簒奪魔剣/Sickness. Sword. Successors. 作:龍川芥/タツガワアクタ
青白い三日月が、
今や氷結を超えて凍結した深夜の
どこからともなく聴こえてくる獣の遠吠え、そんな夜を裂くように、少女は暗闇を進んでいた。
かつかつと、等間隔に夜を往く。
彼が通学路に使っている坂道を歩きながら、精霊・ルキフェリアはかの少年のことを考える。
『―――なッ、なら。俺も、あんたに着いて行く』
『いや、だって、あんた一人じゃ危ないだろ。よく分かんねえけど、昨日死にかけたのはマジなんだろうし。それに……俺も魔剣病の発症者なら、この『魔剣』でちょっとは戦力になれる……かもしれないじゃないか』
その善良さは、『善』を
だが、事実、彼の同行は許可できなかった。
何故なら彼は問題を解決する側ではなく、『魔剣発症者』という問題そのものだからだ。
“それにあの時、彼の瞳の奥の奥、そこに欲望の色が覗いたのも見えました……恐らく本人も意識できないうちに、『魔剣』の精神浸蝕は始まっている。今はまだ自制できるレベルなのでしょうが、病巣が育てばそうもいかないはず”
彼はまだ病巣が露出していない、恐らくはステージI以下の病状だが……それでも病巣が根付いた以上、何らかの精神的歪みを抱えていることは事実。
故に、この件を解決した後、改めて話をしなければ。
そこで彼についての思考を打ち切り、ルキフェリアは夜に立ち向かうように前を向く。
「……
それが今宵、彼女に定められた獲物の名。
あるいは彼女を喰らう獣の名か。
予感がある。
かの獣は『魔剣』が齎す飢餓に魘され、必ずこの夜のどこかを彷徨っている。
そして狩人と獣は、決してひとつの場所に共存できない―――。
冷たい夜は既に亡い。
殺し合いの舞台となった冬の夜は、濁った殺意で熱いくらいだ。
「……変、ですね。昨日の負傷が治りきっていないからでしょうか。私もどこか冷静ではない、気がします」
じとり。
雪が降ってもおかしくない冬の夜にあって、白いうなじには汗が滲んでいた。
もう何分街を彷徨ったのか曖昧だ。
この夜は既に何もかもが、きっと時間すら狂っている。
街を抱く、燃えるような狂気の
きっと今宵も花が散る。
思い出すのは、昨日から脳髄に焼き付いて離れないアカイロの
「……そう。この件は何かがおかしい。何か重大な見落とし、勘違いをしている気がしてならない。このまま進めば、取り返しのつかない
不吉な予感の源泉は、やはりあの不気味な影だ。
海馬に焼き付いた二つの赫点。
どうしてか顔も姿も見えなかった、あらゆるモノを『奪う』怪人。
だというのに歩みを止めないのは、その狂気に抗う勇気のためか。
それとも……あるいは、既に狂気に呑まれたから、なのか。
分からぬままに精霊は行く。
脳が甘く痺れている。
治りかけの傷が熱を持つ。
―――ルキフェリア=イマジナティオという精霊は、
人間の善心、他者を理解する想像力から形作られた存在であるが故の
それを補っていた魔剣因子は、既にその肉体から喪われた。
だからこそ彼女は止まらない。
それはきっと、歯車が狂ってしまった機械のように―――。
がちがちと、夜を往く。
狂った歯車の音がする。
そうして、びゅうと夜風が吹いて……。
その影、人気の失せた街の中で唯一動く生き物が、彼女の前に姿を現した。
ぴこん、と頭頂の耳がせわしなく蠢く。
