神権剥奪   作:蒼天美茶

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 その森は『母なる森』として、誰1人拒みはしない。ただし、この森はその命の循環に例外を認めることはない。

 

 老人はいつも通り、森の中を息を潜めて戻っていた。背中には弓矢と適切に解体するためのナイフ、そして非常時のための手斧が備わっている。

 

(随分と今日は森が静かだ)

 

老人の彼はいつもより静かな森を訝しんだ。この母なる森は神妙な静けさがある森ではあるが、鳥の鳴き声すら響かないのは異常というほかない。

そして何よりも30年もの間、狩人としてここを生き抜いた自身が何故かこの森の浅層を迷っているという事実に久方ぶりの冷や汗が流れる。

 

「森の母が儂の命を求めていると捉えてしまうのう」

 

半分、そんな覚悟をしながら本来村があるはずの方に向かっていく。

そしてそこに妙なものが横たわっていることに気づく。

 

それはよく見るとものではなく、人であった。

この森では人を模した擬似餌を作る植物や生き餌を作成する魔獣も存在する。

だがそれはより奥、中層に踏み込んだ話であり、浅層では単純な魔物や精々痺れる程度の植物が度々あるくらいのはずである。

それでも警戒を怠らずに背中の弓を引きながら近づいていくと、それが息をしていた。

しかも模倣の息の仕方ではなく、完全に熟睡しているかのような呼吸である。

そしてその周りには魔力が見えない自分ですら見えるような魔素反応である。

 

明らかに異常な存在である。ここの神の支配領域で黒髪の青年というのもおかしさに拍車をかける。

 

だがそれでも母なる森は狩人である自分に彼を連れていけと言っているのだとそう判断した。

 

「とうに見捨てられたと思ったが、これが神のご意志であるならば」

 

それに彼にとって生きている人間をそのまま森の獣たちに貪られるまで放置をするという選択肢はなかった。

 

「ガイゼンさん、おかえ、、なにそれ?」

 

彼を運ぶと判断した後、拍子抜けするほど簡単に森から抜けることができた。

村の皆は肩に背負っている彼を訝しげに見ている。

 

そして村長が出てきて、ガイゼンに問う。

 

「その者は何者なのだ、ガイゼン」

 

「わからん、ただ森がこの者を連れていけと言っていた」

ガイゼンは首を振る。

 

「わかっているのか、私たちは今でも限界なのだぞ。

ここを任せて頂いている狩りと月の神になんと申し開くのだ」

 

「あの神を儂が崇める理由はない、儂は森の自然とお告げに従うまでだ」

 

「それが見捨てられた私たち全体の総意ではないだろう。なにか災いが起きた時、狩人のお前を守ることができんのだ」

 

「追い先短い儂を庇う必要などない。それにこれは魔力に溢れておる。もしかすると狩りの神の新しい使徒か名も知れぬ神の神体の器かもしれんぞ?」

 

「そうすれば、多少はあの街に対するお役とやらに立つだろうよ。

とにかく儂は此奴をしばらく預かる。もし何かあった時、儂ごと家を燃やすなりなんなりしろ」

 

そういうとガイゼンは自身の家へとそのまま帰っていく。

 

村長は深々とため息を吐き、あたまをかいた。

 

そして村民を安心させるように合図するのだった。

 

 

 

 仁は、深い、底のない闇の中にいた。

 呼吸はできず、体温は奪われ、指先から自分が溶けていくような感覚。しかしどこか暖かさがある。かつて「守屋仁」を形作っていた25年間の記憶――嫌悪した叔父の薄ら笑いや、社の静寂、両親の遺影――それら全てが、ケティアスの冷たい舌に舐めとられ、ドロドロの原液へと還元されていく。

(……ああ、俺は終わるのか)

 諦観。それは彼が現代で最後に抱いた、もっとも純粋な感情だった。

 だが、その闇の底で、あの楽観的な「声」が、今までになく低く、鋭く響いた。

『――起きな、仁。ここが小僧の新しい場所だ』

 

「……あ、……ひゅ、……っ」

 辺りを目だけ泳がせて見渡す。

 視界が白く霞む。木造の簡素な天井、燻製肉の匂い、そして――パチパチとはぜる焚き火の音。

「……気がついたか。黒髪の坊主」

 掠れた声に視線を向けると、そこには斧を研いでいる一人の老人がいた。

 仁は自分の手を見た。それは前世と変わらない自身の手だった。だが皮膚の裏側に、得体の知れない熱量と、違和感がある。守屋仁の魂を核にして、ケティアスの権能が無理やり組み上げた「器」の感触だった。

「ここは……」

「『母なる森』の裾野だ。お前はそこで倒れていた。いや、森が食い残したのか、あるいは……森がお前を吐き出したのか。どちらにせよ、運んできたのは儂だ」

 老人は斧の手を止めず、鋭い眼光で仁を射抜いた。

「名は?」

 仁は口を開きかけ、喉の奥で「守屋」という音が死んでいることに気づいた。その名は、あの黒い泥の中に置いてきたのだ。

「……ジン。……ジンだ」

「ジン、か。いい名だ。短くて、薪を割る音に似ている」

 ガイゼンと名乗ったその老人は、ジンの身体に満ちる異常な魔素を恐れる様子もなかった。神を崇拝せず、森の厳格な循環だけを信じる彼にとって、ジンが神の使いか災厄の種かなどは些細なことだった。ただ、森が「連れていけ」と言った。その一点において、ジンはこの地で生きる権利を得たのだ。

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