深夜受付には住民から雇った夜間管理職員が入り、ガネーシャ・ファミリアの駐在所には泊まり勤務が置かれることになった。アストレア・ファミリアも治安維持任務に協力することで、施設周辺の安全を支える仕組みが少しずつ形になっていく。
一方で、レックス、ザイロ、パトーシェは鍛錬を重ねながらも、まだ未熟さを抱えていた。
ザイロとパトーシェは筋力と実戦感覚を伸ばし、レックスも基礎体力を鍛え始めていたが、実戦経験の差はまだ大きい。
そんな中、星屑の庭の外では、暗黒期のオラリオらしい不穏な気配が静かに濃くなっていた。
第16話 凶狼、血の中で星屑を踏む
夜のオラリオは、時々ひどく静かになる。
酒場の笑いが細り、鍛冶場の鉄音が遠のき、路地裏の怒鳴り声すら石壁の向こうへ沈んでいく。そういう夜は、大抵ろくでもない。
その夜も、そうだった。
星屑の庭の食堂では、遅い食事が終わったばかりだった。
アストレア・フィットネスの深夜受付には、住民から雇った夜間管理職員が入っている。
ガネーシャ・ファミリアの駐在所には泊まり勤務の男がひとり、露骨に眠そうな顔で槍を抱えていた。
本館側には、名も出さないまま置いている非戦闘員の眷属が、帳面と鍵の確認をしている。
ようやく、三人が同時に外へ出ても、拠点がすぐには止まらない形になってきた。
深夜受付。
夜間管理。
駐在所。
非戦闘員の留守番。
緊急時の水と布と灯りの位置。
地味で、面倒で、華がない。
けれど、そういうものがない場所は、いざという時に壊れる。
レックスはそのことを、帳面の数字よりも強く理解していた。
勝つための刃より、帰ってくるための灯り。
戦場で生きるためには、そういうものの方が先に必要になることがある。
その積み上げが、今夜は必要だった。
表門を叩いたのは、息を切らした住民だった。
「た、助けてくれ! 狼人が暴れてる!」
食堂の空気が、一瞬で変わる。
「場所は」
レックスが立ち上がる。
「西の外れだ! 壊れた水路橋の近く! 止めに入った冒険者もやられた。このままだとそのうち死人が出る!」
ザイロが椅子を鳴らして立ち上がった。
「面倒だな」
口ではそう言う。
だが、もう腰の短剣を確かめている。
パトーシェも槍袋へ手をかけた。
表情は硬い。
しかし、その硬さは迷いではない。動く前の、軍人の顔だった。
アストレアが短く三人を見る。
「私も行く」
「駄目です」
レックスが即答した。
「アストレア様は留守番してください」
アストレアの眉がわずかに動く。
パトーシェも頷いた。
「今は本館側に責任者が必要です。深夜受付も、住民スタッフも、駐在所も、まだ回り始めたばかりです。全員が現場へ出る方が危険です」
「でも」
「アストレア様」
レックスは、言葉を切る。
「今夜、ここを空にする方が怖いです」
アストレアは何か言い返しかけて、やめた。
数秒だけ三人を見る。
その目には、心配があった。
不安もあった。
それでも、信じるしかないという痛みもあった。
「……戻ってきなさい」
「はい」
レックスが短く答える。
ザイロは鼻を鳴らし、パトーシェは真顔で頷いた。
三人は夜の街へ飛び出した。
*
西の水路橋へ近づくほど、空気が悪くなった。
夜気に混ざる鉄臭さ。
割れた酒瓶の匂い。
焦げた油のような臭い。
それから、湿った石の底から這い上がってくるような、重い臭い。
レックスは走りながら、眉を寄せる。
「油の臭いがする」
「屋台が壊れたんだろ」
ザイロが答える。
「違う。もっと古い。地下から来るような臭いだ」
言ってから、レックスは自分で違和感を覚えた。
地下。
なぜそう思ったのか分からない。
だが、喉の奥にひっかかるものがあった。
パトーシェが槍袋を握り直す。
「現場で確認する」
その判断は正しかった。
現場は、思った以上にひどかった。
壊れた屋台。
蹴り割られた樽。
石壁へ叩きつけられた跡。
割れた石畳。
地面には血。
だが、死体の血ではない。
そこだけが救いだった。
中心にいたのは、一人の狼人だった。