背中に覗くは毛に覆われた哺乳類の尻尾。
そしてその瞳孔は、夜闇の中にあって、ぎらりと縦に裂けていた。
つまり、それは。
「……猫?」
それは、猫だった。
都市・地方を問わず、日本で野良猫など珍しくもない。
それはここ鶴木市も同様だ。
特にこういう都会の猫は、人間とのトラブルを避けるため、深夜に活動する個体も多い。
“例の『赤い獣』……でもありませんね”
だが……道の真ん中に座り込んだその猫は、いかにも不吉の予兆めいて、精霊の目を数秒奪った。
どこにでも居そうな、雑種の猫だ。
夜に溶け込むしなやかな輪郭。
ぴんと伸びた背筋の上、硝子玉みたいな二つの瞳が浮かんでいる。
猫は動かない。
じっとこちらを見つめている。
彫像のような生気の亡さ。
何となく、昨夜の通り魔のことを思い出す。
理解できないモノと不意に鉢合わせた緊迫感が、ルキフェリアの胸中を棘のように刺して―――。
ナオ、と。
猫は実に呑気に鳴いて、とてとてと歩み寄ってきた。
ちりんちりん、足音に合わせて鈴の音が鳴る。
「? これは、首輪……どうして外に?」
見れば、猫は鈴の付いた首輪をしていた。
だが犬はともかく、猫はふつう家の中で飼うものだとルキフェリアも知っている。
何かの拍子に逃げ出した迷い猫か。
それともただ首輪が付いているだけの野良猫なのか。
ともかく、人慣れしているのは確かなようで……ルキフェリアの足元にまで呑気に歩み寄ってきた猫は、ナア、と見上げて再び鳴いた。
「……」
少し覚悟し、ルキフェリアはしゃがみ込んで猫に触れる。
……さらり、偽物ならぬ毛の感触。
人より少し高い体温と鼓動も、きちんと手に伝わってくる。
すり、と自分から撫でられに来る人懐っこさは、やはり飼い猫としての人慣れ故か。
そうして、猫はまたナアと鳴く。
「……餌が欲しい、のでしょうか。残念ながら、私は何も持っていませんよ……貴方、身元を示すものはお持ちですか?」
言って、ルキフェリアはその首輪に指を這わせた。
赤い革に銀色の鈴。
その首輪に名前など書いていないかと、少し調べて……首の右後ろ辺りに、縫い付けられた白い名札と油性ペンの幼い文字。
「……ありました。ええと、名前は……『
その
知っていたけれど。
その脳内で情報と情報とが繋がる前に、『それ』は起きた。
ニャアと
猫の背が、嗤うように
その中から、
ぬるり、
幽霊みたいに白い腕が―――、
「っ――――――!!?」
驚愕、当惑、忌避、生理的嫌悪、理解不能―――そして、恐怖。
人間めいた感情が精霊の脳内を支配する。
それはコンマ一秒にも満たない刹那の硬直。
だが……時間さえ狂った今宵において、その遅れは余りに大きすぎた。
一閃。
それは刃が奔った光の閃きであり、精霊が跳躍した音の閃きでもある。
「く……!」
咄嗟の反応。
不意打ちを躱す為の背後への跳躍。
刹那遅れてなお人の域に収まらぬ反応速度を見せた精霊は、けれど、眼前の光景に押し殺した悲鳴を漏らした。
猫の背より伸びた腕が握るは、更なる異形に歪んだ『魔剣』。
そして。
蜘蛛が蝶を咥えるように魔剣の切っ先に捕らえられた、白くて細くて艶めかしい、どこか見慣れた
ずちゃ、と。
水っぽい音を立てて、ルキフェリアの着地は失敗した。
赤い線が
精霊の肉体、魔剣と魔弾の因子によって人域を超越した身体能力を以てしても、今の彼女は立ち上がれない。
当然だ。
“躱しきれなかった……!”
