ジェンティルドンナが現世に来た。   作:灯火011

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測定不能の貴婦人と国家の計算

 政府がジェンティルドンナのために用意した「施設」は、都内某所にある国立のスポーツ科学研究所の地下、極秘の専用テストエリアだった。

 

 九条との会談からの数日後。広大な体育館のような空間には、白衣を着た政府お抱えの科学者やスポーツ医学の専門家たちが数十人、慌ただしく動き回っていた。彼らの視線の先には、肌にいくつもの生体センサーを貼り付けられ、人間用の最新鋭ランニングマシン(トレッドミル)の上に立つジェンティルドンナの姿があった。

 

「ジェンティルさん、それでは徐々に速度を上げていきます。まずは時速20キロから」

 

 マイク越しに、主任研究員が緊張した声で指示を出す。

 

「ええ、構いませんわ」

 

 機械が動き出し、ベルトが回転を始める。時速20キロといえば、人間の成人男性で言えば、全力疾走に近いペースだ。しかし、ウマ娘であるジェンティルドンナにとって、ただの軽いジョギングに過ぎない。息一つ乱さず、美しいフォームで足を運んでいる。

 

「心拍数、血圧ともに平常値。筋肉の過緊張も見られません。……信じられん、本当に歩いているのと変わらない数値だ。よし、設定可能な最大速度、時速30キロまで引き上げろ!」

 

 モーターが唸りを上げ、ベルトが限界の速度で回転し始めた。トップアスリートでなければ数秒で振り落とされるスピードのはずなのだが……。

 

 しかし、ジェンティルドンナの走りは全くブレない。むしろ、ようやく少しだけストライドが伸びた程度だ。

 

「……いつまでこのウォーミングアップを続ければよろしいのかしら? 少し退屈になってきましたわ」

 

 走りながら、彼女は涼しい顔で首を傾げた。

 

「ウォーミングアップ……ッ! い、いや、それがですね……」

 

 主任研究員は冷や汗を拭いながら、申し訳なさそうに答えた。

 

「その機械、人間の限界を想定して作られているので、時速30キロがリミッターの限界なんです。それ以上は、モーターが焼け焦げてしまいます」

 

「……あら。まあ、人間用の機械ですものね。仕方がありませんわ」

 

 ジェンティルドンナは呆れたように小さくため息をつき、ひらりとマシンから飛び降りた。稼働中の時速30キロのベルトから、まるで段差を降りるかのような軽やかさで着地した彼女を見て、研究員たちは再び絶句した。

 

「……ダメだ、人間用のスポーツ機材じゃ全くお話にならない。筋力測定用の油圧マシンも、彼女が少し力を入れただけで安全装置が作動して止まっちまったしな」

 

「こうなったら仕方ない。隣の車両テスト用の屋内直線コースを使おう。速度計測は、自動車用の光学式速度計と警察のレーダーを使え!」

 

 

 現場が慌ただしく機材のセッティングを変更している頃。テストエリアを見下ろす、防音ガラス張りの視察室。そこには、内閣官房の九条、そしてSPに囲まれた初老の男性――現内閣総理大臣の姿があった。

 

「……総理。お忙しい中、ご足労いただき恐縮です」

 

 九条が深く頭を下げる。

 

「構わんよ、九条くん。君が『直接見るべきだ』と強く進言したんだ。それだけの価値があるのだろう?」

 

 総理大臣は腕を組み、ガラス越しに眼下のテストコースを見下ろした。そこには、スタートラインにつくジェンティルドンナの姿がある。

 

「はい。現在、彼女には1000メートルの全力疾走をお願いしています。……始まりますよ」

 

 視察室のモニターに、テストコースの映像と、計測器の数値が映し出された。

 

『――計測開始(スタート)!』

 

 電子音が鳴り響いた瞬間。

 

――ドンッ!

