簒奪魔剣/Sickness. Sword. Successors.   作:龍川芥/タツガワアクタ

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1. 簒奪強奪/The Taker
草薙戒理/Present-day ①


 

 

 俺―――草薙(クサナギ)戒理(カイリ)にとって。

 ()()()()を発する右腕が、今の自分の全てだった。

 ソレは、右腕にふたつ目の心臓が生まれたかのような錯覚。

 どす黒い溶岩みたいな血が鼓動するたび腕を上がって、全身を侵し焼き焦がす。

 ああ、燃えていく。

 全身の贅肉が蒸発し、炭化した筋肉が収縮する。

 喉は引き攣り枯れ木になる。

 瞼は焼失し目から火が出る。

 脳すらどろりと溶けて、融けて。

 解けた(ダレカ)は、そのまま右腕に呑み込まれる。

 渇く、渇くと声は言う。口だった右腕(モノ)がギチギチと喚く。

 既に理性は亡く。知性すら遠く。悪性の衝動が、俺の全てを薪に燃え上がる。

 炎々と、天を呑むようだ。

 理性の全てを焼き切った禁忌の衝動、その正体が『欲望』だと気付いたときには、全ての思考は遅きに失した。

 ただ、その枯渇の求むるままに。あるいは、焦熱の飢餓から逃れるために。

 

“寄越せ―――!”

 

 出会い頭に、右腕(オレ)は名も知らぬ憐れな獲物へと躍り掛かった。

 それは野生を忘れた都市の見る記憶(ユメ)。かつての摂理の再現たる悪夢。

 暗い夜道に、獣が二匹(ふたり)

 コンクリートには影法師のダンス。

 それはそれは(おぞま)しい、生と死の交錯するパーティー・ナイト。

 ああ、クライマックスに血潮が騒ぐ。

 弱肉強食という名の招かれざる客は、今、獲物の命乞いすら引き裂いて―――。

 

 ―――ざくん、と。

 全てが最高潮に達した瞬間、獲物に漆黒が突き立つ光景(さま)は、滑稽で醜悪な獣の交わりを思わせた。

 右手(オレ)から伸びた黒いカタマリが、寸分違わず生贄(エサ)に喰らいつく。

 刃が肉に沈む音。

 手に伝わる惨劇の感触。

 みずみずしい命が錆びていく匂いと、

 甘い甘いアカイロに、いつもの地獄(きおく)がフラッシュバック。

 

   それは、さかさまのセカイ。

   もえてながれてあかいシカイ。

   つぶれたとうさんのさいごのネガイ。

   つかんだみぎてが、いたい、イタイ―――。

 

 トリップは一瞬。

 希望を託した父親(むかし)の顔は、絶望に沈む獲物(いま)の顔に。

 それが苛立たしくて/(よろこ)ばしくて。

 なんという甘美なる/最低最悪の光景か。

 ああ、黒い声がする/他ならぬ右腕(オレ)が叫んでいる。

 

 ヨコセ、寄越せ、よこせ。

 略奪(うば)え、強奪(うば)え、簒奪(うば)え。

 ころせ、コロセ、(■■)せ―――!

 

 誰かが絶叫(さけ)ぶ声がする。

 誰かが哄笑(わら)う音がする。

 がちがち、がち。それは、踊る人形が軋む振動(サウンド)

 ざくざく、ざく。響くのは、人間が壊れるときに鳴らす手遅れの信号(シグナル)

 また、容赦なく、ざくり。

 惨劇の主演たる黒き魔の刃は、主も獲物も、全てを等しく蹂躙する。

 どくんどくんと、耳を塞ぎたくなるような赤黒の恍惚。

 ぐちゃぐちゃと、目を覆いたくなるような紅白の怖気。

 凍るような冬の夜なのに、ココだけ風呂場みたいに湿っぽくて熱っぽくて、なんだかとてもキモチイイ(キモチワルイ)

 ああ、これが―――二度と取り返しのつかない、感触。

 そうやって。

 全ての血液が炭酸に変わっても得られないだろう快楽に自我を蹂躙されながら――あるいは全神経脈にみっちりと蛆蝿を詰め込まれても味わえないだろう苦悶に自分をズタズタにされながら―――俺は。

 惨劇の当事者にしては余りにも他人事めいて、たったひとつのことを考えている。

 ああ、本当に不思議だ。

 可笑しくてオカシクテたまらない。

 だって、俺は、どうして。

 

 自分の右手でしかないモノに、自分ごと従っているのだろう―――?

