ジェンティルドンナが現世に来た。   作:灯火011

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鋼鉄の証明と檻なき契約

 ホテルの専用ラウンジ。眼下に広がる街の喧騒から切り離された静寂の中で、ジェンティルドンナと内閣官房の九条は、テーブルを挟んで静かに向かい合っていた。

 

「まずは、貴女のパーソナルデータから照合させてください。ご家族は?」

 

「両親と、姉が一人、弟が一人。父は身体の大きな……そうね、そちらの基準で言えば、ボディビルダーのような体格の男ですわ。実家は少し離れた場所にあります」

 

 九条は手元のタブレットを数回スワイプし、無表情のまま告げた。

 

「……やはり。我が国の戸籍データベースには、該当するご家族の記録は一切存在しません。それに、貴女が所属しているという府中の『トレセン学園』ですが、こちらの世界におけるその住所は『東京競馬場』という巨大な競技施設になっています」

 

「ええ、想定通りですわ」

 

 ジェンティルドンナは紅茶のカップに手を伸ばし、涼しい顔で頷いた。

 

「では、こちらの世界における『ジェンティルドンナ』という存在についてはご存知ですか?」

 

 九条の眼鏡の奥の瞳が、獲物を観察する蛇のように細められる。異世界から来た少女に、『お前はここでは四つ足の動物なのだ』と現実を突きつける。普通であれば、アイデンティティの崩壊を招きかねない揺さぶりだ。

 

「この世界において、レースとは人間が走るものではありません。四つ足の『馬』と呼ばれる動物に、人間が騎乗して走らせるブラッド・スポーツです。そして、貴女と同じ名前を持つ牝馬は、圧倒的な力で数々のレースを制しました」

 

「牝馬三冠、それにジャパンカップの連覇、有馬記念の勝利。素晴らしい戦績ですわね」

 

「……」

 

 九条の指が、タブレットの上でピタリと止まった。予想外の返答だったからだ。

 

「驚かれましたか? 九条様。……部屋にテレビという便利な機械がありましたので、少し勉強させていただきましたの」

 

 ジェンティルドンナは優雅に微笑んだ。

 

「姿形は違えど、ジェンティルドンナの名を冠する者が頂点に立つ。この世界でもそれが証明されている事実に、私はとても満足していますわ。……それで? 私を試すような問答は、そろそろ終わりにしていただけると助かるのだけれど」

 

 先手を取るつもりだった九条の目論見は、いとも容易く躱された。彼女は自らの置かれた異常な状況を、すでに完全に咀嚼し、受け入れている。

 

 九条は小さく息を吐き、タブレットを置いた。

 

「……失礼しました。貴女の精神的なタフさは、想定を遥かに上回っているようだ」

 

 そう言うと、九条は足元に置いていた金属製のアタッシュケースを持ち上げ、テーブルの上に置いた。重々しい金属音が響く。

 

 ケースを開くと、中には黒光りする「鋼鉄の球体」が一つ、厳重に収められていた。砲丸投げで使われるような、中まで金属が詰まった完全なソリッドスフィアだ。

 

「精神力はわかりました。次は、身体能力の最終テストです。警察の道場では、機動隊員を腕一本で投げ飛ばしたそうですね。しかし、人間の関節構造を利用すれば、小柄な者でも巨漢を投げることは不可能ではない」

 

 九条は、鋼鉄の球体をジェンティルドンナの前に転がした。

 

「純粋な、筋力と骨格の出力を見せていただきたい。確か、ウマ娘は『怪力』であると聞いていますが」

 

「……ふふっ」

 

 挑発的な九条の言葉に、ジェンティルドンナは喉の奥で笑った。

 

 彼女は右手で、その鋼鉄の球体を無造作に掴み上げる。ずしりとした重量感。大人の男でも、片手で持ち上げるのがやっとの重さと、人間では絶対に潰せない硬度を持っている、はずだった。

 

「良いでしょう。私の力を測るには少々物足りませんが、名刺代わりにはなりますわね」

 

 彼女は球体を掴んだ右手に、スッと力を込めた。

 

――ギチッ……!

