乙姫はなんで浦島に玉手箱を渡したんだろう。
病室で一人、私はずっと考えていた。
開けたら老化して死ぬ箱。それを渡すのは罰? でも罰なら、そもそも渡さなければいい。
「開けるな」と言いながら渡した。矛盾してる。
もしかして——渡さずにはいられなかったんじゃないか。自分の全部を詰め込んだ箱を、あの人に持っていてほしかった。たとえ開けてほしくなくても、持っていてほしかった。
乙姫が浦島を好きだったから。それだけの理由で。
……なんて。病人の妄想だ。
◇ ◆ ◇
地球が終わると知ったのは、十二歳の誕生日だった。
テレビじゃなくて、自分で計算して分かった。太陽の出力低下。大気組成の変化。海面温度の上昇カーブ。全部のデータを集めて、全部の論文を読んで、自分でシミュレーションを回した。
結果は、どの研究機関よりも早く出た。あと二十年。それが地球の残り時間。
誰もが「子供の計算だ」と笑った。
一年後、同じ結論を大人たちが出した時には、もう笑っている人はいなかった。
私は十四歳で、病室にいた。
生まれつき体が弱かった。頭だけが勝手に走って、体がついてこない。十歳で大学に入って、十二歳で地球の終わりを予測して、十四歳でベッドの上から動けなくなった。
神経が少しずつ死んでいく病気。ナノマシンで細胞を修復する技術はあったけど、対象は筋肉や骨みたいな単純な組織だけ。壊れた神経を直す力は、まだ人類にはなかった。
皮肉だった。ナノマシンは人を治せない。でも、コールドスリープ中の体を何千年も「保つ」ことならできる。食料を分子レベルで合成することもできる。
私を救えない技術が、私以外の誰かを星の果てまで運べる。
脱出船を設計しようと決めた。
体が動かなくても、頭は動く。点滴の管を引きずりながら、ベッドの上でキーボードを叩いた。右手が痺れたら左手で。左手が動かなくなったら音声入力で。
設計図が完成した時、私は十五歳だった。
常世号。亜光速航行が可能な、人類初の恒星間宇宙船。
でも、設計図だけでは船は飛ばない。
世界中の機関に図面を送った。どこも「理論は正しい」と認めた。でも「組み立てられる技術者がいない」と言った。私の設計はナノメートル単位の精度を要求する。そんな溶接ができる人間は——
一人だけいた。
設計図のレビューコメントに、こう書いてきた無名の技術者。
——ここの溶接精度、本当にこれで合ってる?
合ってる、と返した。
——じゃあやってみる。
本当にやった。ナノメートル単位の溶接を、手作業で。
凪、という名前の人だった。
病室に来たのは、組み立てが三割進んだ頃。
「設計図、天才だね。読むたびにうまいなって思う」
背が高くて、手が大きくて、指先にタコがあった。工具を握り慣れた手。油と金属の匂い。
「あなたが凪?」
「うん。あんたが音? 思ったより小さいね」
「病人だからね」
「知ってる。でも設計図は全然病人じゃない。めちゃくちゃ元気」
変な人だと思った。設計図が元気って何。
凪は毎日来た。
組み立ての進捗を報告しに来る、という建前で。実際は私の病室に来て、プランターの水やりを手伝って、窓の外の星を一緒に見て、私の冷たい手を握っていた。
「音の手、いつも冷たいね」
「血の巡りが悪いの。病気だから」
「じゃあ温めてあげる」
凪の手に私の手がすっぽり収まった。大きくて、あったかくて、少しだけ震えていた。
「……緊張してる?」
「してない」
「嘘。手、震えてるよ」
「……うるさい」
笑ってしまった。こんなに笑ったのは久しぶりだった。
毎日来るたびに、凪は私の手を握った。最初は手のひら同士だったのが、いつからか指を絡めるようになった。
ある夜、凪が私をベッドから抱き上げて、窓辺に連れていってくれた。
「外が見たいって言ったでしょ」
「……言ったけど、そこまでしなくても」
「軽いから平気」
軽い。そう、私は軽い。体が削れていくから。