 

 

 

 

「―――、っは」

 

 ひゅう、と。

 最初のひと呼吸は、水面からの浮上を思わせた。

 長く長く潜水していた後の待ちわびた呼吸。痛いくらい肺に喰い込む新鮮な空気と、(はや)り過ぎてさかしまに()まる喉。

 ざあっ、と意識が暗闇から乱暴に投げ出される。

 最初に(カーテン)越しの光を感じ、次いで肌と喉に突き刺さる冬の冷気が、眠っていた感覚を容赦なく叩き起こしていく。

 ばくばくと胸骨を軋ませる鼓動。

 ぜえぜえと(むせ)たような荒い呼吸。

 こんなにも寒い朝一番なのに、体の芯は燃えるように熱くて、びっしりと全身から汗が噴き出ているのが分かって。

 ほとんど反射的に、左手で右手の様子を確かめた。

 ……愛用の革手袋は嵌ったまま。

 とある事故で負った、自他共に見苦しい傷痕を隠すお守りは、今は悪夢が悪夢に過ぎないと証明してくれる魔法のアイテムだった。

 

「……ふぅ。悪夢(ユメ)、か」

 

 ようやく一息つき、全身を弛緩させ布団と枕に沈み込む―――先程まで味わっていた情景が、今の自分とは断絶した幻に過ぎぬと理解して。

 要するに。

 それが俺、草薙カイリの、慣れ親しんだ悪夢からの目覚めだった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 薄い壁にガタガタの窓。

 玩具みたいなキッチンと、辛うじて付いている風呂トイレ。

 地味、と言うにも頼りない、八畳一間のワンルーム。

 三辻坂(ミツジザカ)で一番の安アパートの一室が、俺・草薙カイリの居城である。

 

「……」

 

 ベッド脇、置き時計の示す現在時刻は午前七時二十分。

 布団を捲り、足つきベッドの上で上体を起こすと、もう一年近い付き合いになる自室は、今日も静かに主の目覚めを待っていた。

 

 一目で見渡せる室内の様子。

 机、椅子、本棚、クローゼット、カーペット、冷蔵庫に洗濯機……最低限の生活水準は満たしている、一人暮らしを送るには問題ないと身を以て実証済みの我が家。

 

 尤も、この外と殆ど変わらない室温だけは人によっては耐え難いだろうが……俺はわりかし寒さに強い方なのでそう気にはならない。

 どちらかというと問題は夏の方で、俺が購買欲に屈するとしたらストーブではなくエアコンだろう……というのが、扇風機だけでひと夏を乗り切った経験に基づく実感である。

 

「……とはいえ、流石に寒いな……」

 

 布団の中に残った暖気と、部屋中を占領する冷気との温度差に、布団から出ようとしていた動きが一時停止。

 落差のイメージはナイアガラの滝というか、上半身が地獄で下半身が天国というか。正直、全身を地獄の冷気に晒すには、あと数分ほど覚悟を固める時間が必要なカンジ。

 

 暦は十一月。

 我らが極東の島国へ、本格的に冬がやってくる季節。

 安アパートの壁は家賃相応に頼りなく、外気に対しては蟷螂(とうろう)の斧である。

 そのうえ部屋の扉はどうにも作りが貧相で、上下に僅かだが隙間が空いており、恰好の冷気の通り道を作っている有様だ。

 こんないい加減な建物があるのか、という感嘆にも似た初見の感想を、俺は今でも鮮明に思い出せる。

 それこそ落差が凄かった、というか。

 

浜矢(ハマヤ)の家って、ホントに凄かったんだなぁ……」

 

 なんてのは、もうお決まりになった呟きだ。

 

