今後はアストレア・レコードとの接続が重要になるので、より注意深く書いていきます。今後ともよろしくお願いします。
第15話 静穏の鍛牙、まだ来ぬ嵐の前で
第15話 静穏の鍛牙、まだ来ぬ嵐の前で
アストレア・フィットネスが街に根づき始めてから、二か月と少しが過ぎた。
最初の頃の慌ただしさは、もう表にはあまり出ない。
出入口の認証板も、住民スタッフの引き継ぎも、優先利用時間の案内も、夜間の鍵の受け渡しも、ようやく“回るもの”として骨に入ってきた。
だからこそ、今は逆に気味が悪い。
順調だった。
ゴブニュ・ファミリアへ支払う建設費。
ヘファイストス・ファミリアへ返していく器具製作費と保守費。
どちらも、最初に想定していたよりはゆっくりだが、確実に減っている。
派手に一気に返せる額ではない。
だが、会員収入、団体利用、招待制で開いた線、それに住民側の運営協力が噛み合い、毎月の返済は止まらず回っていた。
帳簿の数字が、ちゃんと前へ進んでいる。
それ自体は、喜ぶべきことのはずだった。
それでもレックスは、帳簿を閉じるたびに思う。
順調すぎる。
暗黒期の街で、何かが綺麗に回り始めた時は、たいてい別のどこかで歪みを溜めている。
イヴィルスが諦めたわけじゃない。
地下の根が枯れたわけでもない。
ただ今は、まだこちらの喉元へ刃が届いていないだけだ。
だから、止まれない。
アストレア・フィットネスの営業時間は、この月からついに全域で二十四時間へ切り替わった。
一階から三階の一般会員エリアも、四階から六階の専用エリアも、時間で閉じずに回す。
ただし、“開いている”ことと“放りっぱなし”は違う。
深夜受付と夜間管理のために、住民から新たに二人を雇った。
ひとりは元酒場勤めの中年男で、夜の酔客と騒ぎに慣れている。
もうひとりは寡黙な未亡人で、帳面と鍵の扱いが異様に丁寧だった。
夜間はこの二人が交代で受付と施錠確認、清掃巡回、備品管理を受け持つ。
もちろん、好き勝手に全てを任せるわけではない。
責任者当番はアストレア・ファミリア側が引き続き立てる。
住民スタッフは回す手、責任者は締める手。
その線だけは崩さなかった。
出入口脇の認証板も、役目はあくまで限定的だ。
入館資格の有無。
登録会員かどうか。
専用区画へ入れるかどうか。
読むのはそこまでで、個人を完璧に見分けるわけでも、履歴を細かく掘るわけでもない。
汗や湿気で鈍ることもあるし、夜間は結局最後に人の目で確認する。
便利な札じゃない。
人手の抜けを少し埋める、無口な番兵にすぎない。
それで十分だった。
十分でなければ、他を足せばいいだけだ。
そして、その“他”の最たるものが、ガネーシャ・ファミリアの駐在所だった。
アストレア・フィットネスの横。
正面玄関を睨みつけるほど露骨ではなく、だが視界からは外れない位置。
石と木を組んだ小さな詰所。
中に机、簡易寝台、鐘、槍立て、記録板。
派手さはない。
だが、暗黒期ではこういうものが骨になる。
常駐は一名、繁忙時は二名。
そのうち一名は必ず泊まり勤務。
夜中に叩き起こされることも、最初から織り込み済みだ。
「ガネーシャ側、そこまで飲んだのか」
最初にそれを聞いた時、ザイロが少しだけ目を細めた。
返したのはシャクティだった。
「その代わり、そちらもこちらの治安維持任務へ噛む。街の巡回、騒擾の抑え、搬送補助、荷の確保。人手が要る場で協力してもらう」
つまり一方的な庇護ではない。
駐在所を置く代わりに、アストレア側もガネーシャの治安維持へ合同、あるいは協力で入る。
守られるだけの関係じゃない。
それがよかった。
「それでいい」
レックスはその場でそう言った。
借りだけを重ねる線は、いつか歪む。
だが、互いに必要だから手を結ぶ線ならまだ持つ。
そうして、駐在所は本当にできた。
昼間は出入口警備と人の流れの監視。