肉の断面から血を流しながら、ルキフェリアは臍を嚙む。
そんな彼女の視線の先……異形の魔剣の切っ先で、ぷらぷらと女の右脚が揺れている。
猫の背から突き出た片腕と、その腕が握った魔剣。
まるで玩具のびっくり箱だ。
ぷらん、ぷらんと力なく。
自分の一部だったモノが嘲るように揺れているのを、ルキフェリアはただ睨むしかない。
そうして。
チューニング中のボイスチェンジャーを思わせる、一秒ごとに声音が変わるような、余りに不気味な声がした。
「そうだよ」「そうだぜお姉さん」「その通り」「アタリ」「大正解!」「私は」「オレは」「肉が」「贄が」「お姉さんっていう餌が!」「とってもトッテモ欲しいんだぁ」
メリメリと。
猫が
背中の亀裂を軸にして、洗濯後の服を裏返すみたいに、裏面が表に露出する。
否―――それは裏ではなく表だ。
出てくるモノ、白い腕の持ち主こそソレの真の姿。
今までの毛皮など、死体を羽織っていたに過ぎない。
肉体の変貌。
正体の露出。
異常なる病に侵されたソレは、異常を露わにして嗤う、
「だから!」「だから―――」「だから。ちょっと奪わせてよ、その
声と共に完成したのは、幽霊みたいに白い腕の、小学校高学年ほどの童女の姿。
だが、その表情が、言動が、余りに外見に似つかわしくない。
血走った目に、薬物中毒者を思わせる異常なハイテンション。
ころころと変化し安定しない一人称と口調。
その裂けるような笑みの醜悪さたるや、まるで妄執に憑かれた老人そのものだ。
明らかに尋常ならざる子供。
否。
事実、ソレは異形であった。
ぴこん、と頭頂に飛び出した猫の耳がせわしなく蠢く。
背中に覗くは蛇めいてうねる哺乳類の尻尾。
そしてその瞳孔は、いかにも夜目の利く
異形にして異様の童女。
妖怪変化めいて猫のフリをしていたところなど、いかにも怪異めいている。
だが……その実、ソレはルキフェリアと違い、どこまで行っても人間だ。
あるいは探偵が犯人の名を言い当てるように、精霊は怪人の名を看破する。
「……魔剣発症者、
「ご名答。『他者から体組織を奪う』……それが俺の『魔剣』の
にやり、童女にしては力強く笑う戸羽鳥マサキ。
いや、その表情も、口調も、どれもこれも数秒ごとに別人のものに変わって安定しない。
その理由も、蛮行の動機も、ルキフェリアには分かっていた。
魔弾・鏡界女帝。
彼女は昨夜、それを使って怪人の心を覗き見ている。
戸羽鳥マサキ、という名前もそのときに知ったものだ。
とはいえ……名前を言い当てたところで意味はない。
今宵のジャンルはミステリーではなくスプラッタ。
犯人ならぬ怪人は、そんなモノをいちいち恐れたりしないからだ。
「騙し討ちできる愛らしい外見だけじゃなく、
ぎちぎちと。
虫が鳴くように魔剣が軋む。
口ぶりからして、先程までの猫の姿は幻覚などではない。
アレは古典的な変装、死体の皮を被る『着ぐるみ』のやり方だ。
だが……魔剣の能力により、ソレはただの外見を繕う着ぐるみではなく。猫の脳機能や筋肉繊維など全てを己がモノとして利用できる、『融合』の域にあるのだろう。
強力な『権能』。
魔剣による世界法則の冒涜。
“……不覚。昨日は猫への擬態能力を使う素振りはありませんでしたが……隠していたのか、あるいは新たに奪ったのか……どちらにせよ、不味い状況です”
ぷらり、ぷらり。
奪い取った右脚をこれ見よがしに揺らしながら、魔に堕ちた怪人はルキフェリアに迫る。
まるで、巣に絡まった蝶を嘲る蜘蛛のように嗤いながら。
「昨日は世話になったね。というか、どうして死んでないんですか? あんなに血が出てンのを見たのによォ。普通死ぬんじゃないかなぁ? アレじゃ。ま、アンタさんも『魔剣病』みたいやし? 別にそうおかしなことでも―――」