灰金色の毛。
鋭すぎる目。
全身に新しい傷。
それでもまだ、壊れたまま立っている。
周囲には距離を取った住民と、折られた冒険者崩れが二人。
さらに少し離れた場所に、黒い布袋が一つ転がっていた。
布袋から、油の臭いがする。
その横で、倒れた冒険者崩れの片方が呻いた。
「ち、違う……俺たちは……」
言葉はそこで途切れる。
何かを言おうとしている。
けれど、恐怖と痛みで続かない。
住民たちは、中心に立つ狼人だけを見ていた。
壊れた屋台も、倒れた男たちも、血も、全部その狼人が撒き散らしたものに見えている。
けれど、レックスは一瞬だけ違和感を覚えた。
倒れた男たちの傷は、住民を襲った者の傷ではない。
何かを抱えて逃げようとした者を、横から叩き潰したような傷だった。
それを考える前に、狼人の低い声が落ちる。
「……近づくな」
威嚇。
拒絶。
それから、ほとんど悲鳴に近い何か。
レックスは一歩だけ前へ出る。
「止めに来た」
「知るかよ」
「このままだと、誰か死ぬ」
「だったら死ねばいい」
吐き捨てる声に、ザイロが露骨に顔をしかめた。
「気に入らねぇな」
狼人の目がザイロへ向く。
次の瞬間、地面を蹴った。
速い。
ただ速いんじゃない。
擦り切れているのに、なお前へ出る速さだった。
「右!」
レックスが叫ぶ。
ザイロが横へ流れる。
パトーシェは正面を取らず、半歩だけ引いて槍を構える。
受けるな。
止めろ。
通すな。
今の三人の共通認識はそこだった。
狼人の蹴りが石壁を割る。
ザイロはぎりぎりでかわしたが、余波だけで頬が裂けた。
「っ、ふざけんな……!」
吐きながら短剣を滑らせる。
だが、届く前に狼人はもう次の一歩へ入っていた。
速い。
レックスは見て、即座に理解する。
正面からじゃ止められない。
足を止めるしかない。
「パトーシェ、脚!」
「分かっている!」
槍が走る。
喉でも胴でもない。
膝裏。
通すためじゃない。
止めるための刺突だ。
狼人はそれをぎりぎりで跳ねた。
だが跳ねた先へ、もうザイロが噛んでいる。
「一人で暴れんな、このクソ狼!」
「うるせぇ!」
短剣が腕を浅く裂く。
狼人は痛みを無視して、ザイロの肩口へ蹴りを叩き込んだ。
鈍い音。
ザイロが吹き飛ぶ。
「ザイロ!」
「まだだ!」
転がりながらも立つ。
息は荒い。肩は落ちている。
それでも、潰れ切っていない。
こいつも最近、重さを受けて潰れ切らなくなっていた。
レックスはそこへ入った。
まだ経験は浅い。
体格でも出力でも負けている。
だから力で押さえない。
角度で噛む。
半歩外し、軸足へ体重を乗せる。
重い。
想像以上に重い。
だが、ほんの少しだけブレた。
「今だ!」
パトーシェが槍の柄で膝を払う。
ザイロが横から肩を押す。
三方向。
ようやく、狼人の体が傾く。
だが、それで終わらない。
倒れながらも肘が飛ぶ。
レックスの頬が裂ける。
次の蹴りが腹へ入る。
「がっ……!」
呼吸が抜ける。
石畳へ背が打ちつけられる。
肺が止まる。
痛い。
世界が一瞬、白く欠ける。
でも、頭だけは妙に冴えていた。
こいつは強い。
けど、冷静じゃない。
理屈はまだ届かない。
勝たないと聞かない。
なら、やるしかない。
「ザイロ、右から噛め!」
「おう!」
「パトーシェ、前出るな、戻れ!」
「だが!」
「戻れ!」
怒鳴る。
パトーシェが一瞬だけ迷い、それでも戻る。
空いた正面へ、狼人は迷わず踏み込んだ。
そこが罠だ。
レックスは正面にいない。
半歩外だ。
脚へ入る。
力じゃなく、角度で崩す。
その一拍遅れで、戻っていたパトーシェの槍の柄が膝裏へ入る。
さらにザイロが脇から肘を叩き込む。
三度目で、ようやく狼人の膝が落ちた。
だが、まだ完全には止まっていなかった。
膝が落ちた状態から、上体だけで捻る。
無理な体勢。
普通なら力が乗らない。
だが、狼人の身体はそこで終わらなかった。
蹴りではなく、跳ねるような膝。
狙いはレックスの脇腹だった。
「レックス!」
