なさい。この世界の責任者がどれほどの器か、私が見定めて差し上げますわ」

 

 深夜の静寂を取り戻したバイパス道路に、遠くからパトカーのサイレンが近づいてくる。貴婦人の、未知なる現実世界での覇道が、今まさに始まろうとしていた。

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