簒奪魔剣/Sickness. Sword. Successors. 作:龍川芥/タツガワアクタ
―――その夜、
欠けた月から身を隠すように、女は暗い夜道を歩いていた。
こつ、こつ、こつ。
断続的な足音が、点火しないライターの火花のように、
それは、どうしても外せない用事を済ませた後の帰り道。
予定外がいくつか重なって、思ったよりも用事は長引いてしまった。
致し方ないことだったとはいえ、時刻はもう三時を回っている。
当然、夜道に人気はない。街は寝静まって久しい。
物音といえばいやに鋭い風の音と、ときおり住宅地を挟んだ大通りに車が行き過ぎるのが聴こえる程度。
昼間何度か通ったことがあるはずの道が、今は全く別の顔をしている気がして、なんだかひどく心細い。
だからだろうか。
“ああ、何かを忘れているような気がする―――”
そんな漠然とした不安が、夜風と共に彼女の胸中を切りつけたのは。
とはいえ、女は童女ではない。
漠然とした不安や、都市の薄い夜闇程度で立ち止まれるほど臆病でもない。
文明のいち歯車である女にとって、怖いのは闇ではなく、これ以上帰りが遅れて明日の予定に支障が出ることだけ……少なくとも、本人はそう認識している。
そうだ。
明日も平日なのだから、早く家に帰らないと―――。
冬の夜は、点在する人工灯を加味しても荒涼と昏く。
自然、冷たい闇に押されるように、女の足は速くなる。
こつこつこつ。
響く足取りは逃げるように。
凍り付いたように
静謐に支配された眠るセカイで、女は紛れもなく異物だった。
眼下を睥睨する冬の月も。
建物の隙間を縫う冷たい夜風も。
押し黙った建物の群れでさえも、彼女を歓迎してはいない。
夜景の中でたったひとつ動く影、たったひとりの通行人は、夜に静止した景色の全てに容赦なく責め立てられている。
そんな無言の圧力に押されるように、女が真っ直ぐ帰路を進んでいる時だった。
「―――?」
ふと、悪寒がして夜道で立ち止まる。
その源泉は、視界に現れた僅かな違和感。
……街灯が、ひとつだけ点いている。
日付も変わった深夜において、街灯は基本的に消灯する。
そうやって人間の指示通り、規則的に整列しているだけの鉄の枯れ木と化した街灯の中に……ぽつんと仲間外れがひとり。
センサーやケーブルが壊れているのか。
それとも仕様通りなのか。
ずらりと並んだ枯れ木の中、その中のたった一本だけが目を覚まし、ジジジと命を燃やしていた。
だから―――当然のように、女はその
―――
「……、ぇ?」
声は、認識よりも早く。
妙にスローモーションになった思考が、意志と無関係に見開かれた目が、生存の為に生涯最高の駆動を見せる。
ああ、真実は探すまでもなく。
視神経と脳神経が接続した瞬間、女はようやく悪寒の正体を理解した。
眼前、闇という海中に沈んだ
その中に取り残された
そんな舞台に、その人影は。
ぽつんと/海原へ孤独に浮かぶ小舟のように、風景から乖離して。
地面から剥がれた影みたいに、
「――――――」
女は息を呑む。
人影が無害な通行人の類ではないと一目で理解しながら、誰何の声を飛ばせなかった……その理由は、彼女自身にさえ分からない。
分かることはたったひとつだけ。
その人影が/飢えた猛獣のように/こちらを見て/凝視しているということだけ。
あとは、何も分からない。
逆光と夜闇とで見えない相手の背格好も。
相手が何の目的でそこに立っているのかも。
自分の足が動かない道理も、呼吸が乱れている原因も、何一つとしてワカラナイ。
だって、分かってしまえば取り返しがつかなくなると、そう薄々察しているから、思考は「分からない」というエラーを吐き続けるしかない。
体が、凍り付いたように
もしくは茫洋と舞台を眺める観客だ。
あまりの恐怖に、危機的状況であるにも関わらず当事者意識が消失する矛盾を、女は生まれて初めて味わっていた。
あるいは、相手が一も二もなく襲い掛かって来たならば。
きっと彼女の肉体は、思考を介さずとも何らかの反応を見せたであろう。
だから、さかしまに。
人影が行動しない限り、女もまた、時間の凍結したホラーショウの
ジジ、ジジジ。
人影を照らす街灯が、臨死を訴えるように明滅する。
びゅう、びゅうう。
街を浚う一陣の夜風は、亡霊がすすり泣く声のよう。
ばたばた、ばた。
切りつける寒風に揺れる人影は、闇から切り出された円形の舞台で、今、待ちわびた最初の台詞を口にする―――。
「――――魔剣・■■■■」
既にセカイは麻酔済み。黒より沈んだ
女が知らず上がり込んだのは、夜の街より更に孤立した、誰も知覚しない
深海に沈んだ闇の中、アカイロの凶眼が獲物を舐める。
―――今更に思い出す『通り魔』の噂。
それは余りにも遅い警告として、女の背骨を下から上まで氷結させた。
◆
それは、遥か魔天にて三日月が嗤う狂気の夜。
その惨劇を語る前に、少し、時計の針は