神権剥奪   作:蒼天美茶

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大聖堂の中層回廊を吹き飛ばした衝撃の余韻が、冷たい夜気と共に消えていく。

 

 ジンは、血に濡れた鉄棍を引きずりながら、最後の大階段を一歩、また一歩と踏みしめていた。一段昇るごとに、右足のブーツが石畳に吸い付くような重い音を立てる。石畳に残る赤黒い足跡が、自分のものなのか、もう判別できなかった。視界は高熱に浮かされたように小刻みに揺れ、肺に吸い込む空気は、鉄の匂いと滲んだ汗の残り香で満ちていた。

 

 ついに辿り着いた最上階のテラス。

 

 そこは、下の喧騒とは切り離された、静謐な空間だった。

 

 中央、贅を尽くした黒檀の椅子に深く腰掛けたまま、ボーゼンライト・ゲールウィンが退屈そうに指を組んでいる。その傍らには、シアの腕に守られるように立ち、絶望と安堵が入り混じった眼差しでジンを見つめるジェシカの姿があった。

 

 「……ようやくここにこれたか、おおよそ予想通りではあったな」

 

 ボーゼンライトの声は、静かで軽く、しかしこの場にいる全員の鼓膜を否応なくで震わせる。

 

 「仮にも我ら御手に次ぐ実力である五本指であったが。まぁよい。一位の奴に命じられた暇な防人の任であるが、戯れを刈り取るとしようか」

 

 腰の剣へと伸びる指。

 

 

 ジンは無言で睨みつける。

 

 たとえ気づかれていたとしても、弱みを見せるわけにはいかないからだ。

 

 口を開けば、血の臭いまで吐き出しそうだった。

 

 ジンはただ、鉄棍を担ぎ直し、ボーゼンライトから十歩の距離で足を止めた。

 

 全身の脈動が叫んでいる。

 

 目の前の男から発せられる、透き通るような、それでいて吐き気を催すほど濃密な重圧。それが「神気」と呼ばれるものだということに、ジンも無意識に気づき始めていた。

 

 

 

 

 その後ろでシアは悠然と、ジェシカは一瞬で始まりそうな緊張感に息をのんでいた。

 

 「待って、お願い」

 

 震える声をシアはすぐそばから聞く。

 

 彼女はシアの腕を掴み、必死な形相で顔を上げる。

 

 「お願い!お願い、助けて…!」

 

 シアが目を瞬かせた。

 

 「あの人は.....血の繋がりもない私や村のみんなのために....ここまでっ」

 

 言葉にならない。

 

 涙だけが零れ落ちる。

 

 シアはしばらくジェシカを見つめていたが、やがて視線をジンへと移した。

 

 血濡れ。

 

 満身創痍。

 

 だが、それでもなお立っている。

 

 「....へぇ」

 

 口元が愉快そうに歪む。

 

 「うん、いいね。面白い」

 

 その呟きと同時だった。

 

 「おい、『決闘』という儀式があるそうだな」

 

 ボーゼンライトの動きが止まった。

 

 「決闘?」

 

 一拍。

 

 次の瞬間、嗤いが響く。

 

「 ……クク、クハハハハ!」

 講堂を震わせる哄笑。

 

「 貴様、意味が分かって言葉を発しているつもりか? 大神である秩序の女神の天秤による神聖な儀式のことを指しているつもりか。猿知恵で投げかけるその傲慢さ、万死に値するな」

 

「随分と口が回るみたいだな。お前にとっての余興のつもりなら受けても大した差はないはずだが。それともまさか」

 

 ジンは予想してなかったと静かに哄笑する。

 

「ハハ、怖気づきでもしたか?神のご加護尊き選ばれし御手さまが」

 

「吠えるな野良犬が。罪を雪ぐことのみで生きることを許された者たちに我らの月と狩りの神の慈悲深い待遇を忘れて、尚その不遜か。無知であまりにも哀れな貴様に教えてやるが、そもそも神の加護厚き我と、貴様のような路傍の石で成立するものではない」

