お姉様と紅い瞳の弟 作:主人公こそ最高のヒロイン説
今さらですが、原作の重要な設定やキャラクターの生死に関わる大幅な改変が含まれています。
いわゆる「原作崩壊」や「独自解釈」が苦手な方はご注意ください。
真冬との邂逅から、数週間が経った。
警備の目を盗んでここへ通うことは、もはや俺の身体に刻まれた夜のルーティンとなっていた。
「……鏡也」
部屋に入った瞬間、影のように座っていた真冬が立ち上がる。
数週間前までは、俺を認識することすらなかった少女。だが今の彼女は、俺の足音を聞き分けるなり、吸い寄せられるように歩み寄ってくる。
「……すまないね。今日は深雪とともに魔法演習に付き合わされていてね」
「……いい。今、ここにいるから。……お話、して」
真冬は俺の正面に立つと、服の裾を小さく掴んだ。俺たちは窓際の月明かりの下、並んで腰を下ろす。
「今日は……そうだな、庭の隅に咲き始めたリコリスの話でもしようか」
俺は窓の外、月明かりに照らされた実験棟の無機質な庭に視線をやりながら切り出した。
「深雪がそれを見つけてね。『鏡也、見てくださいまし。地面から炎が噴き出しているようですわ』と、背筋を伸ばして、けれど瞳をキラキラと輝かせて報告してくれたんだ。あの子なりに、その毒々しいほどの赤さに、言葉にできない生命の力を感じ取ったんだろうね」
俺は、お気に入りのおもちゃを見つけた子供のような幼さと、四葉候補の令嬢としての優雅な立ち振る舞いが同居する深雪の姿を思い出し、ふっと口角を上げた。
真冬は俺の言葉を一言も漏らさぬよう、小首をかしげて聞き入っている。
そして俺はポケットから、小さな包みを取り出した。
夜の演習の合間、こっそりと魔法を駆使して、形作ったもの。
「これ……君のために作ったんだ」
包みを開くと、月光を浴びて鈍く光る銀細工のリコリスのブローチが現れた。花弁の先には、深紅のガーネットが埋め込まれ、まるで滴る血のような、あるいは燃える命のような輝きを放っている。
「……綺麗。……とても赤い……」
真冬の指先が、恐る恐る銀の細工に触れる。彼女にとって、色彩はまだ鏡也の言葉を通じてしか存在しない概念だった。けれど、その冷たい金属に宿る紅い石の輝きは、彼女の瞳に直接「熱」を訴えかけていた。
「……不思議。鏡也が話すと、ただの『情報』だった花が、もっと……胸の奥をざわつかせるものに変わるわ」
「……それはね、真冬。君がその『情報』を、ただの数字や記号じゃなくて、自分の『心』で受け取ってくれているからだよ」
俺は、彼女の強張った指を解くように、優しくその手を包み込んだ。
「ざわつくのは、君がその花を『綺麗だ』と感じたり、俺の話を『嬉しい』と思ったりしている証拠だ。……ほら、化け物なんかじゃないだろう? 君は、どこにでもいる普通の、心優しい女の子なんだよ」
俺の言葉に、真冬は縋るような視線を向けた。四葉の大人たちが「欠陥品」と呼び、感情を去勢しようとした少女。
「……女の子。…鏡也が言うなら、そうなのね。私は、ただの……」
彼女は自分の胸の鼓動を確かめるように、空いた方の手をそっと当てた。ブローチのリコリスが、彼女の心音に呼応するように、月明かりの中で紅く、紅く爆ぜた。
「このブローチ……ずっと、大切にするわ。私の中に、鏡也がいる『印』として」
真冬は愛おしそうにブローチを抱きしめた。その拍動は、俺が初めてここへ来た時よりも、ずっと力強く、人間らしいリズムを刻んでいる。
「……鏡也。今日も、ほしいの。…あの熱が」
真冬は俺の正面に立つと、躊躇いもなく俺の左手を両手で包み込んだ。
「……わかったよ」
俺は写輪眼を起動させる。
ドクン、と網膜が熱を持ち、二巴の勾玉が回転を始める。
接続――。
俺の胸の内にある「感情」が、バイパスを通るように真冬の精神領域へと流れ込んでいく。
「あったかい……」
真冬は俺の胸に顔を埋め、安堵したように細い肩の力を抜いた。
だが、その安らぎを見つめる俺の心境は、複雑だった。
(……これで、本当に良いのか?)
