神権剥奪   作:蒼天美茶

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 数日後、村はリンダスとジェシカの婚約を祝う宴の準備で、かつてない活気に包まれていた。広場には色とりどりの野花が飾られ、大鍋からは香ばしい肉の匂いが立ち上っている。ジンもまた、仲間の門出を祝うべく、朝から山のような薪を運び、村人たちと肩を並べて汗を流していた。

 この世界に骨を埋める覚悟を決めたジンの心には、穏やかで満ち足りた幸福があった。

 だが、その華やいだ空気は、重々しい蹄の音と共に現れた一行によって、一瞬で凍りついた。

 現れたのは、五年前のあの指衛士たち。彼らは村の入り口に並ぶなり、剣の柄で盾を叩き、傲慢な声を張り上げた。

「――控えよ、下民ども! 全員その場に跪き、御頭を垂れよ! 月の慈悲を体現せし、偉大なる『御手』ボーゼンライト様のお通りである!」

 村人たちは狼狽しながらも、逆らえば命はないと悟り、一人、また一人と土の上に膝をついていく。その屈辱的な静寂の中、豪華な刺繍が施された馬車の扉が開いた。降り立ったのは、白銀の髪をなびかせ、白金の法衣を纏った男――ボーゼンライト・ゲールウィンだった。

 本来、辺境の村の婚姻など、定期巡回に来る末端の指衛士が立ち会うのが通例だ。神の直系に近い『御手』が自ら出向くなど、前代未聞の事態だった。

「――ほう。ここが例の辺境か。管理された家畜の庭としては、及第点だ」

 ボーゼンライトが地に足をついた瞬間、それはおきた。

 左腕の疼きなどというものではない。もっと深く、脊髄の奥底から突き上げてくるような、ドクン、ドクンという暴力的な「脈動」。それは警鐘であり、同時にジンの体内に潜む「ナニカ」が、目の前の強大な神気に呼応して歓喜に震えているかのようだった。

「……チッ!」

 ジンは跪きながらも、必死に呼吸を整える。だが、ボーゼンライトの視線は、真っ直ぐにジェシカへと注がれた。

「この娘には、神殿での『浄化の儀』が必要だ。あまりに瑞々しく、不純な生命力に満ちすぎている。……安心しろ。お前は今日から、私の五番目の妻として迎え入れてやろう。下民の婚姻などという泥遊びを止め、神の加護をその身に宿すのだ。これ以上の慈悲はあるまい?」

 その言葉に、リンダスが絶叫に近い声を上げた。

「な……何を仰るのですか! 今日は俺たちの門出の日です! 浄化など、必要ありません!」

 その瞬間、ボーゼンライトはリンダスに向けて無造作に手をかざす。

 ドォン、という衝撃音と共に、リンダスが勢いよく後ろの小屋に突っ込んだ。

「誰が喋ってよいと言ったのだ家畜。私が『必要だ』と裁定したのだ。それは神の意志そのものである」

「っっっ!!!」

 ジンの目で、ボーゼンライトからリンダスに向けて神気の放出が見えた。吹き飛ばされたリンダスに、息があることだけがかろうじて分かった。

 ボーゼンライトは冷笑を浮かべたまま、跪く村人たちの間を悠然と歩き、ジンの横を通り過ぎるとき、わざと片膝をつく。その際、彼はジンの耳元で、他者には聞こえぬほど低い、毒のような声を忍ばせた。

「……どうした、英雄よ。五年間、牙を隠して家畜の真似事か? 目の前でこの女が蹂躙されても、貴様はその無様な木こりの真似事を続けるのか? ……いいだろう、今の貴様にその価値があるか、その女を餌に試してやる」

(……こいつ、わざとか。)

 ジンの視界が真っ赤に染まる。体の奥の脈動は、今や全身を焼き尽くさんばかりの熱量となり、皮膚を突き破って溢れ出そうとしていた。

 指衛士たちが悲鳴を上げるジェシカの腕を掴み、強引に馬車へと引きずり込んでいく。

「やめて……! リンダス!!誰か!リンダスを助けて!」

 耐えきれなかったジンが踏み出そうとした瞬間、強烈な力で肩を掴まれた。ガイゼンだ。

「……よせ、小僧。今ではない。ここで暴れれば、この村は数分で灰になる。それが奴の狙いだ」

 老狩人の指はジンの骨に食い込むほどに強く、その眼光はジンの暴走を辛うじて繋ぎ止めた。

 ボーゼンライトは、土に額を擦りつける村人たちと、屈辱に身を震わせるジンを、高い位置から悠然と見下ろした。その瞳には、彼らと同じ「人間」としての共感など微塵も存在しない。あるのは、害虫の生態を観察するような無機質な冷酷さと、自らの優越を疑わぬ傲慢さだけだった。

「……不浄な鳴き声だ。神の慈悲を理解できぬ愚か者どもめ」

 彼は満足げに鼻を鳴らすと、身を翻して豪華な馬車へと乗り込んだ。土煙を上げ、村の平穏を無残に切り裂きながら立ち去るその背影は、最後まで辺境の命を路傍の石ころほどにしか思わぬ、冷徹な支配者のそれであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数刻後、要塞都市『セレン・フォレスト』。