みしり、と。
不意に童女の笑みが罅割れた。
だがそれは状況の好転を意味しない。
寧ろ……それは間違いなく悪化だ。
割れた笑みはそのまま、見るも悍ましい狂乱の歓喜に呑み込まれる。
「この肉体……! へえ、そっか。まさか、キミ、
豹変は、戸羽鳥マサキが『魔剣』を通して右脚の特異性を感知したが故だ。
魔剣は握られているように見えるが、真実はそうではなく、その掌から『生えている』モノ。
いわば肉体の一部にして延長。
肉を切り裂き、奪ったモノを体内へと取り込む第二の口。
生体武装であるその魔剣には、当然、血管も神経も通っている。
ぐちゅぐちゅ。
思わず耳を塞ぎたくなる、咀嚼のような音が響く。
否、それは正しく咀嚼音そのもの。
異形の『魔剣』が、切っ先に咥えていた右脚を取り込み、繋がった主の体に還元していく音だ。
「素晴らしい! アナタの全身を奪ってしまえば、チマチマ体を乗り換える必要もない! おれは、ぼくは、わたしは、その時点で完成する! ああ、ホント助かった、助かりましたとも! だって、だってさァ……こんな風に色んな
そうして、精霊の肉体、その一部を『奪った』怪人は。
右脚で強烈に地を蹴って、ルキフェリアへと襲いかかる―――。
「くっ、“鏡よ鏡”!」
「―――!?」
そんな飢えた獣に対し、放たれたのは鏡の魔弾。
薙いだ精霊の右腕、そこから飛び出した光の弾が、夜を裂いて敵を迎え撃つ。
まるで扇状の
『魔剣』しか知らぬ戸羽鳥マサキは想定もしていない『魔弾』の反撃。
びゅん、と。
風を裂く跳躍の音。
見れば真正面から迫っていた童女の姿は、瞬く間にルキフェリアの頭上へと。
「そう言えば、昨日もそんなの使ってましたね! ソレもアナタの『魔剣』ですか!? 本物のバケモノさん!」
精霊の頭上三メートルを飛び越えた戸羽鳥マサキが、その高さから難なく着地する。
“―――速い! 反応も、速度も!”
再びルキフェリアが魔弾を展開。
だが―――当たらない。
怪人は縦横無尽に跳躍し、跳ね回り、放たれた鏡の魔弾を躱し続ける。
猫の脳組織を『奪って』手に入れた反射神経に、筋肉の増設による運動性能増加。
そこに追加されたルキフェリアの右脚、二重の因子によって強化された人外の肉体性能。
つまり、その速度は既に人の域になく。
ルキフェリアが
「あはははは! 鬼さんこちら!」
それは、ルキフェリアを中心に半円状の蜘蛛の巣を張るみたいに、夜の街を高速で駆け回り、跳び回る。
対し、ルキフェリアは右足を失った状態。
どうあっても背後へ向くのが一瞬遅れ、その遅れがだんだんと取り返しのつかない差になっていく。
そんな彼女へ、再び煽るような声。
「私の魔剣は、斬ったモノを『奪って』『取り込む』魔剣なんです! だから無駄ですよ、もうアナタの体を脚一本分取り込んだんですから! 私は右脚一本ぶんプラスで、アナタは右脚一本ぶんのマイナス! ソレで勝負は着いてるんです! ところで、この喋り方はどうです!? ちゃんとアナタを真似できてますか―――!?」
「ッ、この……!」
魔弾を乱射するルキフェリア……だが事実として、殆ど勝負は着いている。
“せめて魔剣を奪われていなければ……!”
ぎり、と敗北の土俵際で歯噛みする。
ルキフェリアは昨日殺された。
とある特殊な方法で復活したとはいえ、その傷は未だ回復しきっていないし、そのさい奪われた彼女の魔剣は『獣』の位階にまで力が落ちている。
そこに右脚の喪失だ。
もはや近接戦闘に耐えるだけの肉体機能はルキフェリアには無く。
そして健在の魔弾では、跳ね回る戸羽鳥マサキを捉えられない―――!
