第9話 鍛えるための器、星屑の庭の増設計画進行
ゴブニュとヘファイストス、二柱の神に話を通した翌日から、星屑の庭の空気は目に見えて落ち着きを失った。
何かが建ったわけではない。
隣地はまだ荒れている。
草は伸び放題で、崩れた物置の木片が雨に腐りかけたまま転がっている。本館四階の窓から見下ろせば、相変わらず「使われていない空き地」にしか見えない。
だが、レックスの目にはもう違った。
そこに柱が立つ。
荷重を受ける骨が入り、床が重ねられ、階段が通り、四階から渡り廊下が伸びる。
一階から三階は一般会員エリア。
四階から六階はアストレア・ファミリア専用エリア。
表で回し、裏で牙を研ぐための棟。
問題は、それがレックスの頭の中にしかないことだった。
朝食の席で、アストレア様がいつもより少しだけ早く茶器を置いた。
「今日は忙しいわ」
「分かってます」
「いいえ。あなたは、忙しいことより別のことを分かっておいた方がいいわ」
レックスが顔を上げると、アストレア様は柔らかく笑った。
「頭の中にあるものを、ちゃんと人へ渡すこと。今日はそれが一番大事」
ザイロが横で黒パンを齧りながら、わざとらしく鼻を鳴らした。
「ほらな。昨日も言ったろ。こいつ、分かってる前提で喋りすぎるんだよ」
「お前にだけは言われたくない」
「俺は最初から他人に分かってもらう気がねぇからな。そこは筋が通ってる」
「通ってねぇよ」
パトーシェは真面目な顔で頷いた。
「だが事実だ。レックス、お前は盤面を見すぎるせいで、時々説明を飛ばす」
言い返しかけて、やめた。
飛ばしている自覚はある。
アストレア様が続ける。
「建築職人に鍛錬思想を先に投げても通らないわ。鍛冶師に基礎杭の深さを語っても響かない。相手ごとに順番を変えなさい」
「……分かってます」
「本当に?」
「本当に」
ほんの一拍。
アストレア様はその返事を秤に載せるみたいに見てから、頷いた。
「ならいいわ」
外で荷車の音が止まった。
木が擦れる音。鉄具のぶつかる音。複数人の足音。朝の静けさを押し分けて、職人たちが来たのだと分かる。
「来たな」
ザイロが立ち上がる。
パトーシェもすぐ背筋を伸ばし、レックスは最後に茶を飲み干した。
腹の奥が少しだけ重かった。
地下へ潜る前の緊張とは別種のものだ。
今日失敗すれば、剣は折れない。代わりに構想が死ぬ。
*
最初に門をくぐったのは、ゴブニュ・ファミリア側の建築職人たちだった。
昨日顔を見た大柄な職人が先頭にいる。その後ろに石工、木工、上下動線を見る細身の男、水回り専門らしい中年、さらに基礎の沈みを見そうな無口な男までいる。荷車には縄、木杭、石灰袋、鉄筆、測量具、脚立、木板。見れば分かる。今日は口先だけの打ち合わせじゃない。現場に線を引きに来ている。
少し遅れて、ヘファイストス・ファミリア側も入ってきた。
若い鍛冶師。
年配の女鍛冶師。
機構屋。
保守担当。
重石と支柱周りを見る腕の太い男。
そして最後に、場の空気ごと引っ張ってくるように椿・コルブランド。
「おう。来たぞ」
椿が笑う。
「神様相手の話だけじゃ腹が決まらねぇからな。現場を見に来た。ひっくり返すなら今のうちだ」
「ひっくり返される気はないです」
「言うねえ」
そこで、ゴブニュ側の大柄な職人が短く咳払いした。
「段取りを言え」
来た。
レックスは一歩前へ出る。
「まず、器具配置の前提から」
「違う」
即座に切られた。
空気が止まる。
「……は?」
「基礎だ。器具は建ってからの話だろうが。荷をどこへ落とすか、渡り廊下をどう軽くするか、本館側へどう響かせないか。先にそっちを切れ」
レックスの口が一瞬止まる。
分かっていた。分かっていたはずなのに、頭の中ではもう完成した棟の中に立ってしまっていた。
椿が横から口を挟んだ。
「ほら見ろ。だから言ったろ。こいつ、頭の中で建った後の景色が先なんだよ」
笑っているが、助け舟でもある。
アストレア様は何も言わなかった。
ただ、焦らせない目で見ていた。
レックスは一度だけ息を吐いた。
「……順番、間違えました。失礼」
「謝るのはいい。で、やり直せ」
