悔いなき選択 ※休止   作:Jefflocka

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星屑の庭では、アストレア・フィットネスの二十四時間運用に向けた体制が整い始めていた。
深夜受付には住民から雇った夜間管理職員が入り、ガネーシャ・ファミリアの駐在所には泊まり勤務が置かれることになった。アストレア・ファミリアも治安維持任務に協力することで、施設周辺の安全を支える仕組みが少しずつ形になっていく。

一方で、レックス、ザイロ、パトーシェは鍛錬を重ねながらも、まだ未熟さを抱えていた。
ザイロとパトーシェは筋力と実戦感覚を伸ばし、レックスも基礎体力を鍛え始めていたが、実戦経験の差はまだ大きい。

そんな中、星屑の庭の外では、暗黒期のオラリオらしい不穏な気配が静かに濃くなっていた。


第16話 凶狼、血の中で星屑を踏む

第16話 凶狼、血の中で星屑を踏む

 

 夜のオラリオは、時々ひどく静かになる。

 

 酒場の笑いが細り、鍛冶場の鉄音が遠のき、路地裏の怒鳴り声すら石壁の向こうへ沈んでいく。そういう夜は、大抵ろくでもない。

 

 その夜も、そうだった。

 

 星屑の庭の食堂では、遅い食事が終わったばかりだった。

 

 アストレア・フィットネスの深夜受付には、住民から雇った夜間管理職員が入っている。

 ガネーシャ・ファミリアの駐在所には泊まり勤務の男がひとり、露骨に眠そうな顔で槍を抱えていた。

 本館側には、名も出さないまま置いている非戦闘員の眷属が、帳面と鍵の確認をしている。

 

 ようやく、三人が同時に外へ出ても、拠点がすぐには止まらない形になってきた。

 

 深夜受付。

 夜間管理。

 駐在所。

 非戦闘員の留守番。

 緊急時の水と布と灯りの位置。

 

 地味で、面倒で、華がない。

 けれど、そういうものがない場所は、いざという時に壊れる。

 

 レックスはそのことを、帳面の数字よりも強く理解していた。

 

 勝つための刃より、帰ってくるための灯り。

 戦場で生きるためには、そういうものの方が先に必要になることがある。

 

 その積み上げが、今夜は必要だった。

 

 表門を叩いたのは、息を切らした住民だった。

 

「た、助けてくれ! 狼人が暴れてる!」

 

 食堂の空気が、一瞬で変わる。

 

「場所は」

 

 レックスが立ち上がる。

 

「西の外れだ! 壊れた水路橋の近く! 止めに入った冒険者もやられた。このままだとそのうち死人が出る!」

 

 ザイロが椅子を鳴らして立ち上がった。

 

「面倒だな」

 

 口ではそう言う。

 だが、もう腰の短剣を確かめている。

 

 パトーシェも槍袋へ手をかけた。

 表情は硬い。

 しかし、その硬さは迷いではない。動く前の、軍人の顔だった。

 

 アストレアが短く三人を見る。

 

「私も行く」

 

「駄目です」

 

 レックスが即答した。

 

「アストレア様は留守番してください」

 

 アストレアの眉がわずかに動く。

 

 パトーシェも頷いた。

 

「今は本館側に責任者が必要です。深夜受付も、住民スタッフも、駐在所も、まだ回り始めたばかりです。全員が現場へ出る方が危険です」

 

「でも」

 

「アストレア様」

 

 レックスは、言葉を切る。

 

「今夜、ここを空にする方が怖いです」

 

 アストレアは何か言い返しかけて、やめた。

 

 数秒だけ三人を見る。

 その目には、心配があった。

 不安もあった。

 それでも、信じるしかないという痛みもあった。

 

「……戻ってきなさい」

 

「はい」

 

 レックスが短く答える。

 

 ザイロは鼻を鳴らし、パトーシェは真顔で頷いた。

 

 三人は夜の街へ飛び出した。

 

 

 西の水路橋へ近づくほど、空気が悪くなった。

 

 夜気に混ざる鉄臭さ。

 割れた酒瓶の匂い。

 焦げた油のような臭い。

 それから、湿った石の底から這い上がってくるような、重い臭い。

 

 レックスは走りながら、眉を寄せる。

 

「油の臭いがする」

 

「屋台が壊れたんだろ」

 

 ザイロが答える。

 

