悔いなき選択 ※休止   作:Jefflocka

12 / 27
第10話 鍛える塔は、隣に立つ

第10話 鍛える塔は、隣に立つ

 

 星屑の庭の隣に、骨が立った。

 

 最初にそう思ったのは、まだ柱が半分しか組み上がっていない頃だ。

 

 木杭だけだった地面に、掘られた基礎の溝が走り、石が据えられ、鉄の芯が通り、柱材が一本また一本と起き上がっていく。何もなかった場所に、意志だけが先に形を取っていく。

 

 鍛えるための棟。

 

 思いついた時は、まだ少しだけ無茶だった。いや、正確には、思いついた時点ではほとんど悪だくみに近かった。だが今は違う。ゴブニュ・ファミリアの設計と建築が動き、ヘファイストス・ファミリアの鍛冶師たちが可動部と重石の試作を進め、星屑の庭の隣地は日ごとに“ただの空き地”ではなくなっていった。

 

 本館四階の窓から見下ろせば、その変化ははっきり分かる。

 

 細身の六層。

 一階から三階が一般会員エリア。

 四階から六階がアストレア・ファミリア専用エリア。

 本館四階から四階へ渡す廊下。

 一階と四階に置かれるシャワールームとトイレ。

 会員用の出入口と、四階で完全に切り替わる専用導線。

 

 生活を潰さず、運営を回しながら、牙を隠して研ぐための塔。

 

 最初に悪い顔で思いついた時のまま、いや、それ以上に鮮明な形になりつつあった。

 

 建築は速かった。

 いや、正確には、無駄がなかった。

 

 ゴブニュ・ファミリアの職人たちは、話し合いの時こそ「面倒だ」「高い」「気軽に言うな」と散々言っていたが、いざ手を入れ始めると迷いがない。

 

 基礎を切る。

 本館と荷重を分ける。

 渡り廊下は軽く、だが人と荷が通っても不安のない強度にする。

 三階と六階のフリーウェイト区画は特別補強。

 落下音と衝撃を殺すため、床の下へ層を噛ませる。

 一階と四階のファンクショナルエリアは逆に、わずかな沈みと踏み返しを残した床材を選ぶ。

 会員用の主階段とは別に、裏側へ管理用の階段を通す。

 四階へ直接入れる導線は作る。だがそれは表の客のためじゃない。住民スタッフと清掃担当、保守担当、そしてアストレア・ファミリアの責任者が使う“裏の動線”だ。

 

 建物というのは、こうやって考え方がそのまま骨になるんだな、とレックスは何度か思った。

 

 そして、ヘファイストス・ファミリアもまた、同じだった。

 

 連中は武器を打つ手つきのまま、鍛錬具を組んだ。

 

 妙な名前の器具を前に「本当にこれ全部要るのか」と何度も言いながら、それでもレックスが説明した動きと負荷を一つずつこの世界の技術へ翻訳していく。重石塔の刻み幅。滑車の摩耗しにくい角度。差し込みピンの抜け止め。座面の体格差調整。握りの木と鉄の比率。汗で滑りやすい箇所の交換前提設計。左右独立機構の遊びをどこまで許すか。保守で毎月見るべき箇所の一覧。

 

 こっちもこっちで、作って終わりの匂いが全然ない。むしろ、作った瞬間から壊れ方まで考えている。だから任せられる。

 

 だが、塔が本当に“回る施設”として成立するかどうかは、建築と鍛冶だけでは決まらない。

 

 人がどう出入りするか。

 誰をどこまで通すか。

 無人の時間帯をどう締めるか。

 どこまで見て、どこから見ないか。

 

 その線が、まだ抜けていた。

 

 

 修練棟の運営を考えた時、一つ大きな問題があった。

 

 将来的には長時間回したい。

 だが、全時間帯に住民スタッフや責任者を貼り付けるのは無理だ。

 深夜帯まで全部有人にすれば、人件費も管理負担も跳ね上がる。

 かと言って完全無人なら、機密も治安も終わる。

 

 そこでレックスが持ち込んだのが、“恩恵認証で扉を分ける”という発想だった。

 

 この世界に監視カメラはない。

 だが、神の鏡ならある。

 この世界に電子認証はない。

 だが、恩恵はある。

 なら、やれる範囲でやるしかない。

 

「次はヘルメス・ファミリアだな」

 

 石机の上の羊皮紙を見ながらレックスが言うと、ザイロが即座に嫌そうな顔をした。

 

「……軽薄な神のとこか」

 

「嫌いか?」

 

「好きになる要素あるか?」

 

「ないな」

 

 パトーシェは腕を組んだ。

 

「だが、必要なのだろう?」

 

「ああ。認証と最低限の監視を組むなら、あそこを噛ませるのが一番早い」

 

 アストレアは静かに頷いた。

 

「なら行きましょう。技術の話だけでなく、礼も通すべきだもの」

 

 レックスは羊皮紙を畳む。

 気は進まない。

 だが必要だ。

 

 エルヴィンなら言うだろう。

 使える札を好き嫌いで避けるな。

 気に食わなくても盤面に要るなら使え、と。

 

 だから行く。

 

 

 ヘルメス・ファミリアの拠点は、星屑の庭とは空気が違った。

 

 整ってはいる。

 だが落ち着かない。

 綺麗に片付いているのに、どこか油断ならない。

 主の性格がそのまま壁に染みたみたいな場所だった。

 

 通された部屋で待っていたヘルメスは、レックスたちの顔を見るなり、いかにも愉快そうに笑った。

 

