それは明らかな異常であった。
本来、オーガはその肉体に魔力を練り上げることなどしない。生まれ持った天性の剛躯があれば、小細工など必要ないからだ。
その必要性があるとすれば、より強い存在に挑むために弱者の技術を取り入れる貪欲さ、あるいは死線を越えた果ての進化のみ。
「おそらく……指衛士との最初の衝突で死線を抜けたか、それ以前に使徒たちの追撃を跳ね除けた個体じゃろう」
ガイゼンが苦渋に満ちた声で呻く。その目は語らずとも「逃げろ」と告げていた。
(……何故なんだろうな。今、人生で一番死にそうだってのに。これっぽっちも、ここを離れたくないと思ってやがる)
現代で親族に背を向けた時とは違う、熱い衝動がジンを突き動かす。オーガはそれを「弱者の硬直」と見たか、嘲笑うような足取りで距離を詰めてくる。
ジンは自分でも驚くほど、凪いだ声を出していた。
「じいさん、あんたは逃げろ。俺が時間を稼ぐ。あんなのが村に行ったら、どのみち全部終わりだ。……荷物か囮なら、最後まで役目を果たさせてくれよ」
ガイゼンは何かを言いかけ、その言葉を飲み込んだ。弟子の目に宿る、鋭い「意志」を見たからだ。
「……すぐに戻る。生きておれ」
その言葉にジンは笑う。死ぬつもりなど、毛頭ない。
ガイゼンが老人とは思えぬ速度で密林へと消えていく。その気配が遠ざかるのを確認し、ジンは安堵と共に前を向いた。
獲物を一匹逃したことに気づいたオーガの姿が、ブレた。
瞬き一つの間。左側から視界を埋め尽くすような裏拳が迫る。ジンは咄嗟に両腕を上げ、防御の姿勢を取った。
――凄まじい衝撃。
ジンも自負する「異常な硬さ」を貫通し、内臓まで揺さぶる破壊力が身体を吹き飛ばす。
何本もの巨木を背中でへし折り、視界が火花を散らす。ジンは霞む意識を無理やり叩き起こし、血を吐いて立ち上がった。オーガは、自分の拳を喰らってなお形を保っている人間に、不思議そうな視線を向けている。
「そんなに不思議か? ……悪いが、今の俺は前の俺より少しだけ根性が据わってんだわ」
煽るような笑みを浮かべると、オーガは理解したのだろう。耳を裂くような咆哮と共に、地面を爆ぜさせて肉薄してくる。
ジンもまた、体内から溢れ出す膨大な魔素を見よう見まねで拳に纏わせた。効率など度外視した、ただの魔力の奔流。それを全力でオーガの腹部に叩きつける。
ズゥゥン、と重い音が響くが、奴の鋼鉄の筋肉を貫くには至らない。
殴り、殴られ、足を踏ん張り、また殴る。
骨が軋み、肉が悲鳴を上げる。耐えられはするが、このままではジリ貧だ。先に自分が削り殺される。
その時、腰に下げていた作業用の棍棒が目に入った。吹き飛ばされてもなお、それはジンの傍らにあった。
ジンはそれをひったくり、渾身の力でオーガの側頭部へ叩きつける。
――パキィィン!
硬質な音と共に、オーガの片角が根元から折れ飛んだ。
オーガが絶叫を上げる。逆上した奴の反撃は、これまでの比ではなかった。
「が、はっ……!」
庇った左腕が、ありえない方向に曲がった。
視界が揺れるのではない。世界が回っている。自分が再び吹き飛ばされたのだと、ジンは遅れて認知した。
それでも、立ち上がる。
指衛士の増援など当てにしていない。ただ、自分を拾い、飯を食わせてくれたあの村に、この化け物を一歩たりとも近づけたくない。その一念だけが、折れかけた心を繋ぎ止める。
溢れ出す激情。押さえつけるのはもうやめた。
「うおぉぉぉぉぉぉぉオオッ!!」
「ガァァァァァァァァァッ!!」
呼応するように、オーガが最後の一撃を繰り出そうと腕を振りかぶる。圧倒的なリーチ。次を喰らえば、確実に意識は途絶える。
オーガの拳が先に届く。奴の顔に、勝利を確信した高揚の笑みが見えた。
瞬間。
ジンの右腕に、かつてない「熱」が宿った。
届くか届かないかではない。先に、振り抜く。
「アアアアアアアアッ!!」
絶叫と共に放たれた右拳。
衝撃は、同時に到達した。
だが、結果は無慈悲なほどに一方的だった。
オーガの肉体は、拳を振り抜いた先から「消失」した。
腕を、胴体を、そして首を丸ごと貫き、爆砕させる。ジンの拳に宿った赤黒い熱量は、生物の限界を超えた破壊の奔流となり、余波だけで周囲の森を円形に薙ぎ倒した。
静寂。
ジンは、もはや感覚の失せた左腕を垂らし、熱を帯びたままの右拳を見つめる。
膝が笑い、視界が暗転していく。
(……ああ。これで、文句ねえだろ。じいさん……)
守屋 仁の魂を核にした「器」が、初めてその真価を世界に刻みつけた瞬間だった。
ジンは満足げな笑みを微かに浮かべ、そのまま崩れるように意識を手放した。