悔いなき選択 ※休止   作:Jefflocka

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誤字修正いつもありがとうございます。またこれまでの話も順次最新の設定を反映したものに差し替えてます。


第12話 積み上げた牙、次に奪うべきもの

第12話 積み上げた牙、次に奪うべきもの

 

 アストレア・フィットネスが動き始めてから、星屑の庭の時間は少しだけ狂った。

 

 悪い意味じゃない。

 

 前までの一日は、まだ単純だった。

 朝に起き、鍛え、外へ出て、帰ってきて、食って、寝る。

 血の匂いが混ざろうが、怪我が増えようが、線としては一直線だった。

 

 だが今は違う。

 

 朝六時の開錠を誰が受けるか。

 住民スタッフの引き継ぎをどこまで簡略化できるか。

 一階受付横へ置いた布や軽傷用ポーションが、夜には何本減っているか。

 十一時から十九時までの有人時間帯で、どの時間に質問が集中し、どの時間に目が足りなくなるか。

 閉館が近づいた時、どの階から先に人気が減るか。

 深夜の専用エリアで誰が何階に残っているか。

 神の鏡が拾えない角に、汗拭き布が何枚落ちるか。

 認証板の反応が一拍遅れた時、それが湿気か、それとも別の不具合か。

 

 管理しなきゃならない戦場が、一つ増えた。

 

 それだけの話だ。

 

 だが、増えた盤面を前にして、レックスは不思議と嫌悪を覚えなかった。

 面倒だとは思う。正直、うんざりする。

 だが、盤面が増えたなら、そのぶんだけ握ればいい。

 

 そういう発想しか、もうできなくなっていた。

 

 

 朝六時。

 

 アストレア・フィットネスの一階会員エリアが開く。

 

 夜明けから少しだけ時間が経ったばかりの街は、まだ半分眠っている。

 だが、そういう時間だからこそ動き出す連中もいる。鍛冶場へ入る前に汗を流したい職人。荷運び前に身体を起こしたい男。朝のうちに鍛えて、そのまま仕事へ向かいたい冒険者崩れ。

 

 一階受付には元宿屋勤めの中年女性が座り、その横で若い男の住民スタッフが開場直後の備品確認をしていた。

 この二人は、清掃もやるし、開錠施錠もやる。

 外から完全に新顔を雇うより、庭の空気を知っている者にやらせた方がいい。そこまでは正しかった。

 

 正しかったが、正しいだけで全部が回るほど、運営は甘くない。

 

「おはようございます。登録札を見せてください」

 

 受付横に立つパトーシェの声は、今朝もきっちりしていた。

 前半責任者。

 背筋は真っ直ぐ。顔つきも硬い。

 こういう場所では、その堅さが逆に効く。

 

 ゴブニュ・ファミリアの石職人が登録札を差し出し、その後ろでヘファイストス側の若い鍛冶師が欠伸を噛み殺しながら認証板へ手を当てる。

 

 淡い光。

 登録済み会員。

 時間帯適正。

 問題なし。

 

 通る。

 

 それだけのことだ。

 だが“それだけのこと”が止まらず回るのが、今のレックスには妙に重い。

 

 受付横の神の鏡には、一階共用部と主階段前が映っている。誰の顔を鮮明に拾うでもない。誰が何時にどこへ流れたか、その最低限だけを見るための目だ。

 シャワールームとトイレは当然映していない。そこは最初から、アスフィとかなりきつく詰めた。

 

『ここを映したら終わりです』

 

 あの女は、その時だけ妙に強い声を出した。

 

『映さない。絶対に』

 

 レックスもそこは即答した。

 だから今の鏡は、便利さより信頼を優先した形で止まっている。

 

 その横を通り抜けながら、ザイロが低く言った。

 

「朝から真面目だな、騎士女」

 

「責任者だからな」

 

 パトーシェは真顔のまま返す。

 

「むしろお前が真面目に通ってくる方が珍しい」

 

「俺だって鍛える時は鍛える」

 

「お前の場合、鍛えるというより壊すに近い」

 

「失礼だな」

 

 そこへヘファイストス側の若い鍛冶師が笑いを噛み殺した。

 

「それは少し分かる」

 

「おい」

 

「昨日、六階のラックでバー戻す音、鳴ってたし」

 

「鳴らしてねぇ」

 

「鳴ってた」

 

「お前、見てたのかよ」

 

「保守担当に言われた。『あの狼っぽいの、絶対そのうち雑に置く』って」

 

 ザイロが鼻を鳴らす。

 

「うるせぇ。壊してねぇならいいだろ」

 