パトーシェが反射で前に出た。
槍で真正面から受ければ、折れる。
そう判断したのは一瞬だった。
だから穂先ではなく、柄の根元を斜めに差し込み、蹴りの軌道を殺す。
鈍い音がした。
「っ……!」
衝撃が槍を伝って肩へ抜ける。
同時に、踏ん張った左脚が石畳を滑り、足首に嫌な捻れが走った。
それでもパトーシェは退かなかった。
蹴りの威力は死んだ。
レックスの脇腹を砕くはずだった一撃は、浅く空を切る。
「無茶すんな、騎士女!」
ザイロが叫ぶ。
「貴様に言われたくない!」
歯を食いしばって返しながら、パトーシェはそのまま槍の柄を押し込んだ。
膝裏へ、もう一度、線を置く。
ザイロが脇から肘を叩き込む。
レックスが半歩遅れて喉元へ刃を置く。
レックスの刃が喉元へ。
パトーシェの槍先が胸元へ。
ザイロの短剣が首筋へ。
止まる。
夜気の中で、四人ぶんの荒い呼吸だけが響いた。
狼人はしばらく無言で、やがて低く笑った。
「……三人がかりで、やっとかよ」
「勝ちは勝ちだ」
ザイロが吐き捨てる。
「気に食わねぇ勝ち方だ」
「知るか」
レックスは頬の血を拭いながら言った。
「話を聞け」
*
壊れた水路橋の下。
夜気と血の匂いの中で、狼人は石段へ腰を落とした。
まだ完全には落ち着いていない。
だが、さっきまでの殺気は少し薄い。
ザイロは倒れていた男たちと黒い布袋を見て、眉を寄せた。
「こいつら、何だ」
「知らねぇ」
狼人が吐き捨てる。
「知らねぇけど、臭かった」
「臭かった?」
パトーシェが目を細める。
狼人は不機嫌そうに、顎で水路橋の奥を示した。
「血と油と、湿った石の臭いだ。そいつら、荷物持って路地で誰か刺して逃げてた。追ったら、ここまで来た」
レックスの目が細くなる。
「誰かを刺した?」
「顔は見てねぇ。助かったかも知らねぇ」
「なぜ説明しなかった」
パトーシェの声が硬くなる。
狼人が睨む。
「聞く前にてめぇらが斬りかかってきただろうが」
「貴様が殺気を撒き散らしていたからだ」
「逃げた奴がまだいたんだよ」
空気が止まる。
レックスは水路橋の奥を見る。
逃げた奴。
血と油。
湿った石の臭い。
黒い布袋。
倒れた男たち。
ただの暴走ではない。
この狼人は、何かを追っていた。
だが、それを説明するには、あまりにも態度が悪く、あまりにも壊れていた。
住民から見れば「狼人が暴れている」にしか見えない。
実際、放っておけば誰かを巻き込んだ可能性も高い。
それでも、意味のない暴力ではなかった。
レックスは静かに聞く。
「名前は」
狼人はしばらく黙り、吐き捨てるように答えた。
「……ベート」
やはり、という感覚が腹に落ちる。
「ベート・ローガ」
「知ってんのかよ」
「噂くらいはな」
ベートは舌打ちした。
「だったら放っとけ」
「無理だ」
即答だった。
「理由があったとしても、今のままだとそのうち本当に誰か殺す」
「だったら俺ごと殺せばいい」
その声は怒鳴りじゃない。
半分は悲鳴だった。
ザイロが露骨に顔をしかめる。
「そういう壊れ方が一番嫌いなんだよ」
「うるせぇ」
「うるせぇで済むか。てめぇ、強ぇ奴がいなきゃ弱ぇ奴が死ぬって顔してやがる」
ベートの肩がぴくりと動く。
「何が悪い」
「その先で一人で壊れてりゃ、結局誰も守れねぇだろうが」
沈黙。
パトーシェがそこで静かに言った。
「貴様の顔は、自分を差し出せば済むと思い始めている顔だ」
ベートが睨む。
「説教かよ」
「違う」
パトーシェは一歩も引かない。
「同類を見ると腹が立つだけだ」
その一言で、空気が少し止まった。
ザイロが笑いそうになるのを噛み殺す。
レックスは小さく息を吐いた。
今だ。
「勧誘だ」
ベートが顔を上げる。
目が細くなる。
「は?」
「うちに来い」
「ふざけんな」
即答だった。
当然だ。
「今すぐ気持ちよく頷くとは思ってない」
レックスは続けた。
「でも聞け。お前は今日、三人がかりとはいえ負けた」
「……」
「しかも、今の俺たちは完成形じゃない」