「やあやあ、これは珍しい客人だ。正義の女神アストレアに、そんなに可愛い子たちまで連れてこられると、ぼくとしてはちょっと緊張しちゃうなあ」

 

「気持ち悪ぃな」

 

 ザイロが即答した。

 

 ヘルメスは楽しそうに肩を竦める。

 

「手厳しい! でも嫌いじゃないよ、そういうの」

 

「こっちは嫌いだ」

 

 パトーシェは露骨に警戒していた。

 

「用件を聞け、ヘルメス神。貴様の戯言を聞きに来たわけではない」

 

「神に向かって辛辣だねえ。騎士っぽい見た目なのに、結構棘がある」

 

「見た目なのにとは何だ!」

 

「はいはい、ごめんごめん」

 

 軽い。

 軽すぎる。

 

 レックスが口を開く前に、部屋の奥からもう一つ気配が来た。

 

「ヘルメス様、来客を玩具にしないでください」

 

 声は低くない。

 だが、温度が低かった。

 

 現れたのは、青みがかった淡い髪を短く揃えた少女だった。眼鏡。整った顔立ち。静かな目。冷ややかで、実務的で、それでいて完全に温度が死んではいない。感情を隠しているだけで、まったく無いわけじゃないと分かる顔だった。

 

 アスフィ・アル・アンドロメダ。

 

 レックスは一瞬だけ、持ってきた話の輪郭を頭の中で切り直す。

 こっちはヘルメス相手に通す話じゃない。

 本命はこの女だ。

 

「初めまして」

 

 アスフィは一礼した。

 

「ヘルメス・ファミリアのアスフィ・アル・アンドロメダです」

 

「アストレア・ファミリアのレックスです」

 

「パトーシェ・キヴィアである」

 

「ザイロ」

 

 アスフィは順に見て、最後にレックスで少しだけ視線を止めた。

 値踏みの目だ。

 嫌いじゃない。

 

 ヘルメスが机に頬杖をつく。

 

「で、何かな。建築の次はうちを巻き込みに来たんだろう?」

 

「ええ」

 

 アストレアが穏やかに答えた。

 

「修練棟の運営で、あなたたちの力を借りたいの」

 

「へえ。機構? 神秘? それとも、ぼくの美貌?」

 

「最後のは要らねぇ」

 

 ザイロが吐き捨てる。

 ヘルメスは「つれないなあ」と笑った。

 

 アスフィはすでに話を仕事へ戻していた。

 

「具体的には何を?」

 

 レックスが一歩出る。

 

「会員の出入り記録、専用区画の切り分け、無人時間帯の最低限の締め。その三つです」

 

 アスフィの眉がわずかに動く。

 

「……つまり、認証ですか」

 

「そうだ」

 

「この世界に万能な認証機構はありませんよ」

 

「分かってる。だから恩恵で切る」

 

 ヘルメスが面白そうに目を細めた。

 

「恩恵で?」

 

「誰の眷属か。登録済みか。アストレア・ファミリアの専用認証か。それくらいなら分けられるはずだ」

 

「できる前提で言ってるね」

 

 アスフィの声が一段冷えた。

 

「嫌いです、そういう持ち込み方」

 

「できるのか?」

 

「……理屈は分かります」

 

 そこでパトーシェが少しだけ身を乗り出す。

 

「できるのか」

 

「今、そう言いました」

 

「言い方が冷たいな」

 

「事実しか言っていません」

 

 ザイロが小さく笑う。

 こっちも大概だが、相手もかなり面倒くさい。

 悪くない。

 

 アスフィは続けた。

 

「ただし、完全な個人識別は無理です。恩恵を持つ者の所属神、登録印、専用通行権の有無。それを簡易板へ噛ませるくらいなら可能です」

 

「十分だ」

 

「十分ではありません」

 

 レックスが目を細める。

 

「何が足りない」

 

「それだけでは、“誰がいつどこを通ったか”の確認が粗い。無人時間帯を作るなら、最低限の補助視認が要ります」

 

「神の鏡か」

 

 アスフィの視線が少しだけ鋭くなった。

 

「そこまで考えていましたか」

 

「当然だ」

 

「どこを映すつもりです?」

 

 ここが本題だ。

 

 レックスは即答した。

 

「共用部だけ。受付前。主階段前。会員導線。裏のスタッフ動線。シャワールームとトイレは絶対に除外する」

 

 一拍。

 

 アスフィの目が、わずかに変わる。

 

「……本当に?」

 

「そこを映したら終わりだ」

 

 レックスは言い切った。

 

「便利さのために信頼を死なせる気はない。監視したいんじゃない。締めたいだけだ」

 

 ヘルメスが「へえ」と小さく笑った。

 だがアスフィは笑わない。

 

「いい返答です」

 

 短い。

 だが明らかに評価が変わった。

 

「神の鏡は、便利だからと雑に使うと必ず禍根になります。ですが今の線引きなら、運営上の折衷として成立し得る」

 

「通せるか?」

 

「ウラノス様次第です」

 

「お前なら通すだろ」

 

「買いかぶらないでください」

 

「でも通す」

 

「……努力はします」

 

 ヘルメスが楽しそうに割り込んだ。

 

「いやあ、面白いねえ。初対面でうちのアスフィをそんな風にこき使う子、ぼく好きだな」

 

「誰もあんたには好かれたくねぇよ」

 

 ザイロが即答する。

 

 パトーシェも不快そうに眉を寄せた。

 

「軽薄だな、本当に」

 

「褒め言葉として受け取っておこう」

 

 ヘルメスはまったく堪えない。

 それどころか、今度はアストレアへにこやかに向き直った。

 

