悔いなき選択 ※休止   作:Jefflocka

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星屑の庭に、壊れかけた狼人ベート・ローガが加わった。

西の水路橋付近で暴れていると通報されたベートを、レックス、ザイロ、パトーシェの三人が止めに向かう。激しい戦闘の末、三人は全員傷を負いながらもベートを制圧し、勧誘に成功した。

しかし、ベートは理由なく暴れていたわけではなかった。
血と油、そして湿った石の臭いをまとった不審者を追っていたのだ。住民から見れば「狼人が暴れている」ようにしか見えなかったが、その裏には水路橋周辺を出入りする何者かの存在があった。

帰還後、全員が予想以上の怪我を負っていたことで、アストレアから静かに叱られる。
勝ったからよしではない。
強い相手と戦うこと、誰かを止めること、自分を壊さず戻ること。
その難しさを痛みとして知った夜だった。

新たに加わったベートは、まだファミリアに馴染んだとは言い難い。
それでも、星屑の庭は一匹の狼を迎え入れた。


第17話 街を歩く牙、灯を返す日

第17話 街を歩く牙、灯を返す日

 

 翌朝の星屑の庭は、いつもより静かだった。

 

 静かなのに、平穏ではない。

 

 食堂には、昨夜の血の匂いがまだ薄く残っている気がした。

 

 拭いた。

 洗った。

 換気もした。

 

 それでも、傷を負って帰ってきた者たちの沈黙までは、そう簡単に消えない。

 

 レックスの頬には布が貼られていた。腹には鈍い痛みが残っている。深く息を吸うと、内側から蹴り返されるような感覚があった。

 

 ザイロは椅子に浅く腰掛け、肩を回そうとして途中で顔をしかめた。

 

「痛ぇ」

 

「当然だろう」

 

 パトーシェが冷たく言う。

 

 そう言う本人も、肩と足首に包帯を巻いている。昨夜、レックスへ入るはずだった一撃を、槍の柄で殺した代償だ。

 

 そして、その騒動の中心だった狼人は、食堂の隅で不機嫌そうに座っていた。

 

 ベート・ローガ。

 

 血の中で星屑の庭へ足を踏み入れた、新しい眷属。

 

 だが、新しい仲間というには、まだ棘が多すぎる。

 

 ベートは出された朝食を睨むように見て、ぼそりと言った。

 

「……朝からうるせぇな」

 

 パトーシェの眉が即座に動く。

 

「ここは貴様の巣ではない。アストレア様の庭だ。最低限の礼儀を守れ」

 

「神サマの庭ねぇ」

 

 ベートが鼻を鳴らす。

 

「気持ち悪ぃ」

 

 空気が、一瞬で尖った。

 

 ザイロが面白そうに笑う。

 

「やめとけ、駄犬。キヴィアは朝から正論で殴るぞ」

 

 パトーシェの視線がザイロへ飛ぶ。

 

「ザイロ。今、私を姓で呼んだな」

 

「距離を置きたい時には便利だろ」

 

「貴様は本当に、便利という言葉を悪用する」

 

「お前が許可したんだろ。任務上の利便性を考えて、パトーシェと呼ぶことを許す、だったか?」

 

「その言い方をするな」

 

 ベートが顔をしかめた。

 

「朝から何の話してんだよ」

 

「名前の話だ」

 

 ザイロが答える。

 

「くだらねぇ」

 

「くだらなくねぇぞ。呼び方ってのは距離の取り方だ。なあ、パトーシェ」

 

「都合の良い時だけ名前で呼ぶな」

 

「便利だからな」

 

 ベートが低く唸る。

 

「誰が犬だ」

 

「狼人だろ」

 

「殺すぞ」

 

「食堂で殺すぞは禁止だ」

 

 レックスが低く言う。

 

 ベートが睨む。

 

「何だ、その規則」

 

「今決めた」

 

「勝手に決めんな」

 

 パトーシェが真顔で頷いた。

 

「いや、良い規則だ。採用する」

 

「てめぇら全員面倒くせぇ」

 

 ベートが吐き捨てる。

 

 そのやり取りを、アストレアは静かに見ていた。

 

 怒っている顔ではない。

 けれど、昨夜の説教を忘れた顔でもない。

 

「今日は、強い訓練は禁止ね」

 

 その一言で、全員が黙った。

 

 ザイロが嫌そうに眉を上げる。

 

「何も言ってねぇだろ」

 

「言う前に分かるわ」

 

「怖ぇな」

 

 パトーシェは姿勢を正した。

 

「申し訳ありません、アストレア様。昨夜の件は」

 

「謝罪はもう聞いたわ」

 

 アストレアはやわらかく言った。

 

「今日は、傷を増やす日ではなく、傷を増やさない戦い方を覚える日よ」

 

 レックスは少しだけ目を伏せた。

 

 痛みが残っている。

 

 だが、ただ休むだけでは足りない。

 

 失敗は、痛みが残っているうちに見直すべきだった。

 痛みが消えた後では、人は都合よく忘れる。

 

「なら、街へ出ます」

 

 レックスが言った。

 

「ガネーシャ・ファミリアとの巡回協力があります。加えて、アストレア・フィットネスに関わっている各ファミリアへ現況報告と支払いを回したい」

 

 ベートが眉を寄せる。

 

「支払い?」

 

「ああ」

 

 レックスは短く答えた。

 

「施設は勝手に建って、勝手に回っているわけじゃない。ゴブニュには建設費。ヘファイストスには器具製作費と保守費。ディアンケヒトには緊急搬送契約と定期講習費。ヘルメスには神の鏡と導線確認の報酬」

 

「……多すぎんだろ」

 

「だから帳面がいる」

 

 ザイロが肩を押さえながら笑った。

 

「朝から帳面の化け物だな」

 

「帳面を馬鹿にするな。帳面が狂うと、次に頼む時に信用が死ぬ」

 

 パトーシェが頷く。

 

「それは正しい。借りを曖昧にする組織に、正義は任せられん」

 

 ベートが心底面倒そうな顔をした。

 

「金の話まで正義にするのかよ」

 

「金を汚く扱う正義ほど信用できないものはない」

 

 レックスが即答すると、ベートは一瞬だけ言葉を失った。

 

 アストレアが小さく微笑む。

 

「行ってきなさい。ただし、今日は戦うためではなく、街を見るために歩くこと」

 

「はい」

 

 レックスが頷く。

 

 だが、ベートは立ち上がらなかった。

 

「俺は行かねぇ」

 

 食堂の空気が、また固まる。

 

 パトーシェがゆっくりとベートを見る。

 

「何だと」

 

「聞こえなかったのかよ。行かねぇって言ったんだ」

 

「貴様は昨日、アストレア様の眷属になったばかりだ。ならば、最低限の役割は果たせ」

 

「知らねぇよ。勝手に役割押しつけんな」

 

「勝手ではない。ファミリアとはそういうものだ」

 

「俺は群れに入ったつもりはねぇ」

 

 その言葉に、パトーシェの目が鋭くなった。

 

「ならば何のために恩恵を受けた」

 

「今のままよりマシだと思っただけだ」

 

「その程度の覚悟でアストレア様の名を背負うな」

 

 ベートの目が変わった。

 

「あ?」

 

 椅子が軋む。

 

 ベートが立つ。

 パトーシェも立つ。

 

 傷が残っているはずなのに、二人の間合いだけが戦場のものへ変わった。

 

「言っておくがな、騎士女」

 

 ベートが低く唸る。

 

「俺は誰かに命令されるために入ったんじゃねぇ」

 

「命令が嫌なら、せめて責任を理解しろ」

 

「責任だぁ?」

 

「そうだ。アストレア様の庭に入った以上、貴様の勝手な振る舞いは、貴様だけの問題ではなくなる」

 

「うるせぇな。俺は俺の好きに動く」

 

「なら、また街中で暴れる気か」

 

 その一言は、鋭すぎた。

 

 ベートの殺気が跳ねる。

 

 パトーシェも引かない。

 むしろ前へ出る。

 

 次の瞬間、ザイロが二人の間へ入った。

 

「やめろ」

 

 声は低かった。

 