「凄いでしょう!? 私、元々早熟なんです! 何だって上手くできる、何だって理解できる、何だって簡単に真似できる! だから魔剣も、猫も、手に入れたアナタの脚だって、すぐに使いこなせちゃう! ああ間違えた、もうアナタの脚じゃない、私の右脚なんだった!」
煽るような声はただの事実。
夜の街にて、その魔剣士は既に風よりも迅かった。
雷を思わせる鋭い
壁に床、電柱も電灯もお構いなしの
右脚を失くし、座り込んだままのルキフェリアでは、その影に指先で照準を合わせることが叶わない。
いいや、もはや目で追う事すら―――。
怪人を追う視線に振り回され、激しく乱れる黒金の髪。
秩序の精霊が、今やお化け屋敷に迷い込んだ幼子のようだ。
そんな彼女を嘲るように、四方八方から声が飛ぶ。
「ああ、次はどこを奪おうかなぁ……アナタの肌を奪えば、私はアナタとして生活できる! 細胞を奪えば寿命を更新し! 脳を奪えば記憶も能力も全て受け継げる! そうやってアナタの全部を奪ってしまえば、私を追う者すらも居ない! だってホラ、そうなればもう、
それは耳を通して体の芯まで侵すような怪人の声。
自分の全てを他人に乗っ取られる想像が、人外の精霊にさえ恐怖を覚えさせる。
「っ、そうやって、人間の『皮』を転々として生きる……それが貴方の魔剣を育てた
「目的だった、と言ってよ
惨劇の絶頂を呼ぶ喝采の叫び。
―――来る。
瀬戸際で見抜いた生死の境。
ルキフェリアの超反応が、ギリギリで動く影を捉える。
「上……!」
頭上の影。
指による照準は稲妻のように。
放つは魔弾・鏡界女帝。
着弾。
一瞬で肉も骨も消し飛んで、その体にバスケットボール大の風穴が開く。
血の匂い、肉が焦げる音。
どちゃり、力なく死体が落ちる。
夜なお鮮烈な命の赤。
そうして……ルキフェリアは、己が撃ったモノの正体を見た。
「……!?
地面に落ちてきたのは、胴の部分を魔弾に穿たれふたつに分かれた猫―――首輪を嵌めた、あの『戸羽鳥ミケ』の死骸。
つまりそれが、ルキフェリアが捉えた影の正体。
ならば一体、
「こっちですよ、お馬鹿さん」
声は右から。
ルキフェリアが咄嗟に振り向く。
右腕の照準を怪人に向ける。
けれど、それよりも圧倒的に速く。
―――ざくん。
魔弾に輝くルキフェリアの右腕が、実に呆気なく、肘の先から断ち切られた。
否、それは『切断』ではなく『略奪』だ。
先の脚と同じように、ぷらん。
千切った昆虫の脚を玩ぶみたいに、生白い女の腕を魔剣の先で咥えたまま、猫の要素を
「『奪う』事が出来るってことは、その逆、『棄てる』ことも可能ってコト。ネコの
びちゃびちゃと、断面から血が滝のように。
命の錆びていくニオイ。
冬の冷たく乾いた夜が、今や風呂場のように生温く湿っていた。
そんなスプラッタの中心で……怪人は再び、魔剣を通して『奪った』右腕を咀嚼する。
ぐちゃぐちゃと音がして、女の腕が童女に吸収されていく。
「なぁんだ。右腕を奪っても、その『ピカピカ』は手に入らないんですね。でも、流石に全身奪えば、どれもこれも全部貰えますよね?」
「……っ」
生理的嫌悪を煮詰めた怪人に対し、けれどルキフェリアは己の体を抱くように傷口を押さえるのみ。
もはや逆転の目は潰えた。
今のルキフェリアは、蜘蛛の糸に絡めとられた蝶そのもの。
どれだけ足掻こうが意味はなく。
後はじっくり喰われるだけ。