 俺は去年まで、恐らく三辻坂で最も立派な武家屋敷―――浜矢(ハマヤ)邸に居候させてもらっていた。

 そのときに使わせてもらっていた客室と比べると、この部屋は、一段落ちる、ではとうてい済まない格落ち―――ならぬ都落ちの独房だ。

 寒い、汚い、軽い、狭い。

 “まあいいか”なんて作り手の妥協が結晶化した建物が、ここ、『コーポわきざし』なのである。

 

 とはいえ、住めば都とはよく言ったもので。

 単純な住みやすさ、家具や設備の充実度、纏う品格(ランク)など全ての差を差し引いても……格闘技なら敗北確定の圧倒的点数差を感情に入れても、一国一城の主というのは存外気分がいいもので。

 いや、寧ろ当時より落ち着くくらいだ。

 学生バイトの収入で借りられる程度の部屋(アパート)が、今の俺に相応の住処だということだろう。

 あのまま居候を続けるのも居心地悪かったし、なんて呟いて、それは彼等に失礼かもしれないと自省した。

 

「とはいえ、今更戻るワケにもいかないし、な」

 

 浜矢の家には返しきれない恩がある。

 五年もの間、本当によくしてもらった。

 引き取り手のいなかった俺を『事故現場に居合わせた』という理由だけで保護し、無償で家族に引き入れてくれたことには、本当に頭が上がらない。

 さすが街の名士、正義の名門というべきか……浜矢の家に悪人はいない、なんて評判は、俺自身が身を以て証明している。

 ただ……だからこそ、俺はあの家に居続けるわけにはいかなかった。

 「本当の家族と思ってくれていいんだぞ」という言葉は嬉しかったけれど……その好意に甘えてしまえば、彼等が甘ったれを育てたことになってしまう。

 そうだ――大切に思うからこそ、離れなければならないこともある。

 恩を仇で返すわけにはいかない。

 素晴らしき第二の両親に育てられた草薙カイリが堕落することは赦されない。

 それは間違っているコトだ。

 だからこそ、俺は中学卒業を機に浜矢邸を出たのだ―――あの優しい家族(セカイ)から完全に離れられなくなるという過ちを犯す前に、元の他人(かんけい)に戻ることにしたのだ。

 

 ……とはいえ。

 情けないことに、学費は未だに融通されちまっているのだが。

 中卒就職なんて不景気の世では無謀だ、最低でも大学卒業は目指しなさい、これは強制だから学費も強制的に出す……というのが名家・浜矢家主人の主張。

 善良と厳格、ふたつの単語を融合させて二で割らなかったような性格の武人(ちちおや)に一喝されれば、俺に逆らう力など無いのであった。

 かくして俺の自立の決意は、せめて学費の安い公立校に入れるくらいには頑張らないとな、という妥協にすり替わり。

 今日も今日とて、高校生という肩書をぶら下げて生きていく草薙カイリくんなのであった。

 

 と。

 目覚めたにも拘らず、上体を起こすだけ起こして、酷い寝覚めの後遺症のように布団の上でぼーっとしている時だった。

 

 がちゃん、と。

 紛れもなく、ウチの扉の鍵が開く音。

 

「おっじゃまっしまーっす―――」

 

 次いで弾むような声。

 合鍵を持っている声の主は待ったなしで扉を開けると、侵略者(インベーダー)じみて俺の居室に姿を現す。

 電撃作戦ばりの迷いの無さで突入してきたのは、いつも通りの見知った顔。

 

 冬の景色から抜け出してきたみたいに色素の薄い髪。

 怜悧と可憐を行き来する藍玉(アイスブルー)の瞳。

 見慣れた三辻高の制服は、未完成ながら見惚れるような女性的魅力を削ぐどころか、斜め上方へブーストしている。

 そんな、黙っていれば人形にも勝てそうな美貌の少女は、こちらと目が合うなりクール&ミステリアスな雰囲気を全力で台無しにした。

 

「あ、起きてた。まだ七時半まで三分ちょっと、いつもなら無防備に寝顔晒してる時間なのに……ま、いっか。兄の勤勉は妹として喜ばしい事だし、ここは素直に祝福しましょう。

 というワケで―――おはよう、お兄ちゃんっ♪」

「……おはよう、シロネ」

 

