週末、快晴の空の下。
ジェンティルドンナは九条の案内で、東京都府中市にある巨大な競技施設――東京競馬場を訪れていた。
政府の特権をフルに活用し、用意されたのはゴール前を特等席で見下ろせる最上階の貴賓室(VIPルーム)である。眼下に広がる緑鮮やかなターフと、それを囲むようにひしめき合う何万もの観衆。その熱気は、分厚いガラス越しでも微かに伝わってくるほどだった。
「素晴らしい熱気ですわね。施設の規模も、私の知るトゥインクルシリーズ、そしてドリームリーグのレース場と遜色ありません」
ジェンティルドンナは窓際に立ち、腕を組みながら眼下の光景を見下ろした。
「お気に召したなら何よりです。今日はG1と呼ばれる、我が国で最も格の高いレースの一つが開催されますからね」
九条は少し離れたソファに腰掛け、タブレット端末を操作しながら答えた。
「ええ、とても楽しみですわ。……ところで、九条」
ジェンティルドンナはふと、コースの周辺を見渡して不思議そうに首を傾げた。
「レース後の『ウイニングライブ』を行うためのステージは、どこに設営されるのかしら? この構造だと、ターフの中央あたりになるのでしょうか」
「……ウイニングライブ、ですか?」
九条の手が止まる。彼は事前にウマ娘の基礎知識を頭に叩き込んでいたが、それでも異世界の文化を現実の競馬場に結びつけるのには一瞬のラグが生じた。
「あ、ああ……なるほど。貴女の世界では、レースの勝者がセンターに立って歌やダンスを披露する文化があるのですね」
九条は眼鏡を押し上げ、少しだけ言いにくそうに口を開いた。
「残念ですが、こちらの世界にそういった風習はありません。勝った馬は、騎手と共に口取り式という記念撮影を行い、そのまま厩舎へと帰ります」
「……歌い、踊ることはない。ただ走って終わり、ということですの?」
「端的に言えば、そうなります」
ジェンティルドンナの耳が、微かにピクリと動いた。
――勝利の喜びをファンと分かち合い、己の輝きをさらに知らしめるための神聖なライブが存在しない。それは彼女にとって、少なからず驚くべき事実だった。
「では、あの膨大な数の観衆は、純粋に馬が走る姿だけを見て熱狂していると?」
「いえ……」
九条は言いづらそうに、眉間に皺を寄せた。どう伝えようかと彼が迷う間に、彼女の優れた知性と観察眼は、観客たちが手に握りしめている「小さな紙切れ」や、備え付けのモニターに映し出される「オッズ」という無機質な数字の羅列を見逃さなかった。
「九条。この世界のレースには、莫大なお金が動いていますわね?」
彼女の鋭い指摘に、九条は隠し立てすることなく頷いた。
「……はい。この世界の競馬は、国が認めた公営ギャンブル――つまり、賭け事です。観客たちは、どの馬が勝つかを予想して『馬券』を買い、見事的中すれば配当金を得る。あそこにいる何万人という人間たちの熱狂の根源は、純粋なスポーツへの感動と、自分自身の欲望が入り混じったものです」
その言葉を聞いた瞬間。
ジェンティルドンナの美しい顔に、スッと冷たい影が落ちた。
「……私の誇り高き同胞たちを、己の金銭欲を満たすための『駒』にしていると?」
貴賓室の空気が、急激に冷え込んだ。純粋な「不快感」から発せられる、貴婦人の冷徹な怒気。九条でさえ、思わず息を呑み、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
しかし、その緊迫した空気は、数秒で霧散した。
「ふぅ……」
ジェンティルドンナは短く息を吐き、自らその威圧感を収めたのだ。
「申し訳ありませんわ。少しばかり、私の中にあった『常識』と照らし合わせて感情的になってしまいました」
彼女は優雅にソファへと戻り、用意されていたミネラルウォーターを一口含んだ。
「……世界が変われば、ルールも価値観も変わる。あなた方人間が、この世界で、歴史の中で築き上げたシステムに対して、異邦人である私が口出しするのは野暮というものですわね。ええ、ええ。理解、いたしました」
完全に納得したわけではないだろう。だが、彼女は、ここは自分の世界ではないという事実を冷静に受け止め、怒りを理知的に飲み込んだのだ。その精神的な成熟度に、九条は改めて舌を巻いた。
「ご理解いただき感謝します。……せっかくですから、レースの前に『パドック』を見てみませんか? 観客たちが、出走する馬の状態を直接確認するための場所です。ここからなら、専用のバルコニーから見下ろすことができます」
九条の提案に、ジェンティルドンナは興味深そうに耳を立てた。
■
案内されたバルコニーに出ると、すり鉢状になった広場を、これからレースに向かう十数頭の競走馬たちが、厩務員に引かれてゆっくりと列をなして歩いていた。その周囲を、無数の観客たちが真剣な眼差しで取り囲んでいる。
「……なるほど。あのようにして周回し、調子を確認するのですね」
ジェンティルドンナはバルコニーの手すりに軽く手を添え、感心したように見下ろした。歩様、毛艶、筋肉の張り、そして瞳の奥に宿る闘志の有無。観客たちは、それらの僅かな情報から、馬の仕上がりを見極めようとしている。
「理にかなっていますわ。走る直前の気配というものは、隠そうとしても隠しきれるものではありませんから。それに……」
彼女は、周回する馬たちの中で、一際気合いの入った一頭の黒鹿毛の馬を見つめ、ふっと口角を上げた。
「大勢の視線を一身に浴びることで、己の内に眠る闘争心に火をつける。見られることで強くなる……それは、ウマ娘のライブにも通じる本質かもしれませんわね」
ギャンブルという不純な要素に苛立ちを覚えつつも、レースに向かう馬たちの真摯な姿と、その熱量に、ジェンティルドンナの心は確実に高揚し始めていた。
「さあ、間もなくレースが始まりますわ。この世界の頂点を決める戦い、特等席で見せていただきますわよ」
貴婦人の瞳に、勝負の世界特有の、熱く鋭い光が宿った。