真冬は四葉の「兵器」としての調整を受けている。恐らくだが感情を削ぎ落とすことで、迷いなく敵を屠り、精神を磨耗させずに魔法を行使するための肉体。
そこに俺が「感情」という劇薬を注ぎ込み、彼女を人間へと引き戻そうとすることは、戦場へ向かう彼女に「痛み」や「迷い」を教えるようなものではないか。
(俺がしていることは、彼女を救っていると言えるのか。それとも、より深い地獄へ引きずり込んでいるのか)
感情を知れば知るほど、彼女は四葉の冷酷な教えに違和感を抱くだろう。
俺が熱を与えれば与えるほど、彼女は俺がいない時間の「寒さ」に耐えられなくなる。
それはとても残酷なことではないかという自嘲が、写輪眼の奥で疼く。
「……鏡也。何か、迷ってる?」
真冬が顔を上げ、俺を覗き込んだ。俺の感情を共有している彼女には、わずかな心の揺らぎもノイズとして伝わってしまう。
「……いや。真冬、今日の訓練はどうだった?」
「……訓練。……いつも通り、壊して、消すだけ」
真冬は淡々と答えたが、その指先がわずかに俺の腕を強く掴んだ。
「でも……今日は、少しだけ胸がざわついた。標的の魔法式が霧散したとき、それが悲しい、ことのように思えて。……私の手が、とても冷たく感じたの」
その言葉に、俺の心臓が嫌な跳ね方をした。
予感は的中していた。俺が与えた「熱」が、彼女が今まで無意識に切り捨てていた戦場のノイズを、意味のある「痛み」に変え始めている。
機械ならば感じなかったはずの不快感。兵器ならば不要なはずの共感。
「……そうか。それもまた真冬が心を知った証拠なんだろう、ね…」
俺は努めて穏やかに、けれど胸の奥に生じた鋭い責任感に突き動かされるように答えた。
俺の倫理観が、俺の耳元で囁く。――お前が彼女に「心」を教えた結果だ、と。
本来なら感じなくて済んだはずの「悲しみ」。それを持たせてしまった以上、俺にはその重荷を背負う義務がある。
「真冬、その『冷たさ』を、俺に預けてくれないか」
俺は彼女の細い肩を引き寄せ、写輪眼の出力をさらに一段階引き上げた。
今までは俺の温かな情動を「与える」だけの一方通行な接続だった。だが、今の俺には見える。彼女の演算領域の隅で、処理しきれずに淀んでいる、泥のような「悲しみ」の残滓が。
「……鏡也? 何を……」
「いいから。……目を離さないで」
俺は二巴の勾玉を激しく回転させ、意識のベクトルを逆転させた。
与えるのではなく、彼女の精神の澱みを、俺の写輪眼を通じて直接「引き取る」――精神干渉魔法の応用。
「――っ! これは…?」
接続した瞬間、氷の塊を直接脳に流し込まれたような衝撃が走った。
真冬が訓練で感じた、標的の命が霧散する瞬間の空虚。自分の手が血に染まっているかのような錯覚。それらが不純物一つない純粋な「苦痛」として、俺の脳を焼き、精神を侵食していく。
「鏡也、だめ……! あなたまで、冷たくなってしまう……っ!」
「……大丈夫さ。これくらい、真冬が受けた痛みに比べればなんてことはないよ」
俺は歯を食いしばり、彼女の中に溜まった負の情動を、強引に自分の中へと吸い上げていく。
不思議なことに、その痛みを受け入れるほど、俺の心は凪いでいった。
彼女が一人で抱えるはずだった地獄を、俺が引き受ける。それこそが、この「呪いの眼」を持って生まれた俺が、この世界で彼女の隣に立つための資格のように思えたから。
やがて、真冬の強張っていた身体から力が抜けていく。
「……不思議。胸のざわつきが、消えていく。……鏡也、あなたは、本当に……」
「……約束したからね。つらい感情が育まれたなら、俺が共有する。……一人には、絶対にさせないさ」
