ガイゼンは、重く熱を帯びたジンの身体を背負い、村へと続く夜道を一歩ずつ踏み締めていた。
背後からは、指衛士たちの高笑いと、手柄を「清算」する事務的な声が風に乗って聞こえてくる。彼らはオーガの角の破片や、飛び散った外殻の一部を拾い集め、汚れ一つない布で丁寧に拭いている。あたかも自分たちが死闘の末にその巨躯を討ち取ったかのような、中身の空っぽな勝利の証拠作りに余念がなかった。
ジンの左腕からは、いまだにジュウジュウと、肉を焼くような、あるいは泥が沸騰するような不気味な音が漏れていた。
意識を失っているはずのジンの背中が、時折ビクりと跳ねる。砕けた骨が強引に接合され、裂けた筋組織が編み直されるたびに、彼の寝息は苦しげに荒くなった。その異様な振動と、肌を焼くような熱量を背中で直接感じながら、ガイゼンは迷いのない足取りで、遠くに見える村のかがり火を目指した。
「……栄光、か。反吐が出るわ」
ガイゼンは低く吐き捨てた。
仮にも神の使徒の末端を担う若造たちが欲しがったのは、血の滲むような勝利ではなく、それを装うための「飾り」に過ぎなかった。彼らにとって戦いとは、神殿での出世や報奨のための手段であり、守るべき民の命など、その過程で消費される数に過ぎない。
一方で、この背中の小僧が手にしたのは、名誉でも加護でも、ましてや誰かから与えられる恩恵でもない。
人であることを捨て、禁忌に触れてなお、大切な場所を守ろうとした凄絶な「意志」そのものだった。その重みを知るからこそ、ガイゼンは、指衛士たちのどんな華やかな凱旋よりも、この泥にまみれた背中の体温をこそ誇らしく感じていた。
村の入り口に辿り着いた頃には、日は完全に落ち、濃紺の闇が周囲を支配していた。
かがり火を高く掲げ、不安と焦燥に駆られて待っていた村人たちが、森の影から現れたガイゼンの姿を見つけて一斉に駆け寄る。
「ガイゼンさん! 無事だったのか!」
「……ジン!? ジンはどうしたんだ、その怪我は!」
リンダスが真っ先に駆け寄り、ジンの蒼白な顔と、血と泥にまみれた衣服を見て絶句する。
その混乱を切り裂くように、後方から馬を鳴らして指衛士たちが現れた。彼らはこれ見よがしにオーガの角を高く掲げ、尊大に宣言した。
「道を開けよ! 我らが主、狩りと月の神の加護をもち、森を汚す巨躯の魔物を討伐せしめた! この男はその余波に巻き込まれ、我らの加護が届かぬ場所で無様に負傷したに過ぎん。我らの慈悲により連れ戻してやったのだ、神の温情に感謝せよ!」
村人たちの間に、一瞬の、しかし重苦しい沈黙が流れた。
彼らは、指衛士たちのピカピカに輝く、返り血の一滴すらついていない銀の胸当てを見た。そして、ガイゼンの背中で、全身の骨が砕け、命の火を振り絞るように呼吸を繰り返すジンの姿を見た。
数ヶ月間、共に汗を流して森を切り拓き、薪を割り、同じ釜の飯を食ってきた。そんな彼らが、どちらの言葉が「真実」を背負っているかを見間違えるはずがなかった。
「……ああ、そうですか。ありがとうございます、使徒様」
村長が、深々と頭を下げた。だがその瞳は冷ややかに伏せられ、指衛士たちではなく、ガイゼンの背中に横たわるジンだけを、祈るような目で見つめていた。
指衛士たちが満足げに鼻を鳴らし、用意された宿舎へと姿を消すと同時に、村人たちが一斉に、無言のままジンの周りに集まった。
「……ジン、お前、一人でやったんだな」
「馬鹿野郎、あんな無茶しやがって……。俺たちに何も言わずに……」
リンダスが声を震わせ、涙を乱暴に拭いながら、ガイゼンからジンを受け取ろうと手を貸す。
村の女たちは、代々伝わる秘蔵の薬草や、最も清潔な布を家から持ち寄り、ジンの運び込まれたガイゼンの小屋へと次々に運び込んだ。騎士たちの言う「栄光」など、誰一人として信じていない。この村にとっての真の英雄が誰であるか、言葉にせずとも、その静かな献身の空気だけで、村全体がジンを優しく包み込んでいた。
その夜、ガイゼンの家のベッドで、ジンは静かに目を覚ました。
視界が白く霞み、焦点が定まらない。鼻をくすぐるのは、薪の煙の匂いと、微かに漂う清涼な薬草の香り。そして、どこか懐かしい燻製肉の匂いだった。
「……どうなって、いるんだ」
ジンが呆然と呟くと、傍らの椅子で古い手斧を研いでいたガイゼンが、ふんと鼻を鳴らした。
「起きたか、小僧。……村の連中が、お前のために最高級の薬草酒と肉を置いていったぞ。お前が立派な使徒様に『守られた』ことへの、精一杯のお礼だそうだ」
ガイゼンの言葉には、痛烈な皮念と、それを上回る深い温かさがこもっていた。
ジンは、感覚の戻りきらない自分の右手を、ゆっくりと握りしめてみる。
砕けていたはずの左腕も、今では奇妙なほど滑らかに繋がっている。だが、あの瞬間に感じた、神の理さえも踏みにじるような圧倒的な「力」の残滓が、未だに血管の奥で疼いているのが分かった。
(……ああ。守れたんだな、俺)
ジンは天井の木目を見つめながら、前世の記憶を反芻した。
かつての自分は、他人の顔色を窺い、理不尽な要求に頭を下げ、結局は何も守れず、自分自身さえも摩耗させて死んだ。
だが今は違う。
自分の意志で、自分の力で、そして誰に褒められることもない場所で、大切な場所を、そこに住む人々を守り抜いたのだ。
(前世の時には、一度も……一度もできなかったことを、俺は今、やり遂げたんだ)
窓の外から聞こえる、村の静かな夜の音。風に揺れる木の葉のざわめき。
それは、かつて現代社会で失ったはずの「居場所」が、確かにこの理不尽な異世界の中に存在していることを、ジンに告げているようだった。
「……ガイゼンじいさん。俺、まだ動けるかな」
「寝ていろ、馬鹿者が。修行は明日から……いや、あと数日は休みをやる。お前が守ったこの景色を、じっくり眺めておけ」
ガイゼンの不器用な言葉を聞きながら、ジンは再び深い眠りへと落ちていった。
神の天秤からは外れ、月の光さえ届かぬ場所で、一人の男が真の意味で「この世界の住人」になった夜だった。