それから、五年の歳月が流れた。
ライセント大陸の厳しい季節を五度越し、春の風が『母なる森』の若葉を揺らしている。
切り出し場では、一人の男が巨木を軽々と扱い、規則正しいリズムで斧を振るっていた。
三十歳となったジンは、かつての会社員時代の面影を完全に脱ぎ捨てていた。鏡を見る機会は少ないが、川面に映る自分は、日に焼けた逞しい体躯と、何キロもの山道を走破しても乱れない呼吸を持つ、立派な村の男衆の一人となっていた。かつて、キーボードを叩くだけで悲鳴を上げていた指先は、今や分厚い掌と共に、斧の柄を吸い付くように保持している。
「おい、ジン! そろそろ切り上げようぜ。今日は宴に向けて早く戻らないといけないんだ」
声をかけてきたのは、ジンと同年代のリンダスだ。
五年前はひょろりとして、ジェシカに話しかけるだけで赤面していた彼も、今では顎髭を蓄え、立派な木こりの顔つきになっている。最近のリンダスは特に機嫌が良い。村でも見目の良さと芯の強さで評判の女性、ジェシカとの婚約が決まったばかりなのだ。
「ああ、分かってるよ。リンダス、お前こそジェシカを待たせると怖いぞ。あいつ、薬の調合を邪魔されると薬草のすりこぎで殴ってきそうだからな」
「へへ、分かってるって。……お前も、そろそろ身を固めたらどうだ? しかもお前、全然老けてない上にそんなにまぁ立派になっちまって。村の娘たちはお前のこと、結構本気で『私こそが英雄様の伴侶に』って狙ってるんだぜ」
冗談めかして笑うリンダスに、ジンは苦笑いで返した。
あのオーガ事件以来、指衛士たちの公式な記録では「神の使徒が降臨し、オーガを討伐した」ことになっている。神殿側のプライドが、一介の木こりの功績を認めるわけにはいかなかったのだろう。だが、村の誰もが真実を知っていた。ジンは「木こりのジン」として、そして村の「守護者」として、この五年で確かな居場所を築いていた。
作業を終え、ジンは一人で森の小道を歩く。
五年前、死を覚悟したあの日から、自分の体には明らかな変異が生じていた。
疲れを知らない筋肉、異常なまでに発達した五感。
夕暮れ、ガイゼンの小屋に戻ると、老狩人は相変わらず不機嫌そうに酒の準備をしていた。
「……ふん。五年も経って、ようやく森の歩き方がサマになってきたな、坊主。足音が獣のそれと見分けがつかなくなってきた。殺気が漏れなくなったのは進歩と言えるな」
「じいさんの教えが厳しいからな。おかげでこの五年間、一度も大きな怪我をしていないよ」
ジンは微笑みながら、今日仕留めた獲物の鳥を鮮やかな手つきで捌き始める。
「それにしても最近、指衛士たちの訪問が多くないか。今日、村の入り口ですれ違ったが……村長もかなりやつれた顔をしてたよ」
ガイゼンは、ふんと鼻を鳴らし、今度の宴で出すはずの酒を自分だけ先に煽った。
「……それこそオーガの件からだろうよ。おぬしも最近、首筋のあたりがチリチリするような感覚があったはずじゃ。この五年、奴らの監視はずっと続いておったぞ。空を見てみろ、あの月が、少しでも動いたように見えるか?」
ガイゼンが指さした先には、まだ沈みきらぬ夕陽の隣に、薄らと白い月が浮かんでいた。
「……言われてみれば、五年前から位置が変わっていない気がするな」
「あれはハーレウトの『目』よ。地上を照らし、異常を見逃さぬための固定星。……今のところはな。驚くほどに静かじゃが……だが油断するな。今までは末端の指衛士しか寄越しておらんが、もし『御手(みしゅ)』が出てくれば、この村ごとなぎ倒されても文句は言えんぞ」