俺は彼女を抱き寄せ、紅く輝く瞳で、その小さな背中を包み込むように抱きしめた。
数日後、脳裏には彼女に話して聞かせるための新しい話題が渦巻いている。だが、一歩足を踏み入れた瞬間、俺の思考は不自然なまでの「白」に塗り潰された。
パチリ、と硬質な音が響く。
いつもなら月明かりが青白く差し込んでいるはずの殺風景な部屋が、天井の蛍光灯によって隅々まで暴き立てられていた。
「――っ!?」
不自然なまでの白。網膜を刺す唐突な光に、俺は思わず目を細める。
眩い光の中に落ちていた影は、一つではなかった。
「……こんな夜更けに、ここへ何の用ですか。鏡也」
ベッドの傍らに立ち、冷徹な美しさを湛えた瞳で俺を射抜く女性――俺と深雪の母親、四葉深夜。
だが、俺の背筋を凍らせたのは、そのさらに奥、部屋の隅にある椅子に深く腰掛けた、もう一人の影だった。
「あら。驚かせてしまったかしら、鏡也」
深夜の背後から、楽しげな、けれど底知れない重圧を孕んだ声が響く。
現四葉家当主――四葉真夜。
漆黒のドレスを纏い、優雅に脚を組んで座るその姿は、この部屋に、毒々しいほど華やかな死の香りを持ち込んでいた。
「……お母様、それに、お叔母様まで」
俺は平静を装いながらも、内心で冷や汗を流していた。
深夜が「教育的指導」のためにここに来たのなら、まだ言い訳の余地はある。だが、当代最強の魔法師であり、一族の絶対者である真夜がわざわざ足を運んでいるということは、これはもはや「家族の対話」ではない。四葉による、俺への『審判』だ。
深夜と真夜。四葉の頂点に君臨する二人の女性を前に、部屋の空気は物理的な重さを伴って俺を押し潰そうとしていた。
俺は強張る喉を無理やり動かし、最も懸念していることを口にする。
「……真冬、姉さまは、どこにいるのですか」
その問いに、深夜が冷徹な、けれどどこか微かに揺れる瞳で俺を見つめ返した。
「あの子なら、隣の調整室で眠らせています。……ここ数日、彼女の様子が不自然なため、精密検査を行いました」
深夜は手元の端末を操作し、空中にホログラムのグラフを表示させる。それは真冬の精神構造の推移データだった。
「…驚いたわ。私がこの手で『白紙化』し、二度と芽吹くはずのなかったはずの情動領域が、信じられない速度で活性化……いえ、『再生』していた。それも、外部による魔法の痕跡も見られた。わが一族でこのような精神干渉の魔法を行うものに心当たりはなかったけど…」
深夜の目にどこか畏れまじりの視線を向けられる。
「鏡也、あなたが成したのですか? あの子にいったい何をしたの?」
深夜の問いには、一族の禁忌に触れた息子への追及だけでなく、自分の「完璧な漂白」を打ち破った未知の力に対する、魔術師としての純粋な畏怖が混じっていた。
「……何をした、と言われても困ります。俺はただ、姉さまの隣に座って、今日見た景色の話をしていただけですから」
俺は努めて冷静に、けれど視線だけは逸らさずに答えた。
嘘ではない。ただ、その「言葉」に、写輪眼による「情動」を乗せて流し込んだだけだ。
「……ただの話で、精神構造の再構築が起きるはずがありません。……だって、私があの子のすべてを奪ったはずなのに。人工魔法演算領域を植え付けるために、この手で『強い情動』を漂白したはずなのに……どうして。何が起きているの?」
深夜は震える手で自身の額を抑え、椅子に崩れるように座り込んだ。精神構造干渉の権威であり、実の娘を「兵器」へと造り替えた彼女にとって、鏡也が成したことは自分の存在意義そのものを否定されるに等しい衝撃だった。
「ふふ、落ち着いて、姉様。…鏡也、四葉家当主としてあなたに問います」