 

 静かなラウンジに、およそ生物が出してはならない異音が響いた。

 

「な……」

 

 九条が初めて、明確に目を見開いた。

 

 メキメキメキッ!

 

 ギュルルルルッ!!

 

 ジェンティルドンナの細い腕の筋肉がわずかに隆起した瞬間、絶対的な硬度を誇るはずの鋼鉄が、まるで紙粘土か飴玉のように歪み始めたのだ。金属同士が悲鳴を上げ、摩擦熱で微かに煙が上がる。

 

「はぁっ……!」

 

 気合いと共に、彼女はさらに指を握り込む。

 

 そして、バキィッ! という破裂音と共に、鋼鉄の球体は完全に原形を留めない形へと圧縮された。

 

 コロン、と。

 

 ジェンティルドンナが手を離すと、テーブルの上には、ビー玉ほどのサイズにまで無残に圧縮され、高熱を持った鋼鉄の塊が転がった。

 

「……こんなもので、よろしいかしら? 九条様?」

 

 手袋の埃を払うジェンティルドンナの額には、汗一つかいていない。

 

 九条は、ピンポン玉サイズになった鉄球と、涼しい顔の少女を交互に見比べた。警察の報告書は、決して誇張ではなかったと自覚させられたのか、目が白黒していた。

 

 目の前にいるのは、戦車を素手で解体できるレベルの、文字通りの『規格外』だ、と。

 

「……見事です」

 

 九条は、ごくりと唾を飲み込み、ようやくそれだけを絞り出した。彼の中で、彼女を『人外の未知の存在』として扱うプロトコルが完全に確定した瞬間だった。

 

 九条は咳払いを一つし、すぐさま官僚としての冷徹な顔を取り戻す。話はここからが本題だ。

 

「貴女が我々の理解を超えた存在であることは、完全に証明されました。ここからは、今後の処遇についてのご説明です」

 

 九条は姿勢を正し、事務的なトーンで告げた。

 

「現在の貴女は、戸籍を持たない不法入国者……いえ、所属不明の『未確認生命体』という扱いになります。正規の日本人ではありません。しかし、我が国としても、これほどの力を持つ存在を保護しないわけにはいかない」

 

「でしょうね」

 

「ご理解が早くて助かります。ですから、政府が貴女の身元を完全に保証し、生活のすべてを支援します。衣食住、望むものは可能な限り提供しましょう。しかし、それに伴い、貴女には『自由』を制限させていただきます」

 

 九条の言葉に、ジェンティルドンナの耳がピクリと動いた。

 

「監視下に置く、ということね」

 

「平たく言えばそうです。最終的な判断を国が下すまで、貴女には政府が用意した施設で生活していただきます。また、元の世界に帰還する手がかりを探るためにも、身体構造や能力に関する様々な科学的検査、データ収集に協力していただきたい」

 

 要するに、モルモットになれという提案に近い。だが、ジェンティルドンナは不快感を示すことなく、静かに目を閉じて思考を巡らせた。

 

(この世界について何も知らない現状、単独で動くのは非効率の極み。生活基盤を確保しつつ、国家の権力と情報網を利用できるのであれば、悪い取引ではありませんわね)

 

 彼女は目を開き、九条を真っ直ぐに見据えた。

 

「承諾しますわ。私の身体のデータ、いくらでも採ればよろしい。ですが……」

 

 ジェンティルドンナは身を乗り出し、九条を射抜くような鋭い視線を向けた。

 

「私を永遠に飼い慣らせるなどと、勘違いなさらないことね。私はジェンティルドンナ。己の往く道は、常に私が決めますわ」

 

 九条は、その絶対的な覇気に気圧されそうになりながらも、口角をわずかに上げた。

 

「……承知いたしました。では、契約成立です。歓迎しますよ、貴婦人(ジェンティルドンナ)」

 

 鋼鉄をも砕くウマ娘と、国家の頭脳。決して交わるはずのなかった二つの世界の歯車が、ここに完全に噛み合ったのだった。

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