「違う。もっと古い。地下から来るような臭いだ」

 

 言ってから、レックスは自分で違和感を覚えた。

 

 地下。

 

 なぜそう思ったのか分からない。

 だが、喉の奥にひっかかるものがあった。

 

 パトーシェが槍袋を握り直す。

 

「現場で確認する」

 

 その判断は正しかった。

 

 現場は、思った以上にひどかった。

 

 壊れた屋台。

 蹴り割られた樽。

 石壁へ叩きつけられた跡。

 割れた石畳。

 地面には血。

 

 だが、死体の血ではない。

 

 そこだけが救いだった。

 

 中心にいたのは、一人の狼人だった。

 

 灰金色の毛。

 鋭すぎる目。

 全身に新しい傷。

 それでもまだ、壊れたまま立っている。

 

 周囲には距離を取った住民と、折られた冒険者崩れが二人。

 さらに少し離れた場所に、黒い布袋が一つ転がっていた。

 

 布袋から、油の臭いがする。

 

 その横で、倒れた冒険者崩れの片方が呻いた。

 

「ち、違う……俺たちは……」

 

 言葉はそこで途切れる。

 

 何かを言おうとしている。

 けれど、恐怖と痛みで続かない。

 

 住民たちは、中心に立つ狼人だけを見ていた。

 壊れた屋台も、倒れた男たちも、血も、全部その狼人が撒き散らしたものに見えている。

 

 けれど、レックスは一瞬だけ違和感を覚えた。

 

 倒れた男たちの傷は、住民を襲った者の傷ではない。

 何かを抱えて逃げようとした者を、横から叩き潰したような傷だった。

 

 それを考える前に、狼人の低い声が落ちる。

 

「……近づくな」

 

 威嚇。

 拒絶。

 それから、ほとんど悲鳴に近い何か。

 

 レックスは一歩だけ前へ出る。

 

「止めに来た」

 

「知るかよ」

 

「このままだと、誰か死ぬ」

 

「だったら死ねばいい」

 

 吐き捨てる声に、ザイロが露骨に顔をしかめた。

 

「気に入らねぇな」

 

 狼人の目がザイロへ向く。

 

 次の瞬間、地面を蹴った。

 

 速い。

 

 ただ速いんじゃない。

 擦り切れているのに、なお前へ出る速さだった。

 

「右!」

 

 レックスが叫ぶ。

 

 ザイロが横へ流れる。

 パトーシェは正面を取らず、半歩だけ引いて槍を構える。

 

 受けるな。

 止めろ。

 通すな。

 

 今の三人の共通認識はそこだった。

 

 狼人の蹴りが石壁を割る。

 ザイロはぎりぎりでかわしたが、余波だけで頬が裂けた。

 

「っ、ふざけんな……!」

 

 吐きながら短剣を滑らせる。

 

 だが、届く前に狼人はもう次の一歩へ入っていた。

 

 速い。

 

 レックスは見て、即座に理解する。

 

 正面からじゃ止められない。

 足を止めるしかない。

 

「パトーシェ、脚!」

 

「分かっている!」

 

 槍が走る。

 

 喉でも胴でもない。

 膝裏。

 

 通すためじゃない。

 止めるための刺突だ。

 

 狼人はそれをぎりぎりで跳ねた。

 だが跳ねた先へ、もうザイロが噛んでいる。

 

「一人で暴れんな、このクソ狼!」

 

「うるせぇ!」

 

 短剣が腕を浅く裂く。

 狼人は痛みを無視して、ザイロの肩口へ蹴りを叩き込んだ。

 

 鈍い音。

 

 ザイロが吹き飛ぶ。

 

「ザイロ!」

 

「まだだ!」

 

 転がりながらも立つ。

 息は荒い。肩は落ちている。

 それでも、潰れ切っていない。

 

 こいつも最近、重さを受けて潰れ切らなくなっていた。

 

 レックスはそこへ入った。

 

 まだ経験は浅い。

 体格でも出力でも負けている。

 だから力で押さえない。

 

 角度で噛む。

 

 半歩外し、軸足へ体重を乗せる。

 

 重い。

 想像以上に重い。

 

 だが、ほんの少しだけブレた。

 

「今だ!」

 

 パトーシェが槍の柄で膝を払う。

 ザイロが横から肩を押す。

 

 三方向。

 