ベートの喉がわずかに動く。
否定できない顔だった。
「お前は強い」
レックスは正面から言う。
「速いし、鼻も利くし、蹴りも重い。今のままでも十分強い」
ベートは黙っている。
「でも、今のまま一人で噛み続けたら、その前にどこかで折れる」
「折れたら何だ」
「その先で、もう一度守れなかった時に、お前は今度こそ戻れなくなる」
夜気が少しだけ重くなる。
ベートは地面を見たまま、低く吐き出す。
「……知るかよ」
「知ってる顔だ」
ザイロが鼻を鳴らす。
「面倒臭ぇけどな」
レックスはもう一度言った。
「うちに来い。誰もお前を綺麗に救わない。慰めもしない。だが、少なくとも一人で壊れるよりはマシな道はある」
ベートが乾いた笑いを漏らす。
「甘ぇな」
「知ってる」
「俺を拾ったところで、碌なことにならねぇぞ」
「それも知ってる」
「それでも言うのか」
「言う」
即答だった。
長い沈黙。
やがてベートが低く吐く。
「……ヴィーザルは、もうない」
レックスもザイロもパトーシェも、何も言わない。
続ける気になったなら、遮るな。
「帰ってきたら、全部終わってた。守れなかった。結局、強ぇ奴がいなきゃ終わりだ。だったら、俺がもっと強くなるしかねぇ」
「そのために一人で壊れるのか」
レックスが聞く。
「……」
「それで届くと思ってるなら、たぶん違う」
ベートはようやくレックスを見た。
今度はさっきより、少し静かに。
「てめぇ、年いくつだ」
「十五」
「……ガキじゃねぇか」
「お前も大して変わらないだろ」
「うるせぇ」
その返しに、ようやく少しだけ生気が混じった。
さっきまでの“全部どうでもいい”顔じゃない。
レックスは逃がさずに言う。
「来い」
もう一度、短く。
ベートは地面を見た。
手を握る。
開く。
その動きが妙に遅い。
「……入ったら、戻れねぇぞ」
「戻る気があるのか」
その問いに、ベートは黙った。
それで十分だった。
ザイロが口元だけで笑う。
「観念しとけよ。てめぇみてぇな面倒臭ぇ狼一匹、今さら増えても誤差だ」
「言い方が最悪だな」
「褒めてる」
「褒めてねぇだろ」
ベートが吐き捨てる。
その声音に、ほんの少しだけ人の熱が戻る。
パトーシェが真顔で言った。
「私はまだ貴様が気に食わん」
「こっちだってだ」
「だが、それと同じくらい放っておくのも気に食わん」
ベートがわずかに目を見開く。
「……お前ら、ほんとに変な奴らだな」
「知ってる」
レックスは答えた。
再び沈黙。
今度は長かった。
やがてベートが吐き捨てるように言う。
「……一回だけだ」
ザイロが吹きそうになる。
「その言い方で終わった奴見たことねぇな」
「うるせぇ!」
怒鳴る声に、ようやくさっきまでとは違う熱があった。
壊れた獣の咆哮じゃない。
まだ人の声だった。
*
星屑の庭へ戻った時には、夜もかなり更けていた。
駐在所の泊まり番は、本当に叩き起こされた顔で外へ飛び出してきたが、四人の怪我を見るなり無言で水と布を持ってきた。
深夜受付の住民職員が裏口の灯を増やす。
非戦闘員の眷属が治療具を並べる。
拠点が回っている。
こういう時、その意味が沁みる。
誰かが灯りを増やし、誰かが水を出し、誰かが布を取る。
それだけで、帰還は少しだけ形になる。
アストレアは本館の前で待っていた。
レックスの頬の裂傷と腹の打撃。
ザイロの肩口と脇腹。
パトーシェの肩口と脚。
ベートの擦り切れた全身。
一目見て、アストレアの目が細くなる。
「……ずいぶんと、全員揃ってろくでもない帰り方をしたのね」
「アストレア様、それは」
レックスが言いかける。
「中」
アストレアはやわらかく言った。
やわらかいのに、逆らえない。
全員が無言で従う。
*
先に血を洗う。
傷を見せる。
住民職員と泊まり番を下げる。
空気を静かにする。
そのあと、食堂に四人が並べられた。
レックス。
ザイロ。
パトーシェ。
それから、半ば巻き添いみたいな顔で座らされたベート。
アストレアはその正面に座り、しばらく何も言わなかった。