 茶化しでも、呆れでもない。

 昨夜、ベートを止めた時と同じ、冷えた声だった。

 

「どけ、ザイロ」

 

 パトーシェが言う。

 

「どかねぇ」

 

「貴様」

 

「キヴィア、お前も座れ。狼も座れ」

 

 パトーシェの眉がわずかに動く。

 

「そこで姓を使うな」

 

「今は距離を置きたいんだよ」

 

「貴様は本当に」

 

「その説教もあとで聞く。今は座れ」

 

「誰が座るか」

 

 ベートが唸る。

 

 ザイロはベートを見た。

 

「じゃあ立ってろ。ただし踏み込むな。今ここでやり合ったら、昨日アストレア様に怒られた意味が全部消える」

 

 ベートの眉が動く。

 

 ザイロは続けた。

 

「お前は命令されるのが嫌なんだろ。分かる。俺も嫌いだ」

 

「だったら」

 

「でもな、勝手に動いて誰か巻き込む奴はもっと嫌いだ」

 

 ベートが黙る。

 

 ザイロは次にパトーシェを見る。

 

「お前もだ、パトーシェ。正論で殴るな」

 

「私は間違ったことは言っていない」

 

「だから厄介なんだよ」

 

 パトーシェの目が揺れる。

 

 その間に、レックスが静かに立ち上がった。

 

「整理する」

 

 全員の視線がレックスへ向く。

 

 レックスはベートを見た。

 

「ベートの言い分は、命令されるために入ったわけではない、だな」

 

「……そうだよ」

 

「それは分かる。昨日まで一人で動いていた人間に、いきなり組織の規律を全部飲めというのは現実的じゃない」

 

 パトーシェが反射的に言いかける。

 

「だが」

 

「待て」

 

 レックスはパトーシェを止める。

 

「パトーシェの言い分も正しい。アストレア様の眷属になった以上、個人の行動はファミリアの信用に繋がる。特にベートは昨日、街で暴れた直後だ。周囲は見ている。今日巡回へ出ることには、謝罪ではなく再発防止の意味がある」

 

 ベートは不機嫌そうに舌打ちした。

 

 だが、反論はしなかった。

 

「それに」

 

 レックスは少しだけ声を低くした。

 

「昨日、お前は理由なく暴れていたわけじゃない。血と油と湿った石の臭いをまとった奴らを追っていた。あれが本当なら、お前はもうこの件の外側にはいない」

 

 ベートの目が細くなる。

 

「……何が言いてぇ」

 

「お前が追っていた線を、今日は俺たちも見る。お前が来なければ、臭いも、違和感も、たぶん拾い切れない」

 

「俺を使う気かよ」

 

「使う」

 

 レックスは即答した。

 

「ただし、使い潰す気はない」

 

 ベートが黙った。

 

 ザイロが口元だけで笑う。

 

「こいつ、こういう時だけ言い方が最悪に正直なんだよ」

 

「黙れ」

 

 レックスは続ける。

 

「つまり問題は、命令か自由かじゃない」

 

 二人の間に視線を置く。

 

「信用の回復と、昨日お前が追っていた線の確認。その両方に、本人が参加するかどうかだ」

 

 沈黙。

 

 レックスはベートへ向き直る。

 

「お前が今日来ないなら、俺たちはそれでも回れる。でも街から見れば、“昨日暴れていた狼人は、アストレア・ファミリアに入っても出てこない”になる」

 

「……」

 

「逆に、お前が不機嫌でも街を歩けば、“あの狼人はアストレア・ファミリアの監督下にいる”になる。完全に信用されるわけじゃない。でも、最初の一歩にはなる」

 

 次に、パトーシェを見る。

 

「パトーシェ。お前は正しい。でも、今のベートに“責任を理解しろ”だけ言っても通らない。責任を理解する前に、まず自分が何を壊したのかと、何を追っていたのかを見せる必要がある」

 

 パトーシェは唇を結んだ。

 

「……つまり、連れて歩けと」

 

「そうだ。罰ではなく確認として」

 

 ザイロが小さく笑った。

 

「珍しく綺麗にまとめやがった」

 

「茶化すな」

 

「褒めてんだよ」

 

 ベートはしばらく黙っていた。

 

 やがて、低く吐く。

 

「……見ればいいんだろ」

 

「見るだけじゃ足りない。覚えろ」

 

「うるせぇ」

 

「それでいい」

 

 レックスは頷いた。

 

 パトーシェも、少しだけ息を吐く。

 

「私も言い方が強すぎた」

 

 ベートが目を逸らす。

 

「……別に」

 

「ただし、貴様がまた街で暴れるなら、私は止める」

 

「やってみろ」

 

「やる」

 

 ザイロが額を押さえる。

 

「結局喧嘩じゃねぇか」

 

 アストレアは、その様子を見て小さく笑った。

 

「行ってらっしゃい。今日は、よく見てきなさい」

 

 そして少しだけ間を置き、四人を順に見た。

 

「それと、帰ってきたら、私が少しだけ動きを見ます」

 

 パトーシェが目を見開いた。

 

「アストレア様が、ですか?」

 

「ええ」

 

 ザイロが少しだけ笑う。

 

「神サマが稽古つけるってか」

 

「不満?」

 

「いや」

 

 ザイロは肩を竦めた。

 

「怖いだけだ」

 

 ベートが鼻で笑った。

 

「神が戦うのかよ」

 

 その瞬間、食堂に妙な沈黙が落ちた。

 

 レックスはベートを見た。

 パトーシェは少しだけ目を伏せた。

 ザイロですら、茶化すのをやめた。

 

 アストレアだけが、穏やかに笑った。

 

「少しだけならね」

 

 その笑顔が、逆に怖かった。

 

 

 四人は、まずアストレア・フィットネスへ向かった。

 

 ベートにとっては、初めてまともに見る施設だった。

 

 六階建ての修練棟。

 

 一階から三階は一般会員エリア。

 四階から六階はアストレア・ファミリア専用エリア。

 

 一階には受付、認証板、待機場所。

 二階には有酸素と基礎体力向上用の器具。

 三階には一般会員向けのフリーウェイトとマシン群。

 四階には体幹、回旋、足運び、連携確認用の広い床。

 五階には実戦動作へ繋げる複合器具。

 六階には本格的なフリーウェイトと高負荷用の設備。

 

 深夜受付の住民職員が頭を下げる。

 受付横には、ミアハ・ファミリアから預かっている軽傷用ポーションが並んでいる。

 出入口の外には、ガネーシャ・ファミリアの駐在所がある。

 

 ベートは、黙って見ていた。

 

 最初は不機嫌そうに。

 途中から、少しずつ表情が変わった。

 

 そして六階を見た時、ようやく低く言った。

 

「……何だよ、これ」

 

「鍛える場所だ」

 

 レックスが答える。

 

「見りゃ分かる」

 

「なら聞くな」

 

「そういう意味じゃねぇ」

 

 ベートは、並ぶ器具を睨むように見た。

 

「ファミリアの拠点に、こんなもん作ったのか」

 

「ああ」

 

「馬鹿じゃねぇのか」

 

「否定はしない」

 

 ザイロが笑った。

 

「初見の反応としてはまともだな」

 

 パトーシェが腕を組む。

 

「だが、効果はある。槍を振るだけでは戻らなかったものが、少し戻った」

 

 ザイロも肩をすくめた。

 

「俺も、前よりは重さに潰されなくなった」

 

 ベートは黙って器具を見る。

 

 蹴れば壊せるか。

 どれほど負荷がかかるか。

 どう使えば脚に効くか。

 

 そういう目をしていた。

 

 レックスはそれを見て、少しだけ言う。

 

「お前にも必要だ」

 

「は?」

 

「速さだけで全部を押し切ると、いつか足が壊れる。止まる筋力、戻る筋力、踏み外さない体幹。全部いる」

 

「説教かよ」

 

「説明だ」

 

「気色悪ぃ」

 

 そう言いながらも、ベートは視線を外さなかった。

 

 良い意味で、少し引いている。

 

 強さをただ振るう場所ではない。

 強さを作り直す場所。

 

 それがこの建物だと、少しだけ理解した顔だった。

 

「……で、これ誰が払ってんだよ」

 