 ようやく、狼人の体が傾く。

 

 だが、それで終わらない。

 

 倒れながらも肘が飛ぶ。

 レックスの頬が裂ける。

 次の蹴りが腹へ入る。

 

「がっ……!」

 

 呼吸が抜ける。

 

 石畳へ背が打ちつけられる。

 肺が止まる。

 

 痛い。

 世界が一瞬、白く欠ける。

 

 でも、頭だけは妙に冴えていた。

 

 こいつは強い。

 けど、冷静じゃない。

 理屈はまだ届かない。

 勝たないと聞かない。

 

 なら、やるしかない。

 

「ザイロ、右から噛め!」

 

「おう!」

 

「パトーシェ、前出るな、戻れ!」

 

「だが!」

 

「戻れ!」

 

 怒鳴る。

 

 パトーシェが一瞬だけ迷い、それでも戻る。

 

 空いた正面へ、狼人は迷わず踏み込んだ。

 

 そこが罠だ。

 

 レックスは正面にいない。

 半歩外だ。

 

 脚へ入る。

 力じゃなく、角度で崩す。

 

 その一拍遅れで、戻っていたパトーシェの槍の柄が膝裏へ入る。

 さらにザイロが脇から肘を叩き込む。

 

 三度目で、ようやく狼人の膝が落ちた。

 

 だが、まだ完全には止まっていなかった。

 

 膝が落ちた状態から、上体だけで捻る。

 無理な体勢。

 普通なら力が乗らない。

 

 だが、狼人の身体はそこで終わらなかった。

 

 蹴りではなく、跳ねるような膝。

 

 狙いはレックスの脇腹だった。

 

「レックス!」

 

 パトーシェが反射で前に出た。

 

 槍で真正面から受ければ、折れる。

 そう判断したのは一瞬だった。

 

 だから穂先ではなく、柄の根元を斜めに差し込み、蹴りの軌道を殺す。

 

 鈍い音がした。

 

「っ……!」

 

 衝撃が槍を伝って肩へ抜ける。

 同時に、踏ん張った左脚が石畳を滑り、足首に嫌な捻れが走った。

 

 それでもパトーシェは退かなかった。

 

 蹴りの威力は死んだ。

 レックスの脇腹を砕くはずだった一撃は、浅く空を切る。

 

「無茶すんな、騎士女!」

 

 ザイロが叫ぶ。

 

「貴様に言われたくない!」

 

 歯を食いしばって返しながら、パトーシェはそのまま槍の柄を押し込んだ。

 

 膝裏へ、もう一度、線を置く。

 

 ザイロが脇から肘を叩き込む。

 レックスが半歩遅れて喉元へ刃を置く。

 

 レックスの刃が喉元へ。

 パトーシェの槍先が胸元へ。

 ザイロの短剣が首筋へ。

 

 止まる。

 

 夜気の中で、四人ぶんの荒い呼吸だけが響いた。

 

 狼人はしばらく無言で、やがて低く笑った。

 

「……三人がかりで、やっとかよ」

 

「勝ちは勝ちだ」

 

 ザイロが吐き捨てる。

 

「気に食わねぇ勝ち方だ」

 

「知るか」

 

 レックスは頬の血を拭いながら言った。

 

「話を聞け」

 

 

 壊れた水路橋の下。

 夜気と血の匂いの中で、狼人は石段へ腰を落とした。

 

 まだ完全には落ち着いていない。

 だが、さっきまでの殺気は少し薄い。

 

 ザイロは倒れていた男たちと黒い布袋を見て、眉を寄せた。

 

「こいつら、何だ」

 

「知らねぇ」

 

 狼人が吐き捨てる。

 

「知らねぇけど、臭かった」

 

「臭かった?」

 

 パトーシェが目を細める。

 

 狼人は不機嫌そうに、顎で水路橋の奥を示した。

 

「血と油と、湿った石の臭いだ。そいつら、荷物持って路地で誰か刺して逃げてた。追ったら、ここまで来た」

 

 レックスの目が細くなる。

 

「誰かを刺した?」

 

「顔は見てねぇ。助かったかも知らねぇ」

 

「なぜ説明しなかった」

 

 パトーシェの声が硬くなる。

 

 狼人が睨む。

 

「聞く前にてめぇらが斬りかかってきただろうが」

 

「貴様が殺気を撒き散らしていたからだ」

 