「でもアストレア、君も罪だよねえ。こんなに面白い子を抱えておいて、今まであまり見せてくれなかったなんて」

 

「見せ物ではないわ」

 

 アストレアは柔らかく返した。

 柔らかいのに、そこから一歩も動かない声だった。

 

 ヘルメスは肩を竦める。

 

「うんうん、そういうところも好きだよ」

 

「気持ち悪いな」

 

 今度はレックスが言った。

 

 ヘルメスは愉快そうに笑い、アスフィは深くため息をついた。

 

「話を戻します」

 

 さすがだ。

 実務の鬼だ。

 

「恩恵認証板は、一階会員入口と、スタッフ用の裏導線入口、それから専用区画への切替点に設置するのが妥当です」

 

「四階か」

 

「ええ。本館から渡り廊下で入るなら、本則はそちらでしょう。ですが修練棟側からの保守動線も必要になる。なら四階裏導線にスタッフ用認証を噛ませる」

 

「会員用階段から四階へは上がれないようにする」

 

「それがきれいです」

 

 会話が速い。

 説明が少なくて済む。

 レックスは少しだけ、自分が今どんな顔をしているのか気になった。

 

 ザイロが横でにやついているのが見えた。

 面倒くさい。

 

「何だ」

 

「いや」

 

 ザイロが肩を揺らす。

 

「女子相手だと無愛想なのに、こいつとは話切れねぇなと思って」

 

「仕事だろ」

 

「便利な言葉だな」

 

 パトーシェまで少し怪訝そうな顔をするのはやめろ。

 アスフィは聞こえていないふりをした。

 助かる。

 

 その後、話は一気に具体へ落ちた。

 

 会員登録制と紹介制。

 一般会員エリアは一階から三階。

 四階から六階はアストレア・ファミリア専用。

 住民スタッフ用キー。

 責任者当番表。

 無人時間帯は認証と神の鏡で最低限締める。

 ただし、監視は共用部のみ。

 そこは絶対に越えない。

 

 アスフィは最後に言った。

 

「面倒です」

 

「知ってる」

 

「かなり面倒です」

 

「それも知ってる」

 

「ですが、やる価値はあります」

 

「助かる」

 

「当然です。こちらも割引を要求する話ではないので」

 

「……優先利用時間ならある」

 

 レックスがそう返すと、アスフィの目がわずかに細まった。

 

「なるほど。そこまで繋げているんですか」

 

「建築と鍛冶に入るなら、運営系だけ素通しってわけにもいかないだろ」

 

「嫌いではありません、その発想」

 

 それは、かなり高い評価だった。

 

 

 こうして、修練棟には簡易恩恵認証システムが入ることになった。

 

 一階会員入口の認証板。

 四階スタッフ用入口の認証板。

 専用区画への切替認証。

 アストレア・ファミリアの眷属印。

 登録済み会員。

 住民スタッフ用の専用キー。

 そして、共用部だけを映す神の鏡。

 

 無論、シャワールームとトイレは除外だ。

 そこを映すほど下品な真似は、レックスも、アスフィも、アストレアも認めなかった。

 だがそれ以外の共用部、受付前、主階段、会員エリアの導線、裏のスタッフ動線については、ウラノスから特例で監視鏡の使用許可が下りた。

 

 結果、修練棟はこうなった。

 

 人が立つ時間帯。

 住民スタッフが回す時間帯。

 無人だが、認証と神の鏡で最低限締める時間帯。

 

 完全な無法でも、完全な拘束でもない。

 ちゃんと回るための折衷だ。

 

 それを知った時、ザイロは言った。

 

「普通に頭おかしいな」

 

「だろうな」

 

「でも嫌いじゃねぇ」

 

「知ってる」

 

 実際、かなりおかしい。

 だが、だからこそ回る。

 運営も、収益も、鍛錬も、全部を同時に拾うなら、ここまでやるしかない。

 

 

 その数日後、椿がまた来た。

 

 上棟したばかりの棟の前で、腕を組み、いかにも愉快そうに見上げる。

 

「おう。思ったよりちゃんと塔だな」

 

「ちゃんと建ててもらってるので」

 

「調子乗るな。まだ骨だ」

 

「骨が立った時点でだいぶ勝ちだろ」

 

「言うじゃねぇか」

 

 椿は笑った。

 その横で、ゴブニュ側の建築職人が鼻を鳴らす。

 

「骨で浮かれるのは三流だ。床と中身が入ってから喜べ」

 

「はいはい」

 

「返事が軽い」

 

「でも嬉しいだろ、あんたも」

 

「……少しはな」

 

 少しどころじゃない顔をしてるくせに。

 

 その日の午後、レックスは椿に呼び止められた。

 

 まだ内装の終わっていない四階。

 本館から渡り廊下で繋がるアストレア・ファミリア専用側の最初の階。

 窓はまだ仮止めで、風が抜ける。

 木と鉄と石の匂いが、まだ新しい。

 

 ここが専用ファンクショナルエリアになる。

 一般用一階と同じ思想。

 だが、使う者と積む密度が違う。

 四階にはデュアル・アジャスタブル・プーリーも置く。

 会員用一階のプーリーと対になる、彼ら専用の心臓部だ。

 さらに、この階には専用側のシャワールームとトイレがある。

 汗を流してから本館へ戻るための、生活と戦闘の境界層でもある。

 

「レックス」

 

「何です」

 

「もう一回聞くぞ」

 

 椿は眼帯の下で片目を細める。

 

「お前、本当にこの“鍛える思想”だけ妙に鮮明なんだな」

 

 レックスは少しだけ黙って、それから頷いた。

 