 いつもの事ながら自分の家に帰って来たように迷いのない来客へ、俺は辛うじて挨拶を返す。

 すると彼女は窓越しの朝日など遠く及ばない、太陽そのものみたいな笑顔で破顔するのであった。

 

 浜矢(ハマヤ)白音(シロネ)

 一か月差の同級生(おないどし)で、多分、ウチの学校で一番評判の美人さん。

 そんな彼女が朝七時半から俺の自室に訪れているのは、別に何か色っぽい理由ではない。

 

「うへぇ、相変わらず寒い部屋ー。このご時世にストーブもエアコンも無いって正気じゃないよ、やっぱり。

 あ、今日もエッグトーストでいい? ベーコンとブロッコリーと、あとインスタントのスープも持って来たんだー」

「……それは、まあ、有難いけど」

 

 俺の返事も待たず、シロネは学生鞄だけ置いて、さっさと狭い台所に立ち戻る。

 

 シロネは、俺が居候していた浜矢家の跡取(ひとり)娘である。

 五年も同じ家で育ったこともあり、シロネは未だ何かと世話を焼いてくれるのだ。

 言葉を選ばず言ってしまえば、つまり、一か月年下の癖にお姉ちゃんぶっている。妹なのか姉なのか、ちょっとハッキリして欲しい。

 「あの子、ずっときょうだいが欲しかったみたいだから」―――というのは浜矢夫人(おかあさん)の談だ。

 とはいえ、五年間もずっと楽しそうに世話を焼かれては、一人っ子時代の飢えの解消というよりは彼女生来の性質な気がする俺である。

 要するに、ダメな(きょうだい)を引っ張って行くことに価値(やりがい)を感じているのだろう、彼女は。

 部屋の掃除が好きな連中と同じ手合いだ。

 マイナスがゼロに戻る、という行為に達成感を見出すあたり、浜矢の血は争えない、ということらしい。

 

 とはいえ、俺ももう十六歳(いっぱし)の男。

 そもそも浜矢家に迷惑を掛けないために家を出たのに、こうも毎日ご息女に時間を取らせては、元の木阿弥というものだ。

 溜息ひとつ。

 鼻歌混じりに置きっぱなしのエプロンなどを身につけている妹分へ、俺はちょっとばかし苦言を呈する。

 

「……いつも言ってるだろ、シロネ。そう毎日来なくていいって。心配しなくても学校には行ってるよ。学費を払ってもらってる以上、惰性で欠席なんてしない。そのくらいの信用は、いい加減あっていいと思うけど」

「むぅ、なにその言い方。まるでわたしが監視のためにお兄ちゃん家に来てるみたいじゃんかー。それ、家族を信用してないのはどっちの方かなあ?」

「――うぐ」

 

 痛い所を突かれた、と閉口する俺に対し、シロネはまるで容赦なく続ける。

 

「わたしに手間を掛けるのがイヤ、なんて言ってるけど。それがイヤならウチから出なきゃよかったのにさー。お母さんとか使用人(メイコ)さんとか、今でもちょっと悲しんでるんだよー? わたしだって、お兄ちゃんが相談ひとつなく出ていったのは超ショックだったし。正直、ありえないーってカンジだし。まだちょっと根に持ってるし?」

「……分かった、降参。謝るから勘弁してくれ、俺が悪かったです」

 

 心の首根っこを締め上げられるような正論に降参(タップ)すれば、よろしい、とシロネは満足そうに頷いて朝食の準備を再開した。

 

 なんというか、エネルギー量の差が凄い。

 バイタリティ、というのか。

 俺が布団でもごもごやってる間に、シロネの奴はてきぱき料理して温かい朝食を準備しているとくれば、これはもう生まれ持った活力(エネルギー)の格が違う。

 例えると、俺が型落ちオンボロ自動車なら、シロネの奴は新幹線超えてジャンボジェットといった所か。

 当然、口喧嘩であろうとこっちに勝てる道理がない。

 

「そ・れ・で。エッグトーストでいいよね、お兄ちゃん?」

「……いいも何も、選択肢なんかないだろ」

 