 

 腰の剣に手を添えるボーゼンライトの呼吸をジンは一部も見逃さずに観察する。この標的は傲慢に見えて、その実、確実な手段で自分を仕留めにきていることを感じていた。

 

「それは俺の存在すべてを賭けたとしてもか」

  

  一瞬、場が静まった。

 

「それで成立するなら、俺の名前も存在も全部お前にやるよ。『決闘』による儀式ならそれも可能になるんだろ?そのかわり俺が勝てば、ジェシカを解放し、二度とあの村に不当な要求や義務を課すことをやめろ」

 

「……ふむ」

 

 ボーゼンライトは数秒沈黙し、

 

「断る」

 

 と吐き捨てた。

 

「価値が釣り合わん。貴様一人の存在と、最低限あの村を足したとしても我は何の価値も見出せんな。その程度では秩序の天秤を煩わせるまでもないことだ」

 

 処刑。

 

 その空気が場を支配しかけた時。

 

「――じゃあ!アタシが価値を足してあげようか」

 

 シアが赤い外套を揺らしながら、1歩前へ出る。

 

 金色の瞳が愉快そうに細められる。

 

「シア」

 

 ヴォルカンが眉を顰めながら、声をかけるがそれをシアは後ろ手を振ることで一蹴した。

 

「どういうつもりだ」

 

 ボーゼンライトの声が低くなる。だがシアは意に介さない。

 

「どういうつもりかはこっちの台詞だよ、ボーゼンライト。元々アンタと話す予定だったのに面白い見世物というから静観していれば、気に食わな…おほん、好みでないことが始まりそうだったものだからね」

 

 軽く肩を諫める。

 

「森の動向と『回帰』の監視。なんとなく、胸騒ぎがするから視察にきたけど正直、面倒ごとばっかり」

 

「でもさ」

 

 心底楽しそうに笑う。

 

「ここまでたどり着いて、その傷でも衰えない闘志。加えて決闘を言い出す」

 

 うんうんと頷きながら二人の間で足を止める。

 

「いいね!うん!とってもいい!」

 

 ヴォルカンが諦めたように腕を組む。

 

 シアは続けた。

 

「その村、アタシたち戦神陣営がもらい受けることにしようか!」

 

「は?」

 

 初めて、ボーゼンライトが戸惑いの感情を見せるが、シアは妙案だという風に言葉を続ける。

 

「もし、そこの勇敢な青年が勝った場合の報酬だよ。それならアタシはめんどくさい、もとい毎回ぴりつくこの視察をせずに村からの定期報告を受けられるしね。もちろん、村を守るための人員の戦士はちゃんと手配してあげるよ」

 

「待て、戦神の御目であるシア・ルドラよ。それはこの野良犬を戦神の決闘代理に任命するということか。ここ、半世紀の間、負けなしの代表にこいつを?」

 

「うん?ああ、そゆことでいいよ。それと欲しがりで抜け目ないボーゼンライト殿には君が勝った場合の報酬についての方が重要でしょ?加える価値は月と戦で毎回揉めてる”グラズィオ”で」

 

 ボーゼンライトは沈黙した。

 

 戦神陣営による飛び地の庇護。だとしても森に近く領土としてもほんの一部。だが森の監視権を握られる。

 

 しかし、それに対しての報酬がボーゼンライトが御手(みて)に任命される以前からせめぎ合っている都市一つを差し出されるという破格の条件。

 

 それは確かに取引として成立する。

 

 シアは楽しそうに笑う。

 

 「どう?」

 

 そして、最後に、

 

 「ついでにアタシ、この戦を見てみたいんだよね、面白いものが見れるというならアタシの要望にも応えてほしいものだけどな」

 

 と付け加えた。

 

 ボーゼンライトはしばらく黙っていたが、やがて深く息を吐く。

 

 「野蛮人が」

 

 しかし、その顔には抑えきれない栄光に対する笑みが浮かんでいた。

 