「逃げた奴がまだいたんだよ」

 

 空気が止まる。

 

 レックスは水路橋の奥を見る。

 

 逃げた奴。

 血と油。

 湿った石の臭い。

 黒い布袋。

 倒れた男たち。

 

 ただの暴走ではない。

 この狼人は、何かを追っていた。

 

 だが、それを説明するには、あまりにも態度が悪く、あまりにも壊れていた。

 

 住民から見れば「狼人が暴れている」にしか見えない。

 実際、放っておけば誰かを巻き込んだ可能性も高い。

 

 それでも、意味のない暴力ではなかった。

 

 レックスは静かに聞く。

 

「名前は」

 

 狼人はしばらく黙り、吐き捨てるように答えた。

 

「……ベート」

 

 やはり、という感覚が腹に落ちる。

 

「ベート・ローガ」

 

「知ってんのかよ」

 

「噂くらいはな」

 

 ベートは舌打ちした。

 

「だったら放っとけ」

 

「無理だ」

 

 即答だった。

 

「理由があったとしても、今のままだとそのうち本当に誰か殺す」

 

「だったら俺ごと殺せばいい」

 

 その声は怒鳴りじゃない。

 半分は悲鳴だった。

 

 ザイロが露骨に顔をしかめる。

 

「そういう壊れ方が一番嫌いなんだよ」

 

「うるせぇ」

 

「うるせぇで済むか。てめぇ、強ぇ奴がいなきゃ弱ぇ奴が死ぬって顔してやがる」

 

 ベートの肩がぴくりと動く。

 

「何が悪い」

 

「その先で一人で壊れてりゃ、結局誰も守れねぇだろうが」

 

 沈黙。

 

 パトーシェがそこで静かに言った。

 

「貴様の顔は、自分を差し出せば済むと思い始めている顔だ」

 

 ベートが睨む。

 

「説教かよ」

 

「違う」

 

 パトーシェは一歩も引かない。

 

「同類を見ると腹が立つだけだ」

 

 その一言で、空気が少し止まった。

 

 ザイロが笑いそうになるのを噛み殺す。

 レックスは小さく息を吐いた。

 

 今だ。

 

「勧誘だ」

 

 ベートが顔を上げる。

 目が細くなる。

 

「は?」

 

「うちに来い」

 

「ふざけんな」

 

 即答だった。

 当然だ。

 

「今すぐ気持ちよく頷くとは思ってない」

 

 レックスは続けた。

 

「でも聞け。お前は今日、三人がかりとはいえ負けた」

 

「……」

 

「しかも、今の俺たちは完成形じゃない」

 

 ベートの喉がわずかに動く。

 否定できない顔だった。

 

「お前は強い」

 

 レックスは正面から言う。

 

「速いし、鼻も利くし、蹴りも重い。今のままでも十分強い」

 

 ベートは黙っている。

 

「でも、今のまま一人で噛み続けたら、その前にどこかで折れる」

 

「折れたら何だ」

 

「その先で、もう一度守れなかった時に、お前は今度こそ戻れなくなる」

 

 夜気が少しだけ重くなる。

 

 ベートは地面を見たまま、低く吐き出す。

 

「……知るかよ」

 

「知ってる顔だ」

 

 ザイロが鼻を鳴らす。

 

「面倒臭ぇけどな」

 

 レックスはもう一度言った。

 

「うちに来い。誰もお前を綺麗に救わない。慰めもしない。だが、少なくとも一人で壊れるよりはマシな道はある」

 

 ベートが乾いた笑いを漏らす。

 

「甘ぇな」

 

「知ってる」

 

「俺を拾ったところで、碌なことにならねぇぞ」

 

「それも知ってる」

 

「それでも言うのか」

 

「言う」

 

 即答だった。

 

 長い沈黙。

 

 やがてベートが低く吐く。

 

「……ヴィーザルは、もうない」

 

 レックスもザイロもパトーシェも、何も言わない。

 続ける気になったなら、遮るな。

 

「帰ってきたら、全部終わってた。守れなかった。結局、強ぇ奴がいなきゃ終わりだ。だったら、俺がもっと強くなるしかねぇ」

 

「そのために一人で壊れるのか」

 

 レックスが聞く。

 

「……」

 

「それで届くと思ってるなら、たぶん違う」

 

 ベートはようやくレックスを見た。

 今度はさっきより、少し静かに。

 