「ええ。断片的な記憶です。全部じゃない。でも鍛えることと器具だけは、やたら残ってる」

 

「便利だな」

 

「便利なだけじゃないですよ。説明しきれないから毎回面倒です」

 

「ははっ。違いねぇ」

 

 そこで椿は、ふっと真顔に戻った。

 

「でも、いい」

 

「何が」

 

「作り手からすると、“何がしたいか分かってる奴”は面倒で、ありがたい。寸法も構造も知らねぇくせに、必要な動きだけは見えてる。だから職人の腕の見せ所ができる」

 

 その言い方は、妙に嬉しかった。

 

「……そっちこそ、いい女だな」

 

 うっかり口から出た。

 

 椿が一瞬だけ目を丸くしたあと、大きく笑う。

 

「言うねぇ、お前。ヘファイストス様に聞かせたら面白ぇ顔しそうだ」

 

「やめてくれ」

 

「嫌だね」

 

 だが、その笑いのあとに椿はちゃんと続ける。

 

「お前のその記憶、全部を信じる必要はねぇ。だが、鍛える意味が本物なら、それで十分だ。こっちは鍛冶師だ。必要な意味を見れば、形にしてやる」

 

 そこで一拍置いて、口元を歪める。

 

「だから遠慮すんな。変だと思ったら言え。中途半端に妥協した器具は、結局一番使われねぇ」

 

「ああ」

 

 素直に頷く。

 この人はそういうところが本当に信用できる。

 

 その時、渡り廊下の向こうからアストレアが顔を出した。

 

「二人とも、そんなところで何を話しているの?」

 

「秘密の惚気話だよ」

 

 椿が即答する。

 

「おい」

 

「冗談だって」

 

 嘘つけ。半分は面白がってただろ。

 

 アストレアは少しだけ笑って、それからレックスを見る。

 

「でも、椿にそこまで言わせるなら、あなたはやっぱりちゃんと通したのね」

 

「どうだろうな」

 

「いいえ、通したのよ」

 

 そして、その瞳が少しだけ柔らかくなる。

 

「すごいわ、レックス」

 

 それは飾らない言葉だった。

 だから余計に響く。

 

「……まだ始まっただけです」

 

「ええ。でも、その始まりを作ったのはあなた」

 

 椿がそこでまた笑う。

 

「完全に気に入られてんな、お前」

 

「うるさい」

 

「ははっ!」

 

 もうどうしようもない。

 

 

 そして、ついにその日が来た。

 

 修練棟の完成。

 正確には、第一期完成。

 

 全部の設備を入れる方針は崩していない。

 だが導入順と調整順は切ってある。

 それでも今日は、建物としては完成し、主要設備も動く。

 運営も回る。

 だから、始動の日だ。

 

 朝。

 

 星屑の庭の隣に立つ修練棟は、少しだけ異物だった。

 

 アストレアの柔らかな家の隣に立つ、実務の塊。

 見栄えは派手じゃない。

 むしろ質素だ。

 だが、その中身には明確な意志が通っている。

 

 下三層は会員エリア。

 上三層はアストレア・ファミリア専用エリア。

 表で回し、裏で牙を研ぐ建物。

 

 そして入り口脇には、もう小さな木札が下がっていた。

 

【修練棟 利用規則】

【会員登録制・紹介制】

【一〜三階 一般会員エリア】

【四〜六階 アストレア・ファミリア専用エリア】

【責任者の指示に従うこと】

【四階以上、関係者以外立入禁止】

【恩恵認証なき者は専用導線通行禁止】

 

 その下に、もう一枚。

 

【優先利用時間】

【ゴブニュ・ファミリア / ヘファイストス・ファミリア 13:00~17:00】

 

 割引の証だ。

 ちゃんと形にした。

 これで、ただの口約束じゃない。

 

 さらにその横には、少しだけ異質な金属板がはめ込まれていた。

 扉脇の認証部。

 恩恵を持つ者が触れれば、その神の印を読む。

 会員登録された者か、アストレア・ファミリアの専用認証か。

 それを通すための簡易認証板だ。

 

 しかも四階側にも、別の認証がある。

 

 修練棟から直接四階へ上がれないわけではない。

 だが、その導線は基本的にスタッフ専用だ。

 住民スタッフ、清掃担当、保守整備担当、責任者当番。

 そういう連中が裏から四階へ上がるための管理用階段。

 そこを通るにはスタッフ専用キー、またはアストレア・ファミリアの恩恵認証が要る。

 

 つまり、四階専用エリアへ行く道は二つある。

 

 本則は、本館四階から渡り廊下を通ること。

 アストレア・ファミリアのメンバーは、原則そちらを使う。

 もう一つは、修練棟内の裏階段から入る管理導線。

 だがこちらは例外。

 運営と保守のための道だ。

 

 こうすることで、生活棟と専用区画の繋がりは保ちつつ、表の会員導線と機密導線をきれいに分けた。

 これがかなり大きい。

 

 そして、入り口前では、住民スタッフとして雇った二人が緊張した顔で持ち場に立っていた。

 一人は元宿屋勤めの中年女性。

 もう一人は荷運び上がりの若い男。

 どちらも清掃と受付補助、安全管理の一次対応を任せる。

 

 その横で、本日の責任者はパトーシェだった。

 

 会員エリアを管轄する一階の責任者席。

 利用記録簿。

 会員一覧。

 注意札。

 規則板。

 全部の前で、こいつは妙に似合う顔で立っていた。

 

「何だその顔は」

 

 パトーシェが言う。

 

「責任者似合いすぎだなと思って」

 

「当然だ。規律を守らせるのは大事な仕事だからな」

 

