ジェンティルドンナが現世に来た。   作:灯火011

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Gentildonna

 静寂が支配する地下のテストエリア。人間用の測定限界を軽々と超え、特注の自動車用コースで時速70キロオーバーの巡航速度を叩き出した後でも、ジェンティルドンナの息は全く上がっていなかった。軽く汗を拭う程度の、完璧なクールダウンすら見せている。

 

 九条は、ガラス張りの視察室から足早にテストコースへと降り立ち、彼女の前に立った。その手には、初日とは比較にならないほど、分厚くなったデータの束が握られている。

 

「……素晴らしい結果でした。我が国の科学技術の粋を集めても、貴女の身体能力の全容を解明するには、まだ時間がかかりそうです。しかし、貴重な基礎データは十分に収集できました。心より感謝いたします」

 

「ええ。これがお約束でしたから」

 

 ジェンティルドンナは、微塵も疲労を感じさせない涼やかな笑顔で頷いた。九条は姿勢を正し、少しだけ声のトーンを落とした。

 

「この後も、我々は貴女の細胞や組織のより詳細な分析を進めますが……ひとまず、大きなテストは終了です。政府としても、貴女の協力には最大限報いたいと考えております。何か、現状でご要望はありますか? 食事や住環境以外でも、可能な限り手配いたします」

 

 ジェンティルドンナは、少しだけ考える素振りを見せた。

 

 彼女の頭の中には、ホテルで見たあのテレビの映像が鮮明に焼き付いていた。四つ足でターフを駆け抜け、他を圧倒して頂点に立った、自分と同じ名を持つ存在が。

 

「そうですね……」

 

 彼女は九条を真っ直ぐに見据え、優雅に微笑んだ。

 

「馬の……この世界の『ジェンティルドンナ』に、会ってみたいですわね」

 

 九条は一瞬、その言葉の意味を理解できず瞬きをした。

 

「……ジェンティルドンナ、ですか。サラブレッドの、あの名牝に?」

 

「ええ。私がこの世界でどのような存在として歴史に名を刻んだのか、この目で確かめておきたいのです。……可能かしら?」

 

 九条は手元のタブレットを素早く操作した。

 

「……現在、彼女は現役を退き、北海道の牧場で繁殖牝馬として繋養されています。移動には少々大掛かりな手配が必要になりますが……不可能ではありません。総理からも、貴女の要望には最優先で応えるよう指示が出ておりますから」

 

「ふふ、さすがは九条様。話が早くて助かりますわ」

 

 ジェンティルドンナは満足そうに頷いた。未知の世界での生活において、彼女は自身の圧倒的な「力」と「情報」というカードを切り、最も効率よく、そして優雅に自らの望む環境を構築していく術をすでに確立しつつあった。

 

 

 数日後。厳重な警備が敷かれた政府専用機と、チャーターされたヘリコプターを乗り継ぎ、ジェンティルドンナと九条たち一行は、北海道の広大な牧場へと降り立った。

 

 どこまでも続く青空と、見渡す限りの緑の絨毯。

 

 東京の喧騒や無機質な地下施設とは全く異なる、生命の息吹に満ちた場所。ジェンティルドンナは深く息を吸い込み、清々しい空気を肺の奥まで満たしていた。

 

「こちらです。関係者以外は完全にシャットアウトしておりますので、ご安心を」

 

 牧場長に案内され、一行は広大な放牧地の一角へと向かった。

 

 ――木製の柵の向こう側。柔らかな日差しを浴びながら、静かに草を食む一頭の美しい鹿毛の馬がいた。

 

 現役時代の闘争心は影を潜め、穏やかな母の顔を見せている。しかし、その均整の取れた雄大な馬体と、気品に満ちた立ち姿は、かつて数々の大レースで牡馬たちをなぎ倒した「最強牝馬」の面影を色濃く残していた。

 

「……あれが、この世界の『私』」

 

 ジェンティルドンナは柵に近づき、ゆっくりと手を伸ばした。

 

 馬は、見知らぬ人間の接近に警戒する素振りを見せるのが普通だ。牧場長も、何かあればすぐに止めに入れるよう緊張の面持ちで控えていた。

 

 しかし。

 

 ジェンティルドンナは、顔を上げ、じっとウマ娘のジェンティルドンナを見つめた。そして、逃げるどころか、自らゆっくりと柵の方へ歩み寄ってきたのだ。

 

「おお……」

 

 牧場長が感嘆の声を漏らす。初対面の相手にこれほど無防備に近づくことは珍しい。

 

 二人のジェンティルドンナの距離が縮まる。ウマ娘のジェンティルドンナが差し出した手に、名牝ジェンティルドンナがそっと鼻先を擦り寄せた。

 

「……良い子ですわね」

 

 言葉は通じない。

 

 姿形も全く違う。

 