「てめぇ、年いくつだ」

 

「十五」

 

「……ガキじゃねぇか」

 

「お前も大して変わらないだろ」

 

「うるせぇ」

 

 その返しに、ようやく少しだけ生気が混じった。

 さっきまでの“全部どうでもいい”顔じゃない。

 

 レックスは逃がさずに言う。

 

「来い」

 

 もう一度、短く。

 

 ベートは地面を見た。

 手を握る。

 開く。

 その動きが妙に遅い。

 

「……入ったら、戻れねぇぞ」

 

「戻る気があるのか」

 

 その問いに、ベートは黙った。

 

 それで十分だった。

 

 ザイロが口元だけで笑う。

 

「観念しとけよ。てめぇみてぇな面倒臭ぇ狼一匹、今さら増えても誤差だ」

 

「言い方が最悪だな」

 

「褒めてる」

 

「褒めてねぇだろ」

 

 ベートが吐き捨てる。

 その声音に、ほんの少しだけ人の熱が戻る。

 

 パトーシェが真顔で言った。

 

「私はまだ貴様が気に食わん」

 

「こっちだってだ」

 

「だが、それと同じくらい放っておくのも気に食わん」

 

 ベートがわずかに目を見開く。

 

「……お前ら、ほんとに変な奴らだな」

 

「知ってる」

 

 レックスは答えた。

 

 再び沈黙。

 今度は長かった。

 

 やがてベートが吐き捨てるように言う。

 

「……一回だけだ」

 

 ザイロが吹きそうになる。

 

「その言い方で終わった奴見たことねぇな」

 

「うるせぇ!」

 

 怒鳴る声に、ようやくさっきまでとは違う熱があった。

 

 壊れた獣の咆哮じゃない。

 まだ人の声だった。

 

 

 星屑の庭へ戻った時には、夜もかなり更けていた。

 

 駐在所の泊まり番は、本当に叩き起こされた顔で外へ飛び出してきたが、四人の怪我を見るなり無言で水と布を持ってきた。

 深夜受付の住民職員が裏口の灯を増やす。

 非戦闘員の眷属が治療具を並べる。

 

 拠点が回っている。

 

 こういう時、その意味が沁みる。

 誰かが灯りを増やし、誰かが水を出し、誰かが布を取る。

 それだけで、帰還は少しだけ形になる。

 

 アストレアは本館の前で待っていた。

 

 レックスの頬の裂傷と腹の打撃。

 ザイロの肩口と脇腹。

 パトーシェの肩口と脚。

 ベートの擦り切れた全身。

 

 一目見て、アストレアの目が細くなる。

 

「……ずいぶんと、全員揃ってろくでもない帰り方をしたのね」

 

「アストレア様、それは」

 

 レックスが言いかける。

 

「中」

 

 アストレアはやわらかく言った。

 

 やわらかいのに、逆らえない。

 全員が無言で従う。

 

 

 先に血を洗う。

 傷を見せる。

 住民職員と泊まり番を下げる。

 空気を静かにする。

 

 そのあと、食堂に四人が並べられた。

 

 レックス。

 ザイロ。

 パトーシェ。

 それから、半ば巻き添いみたいな顔で座らされたベート。

 

 アストレアはその正面に座り、しばらく何も言わなかった。

 

 その沈黙が、妙にきつい。

 

 最初に口を開いたのは、アストレアだった。

 

「順番に聞くわ」

 

 嫌な予感しかしない。

 

「まず、どうしてこうなったの?」

 

 レックスが口を開く。

 

「住民通報で現場へ向かい、狼人の暴走を確認し、止めに入りました」

 

「それは聞いているわ」

 

 アストレアは穏やかに言う。

 

「どうして、四人ともこんな怪我をして帰ってきたの?」

 

 その問いが、綺麗に胸へ刺さる。

 

「……相手が強かったからです」

 

 レックスが答える。

 

「知ってるわ」

 

 即答だった。

 

「強い相手と戦って怪我をするのは当然よ。でも、当然だから放っていい話ではないでしょう?」

 

 言い返せない。

 

 アストレアの視線がザイロへ向く。

 

「ザイロ。あなた、肩をやられているのに無理に踏み込み直したわね」

 

「……まあな」

 

「まあな、ではありません」

 

 やわらかい。

 だが完全に説教だ。

 