真夜が、まるですべてを見通しているかのような足取りで、鏡也のすぐそばまで歩み寄る。
「あなたは知っているかしら? その隣で眠っている真冬が、いかにして生まれたか。……規格外の想子量を持ちながら、先天的な演算領域を『分解』と『再成』だけに占有され、通常の魔法すら使えなかった出来損ない。それが、四葉の者たちが恐れたこの子の正体よ」
真夜の声は、どこか子守唄のように甘く、同時に氷のように冷たかった。
「世界を破壊し得る力を持ちながら、それを制御する術を持たない『四葉の罪の象徴』。だからこそ、姉様はあの子が六歳の時にその心を殺し、人工の演算領域を植え付けた。……そうして生まれたのが、喜怒哀楽を失い、ただ壊すことだけを許された最強の守護者。……なのに」
真夜はそこで言葉を切り、鏡也の瞳を覗き込んだ。
「あなたがその『心』を呼び戻してしまった。……もし彼女に、一族への憎しみが芽生えたら? もし彼女が、その強大な力で四葉すべてを焼き尽くしたいと願ったら? ……鏡也、あなたは、自分がどれほど恐ろしい火遊びをしているか分かっているの?」
真夜の問いは、当主としての警告であり、同時に「世界への報復」を望む彼女自身の歪んだ期待さえも孕んでいた。
真夜の言葉は、鋭い針のように俺の胸の奥を突き刺した。
「世界を破壊し得る力」と、それを御するための「心の欠落」。四葉という血塗られた庭で、真冬が背負わされた業の深さを、改めて突きつけられた。
俺は真夜の瞳から目を逸らさず、けれどその視線の先にある、調整室の冷たい扉を見つめて答えた。
「……叔母様。俺は、彼女を四葉への復讐者にするつもりも、ただの壊れた兵器のままにするつもりもありません」
俺の脳裏には、前世の、あの家の風景がよぎる。
幼い頃、父の瞳には俺が写っていなかった。
俺は、存在してはいけなかったのかと、どこか許しを得たくて、勉学や人助けなど正しいものにすがっていた日々。
(……俺は…ずっと救ってほしかったのか、子どものときから、気づかなかった…。いや気づかないようにしていた)
鏡に映る自分を見るような、そんな疼き。
だから、漂白された真冬の瞳の中に、かつての自分が閉じ込めたはずの「叫び」を感じてしまった。
「……俺はただ、あの子に笑っていてほしい。……それだけなんです、叔母様」
剥き出しの、あまりに子供じみた本能。
四葉という魔窟では最も無価値とされるであろう願いを、俺は真っ向から真夜に叩きつけた。
「正しい人間になろうと必死に足掻いてきたけれど……。結局、俺が一番欲しかったのは、隣で誰かが笑ってくれるような、そんな当たり前の温もりだった。……だから、あの子の瞳から光を奪ったこの場所で、俺はあの子に、世界は案外明るいのだと教えたい。……それの、どこが間違いなのですか」
静まり返った室内。深夜が絶望に近い表情で息を呑み、真夜の細い眉がピクリと跳ねた。
「……ふふ。笑っていてほしい、ですって? 鏡也、あなたは賢い子だと思っていましたが気が変わりました」
真夜の瞳から、一瞬にして温度が消えた。
彼女がゆっくりと右手を掲げると、部屋の空気が物理的な質量を持って、キィィィンと鳴動を始める。
「……まだ何者でもない、ただの子供のあなたが、その傲慢な理想を語るに相応しい器かどうか。……この私の光を前にしても、同じことが言えるかしら?」
瞬間、真夜の前方から、目視不可能なほどの高密度な光の束が放たれた。
四葉真夜の絶対魔法――「
事象改変を伴うその光の軌跡は、回避も防御も許さず、対象を分子レベルで「通過」し、消滅させる死の洗礼。
(――来るッ!)
