ジェンティルドンナが現世に来た。   作:灯火011

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貴婦人の食卓と崩壊する常識

「――以上が、我が国が貴女に提供できる新たな待遇のガイドラインです。生活環境のさらなる向上、そして専属の医療・栄養管理チームの配置。貴女が望むのであれば、どのような嗜好品でも手配しましょう」

 

 政府施設のVIP用ダイニングルーム。

 

 九条は、分厚い契約書の束をテーブルに置き、ジェンティルドンナに向けて静かに提案した。総理大臣の意向を受けた、事実上の「白紙小切手」に近い好条件の提示である。

 

 ジェンティルドンナは手元の紅茶を一口飲み、小さく笑った。

 

「ずいぶんと気前が良いですわね。……つまり、私の身体データが喉から手が出るほど欲しい、ということですわね?」

 

 図星を突かれた九条の肩が、わずかに強張る。

 

 彼女の知性は、見え透いた政治的なオブラートなど容易く見透かしていた。一瞬、ダイニングルームに張り詰めた緊張が走る。彼女が機嫌を損ね、協力を拒めば、国家の威信をかけたプロジェクトが頓挫しかねない。

 

 しかし、ジェンティルドンナは紅茶のカップをソーサーに優雅に戻し、ふっと微笑んだ。

 

「顔を強張らせる必要はありませんわ。私としても、充実した環境でサポートを受けられるのは助かりますから。ええ、この条件、喜んでお受けしますわ」

 

「……感謝します。では、早速ですが昼食にいたしましょう。本日は政府専用のシェフを数名呼び寄せております。お口に合うと良いのですが」

 

 九条が安堵の息を吐きながら合図を送ると、恭しい態度のギャルソンたちが次々と料理を運び込んできた。

 

 運ばれてきたのは、この世界における一般的な最高級のフルコース……ではなく、彼女の基礎代謝量を見越して用意された、大皿に盛られた数々の料理だった。

 

 

 極厚のステーキが数枚乗ったプラター、山盛りの温野菜、そして、輝くように炊き上げられた白米が詰まった巨大なお櫃。元の世界にある料理と大差ないラインナップに、ジェンティルドンナは満足そうに頷いた。

 

「素晴らしい香りがしますわね。では、遠慮なくいただきますわ」

 

 彼女は背筋をピンと伸ばし、ナイフとフォークを手に取った。その所作は、王侯貴族の晩餐会に招かれたかのように完璧で、一切の無駄がない。

 

 ――しかし、その「ペース」と「量」は、人間の理解を遥かに超えていた。

 

「……えっ?」

 

 壁際で控えていた総料理長が、思わず間の抜けた声を漏らす。

 

 ジェンティルドンナのテーブルマナーは極めて優雅だった。決してガツガツと貪るようなことはしない。一口サイズに切り分け、優雅に咀嚼し、飲み込む。

 

 だが、その一連の動作が恐ろしいほどに「速く」、そして全く「止まらない」のだ。

 

 あっという間に500グラムはあろうかというステーキが消滅し、山盛りのサラダが空になる。彼女が白魚のような手で茶碗を差し出すと、ギャルソンが慌てて白米をよそうが、それも数秒で彼女の胃袋へと消えていく。

 

「おかわりをいただけますかしら。お肉は、もう少し赤身のものを多めで」

 

「は、はいッ! ただいまッ!!」

 

 厨房はパニック状態に陥った。

 

 無理もない。必要十分量だ、と計算して用意していた「成人男性5人分」の食材が、前菜のノリで瞬く間に消費されていくのだから。シェフたちは文字通り火の車となりながら、次々と新しい料理を火にかけ続けた。

 

 そして、一時間後。

 

 テーブルの上には、空になった大皿が山のように積み上げられていた。

 

「ふぅ……。大変美味しゅうございました。食後のデザートは、何かありますの?」

 

 口元をナプキンで優雅に拭いながら、ジェンティルドンナは事もなげに尋ねた。

 

「…………」

 

 九条は、積み上げられた皿の山と、全く膨らんでいない彼女の平坦な腹部を交互に見つめ、完全に絶句していた。周囲のシェフたちに至っては、魂が抜けたような顔で立ち尽くしている。

 

 ドン引き、という表現がこれほど似合う空間もそうそうないだろう。

 

「あの……ジェンティルドンナさん」

 

 九条は、こめかみに流れる冷や汗を拭いながら、恐る恐る口を開いた。

 

「はい? 何か問題でもありまして?」

 

「いえ……その……一つ、お伺いしたいのですが。もしかして、ホテルに滞在していただいていたこの数日間……貴女は、ずっと食事が足りていなかったのですか?」

 

 ホテルでのルームサービスは、あくまで「人間の女性向け」のボリュームで提供されていた。今の彼女の食事量から逆算すれば、あの数日間、彼女は絶食に近い状態だったことになる。

 

 ジェンティルドンナは、少しだけ不思議そうな顔をした後、あっさりと頷いた。

 

「ええ。腹一分目、といったところでしたわね」

 

「なっ……!? なぜ、もっと早く言ってくださらなかったのですか!? それでは、我々は、貴女を飢餓状態のまま放置していたことに……!」

 

 国家の管理下にある超重要人物を、あわや栄養失調にさせかけていた。官僚としての痛恨のミスに、九条の顔面から血の気が引く。

 

 しかし、当のジェンティルドンナはクスリと笑い、静かに首を振った。

 

「勘違いなさらないで。私は別に、あなた方を恨んでなどいませんわ。確かに少々空腹ではありましたが、得体の知れない私を保護し、部屋を与えてくださったのはあなた方です」

 

 彼女はまっすぐ九条を見つめ、凛とした声で告げた。

 

「保護されている身でありながら、野犬のように食事を催促するなど、貴婦人の振る舞いとしてあり得ませんわ。それに、私の身体が少しばかり頑丈なのは、先日のテストで証明したはずですけれど?」

 

 その言葉に、九条はハッと息を呑んだ。

 

 圧倒的な力と食欲を持ちながら、彼女の根底にあるのは野性ではなく、極めて高い理性と「矜持」なのだ。己の美学に反する行いは決してしない。

 

「……恐れ入りました。我々の想像力が及ばず、申し訳ありません」

 

 九条は深く、心からの敬意を込めて頭を下げた。

 

「気になさらないで。今日からこうして、十分な食事がいただけるのであれば何の問題もありませんわ。……それで、デザートのケーキはまだかしら?」

 

「っ……! すぐに手配させます! あるだけのケーキをこちらへ!」

 

 九条の怒号が飛び交い、再びダイニングルームが慌ただしく動き出す。

 

 ジェンティルドンナは優雅に紅茶のおかわりを注ぎながら、この世界の人間たちの慌てふためく様を、どこか楽しげに見つめていた。

 

 そして、未知のウマ娘の胃袋を満たすため、日本政府の「食費」という名の新たな戦いが幕を開けた瞬間であった。

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