大柄な職人の声は容赦がない。
だが、その冷たさは悪意じゃない。現場の順番を叩き込むための冷たさだ。
レックスは隣地を振り返る。
草。
残骸。
土の高低差。
本館との距離。
昨日まで頭の中で勝手に飛び越えていたものを、一つずつ手前から見直す。
「まず実測です。棟は細身でいい。だが六層まで積む以上、基礎は軽く見ない。本館とは荷重を切る。渡り廊下は四階接続だが、棟本体と一体で重くしない。人が通れる最低限の強度を確保した軽量構造にしたい」
今度は止められなかった。
石工が顎を引く。
「で、本館からどれだけ離す」
「近すぎると振動が死ぬほど響く。遠すぎると四階の接続が長くなる。だから実測してから切る。理想は渡り廊下を真っ直ぐ通せる位置」
「ようやく地面を見たな」
嫌味だが、通った。
木工が土の端を爪先で踏む。
「床は?」
「重量区画は三階と六階。ここは特別補強が要る。落下音と衝撃を殺したい。一階と四階は逆に、少しだけ沈みと踏み返しを残したい。ファンクショナルだから」
細身の男が初めて口を開いた。
「階段は二系統か」
「はい。会員導線と管理導線を分ける。一階から三階は一般会員。四階から六階は専用。四階を境界層にする」
水回り職人が、ようやくレックスの方をきちんと見た。
「シャワーとトイレはどこだ」
「一階と四階。男四女四のシャワー、男二女二のトイレ。上下同位置が理想です」
「理由は」
「衛生導線を切りたい。会員エリアと専用エリアの汗を混ぜない。あと本館へ汗臭いまま戻したくない」
一瞬だけ間があって、椿が吹き出した。
「そこだけ切実だな、お前」
「そこは本当に大事です」
水回り職人は笑わなかった。
代わりに短く頷いた。
「そこを軽視しないなら、まだ信用できる」
レックスは少しだけ肩の力を抜く。
最初の空振りは痛かった。
だが、あれで頭が現場へ戻った。
*
実測が始まると、朝はすぐに消えた。
草を刈る。
木杭を打つ。
紐を張る。
本館四階の窓位置から視線を落とし、どの角度で渡り廊下を通せるかを見る。
基礎をどこへ切ればいいか、石工たちが土の締まりを確かめる。
水回り職人が上下の管の位置を見て、四階と一階の縦の一致を測る。
レックスは、その輪の中を行ったり来たりしながら、必要な情報だけを投げた。
「四階から上は完全に切りたい」
「外から専用導線が見えすぎるのは避けたい」
「階段は会員側と裏側で別」
「三階と六階は衝撃を殺したい」
「一階と四階はファンクショナル寄りで、床を死なせたくない」
途中、パトーシェがぽつりと言った。
「いっそ、全部を専用棟にした方が安全ではないか?」
手が止まる。
ザイロが先に「ほら来た」とでも言いたげな顔をした。
レックスはすぐ答えない。
少しだけ考えてから、言う。
「短期的には安全だ。でもそれだと死ぬ」
「なぜだ」
「金だよ」
きっぱり言う。
「維持費、修繕費、消耗品、住民雇用、水回り、保守。専用だけじゃ回らない。街へ開いて回すから器になる。閉じた牙だけじゃ、いつか自分の口の中から腐る」
パトーシェはすぐには反論しなかった。
代わりに唇を引き結ぶ。
「……私は、守ることばかりで考えていた」
「それも必要だ」
アストレア様が静かに言う。
「でも守るには、回る形にしなければならないのよ」
パトーシェが頷く。
少しだけ悔しそうだった。
だが、その悔しさは悪くない。考えが一段深くなる時の顔だ。
次に、ザイロが木杭の並びを見ながら吐き捨てた。
「で、建てた後は誰が回す」
「住民雇用と責任者当番」
「それだけじゃねぇ。建てた瞬間は盛り上がる。だが三か月後、半年後、誰が掃除の遅れにキレて、誰がマシンの不具合を拾って、誰が会員の揉め事止めんだって話だ」
レックスはそっちを見た。
「責任者はファミリアが交代で立つ」
「お前と騎士女と俺でか?」
「今はな」
「はっ。気に食わねぇ」
「でも正しいだろ」
「……だから気に食わねぇんだよ」
ザイロの目は笑っていなかった。
それは賛成の裏返しだった。
「中途半端な箱は敵より先に身内を腐らせる。建てるなら最後まで回せ」
「分かってる」
「ならいい」
この一言は、思った以上に重かった。