ドクン、と心臓が跳ね、視界の「解像度」が爆発的に跳ね上がった。
世界から雑音が消え、真夜の指先から放たれる想子の奔流が、一筋の光の糸となって網膜に焼き付く。二巴の勾玉が高速で回転し、その光が描き出す魔法式の幾何学模様を、一瞬の澱みもなく脳内へと転写していく。
(……ああ視える。構築の順序、干渉強度の定義、事象改変のベクトル……すべて!)
本来なら観測することすら許されない当主の絶対魔法。だが、今の俺の瞳には、それがスローモーションで流れる「設計図」のように映っていた。
俺は最短の動きでCADを突き出した。
写輪眼が盗み出したの魔法式を、自身の演算領域で走らせる。
刹那、俺のCADの銃口からも、真夜の放ったものと「同一の波長」を持つ光の束が噴き出した。
光と光が、俺の眼前の至近距離で衝突し、互いの事象改変能力を相殺し合う。
キィィィィィィィィィィン!!
鼓膜を劈く高周波の鳴動。
本来、あらゆる物質を透過し消滅させるはずの光が、全く同じ性質を持つ光によって「弾かれた」のだ。激しい閃光が部屋を白く染め、次の瞬間、真夜の必殺の魔法は一滴の残滓もなく虚空へと霧散した。
「……ふふ。私の『流星群』を、その一瞥で。……本当に、英作叔父様が遺した言葉通りだわ」
真夜は掲げた手を下ろすことなく、むしろその指先にさらなる想子を収束させた。驚きは一瞬で、その顔には獲物を見つけた猛獣のような、艶やかな笑みが浮かんでいる。
「対象の術式を構成する想子の波形、事象改変の定義……そのすべてを網羅し、瞬時に自身の演算領域で再構築する。……鏡也、それがあなたの【写輪眼】の真価なのね?」
「いいわ、もっと見せてごらんなさい。一発凌げたからといって、私の光が止まるとでも思ったかしら?」
真夜が再び指を振る。今度は一筋ではない。
無数の光の矢が、部屋の物理的な壁や天井を無視して、四方八方から俺を包囲するように収束していく。四葉真夜という「魔法師」の、底知れない出力。
俺の網膜の中で、二巴の勾玉が激しく明滅する。
真夜の指先の動き、想子の指向性、そして空間に展開される多重魔法式の「構築順序」が、まるでスローモーションの映画のように克明に分解され、俺の脳内へと転写されていく。
俺はCADを握り直し、流れるような動作で周囲を薙いだ。
俺の周囲から、真夜の放ったものと寸分違わぬ光の矢が四散した。
バチバチッ、と空間が弾ける音が連続し、真夜の光と俺の光が空中で互いを食らい合い、相殺し合っていく。光の奔流が渦巻き、無機質な実験棟の部屋が、白の火花で埋め尽くされた。
真夜は掲げた手をゆっくりと下ろした。その動作はどこまでも優雅で、けれど部屋の空気を凍てつかせるような絶対者の威厳に満ちている。
だが、脳内演算領域が限界を告げる警告を鳴らし始めていた。
写輪眼でコピーし、相殺することはできた。だが、このまま消耗戦になれば、大人と子供、ましてや四葉の当主である真夜を相手に勝てるはずがない。
(……普通に戦えば、あと数十秒で底をつく。なら、隙を作るしかない)
俺はCADを握る手に力を込め、紅く輝く二巴の勾玉に全精神を集中させた。
今までは真冬に「温もり」を与えるために使っていた接続。それを今度は、真夜への「攻撃」として転用する。
「……鏡也?」
真夜が俺の瞳の異変に気づき、わずかに目を細めた。
