「……寝過ごした!!! ってここどこ!? 今何日!?」
「おはようございます。ここは常世号の中。現在は西暦2158年3月21日です」
「ありがとー……って!? カメが喋ってる!?!?」
私は飛び上がった。
足元に、手のひらサイズのカメ型ロボットがちょこんと座っている。甲羅はくすんだ銀色で、小さな目がこっちを見ていた。
というか——
私は、誰?
名前が出てこない。年齢も。好きな食べ物も。頭の中の棚を片っ端から開けてみたけど、全部空っぽだった。
覚えているのは日本語だけ。あとカメが何かは分かる。でもそれだけ。
「ねえカメ、私の名前は?」
「乗員の個人情報については、自律的な記憶回復が推奨されています」
「……は?」
「自律的な記憶回復が推奨されています」
「何それ。教えてよ」
「自律的な——」
「同じこと三回言うな!」
使えないAIだった。何を聞いても定型文しか返さない。
周りを見渡す。私が寝ていたのは透明な蓋のついたカプセルで、棺桶みたいな形をしていた。その周りは金属の壁、天井には配管が走って、どこかでぶーんと低い音がしている。
壁に丸い窓が嵌め込まれていた。
青い光が揺れている。泡が昇って、小さな魚がすーっと横切った。
海だ。
海の中にいるんだ。潜水艦?
「ねえカメ、常世号って何? どこに向かってるの?」
「本船、常世号は竜宮に向けて航行中です」
「竜宮!?」
「竜宮って何? 海底基地みたいなもの?」
「目的地です」
「だからそれは何なのって聞いてるの」
「目的地です」
だめだ、このカメ。壊れたスピーカーみたい。
ことん、と小さな首を右に傾けて、私を見上げている。そのしぐさだけは、妙に生き物っぽかった。
とりあえず歩いてみることにした。
カプセルから降りた時は膝がかくかくしたけど、壁に手をつきながら歩けば何とかなる。相当長いこと寝ていたらしい。
廊下を曲がると、少し広い部屋に出た。テーブルが二つ。椅子が二脚。壁際に水耕栽培のユニット。小さな緑の葉が蛍光灯に照らされている。
生活するための部屋だ。二人分の。
——二人? でも、私しかいないけど。
お腹が鳴った。
壁の装置にボタンが一つだけあったので押してみたら、灰色のブロックが出てきた。
「乗員用食料です。ナノマシンが分子を合成して生成しています」
かじった。味は……無。栄養バーを更に無味にした感じ。でもお腹は満たされる。
装置のラベルに「出力:1名分/日」と書いてある。二人用の部屋なのに、食料だけが片方を切り捨てているみたいだった。
その時、ビーッと甲高い警報が鳴った。天井の赤いランプが点滅する。
「警報。空気循環ユニットに異常。フィルター交換を推奨します」
「えっ、空気やばいの!? どうすればいいの!?」
「フィルター交換を推奨します」
「だからどうやって!」
「フィル——」
「もういい!」
焦って居住区の壁を見回した瞬間——手が勝手に動いた。
パネルのロックを外す。引く。中のフィルターを抜き取る。倉庫で見た予備と交換。工具の握り方も、ボルトの回し方も、体が全部知っていた。
警報が止まった。
「……なんで私、これできるの?」
自分の手を見た。頭は空っぽなのに、手だけが何かを覚えている。
「……」
カメが黙った。
一秒、二秒、三秒。
「乗員はメンテナンス訓練を受けています」
——今、黙ったよね?
機械なら即答するでしょ。なのに三秒も間があった。
工具を握ったまま、指に力を込めた。手のひらに馴染む感触。
この手は覚えている。頭じゃなくて、もっと深い場所。筋肉や神経の奥に刻まれた記憶。
その瞬間——
——うまいね。
頭の奥に声が響いた。優しくて、少し高い声。笑っている。すぐ隣で、誰かが笑っている。
振り向いた。誰もいない。カメが足元で、ことん、と首を傾げて私を見上げているだけ。
「……今、声がした」
「幻聴の可能性があります。覚醒直後は——」
「嘘。あんた何か知ってるでしょ」
カメは答えなかった。
なら、自分で調べる。
制御室に戻った。計器がずらっと並んだパネルの前に座る。
計器の読み方を——体が覚えていた。手が迷わずスイッチを叩き、データを呼び出す。
航行データ。速度。加速度。ログ。
画面にグラフが出た。
……ん?
加速度計のログ。この船は今、マイナス9.8m/s²で減速している。
ずっと。ずーっと9.8m/s²で、速度を落とし続けている。
減速してるってことは、元はもっと速かったってこと。
9.8m/s²……1G。今感じているものは……本当に重力?
ログを遡る。頭が勝手に暗算をする。
数字が出た。
秒速十八万キロメートル。
この船は、光の六割の速度で移動していた。
水中でこんな速度は、絶対に出せない。出せたとしても、水の抵抗で船体ごと壊れる。
立ち上がって、窓を見た。
青い海が揺れている。魚が泳いでいる。穏やかで、きれいな深海の映像。
嘘だ。
一分ごとに映像がループしている。これはモニターだ。
「ここ、宇宙でしょ」
カメが足元で動きを止めた。
「はい」
モニターの中で、偽物の魚がゆっくり尾を振っていた。