神権剥奪   作:蒼天美茶

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 婚姻の宴が中止になった夜、村は死んだような静寂に包まれていた。

 昼間の喧騒が嘘のように、広場に飾られた色とりどりの野花は無惨に踏みにじられ、大鍋の火は消え、残されたのは理不尽な暴力の爪痕だけだった。

 ジンは、五年前にガイゼンに拾われて以来、自分の家として過ごしてきた小さな小屋の中にいた。使い込んだ手斧を、愛惜を込めて棚の定位置に戻す。木こりとしての五年間、この斧は彼の手に馴染み、平穏な日々の象徴だった。それを置くということは、この村での日常を完全に切り捨てることを意味していた。

 ジンは最低限の干し肉と、川の水を汲んだ水袋を古びた革袋に詰め込む。作業をする指先は微かに震えていたが、それは恐怖ではなく、抑えきれない憤怒によるものだった。

(……待ってろ、リンダス。ジェシカは、必ず連れ戻す。あんな理不尽に、お前たちの未来を食いつぶさせてたまるか)

 ジンは一瞬だけ、月明かりが差し込む住み慣れた小屋の風景を網膜に焼き付け、静かに扉を開けた。夜の冷気が、熱を持った頬を鋭く撫でる。そこには、まるですべてを見越していたかのように、ガイゼンが彫像のごとく静かに立っていた。

「どこに行くつもりだ。坊主」

「……じいさん。俺はジェシカを助けに行く。あいつの勝手にはさせない」

 ジンの声は低く、地を這うような重い響きを孕んでいた。ガイゼンは止める風でもなく、深く、長く溜息を吐いた。

「行ってどうするつもりじゃ。御手は最前線である街の教会でジェシカの浄化を行う。お主が全力で身体を練り上げて走っても、着くのは精々二日後じゃろう。そこに加えて、門の衛兵を突破し、すべてを薙ぎ倒して、あの御手を倒せると思っておるのか」

「ジェシカが泣いていた。リンダスも一命は取り留めたが、まだ意識が戻っていない。……落とし前をつけさせてやる。それだけだ」

「ふん、五年間で成長したのは技術のみか。とんだボンクラだわい。……狩人ならば、戦士たらんとするならば、勝算を持って挑め。……一つ、教えてやろう。『決闘』というものについてだ」

 ガイゼンは、夜の闇の中でジンの目を射抜くように見つめた。

 それは、主神に誓い、お互いの代償を懸けて行う神聖かつ強制力のある儀式。拒否は誇りの喪失を意味し、勝利すればジェシカの奪還、さらには組織への要求すら可能にする「唯一の対等な戦場」だった。

「……構わない。ジェシカを取り戻せるなら、なんだってやってやる」

「……ならば、ジン。一つだけ肝に銘じておけ。決闘には『約定』が必要だ。相手もお主に、あるいはお主が所属する組織に対して要求を突きつけることができる。……わかるか。今のままお主が『村の住人』として戦えば、もし敗れた時、奴は約定を利用して村全体に報復をするだろう」

 ジンの背筋に冷たい戦慄が走った。ボーゼンライトのあの冷酷な、すべてを管理対象としてしか見ていない瞳なら、迷わずそうするだろう。

「……なら、どうすればいい」

「お主を『追放』する。それも、村中が納得するほどの不祥事を起こした体でな。そうすれば、お主はただの『野良の馬鹿者』だ。奴が村に対して約定を求める口実を、あらかじめ潰しておくのじゃ。……手順は儂から村長に伝えておく。あやつも儂と同じ経緯でな……名前まで没収され、残された役割として『村長』としか呼ばれぬ男だ。お前の覚悟、無下にはせんはずだ」

 神に背いた者は、その存在の証さえも消される。この五年間、慈父のように接してくれた村長が、実は名前さえ奪われた「空殻」のような存在だったという過酷な真実。それを聞き、ジンの体の奥の脈動が、ドクンと大きく、激しく跳ねた。

「……世話になった。恩にきるよ、じいさん」

 ふとガイゼンが再び小屋へ戻ると、小屋の影から、布に包まれた「短く、太い何か」を、ズゥゥ、と地面を削るような重苦しい音を立てて引きずり出してきた。

「生半可な武器では、御手の加護は砕けん。神の理に守られた奴らの肉体は、堅固な鎧そのものに近い。ならば、その鎧そのものを叩き潰すしか道はない」

 ガイゼンが布を解くと、そこには鈍い、炭のような光を放つ「鉄棍」が現れた。

 長さはジンの肘から先ほどしかない。しかし、その太さは常軌を逸しており、装飾も一切ない。ただひたすらに鉄を打ち固め、魔素を極限まで抜き去り、純粋な「質量」のみを追求した、おぞましいほどに武骨な鉄の塊だった。

「持ってみろ」

 ジンが手を伸ばし、その柄を握る。――ッ!?

 持ち上げた瞬間、ジンの右腕が大地に引きずり込まれるような衝撃に襲われた。片手で持てるサイズでありながら、その重量は数人がかりで運ぶ大岩をも凌駕している。握るだけでジンの筋繊維に猛烈な負荷をかけ、前腕の血管が蛇のように浮き上がった。

「……重いな。じいさん、これ……」

「当たり前だ。限界まで密度を鍛え上げるように、知り合いに秘密裏に頼み込んだ代物だからな。それは、これから『戦士』として挑むお前が背負う、罪と怒りの重さだ。……それだけが、今の儂からお前に渡せる、唯一の餞別だ。持っていけ、馬鹿者」