「言い方は百点だな」

 

「言い方以外も百点である」

 

 そこへ、ザイロが専用導線側から顔を出した。

 

「おーい、こっちはいいぞ」

 

「早ぇな」

 

「そりゃ見るだろ」

 

「まだ案内前だぞ」

 

「知るか」

 

 ザイロが指した先は、専用側の導線。

 まあ、そうなるよな。

 専用最上層フリーウェイトは、こいつにとって実質巣みたいなものだ。

 

「パトーシェ、お前は五階見ろ」

 

 レックスが言う。

 

「五階?」

 

「専用マシンエリアだ。お前の槍の踏ん張りと押し込みに直結する器具が一番多い。ショルダー・プレス、レッグ・プレス系、グルート・ブリッジ、レッグ・カール、そのへんは絶対見た方がいい」

 

 パトーシェは一瞬だけ受付席を見、それから頷いた。

 

「分かった。責任者確認を済ませたら上がる」

 

「おう」

 

 そう。

 専用側では、ザイロが六階。

 パトーシェが五階。

 レックスは四階のファンクショナルを見る。

 その配置の方が自然だ。

 

 四階には、専用ファンクショナルエリアと一緒にシャワールームとトイレがある。

 ここが本館と直で繋がる専用側の境界だ。

 運営上も、生活上も、ここが心臓に近い。

 

 そしてその時、門が開いた。

 

 まず入ってきたのはゴブニュ。

 相変わらず重い気配だ。

 続いてヘファイストス。

 そして椿。

 その後ろに、それぞれの職人たちもいる。

 さらに少し遅れて、ヘルメス・ファミリアからアスフィまで現れた。

 

「確認に来ました」

 

 アスフィは淡々と言う。

 

「認証板は入れた瞬間より、初回運用で必ず何か出ます」

 

 頼もしい。

 ものすごく頼もしい。

 

 ヘルメス本人までひょこっと顔を出したのは想定外だった。

 

「いやあ、面白そうだからぼくも来ちゃった」

 

「帰れ」

 

 ザイロが即答する。

 

「冷たいなあ」

 

「それだけ元気なら十分だろ」

 

 ヘルメスはけらけら笑っていたが、アスフィは本気で無視した。助かる。

 

 アストレアが前へ出る。

 

「ようこそ」

 

「来たよ」

 

 椿が笑う。

 

「優先利用時間があるってのに来ないわけないだろ」

 

 ヘファイストスは静かに棟を見上げた。

 

「完成したわね」

 

「ええ」

 

 アストレアの声は柔らかい。

 だが誇りもある。

 自分の家の隣に、自分の子たちを生かす器が増えた。そういう顔だ。

 

 ゴブニュが一階の玄関枠を軽く叩く。

 

「軽く見せて、よく持たせた」

 

「お前たちの仕事だろう」

 

 ザイロが先に言う。

 呼び捨てのまま。

 そこだけは今も変わらない。

 

 ゴブニュは少しだけ笑った。

 

「違いない」

 

 ヘファイストスは認証板に目を止める。

 

「恩恵認証と神の鏡、本当に組み込んだのね」

 

「アスフィと共同開発です」

 

 レックスが答える。

 

「ウラノスに特例を通してもらった。無人時間帯がある以上、最低限の目が要った」

 

「アスフィ……なるほど。あの子らしいわ」

 

「シャワールームとトイレは?」

 

「除外です。そこは映しません」

 

「それでいい」

 

 ヘファイストスが頷く。

 

「神の鏡を便利だからと何でも映せば、運営は楽でも信頼が死ぬ」

 

「そこは最初から切りました」

 

 アスフィがそこで、ほんの少しだけ顎を引いた。

 ああ、まだ評価は落ちていないらしい。

 

「では」

 

 アストレアが言う。

 

「改めて、案内してくれるかしら。今日からこの棟が本当に動き出すのだもの」

 

「分かりました」

 

 レックスは深く息を吸う。

 

「まず一階。一般会員エリアのファンクショナルです」

 

 

 修練棟の扉が開く。

 

 一階は、まだ新しい木と鉄の匂いがした。

 だが、工房とも倉庫とも違う。

 ここは明確に“使うための空間”だった。

 

 受付から目の届く範囲に、動ける体を作るための区画が広がっている。

 視線が通る。

 通りすぎるだけの無駄な広さはない。

 それでいて窮屈じゃない。

 人が重なり、動き、失敗し、やり直すことを最初から想定した広さだ。

 

「一階は一般会員向けファンクショナルエリアです」

 

 レックスは一歩進みながら言う。

 

「戦う前の土台を作る階。体幹、可動域、敏捷、姿勢、連携、引きつけ、押し返し。単なる筋力じゃなく、“動ける体”を作る場所です」

 

 ゴブニュが床を見て、少しだけ目を細める。

 

「沈みを分けたか」

 

「はい。一定じゃない方がいい場面もあるので」

 

「踏み返しも違うな」

 

「全部をきれいな床でやると、現実のズレに弱くなる」

 

 ゴブニュが短く頷く。

 

「面倒だが筋は通る」

 

 一階の奥、デュアル・アジャスタブル・プーリーの前で、ヘファイストス側の機構屋が軽く可動部を動かした。滑車が静かに鳴る。差し込み重石は問題なく噛み、角度調整の穴もきれいに揃っている。

 

「初期調整は悪くない」

 

 機構屋が言う。

 

「だが使い込めば癖が出る。月ごとの保守は必要だ」

 

「そのためにあなたたちへ頼んだ」

 

「分かってる」

 

 ヘファイストスがレックスを見る。

 