窓の外に星が見えた。病室の窓は小さかったけど、その夜は空気が澄んでいて、星がたくさん見えた。
「ねえ凪。あの星、すっごく綺麗」
「うん」
「いつか二人で行こうよ」
凪は何も言わなかった。ただ腕の中の私を、少しだけ強く抱いた。
「ずっとこうしてたい」
先に言ったのは私だった。凪は耳を赤くして、でも手は離さなかった。
常世号が完成に近づくにつれて、私の体は悪くなっていった。右手の感覚がなくなった。左足が動かなくなった。視界の端がときどき暗くなった。
そして——地球の崩壊が加速した。事実が公表されてから、人類のパニックが全てを早めた。暴動、資源の争奪、インフラの崩壊。二十年もたない。地球は天災じゃなくて、人災で終わろうとしていた。
せめて一人でも送り出さなきゃ。
でも——常世号に乗れるのは一人だけだった。
凪には「無人の実験航行」だと伝えた。エンジンのテスト飛行。人は乗らない。データを取るだけ。
凪はそれを信じて、最後の整備を仕上げてくれた。自分が乗るとも知らずに。
起きたら嫌われるかもしれない。許されなくてもいい。それでも、凪が生きていてくれるなら。
最初の設計では、二人で行くはずだった。
居住区はテーブルを二つ、椅子を二脚。プランターも二人で世話できるサイズ。到着したら二人で暮らす。そう約束した。
「二人で竜宮に行こうね」
凪がそう言って笑った時、私も笑った。その時にはもう、二人は無理だと分かっていたのに。
何度も計算した。どう組み合わせても、二人分の生命維持にはエンジンがもう一基要る。
もう一基作る時間は——ない。地球の崩壊が迫っている。
でも。一人と、小さなロボット一台なら。今のエンジン一基で飛ばせる。
居住区だけは直さなかった。二人分のまま残した。
嘘でも。約束の形だけは、残しておきたかったから。
問題は——私だった。
コールドスリープに耐える体力が、もう残っていなかった。ナノマシンは体を「保つ」ことはできても、すでに壊れた神経を「保つ」ことはできない。眠っても、静かに死ぬだけだ。
だから——カメを作った。体を捨てて、ロボットに乗る。
浦島太郎の絵本を凪と一緒に読みながら、思いついた。
「ねえ凪、亀ってさ、浦島太郎を竜宮城に連れていくんだよね」
「うん。そうだけど」
「じゃあ私がカメになる」
「……は?」
体は運べない。でも、頭の中身なら運べる。
神経を「治す」ことはできなくても、神経の「地図」を読み取ることはできる。私の記憶、思考パターン、癖、好み。全部をスキャンして、カメ型ロボットのメモリに焼き込む。
「人格のコピー。私の全部を、この中に入れる」
「……音」
「それから玉手箱。ナノマシンで新しい体をゼロから作る。治療じゃなくて、製造。ナノマシンの得意分野」
凪は黙っていた。手を握る力だけが、強くなった。
「ただし——最初は子供の体で出てくる。ゼロから作るから」
凪の顔を見た。泣いていた。
「だから凪が眠ってる間に、私はカメから箱を起動して、大人に戻る。凪が目を開けた時——」
「——最初に見るのは、私がいいの」
「行かない」
凪が私を抱きしめた。病室のベッドの上で、点滴の管が引っ張られるのも構わず。細い私の体を、大きな腕で包み込むように。
「あんたを置いて行けない」
「置いていくんじゃないよ。一緒に行くの」
「一人で行けないよ」
「一人じゃない。カメがいるでしょ。——私が、いるでしょ」
凪の胸に顔を押しつけた。心臓の音が聞こえた。速くて、強くて、生きている音。私にはもうすぐなくなる音。
「ずるいよ、凪。こんなにあったかいくせに」
「……音」
「私も、この温度で凪に触りたかった」
もう右手の感覚はほとんどなかった。でも指だけは動いた。凪の服を掴んで、離さなかった。
——常世の国だったら、時間が止まるから。私も、ずっと凪と一緒にいられるでしょ。
凪は泣きながら眠った。泣き疲れて、私を抱いたまま。