 今、うちには食パンと卵以外のまともな食料品は無い。冷蔵庫の中は散々たる有様で、米も在庫を切らして久しい。

 なので最初から選択肢はない、のだが……。

 

「というかそもそも、料理(それ)くらい自分で出来る。俺を舐めすぎだぞ、シロネ。いいから、おまえは先に行って予習でも―――」

「ん? 何か言った?」

 

 ニッコリと。

 笑顔で振り向かれて、俺は思わず言葉に詰まった。

 だってシロネの手の中では、エッグトーストの作成においてとても必要とは思えない出刃包丁が、ギラリと光っていたからね。

 冗談にしても迫力あり過ぎというか、笑ってるのに目が笑ってないというか。

 そして当然ながら。

 武力(ぶき)の無い俺には、無条件降伏以外の選択肢などないのであった。

 

「……いいえ。御馳走になります、お姉さま」

「よろしい……お姉さま? まあいっか。というか、わたしだって朝ゴハンまだなんだし。なんと言い当てられた通り、お兄ちゃんに選択肢はなかったのです」

 

 台所に向き合ったまま、鼻歌を唄うように暴露するシロネ。

 俺はちょっぴり憮然として、その細いのにしっかりとした背と会話する。

 

「む、なんだそりゃ。なら、どうしてわざわざ俺の意見を訊いたんだよ」

「それは勿論、わたしのモチベーションの問題に決まってるじゃん。お兄ちゃんに喜んでもらうためにやってるんだから、そっち側もちょっとは嬉しそうにしてくれないと、やりがいが無いってモノでしょう?」

「……成程、そりゃごもっともだ」

「そうなのです。ごもっともなのです。ほら、理解した以上、わたしに何か言うべきコトがあるんじゃない?」

 

 くるり、とシロネがこちらを振り向く。

 青い瞳に真っ直ぐ見つめられて、俺は十秒足らずで根負けした。

 

「……。いつもありがとう、シロネ」

「どういたしまして、お兄ちゃん♪」

 

 にんまりと。

 見るからに上機嫌になって、シロネは包丁を仕舞い調理を再開。

 やっぱ必要なかったんじゃねえか、それ―――なんて文句は今度こそ言えず、俺は洗面所で顔を洗うためにようやく布団から脱出する。

 

 ……結局のところ。

 俺は大恩ある浜矢の家人に対して、ちっとも頭が上がらないのだった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 冬の朝は、白い。

 日の色も、風の匂いも、街の空気も。何もかもが真っ白でまっさらだ。

 青い夏に燃え尽きた灰が、秋を過ぎてすっかり冷えてしまったような。

 見るモノ、触れるモノ、吸い込むモノ……その全てが寒くて、固くて、痛いくらいに透き通っている。

 夜とはまた別種の厳しさ。黒い氷が融けた街は、未だ分厚い霜に覆われ、進む秒針すら軋むよう。

 けれど、俺はこの肺を刺す冷気が嫌いではなかった。

 だって、熱のない渇いた寒気は、華美でないが故に濁りがない。

 色の亡いこの季節は、彩りが増す他の季節よりも、よりクリアに(セカイ)を感じられる気がするから。

 

 

 義兄妹(ふたり)揃って朝食を摂ってから三十分。

 お決まりの登校ルート―――都心から外れた住宅地である三辻坂(ミツジザカ)を下りながら、俺はそんなことを考える。

 黄昏ている、というワケではないと思う。

 ただ、俺はときおり、感じている世界を正確に把握したいという気持ちに駆られるのだ。

 主観(じぶん)がある以上、自分が感じた感覚(モノ)と現実の姿(カタチ)にはきっと齟齬がある。それをできる限りゼロにしたい、というか。

 俺が感じている空の青さと、誰の目も通さない原初(ほんとう)の空の色は、いったいどれだけ違うのだろう……みたいなことを、つい考えてしまう癖がある。

 シロネ辺りに言わせれば、(おにいちゃん)はぼーっとしている、そのうち車にでも轢かれそうで心配、らしいけど。

 

 と。

 そんな心外な評を俺に下した張本人が、横を歩きながら尋ねて来た。

 