その沈黙が、妙にきつい。
最初に口を開いたのは、アストレアだった。
「順番に聞くわ」
嫌な予感しかしない。
「まず、どうしてこうなったの?」
レックスが口を開く。
「住民通報で現場へ向かい、狼人の暴走を確認し、止めに入りました」
「それは聞いているわ」
アストレアは穏やかに言う。
「どうして、四人ともこんな怪我をして帰ってきたの?」
その問いが、綺麗に胸へ刺さる。
「……相手が強かったからです」
レックスが答える。
「知ってるわ」
即答だった。
「強い相手と戦って怪我をするのは当然よ。でも、当然だから放っていい話ではないでしょう?」
言い返せない。
アストレアの視線がザイロへ向く。
「ザイロ。あなた、肩をやられているのに無理に踏み込み直したわね」
「……まあな」
「まあな、ではありません」
やわらかい。
だが完全に説教だ。
「あなたは、自分がまだ動けるかどうかを“気合い”で判断しすぎるところがあるわ」
ザイロが露骨に顔をしかめる。
「動けたんだからいいだろ」
「良くないわ。動けることと、次にちゃんと残せることは違うもの」
ザイロは口を開きかけて、閉じた。
図星だ。
次にパトーシェへ視線が移る。
「パトーシェ。あなたは戻れと言われて、ちゃんと戻った」
「はい」
「でも、そのあと無理に受け直したでしょう。レックスへ入るはずだった一撃を、あなたが槍で殺した」
パトーシェが一瞬だけ黙る。
「……はい」
「判断そのものは間違っていないわ。あのまま通れば、レックスの怪我はもっと深かった」
その言葉に、レックスの胸が少しだけ重くなる。
「でも、あなたはいつも“必要なら自分を差し込む”を選びすぎる。あなたが止めるべきなのは流れであって、自分の体を壊すことではないわ」
パトーシェが歯を食いしばる。
言い返せない時の顔だった。
「……はい」
小さく答える。
珍しく、本当にしょんぼりしていた。
次にレックス。
「レックス」
「はい」
「あなたは一番分かっているでしょう?」
レックスはそこで少しだけ目を伏せた。
「……何をです」
「自分が“見えているから入る”癖を持っていることを」
図星だった。
「あなたは、危ない盤面ほど解が見える。だから、自分の体が追いつくかどうかを後回しにして入ってしまう」
静かな声だった。
でも、ひどく重い。
「今日もそうだったでしょう」
レックスは否定できなかった。
「……はい」
「分かっているなら、次は少しでいいから躊躇いなさい」
その言い方が、妙にアストレアらしかった。
「突っ込まないで、ではないの。ほんの半歩、“自分が本当に入っていいか”を確かめなさい」
それが今の自分に、一番足りないことだと分かる。
だから苦い。
そして最後に、アストレアの視線がベートへ向く。
ベートは露骨に嫌そうな顔をした。
「……何だよ」
「あなたは巻き添いよね」
「は?」
「まだうちの眷属でもないのに、うちの説教に座らされているもの」
ベートが完全に固まった。
ザイロが吹き出しそうになる。
やめろ。
今笑うな。
たぶん全員怒られる。
アストレアは微笑んだまま続ける。
「でも、言うわ」
「いや、待て」
「待たない」
やわらかい。
でも一歩も引かない。
「あなたは、自分が壊れることに鈍すぎる」
ベートの喉がわずかに動く。
「あなたは強いわ。でも、強いことを“壊れても前へ出る理由”にしてはいけない」
「……説教かよ」
「そうよ」
あっさり認める。
強い。
「今のあなたは、止まれないことを強さと取り違えている」
ベートは何も言わない。
いや、言えないのだろう。
「それでは、たぶんまた同じ傷を増やすだけよ」
沈黙。
アストレアはそこで少しだけ息を吐き、全員を見渡した。
「言っておくけれど、私は怪我をしたことそのものに怒っているわけじゃないの」
その一言で、空気が少しだけ変わる。
「あなたたちが止めに行ったことは間違っていない。誰かが行かなければ、今夜はもっと悪かったかもしれない」
それは、救いだった。