「俺たちだ」

 

「は?」

 

「施設収益から、少しずつ返してる」

 

「正気かよ」

 

「正気じゃないと回らない」

 

 ベートはしばらく黙り、最後にぼそりと言った。

 

「……変なファミリアだな」

 

「今頃気づいたのか」

 

 ザイロが笑った。

 

 

 午前の街は、夜とは違う顔をしていた。

 

 市場の声。

 荷車の軋む音。

 小さな子供の笑い声。

 遠くの鍛冶音。

 

 それらが重なって、オラリオはまた動き始めている。

 

 だが、暗黒期の街は、表だけを見て安心できるほど優しくない。

 

 四人はガネーシャ・ファミリアの巡回線に沿い、アストレア・フィットネス周辺から西の路地、水路橋跡、商業通りの裏まで歩く。

 

 ベートは終始、不機嫌だった。

 

「何で俺までこんなことしなきゃなんねぇ」

 

「さっき説明した」

 

 レックスが地図に印をつけながら言う。

 

「信用の回復と、昨日の線の確認」

 

「うるせぇ」

 

「ついでに場所を覚えろ」

 

「覚える気はねぇ」

 

「鼻では覚えているだろ」

 

 ベートの目が細くなる。

 

「……気色悪ぃな、お前」

 

「便利だから使う」

 

「俺の鼻を道具扱いすんな」

 

「道具扱いじゃない。戦力評価だ」

 

「余計気色悪ぃ」

 

 ザイロが笑う。

 

「諦めろ。こいつは使えるもんは全部使う」

 

 パトーシェが真顔で補足する。

 

「ただし、使い潰すわけではない。そこは以前より少しマシになった」

 

「少し?」

 

 レックスが眉を寄せる。

 

「少しだ」

 

 即答された。

 

 ベートが鼻を鳴らした。

 

「仲良いのか悪いのか分かんねぇな、お前ら」

 

「悪い」

 

 ザイロが即答する。

 

「悪くはない」

 

 パトーシェが即答する。

 

 二人が同時に互いを見る。

 

「悪いだろ」

 

「悪くはないと言っている」

 

「どこがだよ」

 

「戦場で背を預けられる相手を、悪いとは言わん」

 

 ザイロが黙った。

 

 珍しい沈黙だった。

 

 ベートが鼻を鳴らす。

 

「……妙な匂いがする」

 

「何の話だ」

 

 ザイロが不機嫌そうに返す。

 

「てめぇらだよ」

 

 ベートは二人を睨む。

 

「言い合ってるくせに、動きだけ妙に古い。出会って数日の奴らの匂いじゃねぇ」

 

 レックスは、思わず視線を上げた。

 

 狼人の嗅覚。

 それは血や油だけを拾うものではないらしい。

 

 パトーシェが一瞬だけ黙った。

 ザイロも、珍しく茶化さなかった。

 

 風が路地を抜ける。

 

 沈黙を破ったのは、パトーシェだった。

 

「……私とザイロは、前から知っている」

 

 ベートの目が細くなる。

 

「前?」

 

「今世で会うより前だ」

 

 ザイロがぼそりと言う。

 

「腐れ縁だよ。説明すっと長ぇ」

 

「前世、というやつだ」

 

 パトーシェが静かに言った。

 

 ベートが眉を寄せる。

 

「は?」

 

 普通なら、そうなる。

 

 だが、ベートは笑わなかった。

 馬鹿にもしなかった。

 

 居場所を失った者の顔で、二人を見る。

 

「……てめぇら、ほんとに面倒くせぇな」

 

「否定はしない」

 

 パトーシェが答える。

 

 ザイロは肩を竦めた。

 

「だから、こいつがどこで無茶するか分かる。腹立つくらいにな」

 

「貴様こそ、どこで逃げずに踏み込むか分かりやすい」

 

「うるせぇ」

 

 レックスは、二人を見た。

 

 羨ましいとは思わない。

 だが、そこには自分がまだ持っていない時間がある。

 

 言葉より早く噛み合う理由。

 戦闘で、指示の前に二人が動いた理由。

 

 それは偶然でも、才能だけでもなかった。

 

 積み上げた別の時間が、今の身体に滲んでいる。

 

 ベートは低く言った。

 

「……それで、あの動きか」

 

「納得したか」

 

 ザイロが言う。

 

「気に食わねぇけどな」

 

 ベートは吐き捨てる。

 

「でも、分かった。あれはその場の勘じゃねぇ。古い癖だ」

 

 パトーシェは静かに頷いた。

 

「その通りだ」

 

 レックスは地図を畳みかけて、やめた。

 

 前世からの繋がり。

 新しく拾った狼。

 今世で一から盤面を組む自分。

 

 それぞれ違う速度で、同じ庭にいる。

 

 それが、今の星屑の庭だった。

 

 

 巡回の途中、ガネーシャ・ファミリアの巡回班と合流した。

 

 先頭の男が軽く手を上げる。

 

「おう、アストレアのところか。昨夜は大変だったらしいな」

 

「ご迷惑をおかけしました」

 

 パトーシェが真面目に頭を下げる。

 

「いや、死人が出なかっただけ上等だ。こっちは駐在所の記録をまとめておいた。西の水路橋近辺、ここ数日、住民から不審報告が出てる」

 

 レックスは記録を受け取る。

 

「助かります」

 

「こっちこそ助かってる。そっちが巡回に入ってくれる分、うちの目が増える」

 

 ガネーシャ・ファミリアとの線は、単なる雇用契約ではない。

 

 アストレア・フィットネスの横に駐在所を置いてもらう。

 その代わり、アストレア・ファミリアは周辺巡回と通報対応へ協力する。

 

 街を守る目を増やす。

 非常時の足を近くに置く。

 そのための共同任務だった。

 

 ベートが退屈そうに口を挟む。

 

「治安維持ごっこかよ」

 

 巡回班の男が苦笑する。

 

「ごっこでも、誰かが立ってるだけで喧嘩が一つ減ることもある」

 

 レックスがベートを見る。

 

「聞いたか」

 

「うるせぇ」

 

「覚えろ」

 

「命令すんな」

 

 そのやり取りを見て、巡回班の男は少しだけ笑った。

 

「新入りか?」

 

「ええ」

 

「大変そうだな」

 

「大変です」

 

「即答すんな!」

 

 ベートが吠えた。

 

 

 最初に向かったのは、ゴブニュ・ファミリアだった。

 

 建設と補強を請け負った職人たちは、相変わらず無骨だった。

 余計な世辞はない。

 その代わり、建物の話になると目が鋭くなる。

 

 レックスは袋を差し出す。

 

「今月分です。まだ完済には遠いですが、収益から確実に返していきます」

 

 職人の一人が袋を受け取り、重さを確かめる。

 

「硬ぇな、坊主」

 

「借りを曖昧にすると、次に頼めなくなります」

 

「分かってるならいい」

 

 ゴブニュ側への建設費は、割り引いてもらっている。

 だが、値引きは免除ではない。

 

 星屑の庭とアストレア・フィットネスの骨は、彼らの手で立っている。

 その骨に対して支払うものを濁したら、施設そのものが薄汚れる。

 

 パトーシェも深く頭を下げた。

 

「施設はよく持っている。感謝する」

 

「壊すなよ」

 

 職人が短く言う。

 

 ザイロが鼻を鳴らした。

 

「壊すのは敵だけにしとく」

 

「お前が一番信用ならん顔してるぞ」

 

「よく言われる」

 

 ベートは黙って建物の柱材を見ていた。

 

「……頑丈だな」

 

 ぽつりと言う。

 

 職人が目を向ける。

 

「分かるのか」

 

「蹴れば分かる」

 

「蹴るな」

 

 四人の声が揃った。

 

 ベートが舌打ちする。

 

 職人たちは少しだけ笑った。

 

 

 次はヘファイストス・ファミリアだった。

 

 筋力器具の製作費。

 保守費。

 金属部品の点検。

 ワイヤーや留め具の交換。

 施設管理に関わる細かな費用。

 

 これも全部、収益からヴァリスで少しずつ払っている。

 

 レックスは帳面を広げ、ヘファイストス側の鍛冶師へ確認を取った。

 