「よくない」

 

 今度はレックスが口を挟んだ。

 

「壊してから気づくんじゃ遅い」

 

「分かってるよ」

 

 口では面倒そうに言いながらも、ザイロはバーの扱いを少しずつ丁寧にし始めていた。

 分かれば直す。

 そこはこいつのいいところだ。

 

 アストレア・フィットネスの試験運用は、そういう小さな修正の積み重ねで回っていた。

 

 

 一週間も経つと、癖が見えてくる。

 

 一階ファンクショナルエリアは昼前に混む。

 特にデュアル・アジャスタブル・プーリー前で滞留が出る。鍛え方が分かっている者ほど、あれ一台に居座る時間が長いからだ。

 

 二階マシンエリアは脚の器具がやたら回った。

 ハック・スクワット。アーク・レッグ・プレス。レッグ・カール。レッグ・エクステンション。

 立ち仕事の連中が食いつかないわけがない。脚と腰が強くなると分かれば、職人も鍛冶師も目の色を変える。

 

 三階のフリーウェイトエリアは逆に慎重すぎた。

 悪いことじゃない。

 だが、スミスマシンに偏り、ラックが空きやすい。つまり自由度の高い器具の使い方がまだ浸透していない。安全ではある。だが、そこに甘えれば伸びも鈍る。

 

 四階から六階の専用エリアは、もっと露骨だった。

 

 以前なら、レックスは四階、パトーシェは五階、ザイロは六階に寄りついて終わっていたかもしれない。

 だが、今はそうしない。

 

 三人とも、四階から六階を満遍なく使う。

 それは最初から決めていた。

 

 役割は違う。好みも違う。

 だが、“好きな場所だけ鍛えて終わる”では意味がない。

 連携するなら、全員が全階の意味を知らなければならない。

 

 四階では、レックスだけでなくザイロもパトーシェもプーリーを引く。

 

 回旋。差し込み。低姿勢。片側負荷。体幹保持。

 

 ザイロは最初、露骨に嫌そうな顔をした。

 

「これ地味だな」

 

「地味なまま死なずに済むなら安いだろ」

 

 レックスが返す。

 

「……言い方が気に入らねぇ」

 

「でもやるだろ」

 

「やるけどよ」

 

 実際、四階は効いた。

 

 前へ噛みに行く前の溜め。

 横から入る時の腰の残し。

 引き戻しの速さ。

 ザイロの動きは、重い器具よりも先にこっちで少し変わった。

 

 パトーシェも同じだった。

 

 四階の片側引きで、槍を通す時に右と左の差が出る。

 差が見えるたび、露骨に不機嫌な顔になる。

 

「何だ、その顔は」

 

 レックスが聞くと、パトーシェは真顔で言った。

 

「腹が立つ」

 

「またか」

 

「まただ。私はこれまで、真っ直ぐ踏み込んで真っ直ぐ通せば良いと思っていた。だが四階は、“通す前の崩れ”を見せてくる」

 

「そのための階だ」

 

「分かっている。だから腹が立つ」

 

 それでもやめない。

 腹が立つと口にしながら、回数はむしろ増えた。

 

 五階は、三人とも一番“足りないもの”が出る階だった。

 

 ショルダー・プレス。

 レッグ・プレス群。

 グルート・ブリッジ。

 レッグ・カール。

 レッグ・エクステンション。

 

 レックスはここで、自分の脚の弱さを嫌というほど見せつけられた。

 思ったより踏ん張れない。

 踏ん張れると思っていた局面で、ほんの少し流れる。

 その“ほんの少し”が、地下では命取りになる。

 

 ザイロは待つ筋肉を覚え始めた。

 飛びかかる前の保持。

 一歩目を速くするための止まり。

 本人は認めたくなさそうだったが、五階の反復がそれを作っていた。

 

 パトーシェは言うまでもなく五階にハマった。

 だが、それでも五階だけには籠らない。

 四階へ戻り、六階へ上がり、また五階へ降りる。

 その循環を切らないこと自体が、今の三人には必要だった。

 

 六階は当然、全員が牙を剥く。

 

 ザイロの巣。

 そう言って差し支えない空気はある。

 だが、レックスもパトーシェも使う。

 重さを扱う。

 出力をごまかさない。

 担ぐ。引く。押す。止まる。

 

 ザイロがラック前で言った。

 

「……前より、最初の一歩が軽い」

 

「そりゃ毎日担いでりゃな」

 

 レックスが返す。

 

「違ぇよ」

 

 ザイロは壁にもたれ、少しだけ真面目な顔で言う。

 