 「よかろう。客人を楽しませるのも都市の主としての務め、付き合ってやろう」

 

 剣に添えた手を離す。

 

 ジンは思いがけず、得られらた息をつく間と決闘が成り立った経緯についての疑念を振り払い、ボーゼンライトに対峙する。

 

「ならば立会人は御目であるシア・ルドラに頼むとしよう。簡略化した決闘など、我は好かん」

 

「うんうん、実に私好みだ!もちろん、特等席は譲れないからね!戦と炎の神ヴォルカヌスの名に誓い、アタシ、シア・ルドラがこの場を検分する!汝ら、互いの存在と誉れを天秤に載せ、秩序の女神アルテシアの名の下に、この決闘を違えぬと誓え」

 

 シアは歓喜に声を弾ませて、手を広げる。彼女がその場に立つだけで、感情を波経たせるだけで、テラスを支配していた月の冷気が、どこか焦げ付くような熱を帯びる。

  

 ボーゼンライトが、優雅に顎を引いた。

 

「我らが大神である秩序の女神と主神である月と狩りの神の元に誓おう。この不浄なる魂を、我が時間の糧とすることを」

 

 ジンは、肺の奥から絞り出すような声で応じた。

 

「……誓う」

 

 二人の宣言が重なった瞬間、派手な音も光もなく、ただ世界の境界が変質した。テラスを囲む大気が一瞬で凍りついたように静まり、目に見えない透明な壁が、二人を外界から完全に隔離する。

 

 叫び声も、風の音も届かない。

 

 そこにあるのは、互いの命を削り合うためだけに用意された、純粋な死地だった。

 

「さて、始めようか。不届き者」

 

「刻を読め」

 

 ボーゼンライトから発されていた圧力が収まるが、その瞳に妖しく輝く時計の針が浮かび上がる。

 権術『月読の秒針(ルナ・プレディクト)』。

 

 その瞬間、ボーゼンライトの脳内には、色彩を失った「確定した未来」が網膜に焼き付けられた。ジンの重心のわずかな浮き、指先の震え、呼吸の層。それらすべての情報を演算し、ボーゼンライトの視界には、数秒後にジンが繰り出す攻撃の軌道が、半透明の残像として鮮明に浮き上がっていく。

 

「神に捧げる儀式、ただ首を刎ねるでは神々も呆れよう。貴様の一撃が私に届く未来など、この世界には一秒たりとも存在しないことを知らしめてからゆっくりとその首もらい受けてやる」

 

 対するジンの体内では、生存本能が悲鳴を上げていた。

 

「脈動」は、今や全身を激震させる高電圧の奔流と化している。それは眼前の標的が臨戦態勢に入る今も酷くなる一方である。酷使された筋繊維は一本ずつ焼き切れ、血管は破裂寸前まで膨張し、皮膚の下で蠢くそれは、もはや立ってることすら自認できない。視界の端からじわじわと闇が浸食し、意識が遠のきかけるが、そのたびに肩の傷の激痛が彼を現世に繋ぎ止める。

 

(……熱い。身体が、内側から溶けそうだ……)

 ジンはもうそこまで長くは戦えないことを自覚していた。

 だが、その極限状態が、ジンの感覚を異常なまでに研ぎ澄ませていた。

 脳裏に、ガイゼンの枯れ木のような声が響く。

 

『いいか、坊主。狩人はな、獲物の動きを見るんじゃない。獲物が動こうとする、意識の「先」を見るんだ。……逃げ道を塞げ。相手が「ここなら安全だ」と思い込むその場所こそが、最高の落とし穴になる』

 

(わかってるよ、じじい)

 

「ほざいてろ、おまえみたいな下衆が礼儀を唱えるだけでも吐き気がする」

 ジンの声から、一切の感情が消えた。

 

 鉄混の柄を強く握りしめる。

 

 ボーゼンライトの視線の動きが、ほんの僅かに理解できた気がした。

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