簒奪魔剣/Sickness. Sword. Successors. 作:龍川芥/タツガワアクタ
その日の始まりはわりかし平凡だった。
「おーい、お兄ちゃーん。起きてー」
いつものように俺の部屋に侵入してきたシロネに、いつものように起こされる。
とはいえ今日は
目覚まし時計を確認し、十分の前倒しに悲鳴を上げる頭を庇う。
「……なんだよ、シロネ」
「ねえお兄ちゃん、そこの棚に入ってた包丁知らない? トーストとフルーツを切るのに使いたかったんだけど、見つかんなくて。この家、包丁はアレひとつしかないでしょ?」
「……ああ、包丁、ね」
成程、用事はソレだったか。
俺は重い頭を振って上体を起こし、なるべく自然体を装って言った。
「それなら昨日、茶色い翅の昆虫をぶった切るのに使っちゃってさ。流石に汚いってことで棄てちまったよ」
「……ナニソレ。虫を思わずぶった切るなんて、お兄ちゃんは名うての剣豪だったの?」
「いや、マジパニックになっちゃって。咄嗟に、といいますか……」
「うーん。そもそもお兄ちゃんって虫系平気な人だったよね? よくお母さんに頼られてたじゃん。それがパニックって……なーんかヘンだなー」
「な、何が変なんだよ。それより、そんなに包丁が必要な料理なのか? 今日の献立は」
鋭いシロネにこれ以上考察させるものかと話題を逸らす。
と、目論見は成功したようで、シロネは安アパートのボロキッチンに似つかわしくない高貴な料理を指し示した。
「ううん、御覧の通り、普通のフレンチトーストだけど……トーストもイチゴも切っておいた方が、盛り付けるときに見栄えがいいじゃない?」
「……なんだよ、なら別に要らないじゃんか、包丁。別に見栄えなんかどうだっていいだろ。そもそも料理して貰ってる以上、出来の良し悪しで文句なんか言わないよ」
「えー、なにそれ。なーんか頑張りがいがないっていうかさ。お兄ちゃんは相変わらず乙女心が分かってない! 具体的には妹をもっと褒めるコト! その為に良し悪しを気にするのです!」
「……でも、文句言ったら怒るだろ、おまえ」
「そこはそれ。改善点を言ってくれるのはありがたいけど、心は理屈とは関係ナシに傷付いちゃうモノなのです。そういうワガママなトコロも広い心で受け入れてよね、お兄ちゃん♡」
……おまえね。ちょっと可愛いからって何でも許すと思うなよ。許すけど。
相変わらず無敵の我が
とまあそんな風に、その一日はわりかしいつも通りに始まった。
でも、嵐の前が静かなのは当然の事で。
その日が決して忘れられない日になることを、この時はまだ知る由もない俺なのだった―――。
◆
―――俺含む三辻高校の生徒にとって。
その出来事は青天の霹靂ならぬ、真冬に見る花吹雪そのものだった。
「
そんな風に丁寧な挨拶を済ませ、彼女はぺこりと腰を折る。
カーテシーでこそなかったものの、クラスの全員が中世のお城のお姫様を
教壇の横、黒板を背に淡い黒髪が踊る。
それは、日常に放り込まれた異常。
―――要するに、彼女は『転校生』だった。
その日。
十二月になったばかりの教室は、余りに季節外れの春の
彼女の横の教壇で、若い担任教師も困った
とはいえ、それも無理なからぬことだろう。
普段は持て余し気味なほどに元気な一年三組の教室が、今は水を打ったように沈黙して、そのまま時間を停止させてしまったのだから。
「……えー、っと。刀塚からの転校という話ですけれどもね、
取り繕うように付け加えられた補足説明も見事に空回って。それでやっと、
それ程までに、転校生の登場は一年三組にとって大問題だった。
あるいは。
問題は転校生の登場そのものではなく、転校生が『彼女』だったことに起因するのかもしれない。
俺は―――否、教室じゅうの誰もが、彼女を見る。
背まで伸びた長い黒髪は一抹の乱れもなく。
それは
瞳は金に近い飴茶色。