逃がさない。彼女が俺の「眼」を見ている今こそが、最大の好機だ。
「――っ、……!!」
俺は写輪眼を通じて、自分の中に眠る「負の情動」を逆流させ、真夜の精神回路へと叩き込んだ。
前世で顧みられなかった幼少期の孤独感。父の瞳に映らなかった絶望。迫りくる死の絶望。
そして今世、四葉という歪な檻の中で渦巻く不条理への怒り。
ドロリとした、焼け付くようなドス黒い感情の奔流。
「――ッ!?」
真夜の優雅な微笑が、初めて凍りついた。
世界最強の魔法師の一人と目されており、「極東の魔王」である彼女でさえ、物理的な魔法式ではない「魂の叫び」を直接脳内に流し込まれる衝撃には耐えられなかった。
彼女の指先に収束していた光の矢が、一瞬、霧散する。
真夜に隙が生まれた。その刹那、俺は自身の限界など度外視し、床を蹴った。
物理的な攻撃ではない。写輪眼の視界を限界まで絞り込み、視線を通じて彼女の深層心理へとさらに深く潜り込む。
「……はぁ、……っ」
真夜が、椅子から、膝を折るようにして床に崩れた。
彼女の脳内では今、俺が前世から引きずってきた居場所のない孤独や苦痛が、濁流となって吹き荒れているはずだ。
俺は彼女の目の前まで歩み寄り、冷え切った指先を、顎にそえて目線を合わせる。
「……まだ、続けますか。叔母様」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、冷淡だった。
だが、真夜は震える呼吸の中で、狂気を孕んだ笑みを消してはいなかった。
「……ふふ、甘いわね、鏡也。……絶望なら、私のこれも……味わってごらんなさい」
彼女の瞳が、俺の紅い瞳を捉え――その瞬間、接続が逆流した。
「――っ!? ぐ、ああッ!!」
脳が沸騰するような衝撃。
彼女が十二歳の時に味わった、地獄。拉致され、実験体にされ、女性としての機能を、未来を、人間としての尊厳を無残に食い荒らされた、昏い記憶が俺の脳内に直接流し込まれた。
四葉真夜という「魔王」を作り上げた、世界への呪い。
吐き気がするほどの憎悪。
冷たいメスの感触。
自分をモノとして扱う男たちの卑俗な視線。
「……はっ、あ、が……ッ」
あまりの情報の暴力に、写輪眼が悲鳴を上げ、眼球から熱い血が伝った。
脳が、魂が、焼き切れる。
真夜の記憶から流れ込む、あまりに無機質で、あまりに絶望的な「悪意」の断片。十二歳の少女が、暗い地下室で神に、四葉に、世界に絶望したあの瞬間の温度が、俺の全神経を灼く。
だが、俺は意識を断つことを自分に許さなかった。
膝をつき、床に伏した真夜の、震える細い肩を――俺は強引に引き寄せ、抱きしめた。
「鏡也、な……にを……。離し、なさい……っ。それ以上は……!」
真夜の声は、初めて当主としての威厳を失い、怯える子供のように震えていた。
だが、俺は離さない。
「……離しませんよ。……叔母様」
俺は彼女の耳元で、血を吐くような思いで言葉を紡ぐ。
「俺は言ったはずです。……真冬に、笑っていてほしいと。……それは、あなたも例外じゃない。……俺の周りにいる人たちには、誰も、一人で泣いてほしくないんだ……!!」
その瞬間、俺の中の何かが「パキリ」と音を立てて壊れた。
真夜の絶望を、自分の過去の孤独で包み込み、昇華させる。
二人の「欠落」がパズルのように噛み合った刹那、脳内に未知の想子が爆発的に溢れ出した。
ドクン!!