夜は泊まり勤務の駐在員が灯を絶やさず、非常時には叩き起こされる。
怪我人が出れば誘導。
騒ぎが起きれば人払い。
必要ならディアンケヒトへの搬送補助。
それに加えて、ガネーシャ側からアストレア側へ、あるいは逆方向への伝達も拾う。
便利な仕掛けではない。
人の足だ。
鐘と声だ。
だが、この時代にはそれが一番強い。
*
朝。
本館四階から渡り廊下を抜けた先で、レックスは六階の様子を見上げた。
上から、鈍い金属音が落ちてくる。
雑ではない。
だが、重い。
「上、もう始めてるな」
呟くと、横でアストレアが微笑んだ。
「今朝はザイロが先だったわ」
「珍しいな」
「最近は珍しくなくなってきたでしょう?」
それはそうだった。
この二か月あまりで、三人の生活はかなり規則化されていた。
筋トレ。
休み。
休み。
筋トレ。
その合間にダンジョン探索と地上任務、駐在所絡みの調整、返済と運営。
中二日を挟む全身鍛錬が、気づけば当たり前になっていた。
最初はただ重いものを扱うだけだったものが、今では四階、五階、六階を全部使う循環になっている。
四階で体幹と引き。
五階で保持と押し込み。
六階で重量と出力。
誰かひとりの階じゃない。
全員が全部を通る。
だから変化も、もう誤魔化せなかった。
六階へ上がる。
ザイロがラックの中で、バーを担いだまま止まっていた。
ただ立っているように見える。
だが違う。
肩、背、腹、脚。
全部が沈まず噛んでいる。
以前のこいつなら、重さを担いだ瞬間に噛みつきたがった。
速く終わらせたがった。
動いて壊して突破する方へ寄っていた。
今は違う。
止まっている。
止まったまま、重さを受けている。
「……どうだ」
レックスが聞くと、ザイロはバーを戻してから肩を回した。
「前より嫌いじゃねぇ」
「何が」
「重いのを持ったまま、待つのがだよ」
鼻を鳴らしながら言う。
素直じゃない。
だが本音だった。
「前は、飛び込むための筋肉しか要らねぇと思ってた。今は違う。止まる筋肉があると、飛び込み方が変わる」
それはかなり大きい。
ザイロの牙が鋭いのは前からだ。
だが今の変化は、牙が勝手に飛ばないための進化だった。
「筋力発展ってやつか」
レックスが言うと、ザイロは少しだけ口元を歪める。
「そう呼ぶなら、まあそうだろうな」
壊す力じゃない。
受けて、残して、次へ繋ぐ力。
狼の牙に、ようやく骨が通り始めていた。
そのまま五階へ降りる。
パトーシェはショルダー・プレスの前にいた。
押す。
止める。
戻す。
そこに雑さはない。
だが、前より明らかに重い。
額へ汗を滲ませたまま、彼女は器具を戻して言った。
「肩だけでは通らん」
「今さらか」
「今さらだ。だが、今さらだから腹が立つ」
いつものやつだ。
「槍は腕で持つものだと思っていた。違うな。肩で支え、背で噛み、脚で止まり、腰で押し込む。全部だ」
そう言ってから、パトーシェは少しだけ視線を落とした。
「それと、前より疲れる」
「良いことだろ」
「貴様の言う“良いこと”は、大抵きつい」
「褒めてる」
「褒めていない!」
だが、その怒鳴り方にも前より余裕がある。
パトーシェもまた、筋力発展の階段を登っていた。
ただし、ザイロと違ってこいつの筋力発展は、単純な出力増ではない。
槍を最後まで通すための筋力だ。
支えきる力。
崩れない力。
戻ってもう一度通す力。
五階の器具群は、そのために明らかに噛んでいた。
最後に四階。
レックスはプーリーの前へ立つ。
角度を合わせる。
引く。
戻す。
踏み込みを作る。
耐える。
また引く。
ザイロやパトーシェみたいな“分かりやすい筋力発展”ではない。
自分の場合、今必要なのは基礎筋力だった。
出力で押し切る場面は少ない。
だが、基礎が足りないと全部が遅れる。
地下で一歩浅くなる。
撤退で仲間を引っ張る時に半拍遅れる。