「利用者全員がちゃんと使い方を覚える前提ではないでしょう?」

 

「覚えない奴もいると思ってます」

 

「なら、一階の管理が一番大事になるわね」

 

「だから責任者席を入口脇に置いた」

 

 レックスは受付横の席を指す。

 

「会員の視線も動線も見える位置です。危険行為を見つけたらすぐ止める。住民スタッフだけじゃなく、責任者当番が座る前提」

 

 パトーシェが咳払いした。

 

「本日は私が責任者である。アストレア様の名に恥じぬよう運営する」

 

 椿が吹き出す。

 

「似合いすぎだろ、お前」

 

「当然だ」

 

「その顔で“使用後は所定位置へ戻せ”とか言ったら全員従うだろうな」

 

「従わせる」

 

「怖ぇな」

 

 だが、実際それでいい。

 修練棟は自由に使える遊び場じゃない。

 ここは運営される戦力基盤だ。

 

 一階の奥、会員用シャワールームとトイレも見せる。

 男四、女四。

 トイレは男二、女二。

 汗と泥を本館へ持ち込ませないための線。

 衛生の線でもあり、運営の線でもある。

 

 ヘファイストスが静かに言う。

 

「こういう施設で水回りを軽視しなかったのは賢いわ」

 

「削ると後で全部が臭くなる」

 

「……率直ね」

 

「事実です」

 

 椿が笑った。

 

「そこだけ妙に生々しいな」

 

「そこは本当に大事なんだよ」

 

 ザイロが横から鼻を鳴らす。

 

「まあ、分かる」

 

「お前が一番シャワー要るだろ」

 

「失礼だな。否定はしねぇけど」

 

 その時だった。

 一階会員入口脇の認証板が、一瞬だけ鈍く明滅した。

 

 アスフィの表情が変わる。

 即座に近寄り、板の表面へ指を滑らせた。

 

「……遅いですね」

 

「何がだ」

 

「認証の戻りです。一拍だけですが、遅延している」

 

 ヘルメスが楽しそうに覗き込む。

 

「おや、いきなり不具合かな?」

 

「黙っていてください」

 

 切れ味が鋭い。

 だが助かる。

 完璧に始動しない方がむしろいい。

 ちゃんと問題が出る方が、話としても運営としても信頼できる。

 

 アスフィは板の縁を軽く叩き、淡々と言った。

 

「初回運用で出るのは想定内です。表面の刻印読取が少し甘い。あとで調整します」

 

「今日中に直るか?」

 

「直します」

 

 即答。

 頼もしすぎる。

 

 ヘファイストスが小さく笑う。

 

「良いわね。始動日にちゃんと問題が出る施設の方が、あとで強くなるわ」

 

「縁起でもない言い方だな」

 

 ザイロが言うと、ヘファイストスは肩を竦めた。

 

「本当のことよ」

 

 

 そこから会員エリアの案内を続ける。

 

 二階は有酸素とマシンの中核。

 ラット・プルダウン。

 シーテッド・ロウ。

 アシスト・ディップ・チン。

 ショルダー・プレス。

 デュアルアクシス・チェストプレス。

 レッグ・エクステンション、レッグ・カール、アーク・レッグ・プレス、ハック・スクワット、グルート・ブリッジ。

 さらに、クロストレーナー二基、トレッドミル六基、パワーミル・クライマー、アップライト・バイク二基。

 

「一般会員側は、安全に反復できることを優先します」

 

 レックスは一台ずつ手を当てながら説明する。

 

「初心者でも崩れにくい軌道。負荷を細かく刻める。責任者や住民スタッフの視線も届きやすい。だから一番“育てる”色が強い階です」

 

 年配の女鍛冶師が頷く。

 

「確かに。いきなり三階へ行かせるより、この階を通す方が事故は減るね」

 

「そのための設計です」

 

 三階は一般会員向けフリーウェイトエリア。

 

 スミスマシン。

 バーティカル・スミスマシン。

 HD Elite iD スタンダードパワー・ラック五基。

 マルチ・アジャスタブル・ベンチ群。

 アジャスタブル・ベンチ。

 

 ここは空気が違う。

 重さそのものが漂う。

 会員側とはいえ、ここから先は“甘えの少ない鍛錬”だ。

 

「一般会員エリアの終点です」

 

 レックスが言う。

 

「ここまでは登録会員が入れる。だが、四階から先は違う」

 

 会員用階段からは四階へ行けない。

 そこをまず見せる。

 

 会員導線の最上段にあるのは、ただの壁と施錠だ。

 その先には進めない。

 四階へ上がるには、本館から渡り廊下を使うか、修練棟側の裏階段を使うしかない。

 そして裏階段は、スタッフ専用キーまたはアストレア・ファミリアの恩恵認証がなければ開かない。

 

「ここで切る」

 

 レックスは裏階段入口脇の認証板を示す。

 

「会員はここから上へは行けない。四階へ上がるのは、スタッフ、保守担当、責任者、そしてアストレア・ファミリアだけ」

 

 ゴブニュが鼻を鳴らす。

 

「完全に分けたな」

 

「混ぜる理由がない」

 

「だろうな」

 

 

 彼らは本館へ一度戻り、四階へ上がる。

 そこから渡り廊下を通る。

 これが本則。

 アストレア・ファミリアのメンバーは原則このルートを使う。

 

 アストレアが渡り廊下の窓越しに修練棟を見て、小さく笑った。

 

「ちゃんと家と繋がっている感じがするわね」

 

「それを残したかった」

 

「ええ。すごくいい」

 

 四階へ入る。

 