心臓が一度、大きく跳ねる。
右目と左目の「二巴」の勾玉が、猛烈な速度で回転を始めた。
三つ目の勾玉が現れ、さらにそれらが歪に形を変えていく。
俺の瞳に宿ったのは、ただの写輪眼ではない。
三つの勾玉が繋がり、万華鏡の如き複雑な幾何学模様を形成する――「万華鏡写輪眼」。
暗転した部屋の中、俺の瞳だけが不気味なほどに紅く燃えている。
視界に入るすべての情報が、単なるデータとしてではなく、世界の理そのものとして脳内に流れ込んできた。
「これが……俺の、眼……」
万華鏡の模様が激しく明滅する。
右目からは、すべてを飲み込むような虚無の感覚。左目からは、すべてを包み込むような静謐な感覚。
俺は腕の中で震える真夜の背中に、そっと手を置いた。
「……『
左目の万華鏡が、音もなく回転する。
瞬間、真夜の脳内に渦巻いていた、あの昏い泥のような記憶が、俺の眼を通じて「浄化」されていく。消し去るのではない。彼女が抱えきれなかった痛みを、俺の瞳が半分肩代わりし、彼女の精神構造を本来の「穏やかさ」へと強制的に再構築していく。
「あ……っ、ぁ……」
真夜の荒い吐息が、次第に静かな寝息のようなものへと変わっていく。
極限まで高まっていた殺気と魔圧が霧散し、彼女の顔から「魔王」の仮面が剥がれ落ちた。
俺は左目の『高天原』を維持しつつ、視線を、呆然と立ち尽くす実の母――深夜へと向けた。
写輪眼の視界には、彼女の肉体が内側からボロボロに崩れているのが視えていた。真夜の記憶を「知識」に変質させ、妹の過去を殺してしまったという耐え難い罪悪感。そこから逃れるために、彼女は自らの命を削りながら精神構造干渉を繰り返してきた。
(……このままじゃ、母様は死ぬ。……そんな未来、俺が認めない)
俺の右目の万華鏡が、血を流しながら激しく回転を始める。
「――『
右目の固有瞳術。それは「事象の因果」を時空間の彼方へ放り込み、「なかったこと」に書き換える究極の回避にして救済。
「ぐぅ…ッ!!」
視神経が焼き切れるような激痛。だが、俺は深夜の胸元に手をかざし、彼女の肉体に刻まれた「魔法行使の過負荷」という結果を、強制的にこの世界から切り離した。
さらに、彼女が長年自分を苛んできた「罪悪感」という精神的腐敗を、右目の瞳術で虚空へと吸い出す。
「……きょう、や……? これ、は……? 胸の、重い痛みが……消えて……」
深夜の青白かった頬に、奇跡のように赤みが差していく。
三十歳を前にして壊れるはずだった彼女の肉体は、今、鏡也によって全盛期の健やかさを取り戻していた。
(……ああ。よかった……。これで、みんな……)
誰の手も届かなかった暗がりに、ようやく一筋の光を落とせた。
前世で、ただ「正しいこと」に縋って誰にも救われなかったあの頃の自分さえも、今、この瞬間、二人を救うことで共に許されたような気がした。
これまでで一番穏やかな、子供らしい顔で笑ってみせた。
糸が切れたように、全身の力が抜ける。
急速に遠のく意識の中で、禍々しく回転していた万華鏡の幾何学模様が、静かに光を失い、元の黒い瞳へと戻っていく。
最後に見たのは、泣きそうな顔で俺を抱きしめる真夜の瞳と、俺を「息子」として、一人の人間として真っ直ぐに見つめる深夜の瞳だった。
(……ああ……暖かいな……)
心地よい闇が、ゆっくりと俺の意識を飲み込んでいった。