重さを支える場面で誤魔化しがきかない。
レックスは最近ようやく、それを真正面から認めるようになっていた。
「基礎が薄いと、全部の判断が体で負ける」
ぽつりと言うと、後ろからアストレアが聞いた。
「何か言った?」
「独り言です」
「嘘ね」
「よく分かるな」
「分かるわよ」
優しく笑う。
その笑い方が少しずるい。
レックスはもう一度引いた。
背中と腹へ負荷が通る。
脚がわずかに震える。
重くはない。
だが、逃げられない。
今の自分は、ザイロみたいに噛み切る筋肉でも、パトーシェみたいに貫く筋肉でもない。
まずは基礎。
誤魔化しの利かない土台を作る段階だ。
そこを飛ばして先へ行けば、またどこかで体が答えを外す。
だから積む。
地味でも。
遠回りでも。
今はそれしかない。
*
昼過ぎ、アストレア・フィットネスの一階はかなり賑わっていた。
団体会員申請を出してきた中小ファミリアの見学。
鍛冶師たちの優先利用時間。
住民の一般利用。
それに、昼の巡回を終えたガネーシャ側の駐在員が、正面脇で住民スタッフと軽く話している。
駐在員は若い獣人だった。
槍を立て、眠そうな顔で立っているが、視線だけはよく動く。
「夜勤明けか」
レックスが声をかけると、獣人は少しだけ目を細めた。
「明けたばかりだ。だが、今日はこのまま交代まで残る」
「きついな」
「最初から決まってる。泊まり番は一人、絶対だ。非常時に寝てて起きない方が首が飛ぶ」
言い方は軽い。
でも事実だ。
その横で、元酒場勤めの夜間受付係が帳面をめくりながら言う。
「夜中は夜中で変な客が来るんですよ。『今から鍛えたい』って顔して酔ってるのとか」
「追い返してるだろうな」
「もちろんです。でも駐在さんが横に立ってると、引き下がりが早い」
そういう効果もある。
駐在所は、事故対応だけのためにあるんじゃない。
“ここはちゃんと見られている”と街へ知らせるための骨でもあった。
そこへ、アストレアが静かに近づいてきた。
「今月分の返済、ゴブニュ側へ渡せそうよ」
「もう出るのか」
「ええ。ヘファイストス側の保守費も、今月はちゃんと払える」
悪くない。
本当に悪くない。
だが、その“悪くない”が妙に落ち着かない。
レックスは本館四階の窓から見える街路へ目をやった。
昼の陽射しの下、ダイダロス通りの方角は遠く、ただ石の連なりとしてしか見えない。
静かだった。
静かすぎる。
*
その日の夕方、三人はダンジョンへ入った。
深くは潜らない。
ルーティンの探索だ。
地上任務と施設運営が増えた今、以前みたいに毎回命を削る潜り方はしていない。
だが、潜らないわけにはいかない。
鍛えたものを地下で確かめないと、意味が半分になる。
中層手前の広間。
湧いた群れへ、三人は前よりずっと無駄なく入った。
ザイロが飛ぶ。
だが飛びっぱなしじゃない。
前へ出たあと、戻る。
壁になりすぎず、離れすぎず、次へ繋げる。
パトーシェが通す。
だが通して終わりじゃない。
刺し切ったあとに残る。
支える。
もう一度構える。
レックスは二人の隙間を見て、足を入れる。
以前よりも体がついてくる。
まだ万全じゃない。
だが、判断だけが先に走って自分の体へ苛立つ回数は減った。
戦いは短く終わった。
モンスターの核石を回収し、三人はその場で少しだけ息を整える。
「……軽いな」
ザイロが言った。
「前より、噛むまでが軽い」
「俺は逆だ」
レックスが返す。
「まだ重い」
「そりゃお前は基礎からやってんだから当然だろ」
ザイロの言い方は雑だが、その通りだった。
パトーシェが槍の血を払いながら言う。
「だが、前より崩れん」
「何が」
「隊列だ。以前は、誰かが前へ出るたび、他が追いかけるか止めるかで一拍ズレた。今は違う」
それはレックスも感じていた。
三人とも、ようやく“自分の役割だけで動いていない”。