ごめんね。最後の水に、少しだけ薬を混ぜた。
眠った凪をカプセルに運んでもらった。私にはもう、それすらできない体だったから。
最後に玉手箱を凪の手に握らせた。
——凪。もし思い出したら、玉手箱を探して。でも、絶対に開けないでね。
それが、私が私の声で言った、最後の言葉。
凪の寝顔に、額を寄せた。冷たい私の額と、あったかい凪の額。
二人で行こうねって、約束したのに。ごめんね。嘘つきで、ごめんね。
涙が凪の頬に落ちた。眠っている凪は、何も知らない。
おやすみ。竜宮で待ってるから。
……もう一つだけ、怖いことがあった。
コールドスリープの実験データを洗い直していた。長期スリープ後の被験者に、高い確率でエピソード記憶の欠落が起きている。体の使い方や技能は残るのに、個人的な記憶——名前、顔、誰かと過ごした時間——が消える。
凪が目を覚ました時、私のことを覚えている保証はなかった。
だからカメには「自律的な記憶回復を推奨」するモードを仕込んだ。外から押し込むのではなく、凪自身が少しずつ思い出すように。
——もし思い出せなかったら、それでもいい。忘れたまま、新しい人生を始めてくれたら。
そう思って、カメには私のことを話さないよう制限をかけた。
……計画通りにいかなかったけど。
◇ ◆ ◇
竜宮の朝は、二つの月が沈むところから始まる。
竜宮には陸地がなかった。この星は全部海。水の惑星。だから私たちは、常世号の上でぷかぷか暮らしている。潮の流れに乗って船が漂うから、昨日と同じ場所にいることがない。
そして——この星には魚がいた。
地球の魚とは全然違う。透明な体に青い光が脈打っていて、群れで泳ぐと海面がぼんやり光る。ときどき水面に跳ねて、常世号の甲板にぴちゃっと落ちてくる。
今朝も一匹、甲板の上でぴちぴちしていた。
「あ、また来てる」
凪がしゃがんで、両手で掬って海に戻してあげた。透明な魚がぴゅっと泳いでいく。
「こいつら、船が珍しいのかな。毎日来るよね」
「たぶん船底の藻を食べに来てるんだと思う」
「……五歳児のくせに詳しいね。ていうか、走り回って元気だよね。病気は?」
「ない。体をまるごと作り直したから。壊れてた神経ごと、全部新品」
「……そっか」
凪の声が少し震えた。
「よかった」
「……でしょ」
水平線に月が二つ並んで落ちていくのを、甲板に座って見ていた。隣に凪がいる。私は今、五歳児の体で、凪の膝の上に座っている。不本意だけど、しばらくはこのサイズ。
海面の下を、光る魚の群れがゆっくり通り過ぎていく。鯛やヒラメとはだいぶ違うけど——青い光を纏って、くるくる回りながら泳いでいく。舞い踊り、という感じは少しだけ分かる。
「ねえ音、いつ大人に戻るの」
「計算上は三ヶ月くらい」
「三ヶ月も五歳児なの?」
「……うるさいよ」
凪が笑った。私の頭を撫でた。小さい体だと、凪の手がやけに大きい。悔しいけど、あったかい。
「ねえ」
「何」
「地球の海と、どっちがきれい?」
水平線を見た。青い海。二つの月。光る魚。地球の海を、私は病室の窓からしか見たことがない。
「……こっち」
「え?」
「こっちの方がきれい。……凪がいるから」
凪の手が止まった。
耳が赤くなっているのが、この角度からよく見える。五歳児の視点、悪くない。
「……ずるい。そういうこと言うの」
「……天才だから」
凪が私の手を握った。小さい手を、大きな手で包むみたいに。
あったかかった。病室で繋いだ手と同じ温度。
光る魚が一匹、水面から跳ねた。しぶきが私たちの足にかかって、凪が「わっ」と笑った。
8000年の向こうから、ようやくここに来た。
計画通りじゃなかったけど——まあ、結果オーライってことで。
鯛やヒラメは踊ってないけど、光る魚が跳ねている。月は一つじゃなくて二つある。地球じゃないけど、海はある。
そして隣に、凪がいる。
ああ、これが……
絵にも描けない、美しさ。