「六階のフリーウェイト器具は、負荷の増え方が早い。ザイロとパトーシェの使用頻度が高いので、留め具の点検を増やしたい」

 

「お前ら、どんな使い方してんだ」

 

 鍛冶師が呆れ顔になる。

 

 ザイロは肩を押さえながら言う。

 

「普通だ」

 

「普通の奴は器具に喧嘩売らねぇ」

 

「売ってねぇ」

 

 パトーシェが真面目に言う。

 

「私は規定通り使用している」

 

「規定通りであの摩耗なら、それはそれで怖ぇよ」

 

 ベートが器具の値段を聞いて顔をしかめた。

 

「何で鍛える道具がそんなに高ぇんだよ」

 

「壊れたら人が潰れる道具だからだ」

 

 レックスが答える。

 

「安物で済ませる方が高くつく」

 

 ベートは黙った。

 

 それは、自分の蹴りで人を壊しかけた者にとって、妙に分かりやすい理屈だったのかもしれない。

 

 ヘファイストス側の鍛冶師は、支払い袋を受け取りながら言う。

 

「きっちり払うなら、こっちもきっちり見る。施設が回ってるなら悪くねぇ」

 

「助かります」

 

 レックスは頭を下げた。

 

 ザイロが横目で見る。

 

「お前、金払う時だけ妙に礼儀正しいな」

 

「金は信用だからな」

 

「戦場より怖ぇ顔してるぞ」

 

「戦場と同じくらい大事だ」

 

 パトーシェが小さく頷く。

 

「そこは私も同意する」

 

 ベートは小さく吐き捨てた。

 

「面倒くせぇファミリアだな」

 

「今頃気づいたのか」

 

 ザイロが笑った。

 

 

 ミアハ・ファミリアでは、空気が少しやわらかくなった。

 

 薬草の匂い。

 小瓶の並ぶ棚。

 軽傷用ポーションの箱。

 

 アストレア・フィットネスでは、軽傷用ポーションを受付横に置いている。

 ただし、無制限に使わせるわけではない。

 

 ミアハ・ファミリアから預かり、施設側が管理し、必要な時に販売する。

 

 売上の七割はミアハへ。

 残り三割は、保管、販売、備品補充、施設側の手間賃として星屑の庭に残す。

 

 誰かが一方的に得をする形ではない。

 細くても続く線にするための取り決めだった。

 

 ミアハは穏やかに笑った。

 

「うちは助かってるよ。置き場所があるだけでも、ポーションは人に届きやすくなるからね」

 

「こちらも助かっています。軽傷を内部で抱え込まずに済む」

 

「なら、お互い様だね」

 

 ザイロが小さく言う。

 

「こういう穏やかな契約、逆に落ち着かねぇな」

 

「貴様は少し穏やかさに慣れろ」

 

 パトーシェが刺す。

 

 ベートは棚を見ながら鼻を鳴らした。

 

「薬くせぇ」

 

「薬屋だからな」

 

 レックスが言う。

 

「それもそうか」

 

 ベートが妙に納得した。

 

 ミアハは苦笑しながら、ベートの傷を見る。

 

「君も少し手当てしていくかい?」

 

「いらねぇ」

 

「そう言う人ほど必要なんだけどね」

 

 レックス、ザイロ、パトーシェの視線がベートに刺さる。

 

「何だよ」

 

「お前のことだ」

 

 三人の声が、ほぼ同時に揃った。

 

 ベートは本気で嫌そうな顔をした。

 

 

 ディアンケヒト・ファミリアでは、アミッドが待っていた。

 

 待っていた、というより、来ることを読んでいた顔だった。

 

「来ましたね」

 

「現況報告と契約確認です」

 

 レックスが言う。

 

 緊急時判断指導は、すでに一度受けている。

 

 出血。

 意識。

 呼吸。

 骨。

 反応。

 

 その五つを見ること。

 無理に動かさないこと。

 軽傷用ポーションで雑に流さないこと。

 

 だが、一度教わっただけで終わるほど、現場は優しくない。

 

「今回は、定期講習と緊急搬送契約の話です」

 

 レックスは帳面を開いた。

 

「半年に一度、責任者当番と夜間管理職員、駐在所要員向けに再確認の講習をお願いしたい。それと、緊急搬送の受け入れ契約を長期で結びたい」

 

 アミッドは静かに頷いた。

 

「長期契約にするなら、都度対応より条件は詰めやすくなります」

 

「そこを相談したい。こちらも施設収益から継続してヴァリスで支払う。ただ、毎回単発契約では負担が重い」

 

「値引き交渉ですね」

 

「そうだ」

 

「正直でよろしいと思います」

 

 ザイロが横で小さく笑った。

 

「治療師相手にも値切るのかよ」

 

「値切るんじゃない。続けるための条件を詰める」

 

 レックスは即答した。

 

「高すぎて一回で終わる契約より、払える額で長く続く契約の方が意味がある」

 

 アミッドは表情を変えずに言った。

 

「その考え方は正しいです。救急線は、一度だけ繋がっても意味がありません」

 

 ベートが退屈そうにしている。

 

 アミッドの目がそちらへ向いた。

 

「あなたは特に聞いてください」

 

「あ?」

 

「壊れても動こうとする人に見えるので」

 

 空気が止まった。

 

 ザイロが横を向いて笑いを殺す。

 パトーシェは真顔のまま頷く。

 レックスは内心で思う。

 

 強いな。

 

 ベートは不機嫌そうに歯を見せた。

 

「俺は壊れねぇ」

 

「そう言う人から運ばれてきます」

 

「……」

 

「あと、応急処置は戦闘行為ではありません。勝とうとしないでください」

 

「誰が処置に勝つんだよ」

 

「あなたのような人です」

 

 また刺した。

 

 レックスは小さく息を吐く。

 

「アミッド」

 

「はい」

 

「定期講習の初回日程、後で詰めましょう」

 

「分かりました。長期契約の条件も、こちらで案を出します」

 

「助かる」

 

「助かるのは、きちんと続けた場合だけです」

 

「……はい」

 

 アミッドは容赦がない。

 

 だが、その容赦のなさが今の星屑の庭には必要だった。

 

 

 ヘルメス・ファミリアでは、アスフィが疲れた顔で帳面を見ていた。

 

「あなた、また報告と支払いですか」

 

「また、とは」

 

「最近多いです」

 

「支払いが多いのは悪いことじゃない」

 

「支払う側が言う台詞ではありません」

 

 アスフィはため息をつきながらも、神の鏡の配置図を広げた。

 

 アストレア・フィットネスの死角。

 事故導線。

 駐在所から見える範囲。

 夜間受付との連絡線。

 

 それらは一度確認しただけで終わるものではない。

 

 実際に人が動き、怪我人が出て、夜間運用が始まって初めて見える穴がある。

 

「西側の裏路地から戻る動線、少し暗いですね」

 

 アスフィが図面を指す。

 

「通った」

 

「なら改善対象です。神の鏡だけでなく、灯りと人の配置で補うべきです」

 

「分かった」

 

 レックスは支払い袋を置いた。

 

「現地確認と調整の報酬です」

 

 アスフィは袋を見てから、少しだけ目を細める。

 

「あなた、以前より支払いが綺麗になりましたね」

 

「前から払っている」

 

「前より、理由まで添えるようになったという意味です」

 

「それは褒めてるのか」

 

「少しだけ」

 

 ザイロが後ろで笑う。

 

「こいつ、女相手だと全部仕事の話で押し切るな」

 

「黙れ」

 

 ベートが小さく言う。

 

「何なんだ、この街。どこ行っても説教か金の話じゃねぇか」

 

 パトーシェが答える。

 

「どちらも生き残るために必要だ」

 

「最悪だな」

 

「現実だ」

 

 ベートは舌打ちした。

 

 

 最後に、もう一度ガネーシャ・ファミリアへ戻る。

 

 その前に、四人は細い路地を一本通った。

 

 アスフィが指摘した、灯りの薄い裏路地だ。

 

 壁が近い。

 石畳は湿っている。

 昼間だというのに、光が斜めに削られている。

 

 ベートが先に足を止めた。

 

「……血の臭い」

 