こいつが一番嫌うのは、綺麗事だけの箱物だ。だったら今の確認は、ザイロからの実質的な承認に近い。
*
昼前、現場の実測がひと区切りついたところで、舞台は石机へ移った。
今度はヘファイストス側だ。
建築の次は器具。
だが今度は、最初から順番を間違えない。
レックスは羊皮紙を広げ、まず先に区画を指した。
「器具の前に、用途から切ります。一階と四階はファンクショナル。二階と五階はマシン+有酸素。三階と六階はフリーウェイト。上下で同系統。ただし会員側は安全優先、専用側は実戦優先です」
年配の女鍛冶師が頷く。
「それなら話が早い。で、ファンクショナルの核は」
「デュアル・アジャスタブル・プーリー」
即答。
椿が笑う。
「やっぱりそこが心臓か」
「ええ。片側負荷、回旋、引き戻し、差し込み、低姿勢。全部の粗が出る」
「会員側もか?」
「会員側もです。ただし危険行為を監視しやすいよう、受付から視線が届く位置へ置く」
「専用側は?」
「少し奥でいい。自分たちで管理する」
機構屋が質問を飛ばす。
「重石刻みは細かさ優先か、壊れにくさ優先か」
「会員側は壊れにくさ寄り。専用側は細かさも欲しい」
「差をつけるのか」
「見た目は揃える。でも中身は少し変える」
「面倒だな」
「必要です」
椿が肩を揺らした。
「こいつ、ほんとその言葉便利に使うな」
「便利だからです」
「嫌いじゃないね」
そこからは、一つずつ詰めていった。
ラット・プルダウン。
シーテッド・ロウ。
ショルダー・プレス。
チェストプレス。
レッグ・エクステンション。
レッグ・カール。
ハック・スクワット。
アーク・レッグ・プレス。
グルート・ブリッジ。
クロストレーナー。
トレッドミル。
アップライト・バイク。
スミスマシン。
バーティカル・スミスマシン。
HD Elite iD スタンダードパワー・ラック。
ベンチ。
デュアル・アジャスタブル・プーリー。
全部。
だが今度のレックスは、器具名だけを並べなかった。
なぜ要るのかを、用途で切った。
「脚の器具が多いのは?」
「立つ職人も、踏み込む戦士も、結局は下が死ぬと全部死ぬから」
「グルート・ブリッジをそんなに重視する理由は?」
「臀部が抜けると出力も減速も全部軽くなる」
「トレッドミル六基は多い」
「待ちが出ると回転率が死ぬ。朝夕の混雑で詰まる」
「会員側のフリーウェイト、ラック五基は多すぎないか」
「多い。でも少ないと待ちが出る。待ちは事故と怠慢を生む」
「ショルダー・プレスをそんなに強く置くのは?」
「槍も剣も肩で支えるから」
「腹部系は?」
「クランチと回旋で最低限。見栄えより使い道優先」
「専用側の有酸素を五階へ寄せるのは?」
「四階は整える階だから。切り替えと調整を残したい」
途中で一度、若い鍛冶師が腕を組んだ。
「全部入れたいのは分かった。でも金はどうする。理想だけならいくらでも並べられるぞ」
それは当然の問いだった。
レックスは少しだけ言葉に詰まった。
本音を言えば、金なんていくらあっても足りない。
だが、ここで夢を見る顔をしたら終わる。
「全部、一気には無理です」
認める。
「方針としては全部入れる。でも導入順は切る。核から入れて、使いながら増やす」
椿が口元を歪めた。
「ようやく自分で言ったな」
「最初から分かってはいました」
「分かってても言わないと伝わんねぇんだよ」
それが今日の二度目の刺さりだった。
痛いが、正しい。
ヘファイストス側の保守担当が帳面を閉じる。
「なら契約できる。全部を夢で終わらせず、順序を切るなら保守も組みやすい」
レックスはそこでようやく、一段だけ息を吐いた。
*
最後に残ったのは金の話だった。
ここを濁すと全部が嘘になる。
石机の上で、ゴブニュ側とヘファイストス側、双方の顔が揃う。
椿が腕を組み、建築職人が片眉を上げる。
「で、例の値引き案だ」
レックスは頷いた。
「ゴブニュ・ファミリア、ヘファイストス・ファミリア両方に、会員エリアの優先利用時間を設定したい。完成後、下三層を十三時から十七時のあいだ優先的に使える形を考えてます」