「そういえば。そろそろ期末試験近いけど、お兄ちゃんは勉強大丈夫そう?」

 

 朝の住宅街の喧騒をいっそう遠くする、真横よりの問いかけ。

 こうしてシロネと一緒に登校するのもお決まりだが、今日の話題は冬の寒さより厳しくて、俺は思わず顔を歪めた。

 

「うぐ、朝っぱらから頭の痛い話題を……いちおう、俺なりに頑張ってるよ。そりゃあ、シロネとは勝負にならないかもだけどさ」

「む、目が泳いでるぞーお兄ちゃん。学生の本分は勉強でしょ? 学業が疎かになるようなら、そんなアルバイト生活は不健全だと思うけどなー、わたし。やっぱり、今からでも戻ってきたほうがいいんじゃない?」

「まだそれを言うか……勉強ったって、バイトも立派な社会勉強だろ。最終的には社会に出るんだから、テストの点数で威張ったって何にもならないじゃないか」

「それは威張れる点数を取った人が言ってこそのセリフです。社会に出る前に大学に進学しなきゃいけないこと、忘れてないよね、おにーいちゃん?」

「……ごもっともです、ハイ」

「よろしい♪」

 

 本日何度目かの俺の降参に、連戦連勝のシロネはにっこり笑顔。たたたん、とローファーが踊るように坂を蹴る。

 ……今更ながら、兄扱いがちょっと辛い。

 本当、浜矢の家に引き取られたとき、誕生日一か月の差で兄貴ぶったのは人生最大の失敗だったと今でも思う。同級生(おないどし)の、それも自分よりずっと優秀な女子に「お兄ちゃん」などと呼ばれるのは、何と言うか形無しだ。どうにも恰好のつけようがない。

 

 とはいえ悲しいかな、それで勉学に精を出せるほど、俺は勤勉な性質(たち)ではなくて。

 ああ、確かに……そういう意味では、俺はぼーっとしているんだろう。

 自分を包む風景に興味はあっても、教科書の内容に同じ興味が適用されないなら、それは正にシロネが評した通りの性格だ。

 さすが姉にして妹、義理でもきょうだいの絆はあるものだな……なんて考えていると、上機嫌モードのシロネがこちらを覗き込んできた。

 

「どう? 何なら、わたしがつきっきりで勉強を教えてあげても―――」

 

 と、そんなとき。

 

「ヨ、兄弟。今日も浜矢サンと仲良く登校かい?」

 

 後ろから揶揄うような第三者の声が掛かって、シロネは言葉を中断した。

 きょうだい揃って声の主を振り返る。

 

「……黒山(クロヤマ)君」

「はよー、クロヤマ。そっちは珍しいな、とうとう遅刻もできなくなったのか?」

 

 振り向いた先には、冬の白い街によく目立つ黒い長身。

 気の抜けた挨拶に気を遣わず声を返せば、相手も気にせず同じ調子を返してくる。

 

「マ、そういうコト。試験は一夜漬けすればいーけど、出席日数は一晩で挽回できねーしナ。ただ、マ……やっぱ早起きってのはダメだねえ、どうも。頭が回んねーというか、迂闊に藪蛇つついて馬に蹴られる直前というか、サ」

「……ええ、ほんとうに、ね。折角水入らずだったのに……」

 

 意味の分からないぼやきを溢す彼に対し、言葉を返すのは隣のシロネ。

 ただ不思議なのは、さっきまで上機嫌モードだった彼女の機嫌が、急転直下でゼロマイナスラインを割っていたということで。

 

「? どうしたシロネ。急にテンション下がったか?」

 

 条件反射の問いかけは、けれど不良男子の介入によって遮られた。

 

「ハイそこ、コレ以上藪をつつくんじゃねーよ……マ、今更カイリにデリカシーとか期待してねえけど、サ」

 

 呆れたように溜息を吐く、俺たちと同じ制服を着た男子生徒。

 長身をピアスだのチェーンだののアクセで飾り立てておきながら、髪だけは墨汁を被ったみたいに真っ黒なままの同級生。

 色男ではあるのだが常に良くない噂が付き纏っており、その噂も大体真実なので周囲から蛇蝎の如く忌み嫌われている……というか恐れられている怪人ブラック。

 またの名を三辻高(サンコー)のヘラヘラヤンキー。

 