 その声は、さっきまでの不機嫌とは違った。

 

 レックスが地図から顔を上げる。

 

「近いのか」

 

「近ぇ」

 

 ザイロの表情が変わる。

 パトーシェが槍へ手をかける。

 

 路地の奥。

 

 壊れた木箱の陰に、人が倒れていた。

 

 男だった。

 

 冒険者か。

 運び屋か。

 ただの住民か。

 

 服は泥と血で汚れ、顔は半分だけ横を向いている。

 

 動かない。

 

 あまりにも、動かない。

 

 レックスは一歩、近づいた。

 

 次の瞬間、足が止まった。

 

 見たことがないわけではない。

 知識としては知っている。

 

 戦場では死ぬ。

 暗黒期のオラリオでは、人が死ぬ。

 

 そんなことは、分かっている。

 

 だが、分かっていることと、目の前にあることは違う。

 

 人が、人の形をしたまま、もう戻ってこない。

 

 その事実が、喉の奥へ冷たい石のように落ちた。

 

「……」

 

 息が浅くなる。

 

 匂いが強い。

 

 鉄。

 泥。

 湿った布。

 それから、もう命ではないものの臭い。

 

 レックスの指先が冷えた。

 

 頭は動いている。

 

 現場確認。

 周囲警戒。

 通報。

 搬送ではなく検分。

 ガネーシャ・ファミリアへの連絡。

 ディアンケヒトへの確認。

 情報封鎖。

 

 必要な手順は浮かぶ。

 

 浮かぶのに、体が動かなかった。

 

「レックス」

 

 ザイロの声が遠く聞こえた。

 

 レックスは返事をしようとした。

 

 だが、声が出ない。

 

 視線が、倒れた男の手に吸い寄せられる。

 

 硬く曲がった指。

 爪の間の土。

 何かを掴もうとしたまま終わったような形。

 

 その手を見た瞬間、胸の奥が嫌な音を立てた。

 

 吐き気ではない。

 恐怖でもない。

 もっと鈍い。

 

 失敗を、予告されたような感覚だった。

 

 いつか自分の判断で、誰かがこうなる。

 いつか自分が間に合わず、誰かの手がこうなる。

 いつか自分が「切る」と決めた向こう側に、こういう沈黙が残る。

 

「……っ」

 

 レックスの膝が少しだけ揺れた。

 

 パトーシェがすぐ横へ来る。

 

「見るな」

 

 いつもの硬い声ではなかった。

 低く、短く、守るような声だった。

 

 ザイロがレックスの肩を掴む。

 

「下がれ」

 

「……確認を」

 

「俺が見る」

 

 レックスは反射で言い返そうとした。

 

 でも、言葉にならなかった。

 

 ベートが舌打ちした。

 

「無理して見んな。慣れてねぇ奴の顔してんぞ」

 

 その言い方は乱暴だった。

 

 だが、責めてはいなかった。

 

 レックスは一歩下がる。

 

 その一歩が、ひどく重かった。

 

 ザイロが倒れている男へ近づき、しゃがむ。

 パトーシェは周囲を警戒する。

 ベートは鼻を利かせ、路地の奥を睨む。

 

 いつの間にか、三人は動いていた。

 

 自分だけが遅れている。

 

 その事実が、さらに胸を刺した。

 

「新しい死体じゃねぇ」

 

 ザイロが低く言う。

 

「夜か、明け方だな。物取りだけじゃねぇ。運んでる途中で捨てた感じがする」

 

「臭いは下へ続いてる」

 

 ベートが言う。

 

「血だけじゃねぇ。油と湿った石の臭いも混ざってる」

 

 パトーシェが険しい顔で頷く。

 

「ガネーシャ・ファミリアへ知らせる。人払いも必要だ」

 

 レックスはようやく息を吸った。

 

「……記録」

 

 声がかすれた。

 

 三人が見る。

 

「場所、時刻、状態。ガネーシャへ通報。アスフィの図面と照合。ディアンケヒトには……搬送ではなく、検分協力の線を確認。ミアハには周辺で負傷者が流れていないか確認」

 

 言えている。

 

 手順は出ている。

 

 だが、声が震えていた。

 

 ザイロは何も笑わなかった。

 

「それでいい。お前は下がってろ」

 

「俺も」

 

「下がれ」

 

 強い声だった。

 

 レックスは黙った。

 

 悔しさがあった。

 

 でも、それ以上に、まだ足が戻っていない。

 

 自分はまだ、死体を見るだけで揺れる。

 

 それを認めるしかなかった。

 

 しばらくして、ガネーシャ・ファミリアの巡回班が来た。

 

 男たちは顔を硬くし、手早く路地を封鎖する。

 パトーシェが状況を説明し、ザイロが見た範囲を淡々と伝える。

 ベートは壁際で腕を組み、鼻をひくつかせていた。

 

 レックスは少し離れた場所に立っていた。

 

 情けない。

 

 そう思った。

 

 でも、同時に、これを忘れてはいけないとも思った。

 

 盤面の駒ではない。

 

 線の上に落ちているのは、人だ。

 

 名前も知らない誰かの死が、次の判断の土台になる。

 

 そのことが、たまらなく重かった。

 

 ガネーシャ・ファミリアの男がレックスへ近づき、短く言う。

 

「よく見つけた。あとはこっちで引き取る」

 

「……お願いします」

 

 レックスは頭を下げた。

 

 敬語が、少しだけ固かった。

 

 

 その後、四人はガネーシャ・ファミリア本部へ戻った。

 

 シャクティは巡回記録と駐在所の運用表を確認していたが、報告を聞くとすぐに表情を変えた。

 

「死体が出たか」

 

「はい」

 

 レックスの声はまだ少し硬い。

 

 パトーシェが補足する。

 

「路地裏の木箱陰に遺棄されていました。ザイロの見立てでは夜から明け方。ベートは血、油、湿った石の臭いを確認しています」

 

 シャクティはベートを見る。

 

「追えるか」

 

「今すぐなら多少はな」

 

 ベートが不機嫌そうに答える。

 

「ただ、混ざってる。人の臭いも多い。街中だ」

 

「十分だ」

 

 シャクティは短く言う。

 

「こちらで封鎖範囲を広げる。お前たちは無理に追うな。怪我人だろう」

 

 四人が微妙に目を逸らした。

 

 シャクティの目が細くなる。

 

「アストレア様に怒られただろう」

 

「はい」

 

 レックスが即答する。

 

「ならいい」

 

 いいのか。

 

 ベートが少しだけ顔をしかめた。

 

「どこ行っても神の説教が通貨みてぇに流通してんな」

 

「あなたも対象です」

 

 パトーシェが言う。

 

「うるせぇ」

 

 シャクティはレックスへ目を向けた。

 

「顔色が悪い」

 

「……問題ありません」

 

「嘘が下手だな」

 

 レックスは黙った。

 

 ザイロが横から言う。

 

「死体に慣れてねぇだけだ」

 

「ザイロ」

 

「隠す方が悪い」

 

 シャクティは少しだけ目を細め、それから頷いた。

 

「慣れなくていい。ただ、固まった時に誰へ任せるかは決めておけ」

 

 その言葉は、責めではなかった。

 

「はい」

 

 レックスは短く答えた。

 

「では、西の水路橋周辺を最後に確認して戻ります」

 

「気をつけろ」

 

 シャクティは言った。

 

「あの辺りは、最近少し静かすぎる」

 

 その言葉が、妙に耳に残った。

 

 

 夕方に近い時刻。

 

 四人は壊れた水路橋へ戻ってきた。

 

 跡はまだ残っている。

 割れた石。

 血を洗った跡。

 蹴りで砕けた壁。

 

 ベートはそこで足を止めた。

 

「……止まれ」

 

 声の質が変わっていた。

 

 レックスは即座に地図を出す。

 

「何だ」

 

「早ぇよ。まだ何も言ってねぇ」

 

「言え」

 

 ベートは嫌そうに鼻を鳴らす。

 

「臭ぇ」

 

 ザイロが茶化す。

 

「お前の機嫌か?」

 

「違ぇ」

 

 ベートは水路橋の下へ目を向けた。

 