「飛びかかる前の感覚だ。前より、止まってから噛める」

 

 それはかなり大きかった。

 

 ザイロの強みは速さと噛みつきだ。

 弱みは、速すぎて単独化しやすいこと。

 だが今の言葉は、その弱みが少し矯正され始めている証拠だった。

 

「いいじゃねぇか」

 

 レックスが言うと、ザイロは鼻を鳴らした。

 

「お前が言わせたんだろ」

 

「言わせただけで変わるなら苦労しねぇよ」

 

「……まあな」

 

 短く笑う。

 その顔は悪くない。

 

 

 二週間目に入る頃には、住民スタッフ側もだいぶ落ち着いてきた。

 

 元宿屋勤めの中年女性は、会員の流れを読むのがうまかった。

 どの時間にどの器具が詰まりやすいか。

 どの顔が初見で、どの顔が既に慣れているか。

 どういう人間が質問したそうにうろつき、どういう人間が質問もせず無理をしそうか。

 そういう空気を読むのが早い。

 

 荷運び上がりの若い男は、水回りと備品補充に強かった。

 タオル類の減り。

 床の汗跡。

 誰が器具を元の位置へ戻し忘れたか。

 どこに泥が溜まりやすいか。

 すぐ直さないと後で面倒になるものによく気づく。

 

 パトーシェが最初に心配していた「住民へ任せすぎではないか」という問題も、今のところ大きくは崩れていない。

 住民スタッフには住民スタッフの役割があり、責任者当番には責任者当番の役割がある。

 線引きさえ明確なら、ちゃんと回る。

 

 ただし、穴がないわけじゃなかった。

 

 神の鏡の視角には、わずかな死角があった。

 二階有酸素エリアの端。

 アップライト・バイクの向こう。

 三階フリーウェイト入口の横。

 一階ファンクショナルのプーリー裏。

 

 致命的ではない。

 だが、“致命的ではない”で放置していい種類の穴でもなかった。

 

 恩恵認証板も、一度だけ妙な挙動をした。

 

 ヘファイストス側の若い鍛冶師が、鍛錬後に汗だくのまま一階から出ようとした時、認証が一拍遅れた。記録はされているのに、施錠解除だけ遅れたのだ。

 

 話を持っていくと、アスフィは顔を顰めながら即答した。

 

『汗で表面の神字刻印が読みづらくなっています』

 

『そんなことあるのかよ』

 

『あります。だから共同開発だと言ったでしょう。現場でしか出ない不具合はあるんです』

 

 言い方はきつい。

 だが、そういう返しをしてくる相手は信用しやすい。

 

 数日後、アスフィは自分で工具箱を持って来て、認証板の表面素材と読み取り箇所を少し変えていった。

 

『これでかなり安定するはずです』

 

『助かる』

 

『割引されているので、この程度は当然です』

 

 やはり形で返して正解だったな、とその時レックスは思った。

 

 だが、その頃から別の引っかかりも出始めていた。

 

 軽い擦り傷。

 皮むけ。

 打撲。

 脚の張り。

 肩の違和感。

 

 鍛えれば当然出る範囲の不調。

 今は常備した軽傷用ポーションと布、消毒液、応急の冷却で凌げている。

 だが、もしこれがもう一段深くなったらどうする。

 

 誰が判断する。

 どこで止める。

 どこへ連れていく。

 

 その線だけが、まだ羊皮紙の上にしかなかった。

 

 構想はある。

 軽傷処置。重傷搬送。外部の治療院との連携。

 だが、運用開始直後の歪みを埋める方へ手が取られていて、まだ固め切れていない。

 

 そのことを、レックスは口には出さなかった。

 見えている。

 だが、まだ“今日やるべき最優先”として切れていない。

 

 それが、どこか気に食わなかった。

 

 

 三週目の終わり。

 

 レックスはようやく、“鍛えること”と“次に奪うこと”を同じ机へ乗せ直し始めていた。

 

 アストレア・フィットネスができてから、どうしても目の前の積み上げへ意識が寄る。

 それ自体は悪くない。

 だが、それだけで終われば停滞する。

 

 修練棟は目的じゃない。

 手段だ。

 次に地下へ届くための器でしかない。

 

 そのことを、レックスは何度も自分へ言い聞かせていた。

 

 夜。

 星屑の庭の石机。

 羊皮紙。

 木炭。

 茶。

 そして本館四階から見えるアストレア・フィットネスの灯。

 

 レックスは一人で、また盤面を引き直していた。

 