「あなたは、自分がまだ動けるかどうかを“気合い”で判断しすぎるところがあるわ」

 

 ザイロが露骨に顔をしかめる。

 

「動けたんだからいいだろ」

 

「良くないわ。動けることと、次にちゃんと残せることは違うもの」

 

 ザイロは口を開きかけて、閉じた。

 図星だ。

 

 次にパトーシェへ視線が移る。

 

「パトーシェ。あなたは戻れと言われて、ちゃんと戻った」

 

「はい」

 

「でも、そのあと無理に受け直したでしょう。レックスへ入るはずだった一撃を、あなたが槍で殺した」

 

 パトーシェが一瞬だけ黙る。

 

「……はい」

 

「判断そのものは間違っていないわ。あのまま通れば、レックスの怪我はもっと深かった」

 

 その言葉に、レックスの胸が少しだけ重くなる。

 

「でも、あなたはいつも“必要なら自分を差し込む”を選びすぎる。あなたが止めるべきなのは流れであって、自分の体を壊すことではないわ」

 

 パトーシェが歯を食いしばる。

 言い返せない時の顔だった。

 

「……はい」

 

 小さく答える。

 珍しく、本当にしょんぼりしていた。

 

 次にレックス。

 

「レックス」

 

「はい」

 

「あなたは一番分かっているでしょう?」

 

 レックスはそこで少しだけ目を伏せた。

 

「……何をです」

 

「自分が“見えているから入る”癖を持っていることを」

 

 図星だった。

 

「あなたは、危ない盤面ほど解が見える。だから、自分の体が追いつくかどうかを後回しにして入ってしまう」

 

 静かな声だった。

 でも、ひどく重い。

 

「今日もそうだったでしょう」

 

 レックスは否定できなかった。

 

「……はい」

 

「分かっているなら、次は少しでいいから躊躇いなさい」

 

 その言い方が、妙にアストレアらしかった。

 

「突っ込まないで、ではないの。ほんの半歩、“自分が本当に入っていいか”を確かめなさい」

 

 それが今の自分に、一番足りないことだと分かる。

 だから苦い。

 

 そして最後に、アストレアの視線がベートへ向く。

 

 ベートは露骨に嫌そうな顔をした。

 

「……何だよ」

 

「あなたは巻き添いよね」

 

「は?」

 

「まだうちの眷属でもないのに、うちの説教に座らされているもの」

 

 ベートが完全に固まった。

 ザイロが吹き出しそうになる。

 

 やめろ。

 今笑うな。

 たぶん全員怒られる。

 

 アストレアは微笑んだまま続ける。

 

「でも、言うわ」

 

「いや、待て」

 

「待たない」

 

 やわらかい。

 でも一歩も引かない。

 

「あなたは、自分が壊れることに鈍すぎる」

 

 ベートの喉がわずかに動く。

 

「あなたは強いわ。でも、強いことを“壊れても前へ出る理由”にしてはいけない」

 

「……説教かよ」

 

「そうよ」

 

 あっさり認める。

 強い。

 

「今のあなたは、止まれないことを強さと取り違えている」

 

 ベートは何も言わない。

 いや、言えないのだろう。

 

「それでは、たぶんまた同じ傷を増やすだけよ」

 

 沈黙。

 

 アストレアはそこで少しだけ息を吐き、全員を見渡した。

 

「言っておくけれど、私は怪我をしたことそのものに怒っているわけじゃないの」

 

 その一言で、空気が少しだけ変わる。

 

「あなたたちが止めに行ったことは間違っていない。誰かが行かなければ、今夜はもっと悪かったかもしれない」

 

 それは、救いだった。

 

「でも」

 

 アストレアの声は変わらず静かだった。

 

「戻ってきた全員が予想外に怪我をしている。それは、“勝ったからよし”で終わらせてはいけない種類の結果よ」

 

 レックスは、小さく息を吐いた。

 

 その通りだった。

 

「次は、もう少し上手く勝ちなさい」

 

 その言い方に、ザイロが少しだけ笑った。

 

「無茶言うな」

 

「無茶ではないわ。期待よ」

 

 そう返されると、なんだか言い返しづらい。

 

 パトーシェは真顔のまま頷いた。

 

「……肝に銘じます」

 

「うん」

 

 アストレアはやわらかく笑う。

 

 ベートだけがまだ居心地悪そうだった。

 