 しかし、指先から伝わる温もりと、真っ直ぐに彼女を見つめる大きく澄んだ瞳の奥に、ジェンティルドンナは確かな「繋がり」を感じていた。それは、同じ魂の根源から分かたれた存在同士が、次元を超えて共鳴し合うような、運命的で静かな感動だった。

 

「どうやら、私を受け入れてくれたようですわね」

 

 ジェンティルドンナは、名牝の美しい首筋を優しく撫でながら、九条を振り返った。

 

「素晴らしい光景です。……よほどのシンパシーを感じているのでしょう」

 

 九条もまた、その神秘的な光景に圧倒され、静かに見入っていた。

 

 

 ふと、ジェンティルドンナの瞳に、悪戯っぽい光が宿った。彼女は名牝の首筋を撫でたまま、九条に向けてとんでもない提案を口にした。

 

「ねえ、九条。……わたくしも、馬に乗れますか?」

 

「……はい?」

 

 九条は耳を疑った。牧場長も目を丸くしている。

 

「この世界の競馬は、人が馬に乗って走るのでしょう? ならば、私も一度くらいは経験しておきたいと思いまして。……それに、彼女もそれを望んでいるような気がしますの」

 

 ジェンティルドンナは、名牝の瞳を見つめながら微笑んだ。

 

「いや、しかし……! 彼女は国の至宝とも言える名牝です。それに、貴女は乗馬の経験など……」

 

「経験など関係ありませんわ。私と彼女なら、必ず通じ合えます」

 

 九条が止める間もなく、ジェンティルドンナは柵を軽々と飛び越え、名牝の横に立った。通常、競走馬に乗るには鞍や手綱といった馬具が必須だ。

 

「失礼しますわよ」

 

 しかし、彼女はそんなものは一切必要としなかった。ジェンティルドンナは、驚くほど身軽な動作で、鞍もない名牝の背中にヒラリと跨った。

 

 ウマ娘のジェンティルドンナが、馬のジェンティルドンナに騎乗する。

 

 文字通り、「ジェンティルドンナ・オン・ジェンティルドンナ」という、現実世界では絶対にあり得ない、しかしどこか神々しさすら感じさせるシュールな光景がそこにあった。

 

「あっ……! 暴れますよ!」

 

 牧場長が青ざめて叫ぶ。見知らぬ人間が、しかも裸馬(はだかうま)の状態で突然背中に乗れば、馬はパニックを起こして振り落とそうとするのが当然だ。

 

 しかし、名牝は暴れるどころか、ピタリと静止したままだった。背中に乗るウマ娘の体重を、まるで己の一部であるかのように自然に受け入れている。

 

「ふふ……やはり、私とあなたは同じ魂を持っているのですね」

 

 ジェンティルドンナは、名牝の首にそっと腕を回し、顔を寄せた。

 

「さあ、少しだけ……この風を感じさせてくださる?」

 

 ウマ娘のジェンティルドンナが、僅かに重心を前に傾けた瞬間。名牝ジェンティルドンナは、まるで長年連れ添った人馬一体の騎手からの合図を受けたかのように、スッと滑らかに歩みを進め始めた。

 

「信じられん……手綱もなしに、あんなに完璧にコントロールしているなんて……」

 

 九条は、呆然と呟いた。牧場長に至っては、口をポカンと開けたまま、その奇跡のような光景をただ見つめることしかできなかった。

 

 

 常歩(なみあし)から、速歩(はやあし)、そして軽やかな駆歩(かけあし)へ。放牧地の緑の絨毯の上を、二人のジェンティルドンナが美しく駆け抜けていく。

 

 呼吸、筋肉のわずかな動き、そして互いの意志の同調。文字通り、阿吽の呼吸。

 

 走る。

 

 止まる。

 

 向きを変える。

 

 そのすべてが、まるで一つの生命体であるかのように完璧に連動していた。

 

「素晴らしい……! これが、この世界における『私』の走り……!」

 

 風を切りながら、ジェンティルドンナは心の底から歓喜の声を上げた。自らの脚で地を蹴るのとは違う、しかし全く別の圧倒的な力強さとスピード感。

 

 放牧地を大きく一周し、彼女たちは再び九条たちの前でピタリと静止した。名牝は軽く鼻息を鳴らし、ジェンティルドンナは満足そうにその首筋を撫でた。

 

「あなたも、おやりになる」

 

 ジェンティルドンナは、背中に乗ったまま、名牝に優しく語りかけた。

 

『……ブルルッ』

 

 名牝は、まるでその言葉を理解しているかのように、低く誇り高い嘶きで応えた。

 

 全く異なる二つの世界。交わるはずのなかった二つの頂点。

 

 しかし今、北海道の広大な空の下で、二人の「貴婦人」は確かに魂の底で通じ合っていた。

 

 それは、政府の監視も、科学的なデータも及ばない、純粋で美しい奇跡の瞬間だった。

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