 神殿の最奥、月の光が青白く降り注ぐ「謁見の間」にて。ボーゼンライトは、上質な絹の長椅子に震えながら座るジェシカの顎を、慈しむように持ち上げていた。

「……無駄に泣き叫ぶな。お前はもう、あの泥にまみれた家畜のものではない。私の慈悲により、神の加護をその身に宿す誉れを授かったのだ。我が権術『月読の秒針(ルナ・プレディクト)』によって、お前が私の傍らで着飾る未来は、すでに確定しているのだからな」

 ボーゼンライトが傲然と微笑んだその時、重厚な扉が地鳴りのような音を立てて開かれた。

 現れたのは、戦と炎の神を奉る陣営。圧倒的な威圧感を放ちながらも、月の神域に対する礼節を重んじる二人組だった。

「――お初にお目にかかる、ボーゼンライト卿。戦と炎の神が御手、ヴォルガンと申す。突然の訪問、ご容赦願いたい」

 背丈を超える巨大な戦斧を背負い、燃え盛るような紅の長髪を束ねた巨漢が、深々と一礼した。猛々しい体躯とは裏腹に、その立ち居振る舞いには戦士としての洗練された礼節が宿っている。

「ちょっとヴォルガン、堅苦しいってば! ボーゼンライト様もそんな顔しないでよ!」

 彼の影から飛び出してきたのは、溌剌とした笑顔を浮かべた若い女性――戦と炎の『御目』、シアだった。

「……何の用だ。戦と炎の連中が、月の聖域に」

 ボーゼンライトが不機嫌そうに尋ねると、シアが元気よく手を挙げた。

「それがさ、四つの獣の災厄の一つ、あの『森』の状態が気になっちゃって! 私の直感が『あっちに何かあるよ!』ってうるさいから、ヴォルガンを無理やり連れて来ちゃったの!」

「シア、言葉を慎め。……卿、彼女の言う通りだ。今回はあくまで直感に基づく非公式の視察。他意はない。……だが、その娘をめぐる空気、いささか月の神域に相応しからぬ、苛烈な闘争の予兆を感じるが」

 ヴォルガンが射抜くような視線を向けると、シアはボーゼンライトの冷たい視線を気にする様子もなく、ジェシカの傍らに駆け寄った。

「……ねえ、大丈夫?」

 シアは屈み込み、ジェシカの震える手を取った。その掌からは、戦の神の使徒特有の、微かな、しかし力強い熱が伝わってくる。

「ひっ……!」

「わっ、ごめんごめん! 怖がらせるつもりはないんだよ。……君、すっごくいい目をしてるね。でも、心が折れかかってる。戦の神の子たちが一番嫌いなのは、戦う前に諦めちゃうことなんだから。……ほら、これあげる。美味しいよ」

 シアは腰のポーチから小瓶を取り出し、飴玉のような赤い実をジェシカの掌に握らせた。それは戦の神の加護が微かに宿る、気付けの木の実だ。

「……ぁ、りがとう……ございます……」

「いい子だ。……ボーゼンライト様、この子を泣かせすぎちゃダメだよ? 戦う意志を奪うのは、魂を殺すのと同じなんだから」

 ボーゼンライトは鼻で笑い、長椅子から立ち上がった。

「……魂? フン、家畜にそのような高尚なものはない。ただの『管理』だよ、シア。秩序ある世界には、適切な場所に適切な駒が必要なのだ」

 ヴォルガンが、一歩前に踏み出す。彼が動くだけで、部屋の温度が数度上がったように感じられた。

「……管理、か。我ら戦の徒からすれば、お前のやり方は少々、興を削ぐ。権術によって未来を固定し、抵抗の芽をあらかじめ摘み取る……。それでは真の勝鬨は上がらぬのではないか?」

「ヴォルガンの言う通り! 予定調和の勝利なんて、つまんないよ! もっとこう、火花が散るようなさあ!」

 シアの溌剌とした言葉に、ボーゼンライトは氷のような微笑を向けた。

「……興、か。野蛮な戦の神の使徒には理解できまい。これは鼠捕りだよ。私がそのように誘導したのだ。わざと目の前でリンダスという下民を打ち据え、この女を奪い去った。……奴がここに来ることは、権術を弄するまでもなく確定しているのだ」

「……鼠、だと?」

 ヴォルガンの眉が微かに動く。

「ああ。五年間、この辺境で牙を隠していたあの『英雄』にな。……我が『月読の秒針』……。数秒先の未来を見通すこの眼に、奴がどのような無様な足掻きを見せるのか。それを特等席で見物させてやる。戦の神の使徒たちよ、お前たちが望む『火花』とやらが見られるかもしれんぞ?」

 ボーゼンライトは窓の外を、ジンが残されたあの村の方角を見やった。彼の脳内ではすでに、権術によって視認された、ジンの「敗北の未来」が幾重にも積み重なっているようだった。

 ジェシカは、シアからもらった実を握りしめ、震える唇を噛んだ。

 神の代理人たちが交わす、あまりに非情な言葉の応酬。だが、掌にあるシアの木の実は、確かに熱を持っていた。

(……ジン、さん。リンダス……)

 彼女の絶望の底に、シアが灯した小さな「戦う意志」が、微かに、しかし確実に芽吹いていた。

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