 

 と、地下空間の空気を震わせるような踏み込みの音が視察室まで響いてきた。

 

 ジェンティルドンナの身体が、弾丸のようにコースへ射出される。先ほどまでのトレッドミルでのジョギングとは次元が違う。全身のバネを極限まで解放し、前傾姿勢で空気を切り裂く圧倒的なスプリント。彼女の足がタータン(陸上競技用のゴムトラック)を蹴るたびに、周囲の空気が渦を巻き、突風が巻き起こっていた。

 

 モニターの速度表示が、異常な数値を叩き出していく。

 

『40km/h』

『50km/h』

『62km/h』

 

――そして。

 

「ヒトが本当に70キロで走ってるのか……おいおい……」

 

 総理大臣は、組んでいた腕を解き、ガラスにへばりつくようにして身を乗り出した。その額には、びっしりと冷や汗が浮かんでいる。

 

『71.4km/h』

 

 それが、彼女が叩き出したトップスピードだった。しかも、その速度を維持したまま、彼女は1000メートルのコースを全くペースを落とすことなく駆け抜けてみせたのだ。

 

 

 ゴール地点を過ぎ、徐々にスピードを落としていくジェンティルドンナ。軽く息は上がっているものの、膝に手をつくような真似は一切していない。

 

「……信じられん。自動車並みの速度で走り、しかもあの持久力。これが、異世界の生物……」

 

 総理大臣はハンカチを取り出し、震える手で額の汗を拭った。彼の脳裏には、彼女の持つ圧倒的な「力」の使い道が、良くも悪くも無数に思い浮かんでいたはずだ。

 

 九条が、静かに口を開く。

 

「総理。彼女の細胞組織、骨格の密度、そして未知のエネルギー代謝のメカニズム……これらは、現代の医学や工学、ひいては全産業の常識を覆すほどのデータです。我が国がこの研究を独占できれば――」

 

「……九条くん」

 

 総理大臣は、鋭い声で九条の言葉を遮った。

 

「彼女に、決して不自由をさせぬように」

 

「……は?」

 

 想定外の言葉に、九条がわずかに目を丸くする。

 

 総理大臣はモニターに映る、悠然と汗を拭うジェンティルドンナの姿を見つめたまま、静かに、しかし政治家としての確固たる意志を持った声で語り始めた。

 

「いいか。彼女はとんでもない可能性を秘めた存在だ。我が国のために、彼女のデータは是が非でもしっかりと取らせてもらう必要がある」

 

 総理大臣は振り返り、九条の目を真っ直ぐに見据えた。

 

「だからこそだ。彼女をただの実験動物や、危険物のように扱うな。強制や抑圧は、必ず反発を招く。あのような存在に反発されれば、我々に止める手立てはないだろう?」

 

 九条は無言で頷いた。その通りだ。彼女が本気で暴れれば、警察も自衛隊も、無傷で彼女を制圧することは不可能に近い。

 

「彼女には、自らの意志で、協力的にデータを提供してもらわねばならない。そのためには、待遇には最大限の配慮をすることだ。彼女が望むものがあれば、可能な限り用意しなさい。……一国の賓客として、最高のもてなしをするんだ。それが、最も確実で安全な『対価』というものだよ」

 

「……承知いたしました。総理の仰る通りに手配いたします」

 

 九条は深く一礼した。冷徹な官僚である九条も、この一国のトップの判断の正しさと、懐の深さには素直に感服せざるを得なかった。

 

「ふふ……それにしても」

 

 総理大臣は再びガラス越しにジェンティルドンナを見下ろし、呆れたような、しかしどこか楽しげな笑みを浮かべた。

 

「あの美しさと力強さ……まさしく『貴婦人』だな。我が国の若者たちにも、あの堂々とした姿勢は見習わせたいものだよ」

 

 テストコースでは、ジェンティルドンナが研究員たちに囲まれながら、涼しい顔で次の指示を待っていた。

 

 彼女はふと、視察室の分厚いガラスの方を見上げ、誰がいるのかも見えないはずなのに、不敵な笑みを浮かべて軽くウインクをして見せた。

 

 未知の力と、国家の計算が火花を散らす。しかし、主導権を握っているのは間違いなく、誇り高き貴婦人であった。

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