「でも」
アストレアの声は変わらず静かだった。
「戻ってきた全員が予想外に怪我をしている。それは、“勝ったからよし”で終わらせてはいけない種類の結果よ」
レックスは、小さく息を吐いた。
その通りだった。
「次は、もう少し上手く勝ちなさい」
その言い方に、ザイロが少しだけ笑った。
「無茶言うな」
「無茶ではないわ。期待よ」
そう返されると、なんだか言い返しづらい。
パトーシェは真顔のまま頷いた。
「……肝に銘じます」
「うん」
アストレアはやわらかく笑う。
ベートだけがまだ居心地悪そうだった。
「……何で俺まで怒られてんだよ」
そのぼやきに、ザイロが吹き出す。
「巻き添いだろ」
「最悪だなお前ら」
「知ってる」
レックスが返す。
そのやり取りで、ようやく空気が少しだけ緩んだ。
*
そのあとで、加入儀式は行われた。
先に傷の手当てをもう一度する。
食堂の机を片付ける。
静かな一室を整える。
ベートは上着を脱いだ。
古傷が多い。
新しい傷も多い。
こいつが一人でどれだけ無茶をしてきたか、背中だけで分かる。
アストレアが静かに問う。
「本当にいいのね」
ベートはしばらく黙り、吐き捨てるように言った。
「……今のままよりは、まだマシだ」
それで十分だった。
神の針が落ちる。
血が走る。
ヴィーザルの恩恵が切れ、アストレアの恩恵が背へ移る。
ベートは一瞬だけ歯を食いしばった。
だが、声は上げない。
そういう強がり方をする。
儀式が終わる。
新しい紙が、アストレアの手元へ浮かぶ。
【ベート・ローガ】
【Lv.3】
【力】D
【耐久】E
【器用】D
【敏捷】B
【魔力】I
【スキル】
『月下咆哮(ウールヴヘジン)』
『孤狼疾駆(フェンリスヴォルフ)』
『双狼追駆(ソルマーニ)』
【発展アビリティ】
『狩人』
『耐異常』
『拳打』
『魔防』
【魔法】
『ハティ』
アストレアが静かに息を吐く。
「……速さにかなり寄っているわね。力も高い。でも、耐久と器用はまだ荒い」
ザイロが肩を押さえながら笑う。
「そりゃ手こずるわけだ。怪我しててこの速さかよ」
パトーシェも真顔で頷いた。
「敏捷が突出している。脚を止める判断は正しかったな」
レックスは紙の下段へ目を落とした。
「魔法もあるのか」
その一言で、ベートの空気がわずかに変わった。
「……見るな」
「同じ庭に入った。把握は必要だ」
「気色悪ぃな」
「慣れろ」
ベートは舌打ちした。
だが、もう立ち去らない。
アストレアは紙へ視線を落としたまま、少しだけ声を柔らかくする。
「ただ、これは強いだけのステイタスじゃないわ。ずっと走り続けて、止まれなかった子の形にも見える」
ベートの目がわずかに細くなる。
「……何だよ、それ」
「あなたは速い。でも、速いからこそ誰より先に傷つく場所へ行ってしまう。そこは、これから覚えていきましょう」
「説教の続きかよ」
「ええ」
あっさり返され、ベートは黙った。
続けて、レックス、ザイロ、パトーシェも恩恵を更新する。
【レックス】
【Lv.1】
【力】G
【耐久】H
【器用】F
【敏捷】F
【魔力】I
【スキル】
『一厘直観』
「器用と敏捷がまた少し伸びているわ」
アストレアが言う。
「でも今日は、それ以上に無茶の代償が大きい」
「知ってます」
レックスは苦く笑った。
勝った。
でも余裕はなかった。
見えたから入った。
入ったから崩せた。
けれど、入ったから蹴られた。
全部、同じ線の上にある。
【ザイロ】
【Lv.1】
【力】G
【耐久】G
【器用】G
【敏捷】H
【魔力】I
【スキル】
『冷静算定』
「器用が上がってるな」
ザイロが鼻を鳴らす。
「面白くねぇ」
「良いことよ」
アストレアが静かに返す。
「雑に壊すだけではなく、ちゃんと止める動きになってきてる」
「……褒められると気持ち悪ぃな」
それでも否定はしなかった。
【パトーシェ】
【Lv.1】
【力】H
【耐久】G
【器用】G
【敏捷】H
【魔力】I
【スキル】