「……何で俺まで怒られてんだよ」

 

 そのぼやきに、ザイロが吹き出す。

 

「巻き添いだろ」

 

「最悪だなお前ら」

 

「知ってる」

 

 レックスが返す。

 

 そのやり取りで、ようやく空気が少しだけ緩んだ。

 

 

 そのあとで、加入儀式は行われた。

 

 先に傷の手当てをもう一度する。

 食堂の机を片付ける。

 静かな一室を整える。

 

 ベートは上着を脱いだ。

 

 古傷が多い。

 新しい傷も多い。

 

 こいつが一人でどれだけ無茶をしてきたか、背中だけで分かる。

 

 アストレアが静かに問う。

 

「本当にいいのね」

 

 ベートはしばらく黙り、吐き捨てるように言った。

 

「……今のままよりは、まだマシだ」

 

 それで十分だった。

 

 神の針が落ちる。

 血が走る。

 ヴィーザルの恩恵が切れ、アストレアの恩恵が背へ移る。

 

 ベートは一瞬だけ歯を食いしばった。

 だが、声は上げない。

 

 そういう強がり方をする。

 

 儀式が終わる。

 

 新しい紙が、アストレアの手元へ浮かぶ。

 

【ベート・ローガ】

【Lv.3】

 

【力】D

【耐久】E

【器用】D

【敏捷】B

【魔力】I

 

【スキル】

『月下咆哮(ウールヴヘジン)』

『孤狼疾駆(フェンリスヴォルフ)』

『双狼追駆(ソルマーニ)』

 

【発展アビリティ】

『狩人』

『耐異常』

『拳打』

『魔防』

 

【魔法】

『ハティ』

 

 アストレアが静かに息を吐く。

 

「……速さにかなり寄っているわね。力も高い。でも、耐久と器用はまだ荒い」

 

 ザイロが肩を押さえながら笑う。

 

「そりゃ手こずるわけだ。怪我しててこの速さかよ」

 

 パトーシェも真顔で頷いた。

 

「敏捷が突出している。脚を止める判断は正しかったな」

 

 レックスは紙の下段へ目を落とした。

 

「魔法もあるのか」

 

 その一言で、ベートの空気がわずかに変わった。

 

「……見るな」

 

「同じ庭に入った。把握は必要だ」

 

「気色悪ぃな」

 

「慣れろ」

 

 ベートは舌打ちした。

 だが、もう立ち去らない。

 

 アストレアは紙へ視線を落としたまま、少しだけ声を柔らかくする。

 

「ただ、これは強いだけのステイタスじゃないわ。ずっと走り続けて、止まれなかった子の形にも見える」

 

 ベートの目がわずかに細くなる。

 

「……何だよ、それ」

 

「あなたは速い。でも、速いからこそ誰より先に傷つく場所へ行ってしまう。そこは、これから覚えていきましょう」

 

「説教の続きかよ」

 

「ええ」

 

 あっさり返され、ベートは黙った。

 

 続けて、レックス、ザイロ、パトーシェも恩恵を更新する。

 

【レックス】

【Lv.1】

【力】G

【耐久】H

【器用】F

【敏捷】F

【魔力】I

【スキル】

『一厘直観』

 

「器用と敏捷がまた少し伸びているわ」

 

 アストレアが言う。

 

「でも今日は、それ以上に無茶の代償が大きい」

 

「知ってます」

 

 レックスは苦く笑った。

 

 勝った。

 でも余裕はなかった。

 見えたから入った。

 入ったから崩せた。

 けれど、入ったから蹴られた。

 

 全部、同じ線の上にある。

 

【ザイロ】

【Lv.1】

【力】G

【耐久】G

【器用】G

【敏捷】H

【魔力】I

【スキル】

『冷静算定』

 

「器用が上がってるな」

 

 ザイロが鼻を鳴らす。

 

「面白くねぇ」

 

「良いことよ」

 

 アストレアが静かに返す。

 

「雑に壊すだけではなく、ちゃんと止める動きになってきてる」

 

「……褒められると気持ち悪ぃな」

 

 それでも否定はしなかった。

 

【パトーシェ】

【Lv.1】

【力】H

【耐久】G

【器用】G

【敏捷】H

【魔力】I

【スキル】

『正断強化』

 

「耐久と器用が少し伸びているわ」

 