「油。古い石。湿った土。それと……さっきの死体に近い臭いが薄く残ってる」

 

 レックスの喉が、わずかに詰まった。

 

 パトーシェが槍を握り直す。

 

「路地のものと繋がっているのか」

 

「分かんねぇ。ただ、下から来てる」

 

 レックスは地図に印をつける。

 

 西の水路橋。

 ガネーシャの不審報告。

 アスフィの死角図。

 ヘファイストスの資材搬送路。

 ミアハの納品経路。

 駐在所の巡回線。

 そして、路地裏の遺棄死体。

 

 別々に見えていたものが、細い糸で結ばれていく。

 

「……補給線だ」

 

 ザイロが目を細める。

 

「ようやく牙を立てる場所が見えたか」

 

 パトーシェが低く言う。

 

「ダイダロスに繋がる可能性があるな」

 

 ベートは不機嫌そうに言った。

 

「俺は知らねぇぞ。ただ臭ぇだけだ」

 

「それで十分だ」

 

 レックスは地図を閉じた。

 

 そして、三人を見る。

 

「目的を間違えるな」

 

 声が低くなる。

 

 ベートが眉を寄せた。

 

「あ?」

 

「地下を攻略するんじゃない。今の俺たちにそんな力はない」

 

 ザイロは黙った。

 パトーシェも否定しない。

 

 それは事実だった。

 

 ベートが鼻を鳴らす。

 

「じゃあ何すんだよ」

 

「地上側の線を潰す」

 

 レックスは地図の上に、アストレア・フィットネス、駐在所、水路橋、裏路地の死体、その四点を結ぶように指を置いた。

 

「敵は地下から出てきて、地上で動いて、死体を捨てて、また地下へ戻っている。これを放置すれば、次に巻き込まれるのは住民か、会員か、夜間職員かもしれない」

 

 パトーシェの目が鋭くなる。

 

「つまり、地下に踏み込む前に、地上へ伸びた腕を斬る」

 

「そうだ」

 

 ザイロが口元だけで笑った。

 

「本丸じゃなく、出入り口を潰すってわけか」

 

「潰すだけじゃ足りない」

 

 レックスは続けた。

 

「出入りしているなら、鍵がある。鍵を奪えば、少なくともこの線は止まる。さらに、その鍵はガネーシャやヘルメス、いずれはロキ・ファミリアに地下の存在を示す証拠にもなる」

 

 ベートが低く言う。

 

「つまり、敵の喉じゃなくて、喉に繋がってる紐を噛み切るってことか」

 

「そういうことだ」

 

 レックスは地図を畳んだ。

 

「だから奪う。欲しいからじゃない。放置すれば、ここが狩り場になるからだ」

 

 沈黙が落ちた。

 

 その沈黙は、重い。

 だが、迷いだけではない。

 

 方角が決まった沈黙だった。

 

 血の中で狼を拾った。

 今日は、借りを返し、礼を通し、街を歩いた。

 

 その途中で、死を見た。

 

 知識ではなく、現物として。

 盤面ではなく、人間の終わりとして。

 

 その終わりを、敵の補給線が踏んでいた。

 

 剣を振ったわけではない。

 敵を倒したわけでもない。

 

 それでも、盤面は一歩進んだ。

 

 次に切るのは、敵の喉ではない。

 

 まずは、喉へ血を送る補給線だ。

 

 

 星屑の庭へ戻る頃には、空は藍色に沈み始めていた。

 

 四人は本館へ戻り、アストレアに報告した。

 

 ゴブニュへの返済。

 ヘファイストスへの保守費。

 ミアハとの委託販売。

 ディアンケヒトの長期契約と定期講習交渉。

 ヘルメス側の死角確認。

 ガネーシャとの巡回協力。

 路地裏で見つけた死体。

 そして、水路橋の下で拾った異臭。

 

 さらに、レックスは最後に言った。

 

「地下を攻略するつもりはありません」

 

 アストレアは黙って聞いていた。

 

「今の俺たちでは無理です。でも、地上側に伸びている線は潰せます。敵がこの周辺を出入りしている以上、施設も住民も危険に晒される。だから、敵が地下へ出入りするための鍵を奪う」

 

 アストレアの目が、少しだけ細くなった。

 

「それが、あなたの選択なのね」

 

「はい」

 

「危険よ」

 

「分かっています」

 

「鍵を奪えば、相手もこちらを見るわ」

 

「それでも、放置すればこの辺りが狩り場になります」

 

 アストレアは、すぐには答えなかった。

 

 食堂の空気が静まる。

 

 ザイロは腕を組み、ベートは壁にもたれ、パトーシェは槍を立てたまま目を伏せている。

 

 やがてアストレアは言った。

 

「よく歩いたわね」

 

 それが最初の言葉だった。

 

 ザイロが肩を竦める。

 

「歩いただけで疲れるとは思わなかった」

 

「怪我人だからよ」

 

「言い方」

 

 アストレアは少しだけ笑い、それからレックスを見た。

 

「レックス」

 

「はい」

 

「怖かった?」

 

 食堂の空気が、静かになる。

 

 レックスは少しだけ目を伏せた。

 

 嘘は言えた。

 問題ありません、と言えばいい。

 

 でも、それは今日の意味を薄くする。

 

「……はい」

 

 短く答えた。

 

「怖かったです。死体を見た瞬間、手順は浮かびました。でも、体が止まりました」

 

 アストレアは責めなかった。

 

「そう」

 

「判断役が止まるのは、危険です」

 

「ええ」

 

「だから次から、現場確認はザイロかパトーシェに任せます。俺は一歩下がって、記録と連絡を担当する。慣れるまでは、その方が全体が止まらない」

 

 ザイロが静かに鼻を鳴らす。

 

「そうしろ。お前が固まってる顔、見てて気分悪かった」

 

「すみません」

 

「謝んな。役割の話だ」

 

 パトーシェも頷いた。

 

「死を軽く見ないことは、弱さではない。ただし、止まるなら支える者を決めておけ」

 

「はい」

 

 ベートが壁にもたれたまま言った。

 

「慣れてる方が偉ぇわけじゃねぇだろ」

 

 レックスはそちらを見る。

 

 ベートは目を合わせない。

 

「……臭ぇもんは臭ぇ。気分悪ぃもんは気分悪ぃ。それだけだ」

 

「そうか」

 

「そうだよ」

 

 少しだけ、空気が緩んだ。

 

 アストレアはそのやり取りを見届けてから、立ち上がった。

 

「約束通り、少しだけ見せましょう」

 

 食堂の空気が変わった。

 

「アストレア様、本当に」

 

 パトーシェが言いかける。

 

「ええ。あなたたちは怪我をしているから、激しい稽古はしないわ」

 

 アストレアは木剣を一本手に取った。

 

「でも、見ることはできるでしょう?」

 

 その立ち姿は、いつもの穏やかな神とは少し違った。

 

 やわらかい。

 美しい。

 けれど、中心がまったく揺れない。

 

 レックスは思わず息を止める。

 

 アストレアは、ただ木剣を構えただけだった。

 

 それだけで、部屋の重心が変わった。

 

「レックス」

 

「はい」

 

「あなたは、見えた時に入る癖がある」

 

「……はい」

 

「入るなとは言わないわ。でも、入る前に自分の足が残っているかを確かめなさい」

 

 アストレアは半歩動いた。

 

 それだけだった。

 

 だが、レックスには分かった。

 

 踏み込んだのではない。

 逃げ道を残したまま、届く位置へ入った。

 

 攻めているのに、戻れる。

 

「見えた解に飛びつくのではなく、戻れる解を選ぶの」

 

 次に、アストレアはザイロを見る。

 

「ザイロ。あなたは壊す角度をよく知っている。でも、止める角度はまだ粗い」

 

「耳が痛ぇな」

 

「肩も痛いでしょう?」

 

「……そうだな」

 

 アストレアは木剣の峰を軽く振る。

 

 目の前にある椅子の脚を、壊さずに止めた。

 

 音は小さい。

 力もほとんど見えない。

 けれど、椅子は完全に動きを殺されていた。

 

「壊さなくても、止められるわ」

 

 ザイロは黙った。

 

 次に、パトーシェ。

 