同じ筋トレをして、同じ施設を使い、同じように全身を詰めてきた結果、体の理解が少しだけ噛み合い始めている。
その事実は、かなり大きかった。
「でもまだ足りねぇな」
ザイロが言う。
「何が」
「静かすぎる」
その一言に、レックスは少しだけ目を細めた。
「お前もそう思うか」
「地下がだ。末端が薄い。補給の臭いも前より散ってる。諦めたんじゃねぇ。隠しただけだろ」
パトーシェも真顔になる。
「私も少し感じる。以前より、こちらに見せる粗が減った」
やっぱりか。
順調なのは自分だけが気味悪がっているわけじゃない。
敵もまた、少し静かになりすぎている。
「……嵐の前ってやつか」
ザイロが吐き捨てるように言う。
「たぶんな」
レックスは短く返した。
拠点は回り始めた。
返済も進む。
鍛錬も噛む。
駐在所も立つ。
街との線も増えた。
なのに、安心だけがどこにもない。
それはたぶん、正しい感覚だった。
*
夜。
アストレア・フィットネスの一階から三階までの一般会員エリアは、二十四時間営業解禁後も以前より大きくは荒れていなかった。
深夜受付の住民スタッフが帳面をつけ、駐在所の泊まり番が灯の下で欠伸を噛み殺す。
四階から六階の専用エリアは、静かに息をしている。
鍛えられた鉄と石の建物が、夜の中でじっと次を待っていた。
本館四階の窓辺で、レックスはその灯を見ていた。
順調だった。
拠点も、鍛錬も、返済も、運営も。
ガネーシャとの線もできた。
住民から雇った深夜受付と管理職員も、今のところよく回している。
駐在所の泊まり番は、今夜も絶対に一人は寝台にいて、緊急時には叩き起こされることまで前提にしている。
アストレア側も、その代わりにガネーシャの治安維持任務へ協力する。
ただ守られるだけじゃない。
それがいい。
全部、間違っていない。
それでも、まだ何かが来ていない。
来るべきものが、まだ来ていない。
「……悪くない」
小さく呟く。
悪くないどころじゃない。
かなりうまくいっている。
だからこそ、余計に気持ち悪い。
その背後で、扉が控えめに鳴った。
振り向かなくても分かる。
アストレアだ。
「どう?」
「何がです」
「二か月の感想」
半分、答え込みの問いだった。
レックスは窓の外を見たまま答える。
「前よりは、ちゃんと戦える形になってる」
「ええ」
「でも、まだ勝てる形じゃない」
少しだけ間が空く。
アストレアは否定しなかった。
「そうね」
その返しが、今はありがたかった。
「でも、前よりは確かに近づいてる」
「……そうだといい」
「いいえ。そうよ」
断言だった。
優しいのに、そこだけは妙に強い。
アストレアはレックスの隣へ並び、同じように外を見た。
「静かね」
「ええ」
「少し怖い?」
「かなり」
正直に言うと、アストレアは小さく笑った。
「よかった」
「何がです」
「怖くないより、ずっといいもの」
その言葉で、レックスは少しだけ目を細めた。
たしかにそうかもしれない。
怖くない時の方が、たぶん人は大きく外す。
窓の外、アストレア・フィットネスの灯が揺れる。
その横には、もうガネーシャ・ファミリアの駐在所の灯もある。
小さい。
地味だ。
でも、あれもまた一つの骨だ。
静かな夜だった。
静かなのに、まるで地の底で何かが息を潜めているような夜だった。
なら今は、この静けさの中で積めるだけ積むしかない。
筋力も。
連携も。
返済も。
駐在も。
街との線も。
まだ来ぬ嵐の前に、せめて次の一手を打てる形だけは揃えておく。
それが今の自分たちにできる、いちばん現実的な備えだった。
第15話 静穏の鍛牙、まだ来ぬ嵐の前で 了
今回で盤面を整える話はほぼ終わりました。これからは前進し、選択が迫られる場面が多くなります。果たしてレックス流アストレア・ファミリアはどう立ち回るか…
お楽しみに…