「その代わり、初期費用を少し削れと」
「はい」
あっさり言い切る。
椿が声を上げて笑った。
ゴブニュ側の大柄な職人まで口元を歪めた。
「神相手に、昨日だけじゃなく今日もそこまで言うか」
「必要なので」
「好きだねぇ、その言葉」
「筋は通ってる」
今度はゴブニュ側が先に言った。
「優先利用時間があるなら、作り手が自分の作った器を実際に確かめられる。悪くない」
ヘファイストス側の保守担当も続く。
「維持管理の確認にも都合がいい。使われ方を自分たちの目で見られる時間は欲しい」
「ただし」
椿が指を立てた。
「壊したら別だよ。優先利用時間があろうが、雑に扱った分は請求する」
「当然です」
「ならいい」
大柄な建築職人が、レックスをまっすぐ見た。
「お前、本当に遠慮がねぇな」
「した方がいい場面ならします」
「今は違うと」
「はい」
少しだけ間。
それから職人は笑った。
「悪くない。むしろ半端に萎縮される方が面倒だ」
そこで、アストレア様がようやく口を開いた。
「ありがとう。きっと、この棟はいいものになるわ」
その言葉は軽くなかった。
場にいる全員が、その重みをちゃんと受け取った顔をした。
*
夕方、職人たちが引き上げる頃には、隣地へ何本もの木杭が刺さっていた。
ただの杭だ。
だが、何もなかった地面へ初めて「ここに建つ」という意志が打ち込まれた印でもあった。
星屑の庭に残ったのは、レックス、ザイロ、パトーシェ、アストレア様の四人だけだ。
パトーシェがぽつりと言う。
「まだ何もないのに、もう戻れなくなった気がする」
「戻る気だったのか?」
ザイロが言う。
「そういう意味ではない!」
「でも分かるぞ」
珍しく、ザイロがそこで本気の声を出した。
「木杭だけでも、もう“やる”って形だ」
レックスは何も言わず、隣地を見ていた。
嬉しさはある。
だがそれだけじゃない。
金。
工期。
保守。
住民雇用。
責任者当番。
全部が現実になった。
今日までは、頭の中の構想だった。
今日からは、失敗した時に周りごと巻き込む責任に変わる。
アストレア様が隣に立った。
「どうしたの?」
「……思ったより、重いなって」
「何が?」
「建てるってことが」
アストレア様は少しだけ黙って、それから柔らかく頷く。
「そうね。器は、夢よりずっと重いもの」
レックスは木杭を見たまま言う。
「俺、今日けっこうやらかしましたよ。最初、器具配置から喋って切られたし」
「ええ」
「そのあとも、頭の中にある完成形を前提にしすぎてた」
「ええ」
「……それでも通ったのは、俺が上手かったからじゃない。椿も、職人も、アストレア様も、途中でちゃんと噛み砕いてくれたからだ」
その言葉に、アストレア様は少しだけ目を細めた。
「ちゃんと見えているじゃない」
「気分はよくないです」
「でも、その気分の悪さは大事よ。自分一人で通した気にならないなら、次はもっと良くなるもの」
ザイロが後ろから聞こえるように言った。
「はっ。珍しく反省してやがる」
「うるせぇ」
「でも悪くねぇ顔だぞ。今日のお前」
パトーシェまで真面目に頷く。
「うむ。少なくとも、独りで全部を抱えている顔ではなくなった」
「お前らな」
言い返しながらも、少しだけ肩の力が抜ける。
アストレア様が、またあの優しい声で言った。
「今日、あなたはとても良かったわ」
「……そうですか」
「ええ。でも、褒められて終わりではないのでしょう?」
さすがだ。
そこは外さない。
「終わりじゃないです」
「なら、それでいいのよ」
夕焼けが消えかけた隣地に、木杭の影が長く伸びていた。
まだ骨もない。
床もない。
器具もない。
それでも、もうただの空き地ではない。
剣はまだ届かない。
クノッソスの心臓は遠い。
けれど今日、ようやく“鍛えるための器”が地面の上へ最初の痕を刻んだ。
そしてレックスは、その痕を見ながら一つだけはっきり思う。
ここから先は、もう思いつきでは済まない。
金も、人も、時間も、責任も、全部食う。
それでも進めるなら進め。
止まるなら今だ。
答えは、もう出ていた。
進むしかない。
第9話 鍛えるための器、星屑の庭の増設計画進行 了