「パトーシェ。あなたは流れを止めるために、自分を差し込みすぎる」

 

「……はい」

 

「槍は、あなたの体を捧げるためのものではないわ」

 

 アストレアは木剣を槍に見立て、斜めに置いた。

 

 真正面から受けるのではない。

 横へ逃がす。

 力を殺し、相手の足を置き直させる。

 

「あなたが壊れずに残ることも、正しいことよ」

 

 パトーシェの目が揺れた。

 

 最後に、ベート。

 

「あなたは速い」

 

「知ってる」

 

「でも、速さは逃げ道を消すこともある」

 

 ベートの目が細くなる。

 

 アストレアは一歩だけ動いた。

 

 その一歩は速くない。

 なのに、ベートの視線が追い遅れた。

 

 いや、違う。

 

 速さではない。

 

 間合いを先に置かれたのだ。

 

 ベートの足が、無意識に止まる。

 

「……何だよ、今の」

 

「あなたが踏み込む前に、踏み込ませない位置へ立っただけよ」

 

 アストレアは微笑む。

 

「強くなるというのは、速くなることだけではないわ。止まれる場所を知ることでもある」

 

 ベートは何も言わなかった。

 

 食堂は静まり返っていた。

 

 レックスは、改めて思い知る。

 

 この神は、ただ優しいだけではない。

 戦いを知らない理想家でもない。

 

 限界を見極め、壊れる前の線を見つけることに長けている。

 

 人を前へ出すだけではない。

 戻ってこられる距離を教えられる。

 

 それは、今の自分たちに必要なものだった。

 

 レックスは自然と頭を下げていた。

 

「アストレア様」

 

「何?」

 

「教えてください」

 

 アストレアの目がやわらかくなる。

 

 ザイロが小さく息を吐き、同じように頭を下げた。

 

「俺もだ。壊さず止めるのは、正直まだ下手だ」

 

 パトーシェも深く頭を下げる。

 

「私もお願いします。自分を差し込まずに止める槍を、覚えたい」

 

 ベートは一人だけ動かなかった。

 

 だが、誰も急かさない。

 

 長い沈黙のあと、ベートが目を逸らしてぼそりと言った。

 

「……見るだけなら、見てやる」

 

 ザイロが笑いかける。

 

「素直じゃねぇな」

 

「殺すぞ」

 

「食堂で殺すぞは禁止だ」

 

 レックスが言う。

 

 ベートは舌打ちした。

 

 そこで、ザイロが妙な顔をした。

 

 悪いことを思いついた顔だった。

 

「なあ、レックス」

 

「何だ」

 

「アストレア様、今の普通に化け物じゃねぇか?」

 

 レックスは一拍置いて、真顔で頷いた。

 

「正直、完全に想定外だった」

 

 アストレアが瞬きする。

 

「え?」

 

 レックスの目が、珍しく輝いていた。

 

 普段ならここで一歩引く。

 余計な感情は畳み、必要な情報だけ拾い、紙の上へ置く。

 

 だが、今は違った。

 

 レックスは、完全に乗っていた。

 

「いえ、待ってください。今のは本当におかしいです。おかしいというのは失礼な意味ではなく、戦術的に異常です。アストレア様、今、ベートが踏み込む前に足を止めましたよね?」

 

「止めたというほどでは」

 

「止めていました。完全に止めていました。しかも速さではなく位置で。ベートの初動に対して、アストレア様は一歩先へ出たのではなく、ベートの“出たい場所”を先に占拠していました」

 

 ザイロがにやりと笑う。

 

「お、珍しく火がついたな」

 

「火もつきます。今のは火事です」

 

「火事かよ」

 

「戦術的火災です」

 

「何だそれ」

 

 ベートが顔をしかめる。

 

「うるせぇな。急に早口になりやがって」

 

 レックスは止まらなかった。

 

「ベート、お前も分かっただろ。今のは速度負けじゃない。踏み込みの前に踏み込み先を奪われた。つまり、お前の速さが始まる前に終わらされた」

 

「……気に食わねぇ言い方すんな」

 

「でも事実だ」

 

「事実だから気に食わねぇんだよ」

 

 ザイロが手を叩く。

 

「はい出ました。駄犬の最大級賛辞」

 

「してねぇ!」

 

「いや、してる。お前の顔、“ムカつくけど強ぇ”って顔してる」

 

「殺すぞ」

 

「食堂で殺すぞは禁止です」

 

 レックスが即座に挟む。

 

「お前、そこだけ冷静に戻るな」

 

 ザイロが吹き出した。

 

 レックスは木剣を見て、さらに言った。

 

「しかも椅子を止めた時、アストレア様は力をぶつけていません。逃げ道を消していました。力を殺すのではなく、力が行き場を失うように置いた。あれはたぶん、壊す技術じゃない。壊させない技術です」

 

 パトーシェの目が輝く。

 

「その通りだ。アストレア様の剣は、相手をねじ伏せるものではなく、相手の力を正しく終わらせる剣だ」

 

「正しく終わらせる剣」

 

 レックスが真顔で反復した。

 

「良い表現だ。採用したい」

 

「採用とは何だ」

 

「帳面に書く」

 

「書くな!」

 

 アストレアが慌てて言う。

 

 ザイロが、ここぞとばかりに悪ノリへ火薬を投げ込んだ。

 

「いや、書いとけ。今日から訓練項目に入れようぜ。“アストレア様式・相手が勝手に詰む歩法”」

 

「名前が最悪です」

 

 レックスが真顔で却下する。

 

「では、“アストレア様式・踏み込み前制圧理論”」

 

「急に硬ぇ!」

 

「“アストレア様式・止まれる場所を知りなさい講座”」

 

「それは説教臭ぇ」

 

「“アストレア様式・神の一歩”」

 

「それはそれで恥ずかしいわ!」

 

 アストレアの声が少しだけ跳ねた。

 

 全員が止まる。

 

 アストレアが、自分の声に気づいて、少しだけ目を逸らした。

 

 その瞬間、食堂の灯りが、妙に彼女の頬を拾った。

 

 白い肌に、ほんのり赤みが差している。

 いつもの穏やかで澄んだ女神の顔が、少しだけ困って、少しだけ照れている。

 

 ただそれだけだった。

 

 ただそれだけなのに。

 

 パトーシェの鼻から、つう、と赤いものが垂れた。

 

「パトーシェ!?」

 

 レックスが叫ぶ。

 

 ザイロが目を剥く。

 

「お前、何でそこで血ぃ出してんだよ!」

 

 パトーシェは真顔だった。

 

 真顔のまま、鼻血を流していた。

 

「問題ない」

 

「問題しかねぇよ!」

 

「アストレア様が……あまりにも……」

 

 パトーシェの声が震える。

 

「美しすぎた」

 

 沈黙。

 

 ベートがぽつりと言う。

 

「……馬鹿じゃねぇのか」

 

 だが、その目はアストレアから逸れていなかった。

 

 ザイロも黙っていた。

 口では茶化す顔をしているのに、目の奥だけは正直だった。

 

 美しい。

 

 そう思っているのが、嫌でも分かった。

 

 レックスも同じだった。

 

 感激していた。

 

 技だけではない。

 戦いの理を知りながら、照れて目を逸らすその姿が、妙に眩しかった。

 

 レックスは少しだけ言葉を失い、それから真顔で言った。

 

「……これは、記録に残すべきです」

 

「何を!?」

 

 アストレアが慌てる。

 

「アストレア様の戦闘指導は有効。加えて、照れた時の精神的破壊力が極めて高い。パトーシェに出血反応あり」

 

「絶対に書かないで!」

 

 ザイロが腹を抱えた。

 

「駄目だ、腹痛ぇ。戦闘より効いてるぞ、これ」

 

「笑うな、ザイロ!」

 

 パトーシェが鼻を押さえながら怒る。

 

「笑うだろ! 何で木剣の稽古で鼻血出してんだよ!」

 

「アストレア様が美しいからだ!」

 

「理由が強すぎる!」

 

 ベートが腕を組み、そっぽを向いた。

 

「くだらねぇ」

 

 レックスが見逃さず言う。

 

「ベートも見ていた」

 

「見てねぇ」

 