 ここは専用ファンクショナルエリア。

 一階と同じ思想。

 だが密度は違う。

 会員用に比べて、より実戦寄りで、より反復に寄っている。

 デュアル・アジャスタブル・プーリーもここにある。

 彼ら専用の中核だ。

 そして四階には専用側のシャワールームとトイレがある。

 ここで汗を流し、必要なら本館へ戻る。

 生活と戦闘の切替層。境界。心臓部。

 

「四階が専用側の境界です」

 

 レックスは言う。

 

「本館四階から渡り廊下で直結。一般会員は絶対にここへ来ない。だからここから先は、俺たちが何を積むかだけを考えればいい」

 

 アストレアが静かに辺りを見回した。

 

「ここ、好きだわ」

 

「まだ何もしてないのにか?」

 

「だからよ。これから何でもできる顔をしているもの」

 

 その言い方が妙にアストレアらしくて、レックスは少し笑う。

 

 そこで、レックスはパトーシェへ目をやった。

 

「お前、五階見てこい」

 

「ここではないのか?」

 

「四階は俺が見る。お前が最初に噛むべきは五階だ。専用マシンエリア。槍の保持、押し込み、踏ん張りに直結する器具が一番揃ってる」

 

 パトーシェが真っ直ぐ頷く。

 

「分かった」

 

 そうしてひとりで五階へ上がっていく背中を見て、椿が笑う。

 

「似合うな」

 

「何が」

 

「騎士女に“お前はここを見ろ”って割り振る感じがだよ」

 

「役割分担だ」

 

「知ってる」

 

 次に、レックスはザイロへ顎をしゃくる。

 

「お前は六階」

 

「言われなくても行く」

 

「だろうな」

 

 ザイロはほとんど獣みたいな顔で階段を上がっていく。

 専用最上層フリーウェイトエリア。

 あそこはもう、こいつの巣になるのが見えていた。

 

 レックスは四階の説明を続ける。

 

「ここでは、連携の中で崩れない体を作る。差し込み、引き、回旋、低姿勢、狭所。会員用一階よりも、もっと実戦の汚い動きに寄せる」

 

 ヘファイストスが静かに頷く。

 

「上と下で設備は同じでも、使い方の意味が違うのね」

 

「そうです。設備を合わせたのは、運用と保守の都合もある。でも本質はそこじゃない。意味が違う」

 

 

 そこから五階へ上がる。

 

 パトーシェが、ショルダー・プレスの前で真剣な顔をしていた。

 次にレッグ・プレス群を見て、グルート・ブリッジの位置を確かめ、レッグ・カールへ視線を移す。

 

「どうだ」

 

 レックスが訊くと、パトーシェは少しだけ息を吐いた。

 

「……分かる」

 

「何が」

 

「お前が何故、ここを私に見ろと言ったかだ」

 

 パトーシェはショルダー・プレスへ手を置く。

 

「槍は腕だけではない。肩で支え、背で引き、脚で止まり、尻で踏み込む。今まで全部まとめて“鍛錬”だと思っていたが、こうして分けられると、どこが足りないか見えてしまうな」

 

「そのための階だ」

 

「腹が立つが、よい」

 

「腹が立つのかよ」

 

「図星だからだ」

 

 その返答が妙にパトーシェらしくて、笑ってしまう。

 

 最後に六階へ上がる。

 

 ザイロはもう、ラックの前に立っていた。

 肩を回し、足場を見て、床を踏んで、音の返り方まで確かめている。

 

「……いいな」

 

 低い声だった。

 

「だろ」

 

「気に入った」

 

「珍しく素直だな」

 

「こういう場所で嘘ついても意味ねぇだろ」

 

 六階は、完全にアストレア・ファミリアの牙だった。

 

 一般会員の視線は届かない。

 同じフリーウェイトエリアでも、下より静かで、濃い。

 ここで、彼らは次の地獄へ備える。

 

 ザイロがラックの支柱を軽く叩く。

 

「五基か」

 

「少ないか?」

 

「いや、いい。待ちが出ないのはいい」

 

「だろうな」

 

「床も悪くねぇ。踏み切っても嫌な沈みがない」

 

「ゴブニュ側がそこはかなり気合い入れた」

 

「分かる」

 

 椿がそこで満足そうに笑った。

 

「やっぱり最上段はこうでないとな」

 

 六階の窓から街を見下ろしながら、アストレアが静かに言った。

 

「……いいわね」

 

 その一言に、全員が少しだけ黙る。

 

「ただの建物じゃないわ」

 

「ええ」

 

 レックスも静かに答えた。

 

「俺たちが、これから積み上げる場所です」

 

 アストレアがこっちを見る。

 

「あなたが悪い顔で思いついた時は、正直、ここまで本当に来るとは思わなかったわ」

 

「ひどいな」

 

「でも、来た」

 

 その顔は、もう隠しようもなく嬉しそうだった。

 

「ありがとう、レックス」

 

 その言葉はずるい。

 真正面から感謝されると、こっちは一瞬だけ何も返せなくなる。

 

「……まだ始まっただけです」

 

「ええ。でも、その始まりを作ったのはあなた」

 

 椿がそこで豪快に笑った。

 

「いいねえ。完全に気に入られてるじゃねぇか」

 

「うるさい」

 

「ははっ!」

 

 ゴブニュも鼻を鳴らす。

 

「神に好かれるガキは、だいたい面倒だな」

 

「褒めてるんですか、それ」

 

「半分はな」

 

 ヘファイストスは落ち着いた声で言う。

 

「でも面倒だからこそ、物を動かすこともある。今回みたいにね」

 

 そこで、アストレアが二柱へ向き直った。

 

