宇宙。
私は宇宙船の中にいる。窓だと思っていたものはモニターで、海は映像で、カメは嘘つきだ。
一晩寝た。正確には、寝たのかどうかも分からない。宇宙に朝も夜もないから。でもカプセルの中で目を閉じて、開けたら船内時計が八時間進んでいたので、たぶん寝たんだと思う。
起きて最初にしたのは、カメへの質問だった。
「ねえ。今って本当に2158年?」
「はい。船内時間で西暦2158年です」
「……船内時間『で』?」
引っかかった。船内時間。わざわざそう言った。
「じゃあ聞くけど、地球では今何年?」
カメが止まった。
一秒。二秒。三秒。四秒。
昨日の三秒より、長い。
「……西暦10158年です」
頭が真っ白になった。
10158年。
船内は2158年。地球は10158年。差は——8000年。
光速の六割で飛んでいた船。亜光速で移動すると、船の中の時間はゆっくり進む。相対性理論。ウラシマ効果。
体が覚えていた知識が、勝手に答えを出す。
8000年。
人類の歴史がもう一度繰り返せるほどの時間。ピラミッドが建って、ローマが栄えて、滅んで、また何かが生まれて、滅んで——それが全部収まるくらいの時間が、私が眠っている間に過ぎた。
私が知っていた世界は、もう宇宙の塵にすらなっていないかもしれない。
「……帰れないってこと?」
「地球への帰還航路は設定されていません」
定型文のくせに、今のは妙に正確だった。
8000年も眠っていて、なぜ体が無事なのか。医療ログを開いた。
——コールドスリープ維持用ナノマシン、投与量1200mg。細胞修復プログラム稼働中。
ナノマシンが8000年間、私の体を壊れないように直し続けていた。だから私は壊れずにここまで来た。
でも——泣くより先に、疑問が来た。
なんで?
なんで私がここにいるの?
誰が私をこの船に乗せたの?
カプセルは一つしかなかったのに、この船は二人用に作られていた。
「ねえカメ。もう一人は?」
カメは答える代わりに、ことん、と首を右に傾げた。
水耕栽培のユニットに近づいた。小さな緑の葉に触れる。みずみずしくて、ちゃんと世話されている。——カメが? あの短い脚で?
葉を一枚、指で撫でた。みずみずしい。ちゃんと根元から水をやってる。丁寧な手つきの人が世話した植物だ。
——その手の感触を知っている。
記憶が来た。
隣に誰かがいる。私より背が低い。一緒にプランターに水をやっている。
その子の手が、私の手に触れた。冷たくて、細くて、点滴の管がテープで留めてあった。
——凪の手、あったかい。ずっとこうしてたい。
笑っている。細い指が、私の指の間にするりと入ってきた。慣れた動きだった。何度もこうしてきた手だ。
「……誰か、病気の人がいた」
声に出してから、自分で驚いた。思い出したというより、口が勝手に言った。
——指を絡めて、手を繋いでた。
カメは何も言わなかった。否定もしなかった。
しばらく黙って、植物の葉を見つめていた。
水滴が一つ、葉先からぽたりと落ちた。
——この船に、私の個人情報が残っているはずだ。
制御室に戻った。端末を開く。体が覚えているコマンドで乗員ファイルを検索する。ほとんどロックされていたが、一件だけ音声ログが残っていた。再生する。
優しくて、少し高い声が流れた。さっきの「うまいね」と同じ声。
でも今度は、笑っていない。真剣な声。少しだけ、震えている。
——凪。もし思い出したら、玉手箱を探して。でも、絶対に開けないでね。
凪。それが、私の名前。
そうだ。私には大切な人がいた。手を握り合った、大切な人。あの人が、このログを残した。
でも。開けるな。
何を?
「……何かがある」
呟いた。この船のどこかに、何かがある。あの人が隠した何かが。
船内を歩き回った。居住区、制御室、倉庫——全部見た。昨日見落としていた場所はないか。
倉庫の奥まで行った。予備部品の棚を一つずつ動かしていくと、その裏に小さな扉が隠れていた。棚で塞がれていて、昨日は見えなかった。
開ける。
狭い区画。非常用のスペースらしい。中はほとんど空っぽで——
棚の上に、銀色の小箱が置いてあった。
手のひらに乗るサイズ。角が丸くて、継ぎ目がほとんど見えない。表面はひんやりしていて、持ち上げると見た目より少し重い。
これだ。
「玉手箱」だ。
——絶対に開けないでね。
声が頭の中で蘇る。優しくて、少し震えていた声。
箱を持ったまま、しばらく動けなかった。
カメが足元にいた。いつの間にかついてきていた。
小さな目が、箱を見ている。
「…………」
カメは何も言わなかった。
止めもしなかった。
その時——
「まもなく竜宮に到着します。減速を終了します」
カメの定型文が響いた直後、体がふわりと浮いた。
無重力。
9.8m/s²の減速が止まった。重力だと思っていたものが消えた。
棚の工具が浮く。水耕栽培の水滴が宙に散る。
玉手箱が、私の手からするりと抜けて、ゆっくり漂い出した。
咄嗟に抱きしめた。
両腕で、胸に押しつけた。開けるなと言われた箱を。中身も分からない箱を。誰が残したのかもまだ思い出せない箱を。
なのに——離したくなかった。