 黒山(クロヤマ)(ムシロ)

 三辻の黒蝮(クロマムシ)、なんて異名を持つ健康不良児であり、たぶんウチの高校ではシロネに次ぐくらいの有名人。まあ、こっちは悪名高いって表現の方が正しいかもしれないが。

 そんな友人―――とも言い切れない悪友に、俺はさして何も考えず話を振る。

 

「なんだよそれ、人聞きが悪いな。おまえよりは絶対にマシだぞ、多分。

 あ、そうだクロヤマ。今度一夜漬けの方法教えてくれよ。おまえ、中間のときは俺より成績よかっただろ? どんな魔法使ったんだ、アレ」

「ウゲ、言ってる傍から。イヤ、そりゃオレの方は構わねーよ? でもさァ、カイリくんよお……」

「?」

 

 ちらり、と普段の粗暴さが嘘のような弱弱しい態度で俺から視線を外すクロヤマ。

 その先には、なんだか俯いてわなわなしているシロネの姿が。

 

「……ふーん。ふっうーん? お兄ちゃんはわたしより黒山君を選ぶんだあ。中間試験学年総合四位のわたしより、百位(まんなか)付近の黒山くんを、ねぇ―――?」

「なんだよ、急に怒り出してさ。バイトがあるんだから、なるべく短い時間で得点を伸ばせる技術を知っときたいってのは当たり前だろ。それとも、その努力すら堕落だって言うのか? 成績上位者サマは」

「……もういい。後で泣き付いて来ても知らないから。お兄ちゃんのばかっ」

 

 言い捨てて、シロネは唐突に通学路を走り去っていった。

 瞬く間に小さくなっていく背を眺めながら、俺は憮然として呟く。

 

「なんだあいつ。ったく、バカにバカって言うのは暴力だぞ、バカヤロー」

「……イヤイヤ。今のはちょっとヒドイってか、ナシだろうよカイリ。タイミング的にお邪魔しちまったオレが言えるコトじゃねーかもだけどサ?」

「? なんでだよ。クロヤマ、おまえまで優等生(シロネ)の肩を持つのか?」

 

 落ちこぼれ仲間の絆はどうしたんだよ、と白い目を向ければ、クロヤマはなんだかムカつくくらい飄々と肩を竦めた。

 

「マ、そりゃね。男ってのは女の味方であるべきだってのがオレの持論だし? というかこういうトキに野郎の肩持つ男とかキモイし。

 タダ、今回のはそういうの関係ナシにオマエが悪いと思うワケ。もうちょい女心を気にしろっつーか……知ってるだけでも一年ずっと独り相撲とか、流石に浜矢サンがカワイソーだろが、ナァ?」

「いや、俺が恵まれてるのは自覚してるよ。シロネも、いちいち世話を焼いてくれることには感謝してる。ただ、世話になりっぱなしってのも情けない話だろ、実際」

「……ウン。オマエが何も分かってないことだけは分かったよ、兄弟」

 

 ナムアミダブツ、なんて呟いて、クロヤマは消えたシロネの背を追うように足を速めた。

 どういう意味だよその念仏、と思いつつも、俺も黒い長身を追う。

 

 

 なんてことない、いつも通りの登校風景。

 灰色中心の住宅街、葉を落としきった並木道を抜けて、十分程度の旅路は終わる。

 ゴール地点は街中にどどんと鎮座した冬の城。

 贅沢に土地を取った(グラウンド)、飾り気はないがサイズだけは民家を圧倒する建物(こうしゃ)の壁面で、丸い時計が裸の王様めいて午前八時を誇っている。

 朝を往く人の流れを吸い込む、横に広いが背の低い門。

 ゴールテープを切るような感動もなく、俺は白く濡れた敷地の境界を周囲と同じように跨ぐのだった。

 

 校門に掲げられた学び舎の名は、都立三辻高等学校。

 今日も、草薙カイリの日常(いちにち)が始まる。

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