「改めて、ありがとう」

 

「礼はまだ早い」

 

 ゴブニュが言う。

 

「建てたのは器だけだ。中身を積むのはこいつらだろう」

 

「ええ」

 

「保守もこれからよ」

 

 ヘファイストスが続ける。

 

「使えば必ず歪む。だから、使い続けなさい。使い続ける限り、こちらも整える」

 

「分かっています」

 

 レックスが答えると、アスフィがそこで静かに補足した。

 

「認証板も同じです。今日の遅延みたいなものは、使って初めて炙れます。運用が始まってからが本番です」

 

「そっちもな」

 

「ええ、そっちもです」

 

 会話が短い。

 妙に噛み合う。

 横でヘルメスがにやにやしていたが、無視した。

 

 椿が笑う。

 

「よし。じゃあ初回だ。誰が最初に動かす?」

 

 全員の視線が、自然とレックスへ向いた。

 

 ……そう来るか。

 

「言い出しっぺだろ」

 

 ザイロがにやつく。

 

「当然である」

 

 パトーシェまで乗ってくる。

 

 アストレアは笑っているだけだ。

 完全に逃がす気がない。

 

「……分かったよ」

 

 レックスは四階のデュアル・アジャスタブル・プーリーの前に立つ。

 最初の一台は、やっぱりこれだと思った。

 

 角度を合わせる。

 握る。

 足を置く。

 引く。

 

 滑車が鳴る。

 重石が動く。

 負荷が、ちゃんと背中と体幹を通る。

 

 頭の中にしかなかった動きが、この世界の鉄で現実に返ってくる。

 

 引く。

 戻す。

 もう一度。

 

「……どうだ」

 

 椿が聞く。

 

 レックスは数回反復してから、短く答えた。

 

「使える」

 

「それだけかよ」

 

 ザイロが笑う。

 

「十分だろ」

 

「まあ、な」

 

 次にザイロが六階のラックへ向かう。

 パトーシェは五階のショルダー・プレスへ。

 レックスは四階のプーリーをもう一度引く。

 アストレアは静かにその全部を見ていた。

 

 神は鍛えない。

 だがその目は、もう完全に“この家に新しく増えた心臓”を見る目だった。

 

 

 日が沈む頃、修練棟は本当の意味で始動した。

 

 住民スタッフは持ち場を確認し、責任者当番表は壁へ貼られ、利用規則も完成版へ差し替えられた。

 会員エリアの開放時間。

 ゴブニュ・ヘファイストス両ファミリアの優先利用時間は13:00~17:00。

 清掃時間。

 保守点検日。

 無人時間帯。

 恩恵認証の切替。

 神の鏡による共用部監視。

 全部、ちゃんと文字になった。

 

 そして、そのど真ん中に小さな遅延が一つ出た。

 完璧な船出ではない。

 でも、それでいい。

 むしろその方が信用できる。

 

 夜、四階の窓から街を見下ろしながら、レックスは一人、少しだけ息を吐いた。

 

 クノッソスの心臓には、まだ届かない。

 敵は地下で根を張り続けている。

 オーブ奪取も、その先の盤面も、まだ遠い。

 

 でも、遠いからこそ要るものがある。

 

 偶然じゃなく積み上げる場所。

 根性じゃなく反復する場所。

 綺麗事じゃなく、ちゃんと生きて帰るための仕組み。

 

 それが今、隣に立っている。

 

 剣はまだ届かない。

 されど、届かせるための器はもうある。

 

 次は、この中身だ。

 

 窓ガラスに映る自分の顔は、少しだけ疲れていて、少しだけ悪い顔をしていた。

 

「……悪くない」

 

 誰に聞かせるでもなく呟く。

 

 その背後で、そっと扉が開いた。

 

 振り向かなくても分かる。

 アストレアだ。

 

「どう?」

 

「何がです」

 

「始まった感想」

 

 半分、答え込みの問いだった。

 レックスは窓の向こうを見たまま返す。

 

「思ったよりちゃんと心臓でした」

 

 アストレアが柔らかく笑う気配がした。

 

「そう」

 

「ええ」

 

「嬉しい?」

 

 少しだけ間が空いた。

 

「……まあ」

 

「ふふ」

 

 その笑い方はずるい。

 見なくても、かなり満たされた顔をしているのが分かる。

 

 アストレアはレックスの隣まで来て、同じように夜の修練棟を見た。

 

「ここから先ね」

 

「ええ」

 

「たくさん積まないと」

 

「はい」

 

「でも、今日くらいは少し誇っていいわ」

 

 その言葉は軽くなかった。

 

「あなたは、ちゃんと一つ形にしたのよ」

 

 レックスは少しだけ目を伏せた。

 

 エルヴィンなら、たぶん手放しでは喜ばない。

 器ができたなら次は中身だ、とすぐ先を見るだろう。

 それはレックスも同じだ。

 だが、それでも今日だけは少し違った。

 

 何もなかった場所に、骨が立った。

 思いつきは器になった。

 悪い顔で描いた線が、ちゃんと人を生かす形へ寄った。

 

 なら、ほんの少しくらいは認めていいのかもしれない。

 

「……そうですね」

 

 アストレアは静かに頷いた。

 

 星屑の庭の隣に、牙を積み上げるための棟が立った。

 それはまだ剥き出しの骨でしかない。

 だが骨があるなら、肉はあとからつく。

 力も、技も、役割も、きっとあとから噛み合っていく。

 

 夜風が抜ける。

 修練棟の新しい壁が、それを少しだけ違う音で返した。

 

第10話 鍛える塔は、隣に立つ 了

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。