静寂が、焦土と化した森を支配していた。
それは生命の気配が途絶えた死の静寂ではない。そこにあったはずの空気、土、樹木、そして三メートルを超す巨躯を誇ったオーガという「存在」そのものが、世界の理から強制的に削り取られたかのような、空虚で不自然な空白だった。
その中心に、一人の青年が横たわっている。
右腕はどす黒く変色し、まるで高熱に焼かれたかのようにひび割れている。対照的に左腕は、自身の重みにすら耐えられぬほど無残に折れ曲がり、湿った土の上に投げ出されていた。
周囲には、円形に薙ぎ倒された巨木たちが放射状に広がっている。折れた断面は鋭利に断たれたのではなく、巨大な力で「圧し折られ、消し飛ばされた」痕跡を留めていた。
「……おい、ジン! 起きろ、ジン! クソッ、返事をしろ!」
その静寂を切り裂いたのは、喉を枯らしたガイゼンの叫びだった。
村の増援を待つ間もなく、背筋を走る得体の知れない悪寒に突き動かされて引き返した彼が目にしたのは、森の地図が書き換えられたかのような惨状だった。
ガイゼンはジンの傍らに転がるように膝をつき、震える手でその泥に汚れた胸に耳を当てる。
――トクン。
微かな、しかし岩をも穿つような力強い鼓動。
「……生きておる。この地獄の底のような有様で、お前はまだ、心臓を動かしておるのか」
安堵がガイゼンの全身から力を奪い、その場にへたり込ませる。だが、その安堵は一瞬で、生理的な戦慄へと塗り替えられた。
ジンのぐったりとした左腕――バキバキに砕け、皮膚の下で骨が粉砕されていたはずの部位が、生き物のように「蠢いた」のだ。
――ジュウウ、と。
肉を焼くような、あるいは泥を捏ねるような不気味な音が、ジンの体内から漏れ出す。
傷口から溢れ出したのは、鮮血ではない。それは陽光さえも吸い込むような赤黒い泥状の魔素だった。それが意思を持つ触手のように傷口を這い回り、砕けた骨を繋ぎ合わせ、裂けた肉を強引に編み上げ、失われた皮膚を再構築していく。
それは神の「加護」による清浄な治癒魔法とは対極にある、悍ましくも圧倒的な儀式だった。
「なんだ、これは……。お前は一体、何をその身に宿しているのだ。ジン、貴様は……」
ガイゼンがその異様な光景に息を呑み、思わず後退りした時、森の奥から重厚な蹄の音が複数、近づいてきた。
遅れて到着した指衛士の指揮官と、その部下たちだ。銀色の甲冑を月光に光らせ、誇らしげに馬を駆ってきた彼らは、眼前に広がる光景に言葉を失った。
無残に転がる村の捜索隊の死体。そして、それら全てを過去のものとするほどの、圧倒的な破壊の爪痕。
「……報告にあったオーガはどこだ。消えたというのか? いや、この地形の変貌は……一体何の魔法だ」
指揮官の鋭い視線が、ガイゼンに抱えられたジンへと向けられる。
ジンの身体からは、未だに不浄とも神聖ともつかぬ赤黒いナニカが、陽炎のように立ち上っていた。
「貴様ら! その黒髪の男から離れろ!」
騎士たちは本能的な恐怖に突き動かされ、一斉に剣を抜いた。切っ先には、彼らが崇める神の加護が宿り、白銀の光が森の闇を切り裂く。
「それは魔物ではない! 神域を侵し、法則を歪める『穢れ』そのものだ! 執行対象として、即刻その首を撥ねる!」
「黙れ、小僧共!」
ガイゼンが吠えた。30年、牙を隠して隠棲してきた老狩人の肉体が、かつての戦士としての覇気を取り戻す。彼は手斧を構え、倒れるジンの身体を覆い隠すように立ち塞がった。
「この男は、お主らが恐怖に尻尾を巻いて逃げ出した獲物を、ただ一人で仕留めたのだ! 村を、お主らの守るべき民を、そしてお主らの薄汚い醜態を、その身を挺して守り抜いたのだ! それを穢れと呼び、刃を向けるというなら……」
ガイゼンの眼光が、聖なる光を纏う騎士たちを射抜く。
「お主らが信仰を捧げる神とやらは、相当に目が腐り落ち、理不尽を極めた存在であると認めろ!」
騎士たちの間に動揺が走った。一介の老人が放つにはあまりにも重い圧力。そして、ガイゼンが語る「真実」の重みが、彼らの矜持を内側から削り取っていく。
だが、指衛士の隊長は、憮然とした顔でゆっくりと片手を上げた。その瞳には、恐怖を覆い隠すための冷徹な計算が宿っていた。
「……なるほど。この惨状、確かにオーガの仕業にしては不自然だ。だが、この平民が仕留めたという事実は、我ら『狩りと月の神』の秩序において、あってはならない不都合な真実だな」
隊長は馬を一段前へと進め、見下ろすように鼻で笑った。
「獲物を仕留めた実績を誉めぬことには、我が主への申し申し開きが立たん。……よかろう、控えよ。その男の罪は、一度不問にしてやる」
その言葉に、ガイゼンは内心で深く安堵した。今のジンを連れて、この手練れたちとやり合うのは分が悪い。
しかし、隊長の言葉には続きがあった。
「ただし、この地を救ったという『栄光』は、見捨てられたお前たちのような平民には身に余る荷物だ。……オーガは、我ら指衛士隊が死闘の末に討ち果たした。そういうことにしておいてやる。お前たちは、その男の命を拾えた幸運に感謝し、一生口を噤んで暮らせ。わかったか」
「……好きにしろ。儂も、この男も、お主ら神の犬が欲しがるような、くだらん栄光になんぞ、欠片の興味もないわ」
ガイゼンは吐き捨てるように言うと、手斧を腰に戻した。
もはや騎士たちを見ることもなく、ただ一人、自らの魂を削って理不尽に抗った青年の身体を、壊れ物を扱うように優しくかかえる。
ジンの左腕の再構築は、すでに終わっていた。
そこには傷一つない、陶器のように滑らかな肌が戻っている。だがガイゼンには分かっていた。この時、ジンの肉体は、ただ治癒したのではない。
神の棲まうこの世界に嫌悪される『ナニカ』へと、取り返しのつかない一歩を踏み出したのだということを。
ガイゼンは、遠ざかっていく騎士たちの嘲笑を背に受けながら、無言で村への帰路を急いだ。
背中の中のジンの体温は、驚くほど熱く、そしてどこまでも静かだった。