ジェンティルドンナが現世に来た。   作:灯火011

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優雅に、ジェンティルドンナ

 県警本部の手配により用意されたのは、県内最高クラスのホテルの最上階、VIP用のスイートルームだった。

 

 翌朝。分厚い遮光カーテンを開け、窓から見下ろす街並みを眺めながら、ジェンティルドンナはルームサービスの紅茶を優雅に傾けていた。

 

「建物の構造や調度品、それにこの紅茶の香り……案外と、私のいた世界と変わりがありませんのね」

 

 彼女が身を置くトレセン学園の周辺と比べれば、走る車や人々の服のセンスにわずかな差異は感じるものの、文明のレベルそのものに大きな違いはないようだった。彼女は用意されたふかふかのソファに腰を下ろし、ふと、テーブルに置かれていた薄型テレビのリモコンを手に取った。

 

 適当にボタンを押すと、画面に鮮やかなターフ(芝)が映し出される。週末の大きなレースに向けた、過去の名馬たちを振り返る競馬特集番組だった。

 

『――さあ、歴史的瞬間が近づいてまいりました!』

 

 画面の中央を、凄まじい脚力で駆け抜けていく四つ足の美しい獣。その背には、色鮮やかな勝負服を着た小柄な人間が跨っている。

 

 ジェンティルドンナは紅茶のカップを持ったまま、その映像に釘付けになった。

 

『強い、強すぎる! 圧倒的な力で他をねじ伏せました! 史上4頭目! 牝馬三冠達成! その名も――ジェンティルドンナ!!』

 

「…………」

 

 アナウンサーの絶叫と共に、画面には『歴史的名牝・ジェンティルドンナ』のテロップが大きく踊った。

 

 四つ足の動物が走る競技が存在すること。

 

 そして何より、自分と全く同じ名前、同じ毛色、そして同じ「三冠」という輝かしい実績を持つ存在が、この世界の歴史に刻まれていること。

 

 普通であれば、自己のアイデンティティが揺らぎ、パニックに陥ってもおかしくない事態だ。

 

 

 しかし、数秒の沈黙の後。彼女の端正な唇は、ゆっくりと弧を描いた。

 

「……ほほほ、面白い世界ですこと」

 

 肩を揺らし、心地よさそうに笑う。

 

 ジェンティルドンナの中に、自分が馬と呼ばれる動物であることへのショックはない。むしろ、姿形や世界が変わろうとも、「ジェンティルドンナ」という名が頂点に君臨し、圧倒的な力で他者を平伏させているという事実に、彼女は不思議な誇らしさすら覚えていた。

 

「姿は違えど、私と同じ名を持つ者が頂点に立つ。ええ、当然のことですわ。どこにいようと、ジェンティルドンナを名乗るのならば……『最強』でなければなりませんから」

 

 画面越しの『自分』にウインクを一つ投げかけ、彼女は残りの紅茶を飲み干した。

 

 

 それから、数日が経過した。警察による厳重な警護、という名の監視の下、彼女はスイートルームから一歩も出ることなく過ごしていたが、ついに動きがあった。

 

 ホテルの最上階にある、一般客の立ち入りを完全にシャットアウトした貸切の専用ラウンジ。そこに通されたジェンティルドンナを待っていたのは、仕立ての良さが一目でわかるダークスーツに身を包んだ、細身の男だった。

 

 男の年齢は三十代半ばだろうか。神経質そうに整えられた髪と、銀縁の眼鏡の奥で光る、感情を読み取らせない冷徹な双眸。テーブルの上には、分厚いファイルとタブレット端末が置かれている。

 

 ジェンティルドンナは足音もなく男の向かいのソファに歩み寄ると、ゆったりと腰を下ろした。トレセン学園のジャージ姿のままであるにも関わらず、その振る舞いは一流の社交界のそれだった。

 

「随分と遅かったですわね」

 

 先制のジャブ。数日間、自分を待たせたことに対する貴婦人からの静かな嫌味だった。しかし、男は動じることなく、姿勢を正してジェンティルドンナを真っ直ぐに見据えた。

 

「ええ、なにぶん、我が国において初めての事象でしたので。お待たせして申し訳ありません」

 

 完璧な敬語。だが、その声にへりくだった響きはない。男はスッと名刺を差し出した。

 

「内閣官房国家安全保障局より参りました、九条(くじょう)と申します。以後、日本国政府を代表して、私が貴女の対応の窓口を務めさせていただきます」

 

「九条。政府の人間、ということですわね。……それで? その分厚い資料には、私の取り扱い説明書でも書かれているのかしら」

 

 ジェンティルドンナの視線が、男の手元のファイルに向けられる。九条は眼鏡のブリッジを中指で軽く押し上げ、淡々と口を開いた。

 

「取り扱い説明書、という表現は正確ではありませんね。これは、貴女という存在を理解するための『基礎データ』です。……ウマ娘という種族の生態、貴女が所属するトレセン学園の構造、そして何より、貴女のモチーフとなった史実の競走馬『ジェンティルドンナ』のレース戦績から、関係者の証言に至るまで」

 

 九条の目は、警察官たちが見せたような「未知への恐怖」は一切見えない。代わりに、見定めるような光が灯っている。

 

 彼はこの数日間で、あらゆる情報をかき集め、アニメやゲームの設定から現実の競馬史までを完璧にインプットしてきたのだ。目の前にいるのが「本物」かどうか、その思考から行動原理までを丸裸にして見定めるために。

 

「警察からの報告書も拝見しました。腕一本で屈強な機動隊員を沈めたそうですね。……ですが、我々政府としては、貴女が単なる『よく出来たコスプレをした怪力の手品師』である可能性も、まだ完全には捨てきれていないのですよ。ジェンティルドンナさん」

 

 九条の言葉には、明確な挑発が含まれていた。彼なりの、相手の度りを測るためのテストだ。それを理解した上で、ジェンティルドンナはふっと目を伏せ、余裕に満ちた笑みを浮かべた。

 

「ふふっ……よろしいですわ。無知な輩に一から説明する手間が省けました。あなた方政府が、私という存在にどれだけの価値を見出すのか。お手並み拝見といきましょうか」

 

 静かなラウンジで、二人の視線が火花を散らす。

 

 ジェンティルドンナお得意の、力でねじ伏せることのできない「国家の知性」との、水面下の頭脳戦が幕を開けた瞬間だった。

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