 ジンは、その鉄棍を力強く握り直し、腰のホルダーへと深く差し込んだ。

「……ああ。重いよ、これ。……でも、ちょうどいい」

 ジンは夜の闇に紛れ、村の境界線を越えた。背後に広がる五年の思い出を、一度も振り返ることはなかった。

 それから、孤独で過酷な三日間が始まった。

 腰に下げた鉄棍は、一歩ごとにジンの骨盤を軋ませ、体幹を歪ませようとする。本来なら二日で駆け抜ける距離だが、ジンはあえて三日をかけた。道中、数時間の仮眠と最低限の食事を挟み、身体をこの「異常な質量」に馴染ませるためだ。

 一日目、ジンの肉体は悲鳴を上げていた。右半身だけに掛かる尋常ならざる重みに対し、脊椎が反発し、内臓が圧迫される。だが、その苦痛を凌駕したのは、体の奥で鳴り止まない「脈動」だった。脈動が打つたびに、断裂しかけた筋繊維が強引に繋ぎ止められ、熱を帯びて再構築されていく。

 二日目、ジンは森の中で鉄棍を振るった。ただの素振りだ。だが、その一振りが大気を裂き、目に見えるほどの衝撃波を生み出す。掌には、五年間の開墾で刻んできたタコが幾重にも重なり、得物と一体化していく。師であるガイゼンに叩き込まれた「獲物を逃さない」実戦の感覚が、鉄棍の質量を通じて研ぎ澄まされていった。

(……この重さは、俺の意志だ。この一撃で、すべてを終わらせる)

 夜営の焚き火を見つめながら、ジンは自らの変質を実感していた。もはや彼は、穏やかな木こりの青年ではない。一振りの凶器そのものに変貌しつつあった。

 三日目の朝、朝靄の向こうに、天を突くような巨塔の影が立ち上がった。

 大都市『セレン・フォレスト』。

 月の神を奉る総本山たる領都に次ぐ規模を誇り、原生林に対する信仰と軍事の最前線として機能する要塞都市だ。

 神の加護を象徴する白亜の城壁が、朝日を浴びて傲慢なほどに輝いている。だが、その巨大な門を前に立つジンの目に映ったのは、聖域などではなく、辺境の村から命の糧を吸い上げて肥え太った、巨大な「収奪の装置」に過ぎなかった。

 美しい装飾、整備された街道、そして衛兵たちが纏う贅沢な甲冑。それらすべてが、リンダスやジェシカ、そして名前を奪われた村長のような人々が流した血と汗の上に成り立っている。その醜悪な対比に、ジンの心は凍えるような冷徹さに支配された。

 ジンは、師であるガイゼンから譲り受けた鉄棍の柄を掌で確かめた。五年間、掌に刻んできたタコと、あの老狩人に叩き込まれた実戦の感覚が、冷徹な思考を研ぎ澄ませていく。

 城門の前には、銀の甲冑を纏った指衛士の門番たちが、退屈そうに槍を立てていた。

「止まれ! 不浄な身なりの者よ。ここは聖域の入り口だ。許可証なき者は立ち去れ」

 衛兵が鼻をつまむような仕草で槍を突き出す。巨大な城門は固く閉ざされ、神の加護が施されたその門は、数人がかりでなければ動かぬ絶対的な拒絶の象徴だった。

「……辺境の村から来た。使い走りの『御手』に、預けものがあるんでな」

 ジンの喉の奥から、低く、重金属が擦れるような声が漏れる。

「なんだと……? 身の程をわきまえろ。この門は神に選ばれし者、あるいはその許しを得た者しか開くことは叶わん。不浄な力など、この門の加護が跳ね返すわ!」

 ジンは何も答えず、ゆっくりと城門の巨大な取っ手に「片手」をかけた。

 体の奥の脈動が、ドクンドクンと視界を揺らすほどに高まる。周囲の空気が、ジンの集中に合わせて重く沈み込んだ。

「な……おい、何をする気だ!」

 ジンは左足を一歩前に踏み出し、重心を低く構えた。右腕一本に、オーガの時のように熱を昂る脈動のままに集中させた。

「……ふっ、んんんっ!!」

 ジンの右腕の筋肉が、鋼鉄の束が捻れるように隆起し、衣類を内側から引き裂かんばかりに膨れ上がった。

 ギギィ、ギギギギギッ……!

 信じがたい光景だった。

 神殿の加護に守られ、数人がかりでようやく動くはずの重厚な大門が、たった一人の男の、しかも「片手」の腕力だけで、悲鳴を上げながらこじ開けられていく。

 本来、門の加護は不浄な侵入者を物理的に弾き飛ばすはずだ。だが、この男から溢れる「脈動」は、加護を弾くどころか、その理さえも無造作に力技でねじ伏せていた。

「な……ば、馬鹿な!? 門の加護を無視して、ただの腕力だけで……!?」

 衛兵たちは腰を抜かし、槍を落とした。彼らが信奉する神の奇跡よりも、目の前の男の「筋肉の軋み」の方が、遥かに強大で恐ろしい事実に思えた。

 半分ほど門が開いたところで、ジンは手を離した。ズシンと、都市全体が揺れるような重量感が石畳を伝わって響く。

 彼は愕然とする衛兵たちの間を、悠然と歩き出した。腰に下げた鉄棍が、ジンの歩みに合わせて鈍い威圧感を周囲に撒き散らしている。

「……『御手』ボーゼンライト・ゲールウィンに伝えろ。不届きな『馬鹿者』が決闘を申し込みに来たと。……この門を開けた男が、今、神殿に向かっているとな」

 ジンの低い声が、セレン・フォレストの静寂を完全に切り裂いた。

 一人の木こりの皮を完全に脱ぎ捨て、彼は今、孤独な進撃を開始した。

 背負った鉄棍の質量が、一歩ごとに聖域の地面に侵入者の足跡を、深く、消えぬ傷跡のように刻み込んでいった。




作者はもののけ姫が好きです、これで伝わって下さい
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