 地下迷宮。

 入口群。

 搬送路。

 補修材。

 鍵になる何か。

 監視線。

 

 どれを次に奪うべきか。

 

 後ろから、アストレア様の足音がした。

 

「まだ起きていたのね」

 

「そっちこそ」

 

「神は夜更かししても平気よ」

 

「ずるいな」

 

 アストレア様はくすっと笑い、石机の向かいへ腰を下ろす。

 

「考えているのね」

 

「考えるだろ」

 

「何を?」

 

「次を」

 

 短い答え。

 アストレア様は続きを急がせない。

 

「アストレア・フィットネスは動き始めた」

 

 レックスは木炭を転がした。

 

「試験運用も大きくは崩れてない。鍛錬の効果も出始めてる。パトーシェは前より戻れる。ザイロは前より待てる。俺も前より誤魔化せなくなった」

 

「誤魔化せなくなった?」

 

「体の粗が、前より見える」

 

 アストレア様は少しだけ目を細めた。

 

「いいことじゃない」

 

「気分は良くない」

 

「でも必要」

 

「そうだな」

 

 そこでレックスは少しだけ沈黙した。

 言葉を探しているというより、うまくまとまらなかった。

 

「……前より鍛えられてる感じはある。でも、そのせいで足りないものも前より見える」

 

「ええ」

 

「だから、満足した感じが全然ない」

 

 アストレア様はすぐには返さなかった。

 少しだけ考えてから、柔らかく言う。

 

「それは、ちゃんと進んでいる証拠かもしれないわ」

 

「そうか?」

 

「本当に止まっている人は、足りないものの形も見えなくなるもの」

 

 その返しは、少しだけ救いに寄りすぎている気がした。

 だからレックスは即座には頷けなかった。

 

 アストレア様も、それに気づいたらしい。

 一拍遅れて続ける。

 

「でも、見えたからといって全部を一度に拾おうとすると、今度は崩れるわ」

 

 その言い方の方が、しっくり来た。

 

「アストレア・フィットネスは、まだ完成じゃないものね」

 

「ええ」

 

「運営も、鍛錬も、使い方も、これから詰める部分がある。だったら次に奪うものも、“今の三人で届く線”から選ぶべきでしょう?」

 

 そこでようやくレックスは小さく頷いた。

 

「……それはそうだ」

 

 焦って答えを出す段階じゃない。

 だが、頭の中ではもう、いくつかの線が見えている。

 

 入口の追加特定。

 搬送役の捕捉。

 補修材の流れの逆追跡。

 あるいは、地上側の協力者。

 

 そして、それと並んで、別の線も残っている。

 

 軽傷の処置。

 重傷時の判断。

 どこで止め、どこへ繋ぐか。

 

 まだ大事にはなっていない。

 だからこそ、余計に後ろへ流れそうになる。

 それが嫌だった。

 

「まだ決めきってない」

 

 正直に言う。

 

「でも、準備だけで終わらせない」

 

 アストレア様は少しだけ微笑んだ。

 

「それでいいと思うわ」

 

「そうか?」

 

「ええ。器は整った。でも、器を整えたからこそ“何を入れるか”をちゃんと選ばなきゃいけないでしょう?」

 

 その言葉が、妙にしっくり来た。

 

 アストレア様が不意に言う。

 

「私は、あなたが焦らずにそこを考えているのが嬉しい」

 

「焦ってるぞ」

 

「内心ではね。でも表では走りすぎていない」

 

 それはたぶん、アストレア・フィットネスを作った影響でもあった。

 前なら、目の前の危険へすぐ牙を剥いていた。

 だが今は違う。

 器を作り、運営を回し、他ファミリアと線を繋ぎ、ギルドへ礼を通した。

 その過程が、レックス自身を少しだけ変えていた。

 

 レックスは茶を一口飲んでから、ふっと息を吐いた。

 

「……準備を、ちゃんと準備で終わらせないようにする」

 

「ええ」

 

「でも、たぶんその前に、何か一個くらい取りこぼす」

 

 アストレア様は、そこで初めて少しだけ黙った。

 慰めない。

 すぐに“そんなことないわ”と言わない。

 そういうところが、この女神はちゃんと分かっている。

 

「そうかもしれないわね」

 

 静かな返答だった。

 

「でも、取りこぼすと分かっている人の方が、まだ次を拾えるわ」

 

 それくらいが、ちょうど良かった。

 

 

 四週目に入る頃、試験運用のフィードバックはだいぶ揃ってきた。

 