「御手?」
ジンが聞き返すと、ガイゼンは指先で空に円を描いた。
「神の恩恵を受ける超人のことじゃよ。この世界は『御目(おめ)』『御手』『指衛士』の順で、神から流し込まれる恩恵……すなわち神気の格が変わる。指衛士は各地の守衛や雑用を任される末端よ。前回来ていた隊長も、その中ではマシな方じゃったろうが……御手となれば、一人で城塞を落とす力を持つ」
不機嫌そうに、空になった木杯を睨みつけるガイゼン。その知識の深さに、ジンはずっと抱いていた疑問をぶつけた。
「……なんで、ガイゼンじいさんはそんなに詳しいんだ? 村の他の人たちは、指衛士が偉い人だってことくらいしか知らなかったぞ。あんた、ただの狩人じゃないだろ」
ガイゼンは動きを止め、沈黙した。囲炉裏の火が爆ぜる音だけが響く中、彼は重々しく口を開いた。
「……そんなの、決まっておるだろう。儂自身が、かつてはその『恩恵』の内側にいたからじゃ。月の神ハーレウトの使徒……その『御手』の一端を担う戦士じゃったよ」
ジンは捌いていた手を止め、思わず身を乗り出した。
「は? ありえないだろ。あんたはここで三十年も狩人をしてたんだろ? その前にやってたってことか? だとしても……なんであんたから魔力が一切感じられないんだよ。今のあんたは、ただの頑固な爺さんだ」
「……ここは『見捨てられた村』じゃが、それは神に忘れられた者だけを指すのではない。追放された者も含まれるのよ」
ガイゼンは、自分の枯れ木のような両手を見つめた。
「……儂はその昔、定められた禁忌を犯した。ある戦場で、神に背いた民を憐れみ、彼らを逃がしたのだ。……その結果、授けられた神気を全て回収され、元々あった魔力すらも『根こそぎ』没収された。魂に刻まれた契約の紋章を、生きたまま剥ぎ取られたのよ。その時の痛みは、死んだほうがマシだと思えるほどじゃった。魔素の揺らぎを見分けることくらいは、かろうじて、身体が覚えておるがな……」
没収。その言葉の響きに、ジンは背筋が凍るような感覚を覚えた。神の恩恵とは、与えられる慈悲であると同時に、いつでも奪い取れる「首輪」なのだと、ガイゼンの枯れた体躯が物語っていた。そして、神の意志に背けば、どれほどの功績があろうとも一瞬で「無」にされる。
ジンは、そんな過酷な過去を明かしてくれた老狩人の背中に、深い敬意と感謝を覚えた。
「……じゃあ俺は、あんただから助けてもらえたってことだな。ありがとうよ、ガイゼンじいさん。あんたがいなきゃ、俺は五年前、あの森で死んでたか、神殿の連中に連れて行かれてた」
「……フン、それこそ森のお告げよ。儂はただ、自分の小屋を騒がしくされたくなかっただけよ」
ガイゼンは顔を背けたが、その耳がわずかに赤くなっているのをジンは見逃さなかった。
神々の加護も、恩恵も、この村には届かない。かつては神の寵愛を受けた英雄でさえ、今は一介の老人として隠れ住むしかない場所。
だが、ここには自分の意志で守り抜き、この五年間で積み上げてきた、確かな日常があった。
リンダスの馬鹿笑い。ジェシカの鋭いツッコミ。ガイゼンの不器用な教え。
それらは、ジンの魂を温める「生」の証だった。
「……なあ、じいさん。俺、この村に来て、本当によかったと思ってるよ。ここが俺の、本当の居場所だ」
ジンの独り言のような感謝に、ガイゼンは答えず、ただ静かに二杯目の酒を煽った。
穏やかな村の夜が更けていく。焚き火の煙が天窓から夜空へと溶けていく。
空には、五年前と全く同じ位置に、監視の月が冷たく輝いている。