艶やかな睫毛に飾られた宝石は凪いだ湖面のように穏やかで、永い
容姿はもはや言わずもがな。
男女ともに見惚れるしかできない面貌は、彫刻のような造形美と血の通った親しみやすさという、決して同居しないはずの二種の魅力を、当然のように両立させてしまっており。
体躯は、それこそ芸術品だった。
成熟した麗しさではなく、未だ可能性を残した乙女の可憐さがその
肌は白く、手足は均整と完成の
そんな
「はい。
その控えめな『お願い』に、教室じゅうが聞き惚れる。
声は清流のせせらぎのように透き通り、
言葉選びの品の良さは一流の
そうやって紡がれる一言一言は、まるで天上の楽器の音色のようだ。
それは、美しかった。
美しい乙女、美しいひとの
目も眩まんばかりの華美ではなく、目を慰撫するような優美の
それでも沈黙は十秒だけ。
否、もとよりその少女は、周囲を圧し潰すような迫力の類は微塵たりとも有していない。
だから必然的に、驚愕から脱した教室にはまばらながら喧騒が戻る。
とはいえ、声の殆どは囁くような、転校生に向けてではなく身内に向けて放たれる感動の言葉の類だ。
彼女に直接声をかけるような勇者は、今のところたったひとりだけ。
そんな、「どうしてこんな時期に転校を?」という掠れ切った
その一言でクラス全員が納得させられてしまうほど、彼女の振る舞いは完璧だった。
品のいい、というよりは、楚々としながらも品格の隠しきれない仕草。
静かに咲く花のような、決して風景以上に主張しない微笑み。
空間の端まで行き渡るギリギリの声量に抑えられた美声は、復活した教室の喧騒に押され、粉雪のように痕跡を残さず溶けてしまう。
教室でいちばん美しいのに、教室内の空気をちっとも荒立てない矛盾。
まるで本当に花のようだ。
美しく凛と立っているけれど、他者を傷付ける要素がどこにも見当たらない―――という意味での完璧。
万人に受け入れられるための理想の
「えーと、それじゃあ……結生さんの席は、今空いてるそこでいいかな。いいよな、
「え?」
急に名前を呼ばれ、間抜けな声が漏れる。
主役を見つめる観客気分だった俺に不意打ちで向いて来た
それは俺に原因があるのではなく、俺の座っている席に起因するものだと、弛み切った意識がなんとか理解する。
俺の席は教室の一番端、教壇から最も遠い窓際の席。
一年三組において、机は縦六列・横六列になっており、横最後列である六列目には窓側・廊下側ひとつづつの計ふたつしか机がない。
そんな最後列の窓側が俺・草薙カイリに与えられた席。
だがそれは昨日までの話で。
今日は登校したときから、その情報に更新があった。
そうだ。主観では百年前くらいの出来事だが……確かに数分前まで、どうして昨日までなかった机と椅子が俺の席の隣に現れたのか、なんて、不思議に思っていたっけか。
そんな疑問の解答は、花吹雪みたいに現れて。
今、俺の隣に腰を下ろした。
そして、彼女はそれが当然とでも言うように、唯一の隣席である俺に向かって座ったまま小さく会釈する。
「これから、よろしくお願いしますね」
「え、あ、ああ……よろし、く?」
未だ空白の理性に代わり、培った反射が勝手に返事。
それを揺るがぬ微笑みで受け止めて、転校生は周囲を見渡すように、自分に注目する他の生徒たちに視線を使って挨拶を返した。
やはり、横顔は風にそよぐ花のように。
誰も傷付けぬよう、誰も悲しませぬよう、やわらかにやわらかに笑っている。
「……」
思わず、口元を歪める。
言葉にならぬ思考未満の感情のうねりを、恥じるように、間違えて刻んだ解答を消しゴムで消すように、じっと奥歯で噛み殺す。
それでも死に切らなかった感情の残滓が、俺の舌に苦味となってへばりついた。
……ああ、何故だろう。
こんなにも完璧なのに。
こんなにも完全なのに。
こんなにも、目を奪われるのに。
野花のような彼女の在り方は、どうしてか、俺の目には酷く痛ましく映った。