 ゴブニュ側からは、三階会員フリーウェイトでバーの戻し位置が雑になりやすいという指摘。

 ヘファイストス側からは、二階のデュアルアクシス・チェストプレスの可動部にわずかな癖が出ているという報告。

 住民スタッフ側からは、十九時台に有酸素エリアがやや詰まりやすいという情報。

 アスフィからは、神の鏡の死角をあと一枚でかなり減らせるという改善案。

 アストレア・ファミリア側からは、責任者当番の引き継ぎ時間をもう少し明文化した方がいいという意見。

 

 全部、大きな破綻ではない。

 むしろ、ちゃんと使われているから見えるズレだ。

 

 夕方、五階でショルダー・プレスを終えたパトーシェが言う。

 

「私は、もう少しこの棟で鍛えれば、前より良い槍になると思う」

 

「うん」

 

 レックスは短く返す。

 

「だが、それでも足りないとも思う」

 

 そこが大事だった。

 

「そうだな」

 

「アストレア・フィットネスがある。鍛錬の質も上がった。だが……地下の根まで届くには、まだ足りん」

 

 ザイロが六階から降りてきて、その会話の最後だけ拾った。

 

「当たり前だろ」

 

「お前は少し黙っていろ」

 

「何でだよ」

 

「いちいち腹立つからだ」

 

「褒めてんのか?」

 

「褒めていない!」

 

 いつもの応酬。

 だが、その中に前より余裕があった。

 

 ザイロは壁にもたれ、タオルで首を拭きながら言う。

 

「でもまあ、分かる。鍛える場所ができて、前よりマシになった。だが次に要るのは、結局“何を喰うか”だ」

 

 パトーシェが小さく頷く。

 

「何を奪うか、だな」

 

 その言い換えが妙にパトーシェらしかった。

 ザイロも否定しない。

 

「言葉は何でもいい。要は次の目標だ」

 

 レックスはその二人を見て、少しだけ思う。

 

 ああ、ちゃんと前へ進んでる。

 だが、同時にちゃんと穴も残っている。

 その両方が見えるくらいには、三人とも少し育った。

 

 アストレア・フィットネスができた。

 鍛えた。

 運営した。

 街とも繋いだ。

 

 だから、もう言える。

 

「次を決めるぞ」

 

 二人の視線がこっちへ向く。

 

 パトーシェは真っ直ぐ。

 ザイロは口元だけで笑っている。

 

「ようやくか」

 

「ようやくだ」

 

 レックスは深く息を吸う。

 

「一か月の試験運用が終わる頃には、次に取りに行くものを決める。準備は準備で終わりだ。ここから先は、修練棟で積んだものを何にぶつけるかを決める段階に入る」

 

 その言葉は、思ったより重く落ちた。

 

 修練棟はもうある。

 積み上げる器はある。

 だから今度は、その積み上げを向ける先を選ばなきゃいけない。

 

 入口か。

 搬送路か。

 鍵になるものか。

 それとも、まだ別の札か。

 

 決めるのは次だ。

 でも、決める段階には入った。

 

 そしてたぶん、その前にもう一つだけ、ちゃんと埋めるべき穴がある。

 

 そこまで言葉にはしなかったが、レックスの中ではもう消えていなかった。

 

 

 夜。

 

 四階の窓から見るアストレア・フィットネスは、前よりもずっと“戦える建物”に見えた。

 

 一階から三階の会員エリアは二十四時で閉まる。

 スタッフは引き上げる。

 神の鏡だけが共用部を見張る。

 四階から六階の専用エリアは、まだ息をしている。

 アストレア・ファミリアだけの時間だ。

 

 将来的に一階から三階も二十四時間営業へ寄せる含みはある。

 だが、それは今じゃない。

 そこを焦らなかったことも、たぶん正解だった。

 

 窓辺に立ったレックスは、ガラスへ映る自分の顔を少しだけ見た。

 疲れている。

 前より少しだけ、目つきも悪くなっている気がした。

 

 拠点は整った。

 兵站もある。

 兵も少しずつ変わった。

 

 だが、地下の根はまだ遠い。

 そして、遠いものばかり見ていて、手前の抜けを見落とすのも違う。

 

 遠いのに、近づく準備だけは着実に進んでいる。

 その感じが、妙に落ち着かない。

 

 アストレア・フィットネスの灯は静かに揺れていた。

 それはもう、ただの建物の灯じゃない。

 次の一手を選ぶための灯だ。

 

 その灯を見ながら、レックスは次の入口を考えた。

 正解はまだない。

 けれど、考えることを止める理由ももうなかった。

 

 第12話 積み上げた牙、次に奪うべきもの 了

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