 アストレアが言う。

 

「前より“通す前に止める”動きが身体に入ってきたのね」

 

 パトーシェは肩口の傷を押さえながら、少しだけ目を伏せた。

 

「……あまり嬉しい伸び方ではないな」

 

「でも必要な伸びよ」

 

「分かっている」

 

 ベートはそのやり取りを横で聞きながら、ひどく居心地悪そうな顔をしていた。

 

 当然だ。

 

 今夜はただ、血まみれのまま線が繋がっただけなのだから。

 

 それでも、もう外の狼ではない。

 

 星屑の庭の中へ、足だけは踏み入れた。

 

 

 皆が引いたあと、本館四階の窓辺にはレックスとアストレアだけが残った。

 

 アストレア・フィットネスの灯が、静かに揺れている。

 その横にはガネーシャ・ファミリアの駐在所。

 

 小さいが、ちゃんと街へ噛んでいる灯だ。

 

 今夜、その灯の意味をまた一つ使った。

 

「どう?」

 

 アストレアが聞く。

 

「何がです」

 

「拾った感想」

 

 レックスは少しだけ考えた。

 

「……重いです」

 

「そうね」

 

「でも、悪くない」

 

 アストレアが小さく笑う。

 

「あなた、そういう時だけ少し楽しそうになるわね」

 

「気のせいです」

 

「そうかしら」

 

 否定しながらも、たぶん少しはそうなのだろうと自分でも思う。

 

 ベート・ローガ。

 

 壊れかけの好漢児。

 強さに噛まれたまま、それでもまだ折れていない狼。

 

 そして、おそらく今夜、何かの線を追っていた。

 

 水路橋。

 油。

 湿った石の臭い。

 黒い布袋。

 逃げた者。

 

 今はまだ、点でしかない。

 けれど、点は捨ててはいけない。

 

 レックスはその全てを、頭の奥へ置いた。

 

 今夜の加入で全部が良くなるわけじゃない。

 むしろ厄介事は増える。

 空気も荒れる。

 組織もまだ揃わない。

 

 それでいい。

 

 綺麗に整う前に拾うから、意味がある。

 

 静かな夜は、もう終わった。

 嵐そのものではない。

 だが、風向きは確かに変わった。

 

 頬の傷を指先で押さえながら、レックスは窓の外を見た。

 

 血の味はまだ口の中に残っている。

 だが、その鉄臭さごと飲み込んで先へ行くしかない。

 

 悔いが残らない方を選ぶんじゃない。

 

 悔いごと背負って、それでも進む方を選ぶ。

 

 今夜の選択は、たぶんそういう類のものだった。

 

 第16話 凶狼、血の中で星屑を踏む 了




ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

今回は、ベート・ローガ加入回として再構成しました。

大きく意識したのは、ベートが「理由なく街で暴れていた危険人物」に見えすぎないようにすることです。
彼は荒っぽく、口も悪く、説明も足りません。けれど、理由もなく住民や冒険者へ暴力を振るう人物ではないため、今回の騒動の裏に「血と油と湿った石の臭いをまとった不審者を追っていた」という線を入れました。

この時点では、レックスたちもその意味を完全には理解していません。
ただ、水路橋、黒い布袋、油の臭い、逃げた者という点が残ります。
この点が、今後の地下補給線やダイダロス・オーブ方面へ繋がっていく形になります。

また、本作ではベートのヴィーザル・ファミリア崩壊時期を、原作よりも約1年前倒しにしています。
原作では本編開始の約6年前に起きる出来事ですが、本作は暗黒期のアストレア・レコード期を舞台にしているため、ベートをこの時点で物語へ合流させる都合上、IFとして時系列を調整しています。
そのため、ベートはすでにヴィーザル・ファミリアを失い、壊れかけた状態でオラリオに残っている設定です。

また、アストレア・フィットネスの深夜受付、夜間管理職員、ガネーシャ・ファミリアの駐在所、非戦闘員の留守番など、これまで整えてきた仕組みも、帰還時にきちんと意味を持つようにしました。
誰かが水を出し、誰かが灯りを増やし、誰かが治療具を並べる。
そういう地味な土台があるから、血まみれで帰ってきても「帰還」になる、という回でもあります。

ベートはここで完全に救われたわけではありません。
ただ、星屑の庭に足を踏み入れた。
その一歩を書きたかった回です。
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