『正断強化』
「耐久と器用が少し伸びているわ」
アストレアが言う。
「前より“通す前に止める”動きが身体に入ってきたのね」
パトーシェは肩口の傷を押さえながら、少しだけ目を伏せた。
「……あまり嬉しい伸び方ではないな」
「でも必要な伸びよ」
「分かっている」
ベートはそのやり取りを横で聞きながら、ひどく居心地悪そうな顔をしていた。
当然だ。
今夜はただ、血まみれのまま線が繋がっただけなのだから。
それでも、もう外の狼ではない。
星屑の庭の中へ、足だけは踏み入れた。
*
皆が引いたあと、本館四階の窓辺にはレックスとアストレアだけが残った。
アストレア・フィットネスの灯が、静かに揺れている。
その横にはガネーシャ・ファミリアの駐在所。
小さいが、ちゃんと街へ噛んでいる灯だ。
今夜、その灯の意味をまた一つ使った。
「どう?」
アストレアが聞く。
「何がです」
「拾った感想」
レックスは少しだけ考えた。
「……重いです」
「そうね」
「でも、悪くない」
アストレアが小さく笑う。
「あなた、そういう時だけ少し楽しそうになるわね」
「気のせいです」
「そうかしら」
否定しながらも、たぶん少しはそうなのだろうと自分でも思う。
ベート・ローガ。
壊れかけの好漢児。
強さに噛まれたまま、それでもまだ折れていない狼。
そして、おそらく今夜、何かの線を追っていた。
水路橋。
油。
湿った石の臭い。
黒い布袋。
逃げた者。
今はまだ、点でしかない。
けれど、点は捨ててはいけない。
レックスはその全てを、頭の奥へ置いた。
今夜の加入で全部が良くなるわけじゃない。
むしろ厄介事は増える。
空気も荒れる。
組織もまだ揃わない。
それでいい。
綺麗に整う前に拾うから、意味がある。
静かな夜は、もう終わった。
嵐そのものではない。
だが、風向きは確かに変わった。
頬の傷を指先で押さえながら、レックスは窓の外を見た。
血の味はまだ口の中に残っている。
だが、その鉄臭さごと飲み込んで先へ行くしかない。
悔いが残らない方を選ぶんじゃない。
悔いごと背負って、それでも進む方を選ぶ。
今夜の選択は、たぶんそういう類のものだった。
第16話 凶狼、血の中で星屑を踏む 了
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
今回は、ベート・ローガ加入回として再構成しました。
大きく意識したのは、ベートが「理由なく街で暴れていた危険人物」に見えすぎないようにすることです。
彼は荒っぽく、口も悪く、説明も足りません。けれど、理由もなく住民や冒険者へ暴力を振るう人物ではないため、今回の騒動の裏に「血と油と湿った石の臭いをまとった不審者を追っていた」という線を入れました。
この時点では、レックスたちもその意味を完全には理解していません。
ただ、水路橋、黒い布袋、油の臭い、逃げた者という点が残ります。
この点が、今後の地下補給線やダイダロス・オーブ方面へ繋がっていく形になります。
また、本作ではベートのヴィーザル・ファミリア崩壊時期を、原作よりも約1年前倒しにしています。
原作では本編開始の約6年前に起きる出来事ですが、本作は暗黒期のアストレア・レコード期を舞台にしているため、ベートをこの時点で物語へ合流させる都合上、IFとして時系列を調整しています。
そのため、ベートはすでにヴィーザル・ファミリアを失い、壊れかけた状態でオラリオに残っている設定です。
また、アストレア・フィットネスの深夜受付、夜間管理職員、ガネーシャ・ファミリアの駐在所、非戦闘員の留守番など、これまで整えてきた仕組みも、帰還時にきちんと意味を持つようにしました。
誰かが水を出し、誰かが灯りを増やし、誰かが治療具を並べる。
そういう地味な土台があるから、血まみれで帰ってきても「帰還」になる、という回でもあります。
ベートはここで完全に救われたわけではありません。
ただ、星屑の庭に足を踏み入れた。
その一歩を書きたかった回です。