それを分かっているのだろう、怪人は野生の理にはない、歪んだ嗜虐に酔いしれる。
「そう言えば、ネットに私の事が書いてましたねえ。『怪人マサキ』って。いったいどこからバレたんだろう。最初はちょっと怖かったけど……でも、本当に都市伝説になるってのも、このさい悪くないかなあ。
『マサキさん』。夜道に現れる謎の怪人。出逢った人の体を奪って、その人に成り代わって生きていく不死身の
喝采するように、童女の姿をした人喰いの魔は天へ吼える。
両手を広げた捕食者の姿は、その影が『魔剣』によって歪んだせいか―――いみじくも、どこか、翼を広げた蝶に似ていた。
それは最悪の殺人鬼。
他人の体を乗っ取って生きる寄生虫にして、誰にも悟られぬ不滅の怪人。
本来ならば、当然、秩序の精霊にとって決して赦してはならぬ存在。
だが……既に世界の法則は、秩序という綺麗事は凌辱された。
この場における
即ち、勝者こそが正義。
この狂った夜において、ルキフェリアはただの餌でしかない。
「本当に、ホントウにありがとう、人間じゃないお姉さん。アナタのお陰で、私、ちゃんと不老不死に成れそうです―――」
異形の『魔剣』が月を喰らう。
凍った月が、雲という瞼で目を細めて、非道く冷たく嗤っている。
“……ああ”
それを無力に見上げるだけの餌が抱いたのは、きっと痛烈な後悔だ。
人間であれ精霊であれ、『魔剣』に侵された狂気の夜ではその命に価値はなく。
命が惜しくば、こんな夜に外に出るべきではなかった、と。
そうして。
狂人の哄笑と共に、魔剣が振り下ろされる刹那。
“何かを、忘れている、ような―――”
ルキフェリアは、まるで他人事みたいにそう思った。
だって、そうだろう。
今の三辻坂で夜中に外出するのは莫迦のやること。
死にたくないなら、布団に包まって震えているしか道はない。
それは人であれ、精霊であれ。
何故ならば、三辻坂の夜には―――。
燃えるようなアカイロの凶眼が、魔剣発症者を舐める。
「――――――え?」
思わず。
怪人は手を止め、その視線を感じて振り返った。
凍り付くような夜の街。
此処はとある少年の通学路。
都心から離れた住宅街。
等間隔の電柱の先。
緩く傾斜した坂の上。
―――そこに、ぽつんと/街の本来の姿から、瘤みたいに逸脱した影がひとつ。
いつからそこに居たのか、ただ音もなく/立っていた。
雲間から差した月光が、夜闇に輪郭を映し出している。
暗がりに浮かぶは血色の双眸。
その瞳が、こちらを見ている。
確かに獲物を凝視している。
「―――」
びゅうびゅうと、風は亡霊が哭くように。
どこからか聴こえる獣の遠吠え。
爛々と赤いふたつの瞳に睨まれて、街は子供のように震えている。
いや……震えているのは、自分だ。
脊椎が
脳髄が甘く痺れている。
ああ、心臓が生きるのを諦めたみたいだ。
体はその場に立ち尽くして、ただ、現れた人影に恐怖している。
「……、ぁ……? ぅ……だ、だれ…………?」
問いに答えるように風が吹く。
月に懸かっていた雲が晴れる。
燃えるような月光が、街を一色に染め上げていく。
それは欲望に支配された灼熱の夜。
遥か魔天で月が嗤う、悪夢めいた戦慄のホラーショウ。
さあ、秩序の精霊よ。
不死身を謳う
甘き血に誘われ目を覚ました、真の怪物を目にも見よ。
其は未だ潰えぬ魔王の呪い。
あまねく悪業の簒奪者。
既に夜闇は独壇場、彼の為だけの
「―――」
そうして、夜を
――――――赤い瞳を滾らせた、