「見ていた。しかも目を逸らすのが遅かった」

 

「殺すぞ」

 

「食堂で殺すぞは禁止だ」

 

「それ何回言うんだよ!」

 

 アストレアは両手で頬を押さえるようにして、少し困った顔をしていた。

 

「もう……あなたたち、からかわないで」

 

 その声が、普段より少しだけ小さい。

 

 それがまた、よくなかった。

 

 パトーシェの鼻血が増えた。

 

「パトーシェ!」

 

「問題ない!」

 

「問題ある!」

 

 レックスは布を渡す。

 

「止血しろ。これは戦闘不能に近い」

 

「私は戦える!」

 

「今は戦うな。アストレア様を見るな」

 

「それは無理だ!」

 

「無理なのか」

 

 ザイロが笑いすぎて肩を押さえた。

 

「痛ぇ……笑うと肩に響く……」

 

「自業自得だ」

 

 ベートが吐き捨てる。

 

 だが、彼も少しだけ口元を緩めていた。

 

 ほんの一瞬。

 誰にも見られたくないような、短い緩みだった。

 

 レックスは、それも見逃さなかった。

 

 でも、今は言わなかった。

 

 代わりに、アストレアへ向き直る。

 

「アストレア様」

 

「今度は何?」

 

「教えてください」

 

 さっきとは違う声だった。

 

 はしゃぎすぎた後だからこそ、言葉の芯が戻った。

 

「今の一歩を。あれを、俺たちが少しでも使える形に落としたい」

 

 ザイロも笑いを収め、息を吐いた。

 

「俺もだ。壊さず止めるのは、まだ下手だ」

 

 パトーシェも鼻を押さえたまま、深々と頭を下げる。

 

「私もお願いします。自分を差し込まずに止める槍を、覚えたい」

 

 ベートは一人だけ顔を逸らした。

 

 だが、今度はさっきより少し早く言った。

 

「……見るだけなら、見てやる」

 

 ザイロがにやりとする。

 

「見るだけ、ねぇ」

 

「うるせぇ」

 

 アストレアは、少し赤い頬のまま、やさしく笑った。

 

「ええ。みんなで少しずつ覚えましょう」

 

 血と痛みの翌日にしては、少しだけ騒がしすぎる。

 けれど、その騒がしさが今は必要だった。

 

 アストレアは木剣を置き、息を整えた。

 

「褒めるのはもう終わり。次は、本当に覚えてもらいます」

 

「はい」

 

「おう」

 

「承知しました」

 

「……見るだけだっつってんだろ」

 

 返事はばらばらだった。

 

 だが、四人とも同じものを見ていた。

 

 壊さず止める。

 戻れる位置を残す。

 速さだけでなく、止まれる場所を知る。

 

 それは、これから地下へ向かう彼らに必要な骨だった。

 

 

 その夜、恩恵の更新は静かに行われた。

 

 激しい戦闘はなかった。

 だが、街を歩き、借りを返し、信用を積み、異変を拾った。

 

 死も見た。

 

 レックスはその事実を、まだ腹の奥に重く抱えている。

 

 そして、神から戦い方の芯を見せられた。

 

 数字に現れるほどの大きな変化ではない。

 けれど、身体と意識には小さな変化があった。

 

【レックス】

【Lv.1】

【力】G

【耐久】H

【器用】F

【敏捷】F

【魔力】I

【スキル】

『一厘直観』

 

「器用と敏捷が少しずつ安定してきているわ」

 

 アストレアが言う。

 

「ただ、今日学んだことは数字より大事ね。戻れる位置を覚えること。それと、止まった時に誰へ任せるかを決めること」

 

「はい」

 

【ザイロ】

【Lv.1】

【力】G

【耐久】G

【器用】G

【敏捷】H

【魔力】I

【スキル】

『冷静算定』

 

「器用の伸び方が変わっているわ。壊すためではなく、止めるための使い方を体が覚え始めている」

 

「……気持ち悪ぃ褒め方だな」

 

「褒めているのよ」

 

【パトーシェ】

【Lv.1】

【力】H

【耐久】G

【器用】G

【敏捷】H

【魔力】I

【スキル】

『正断強化』

 

「耐久と器用が、傷と今日の学びに反応しているわ」

 

 パトーシェは静かに頷いた。

 

「自分を差し込まずに止める槍。必ず覚えます」

 

【ベート・ローガ】

【Lv.3】

【力】D

【耐久】E

【器用】D

【敏捷】B

【魔力】I

【スキル】

『月下咆哮(ウールヴヘジン)』

『孤狼疾駆(フェンリスヴォルフ)』

『双狼追駆(ソルマーニ)』

【発展アビリティ】

『狩人』

『耐異常』

『拳打』

『魔防』

【魔法】

『ハティ』

 

 アストレアは紙へ視線を落とし、静かに言った。

 

「あなたはやはり速い。でも、今日止まった一歩を忘れないで」

 

「……説教が長ぇ」

 

「短くしたつもりよ」

 

「どこがだよ」

 

 ザイロが笑い、パトーシェが呆れ、レックスは地図へ視線を落とした。

 

 水路橋の印。

 裏路地の印。

 地下へ向かう臭い。

 補給線の可能性。

 

 血の後に、礼を返した。

 借りを返し、道を歩き、異変を拾った。

 死に足を止められた。

 そして最後に、神から戦い方を教わった。

 

 綺麗な一日ではない。

 派手な勝利でもない。

 

 それでも、確かに次の一手へ繋がる一日だった。

 

 敵の根は、まだ見えない。

 

 だが、補給線の匂いは拾った。

 

 次はそこを噛む。

 

 第17話 街を歩く牙、灯を返す日 了




ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

今回は、ベート加入直後の空気、アストレア・フィットネスを軸にした各ファミリアとの関係整理、そしてダイダロス方面へ繋がる補給線の発見を描きました。

この回で特に明確にしたかったのは、レックスたちが今後ダイダロス・オーブを狙う理由です。

彼らは最初からクノッソスを攻略しようとしているわけではありません。
今の戦力で地下深部へ踏み込むのは無謀です。

ただ、アストレア・フィットネス周辺の巡回、裏路地の死体、水路橋付近の異臭、資材搬送路の痕跡から、闇派閥が地上と地下を行き来している線が見え始めています。

この線を放置すれば、周辺住民、会員、夜間職員、駐在所の人員が巻き込まれる可能性があります。
そのため、レックスたちの目的は「地下を攻略すること」ではなく、「地上側に伸びている闇派閥の連絡線を先に潰すこと」です。

そして、その線を潰すためには、敵が地下へ出入りするために使っている鍵を奪う必要があります。
それが結果的に、ダイダロス・オーブ奪取へ繋がっていく形です。

つまり今回は、オーブを欲しがっているのではなく、星屑の庭と街を守るために、敵の出入り口を押さえにいく流れになります。

また、レックスが死体を見て止まることで、彼がまだ完全な指揮官ではないことも描きました。
レックスは盤面を見る力はありますが、死や現場の重さに慣れているわけではありません。
だからこそ、ザイロ、パトーシェ、ベートがそれぞれ補う意味があります。

「止まらない主人公」ではなく、「止まった時に誰へ任せるかを学ぶ主人公」として書いています。

また、ザイロとパトーシェの呼称も少し整理しました。
ザイロは基本的に「パトーシェ」と呼びますが、距離を置く時や皮肉っぽい時には「キヴィア」と姓で呼ぶことがあります。
二人の関係は、甘い名前呼びというよりも、「任務上の利便性」という建前で距離が縮まっている形です。
このあたりも、今後の連携描写で少しずつ出していければと思っています。

重いだけでは星屑の庭らしさが薄れるため、後半ではアストレア様の戦闘指導と、少し騒がしいやり取りも入れました。
血の匂いが残る場所でも、帰ってきたら笑える。
それがこのファミリアの強さになっていくと思っています。

次回以降は、今回拾った補給線の匂いをもとに、敵の出入り口と鍵の存在へさらに踏み込んでいく予定です。
ベートも加入したことで、四人の連携や役割分担も少しずつ変わっていきます。

ご意見・ご感想などありましたら、ぜひ感想欄で教えていただけると嬉しいです。
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