悔いなき選択 ※休止   作:Jefflocka

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第3話 汗と、星と、少しずつ

第3話 汗と、星と、選ぶ理由

 

 前世の記憶は断片的だ。

 

 筋トレに明け暮れていたこと。

 夜中、スマホの光だけを頼りに『ダンまち』を読み漁っていたこと。

 それだけは、妙にはっきり残っている。

 

 それ以外は霧の中だ。

 

 大学の講義室。

 誰かの顔。

 コンビニの白い照明。

 帰り道。

 断片は浮かぶ。だが繋がらない。

 自分がどう死んだのかすら、綺麗には思い出せない。

 

 でも、体は覚えている。

 

 腹が減れば動けなくなること。

 眠れなければ判断が鈍ること。

 鍛えなければ落ちること。

 そして、動かなければ死ぬこと。

 

 それだけは、骨の奥に残っていた。

 

 だから俺は、朝から体を動かしていた。

 

 

 星屑の庭の朝は静かだ。

 

 まだ誰もいない。

 ファミリアは小さいどころか、実質、俺一人だ。

 それでも、ここには生活の音がある。

 井戸の水音。

 風に揺れる草木。

 遠くから聞こえる街のざわめき。

 そして、自分の呼吸。

 

 息を吐く。

 

 中庭の土の上で、腕立て伏せを繰り返した。

 

 一、二、三。

 数はもう途中から数えていない。

 大事なのは、どこに負荷が乗っているかだ。

 

 ただの腕立てではない。

 前世の記憶が、筋肉の部位をやけに明確に意識させる。

 

 大胸筋。

 上腕三頭筋。

 三角筋。

 

 どこへ入るか。

 どこが抜けているか。

 どの角度で押せばどこへ効くか。

 

 前世の俺は、そこをかなり細かく見る人間だった。

 考えながら鍛える。

 ただ回数をこなすんじゃなく、効かせる。

 筋肉は裏切らない。

 負荷をかければ応える。

 積めば変わる。

 その単純さが、好きだった。

 

 だが、この世界で必要になる強さは、それだけじゃない。

 

 立ち上がる。

 汗を拭う。

 昨日買ったばかりの短剣を抜いた。

 

 軽い。

 だが、まだ手の一部ではない。

 

 昨日のアストレア様の言葉を思い出す。

 

 剣は体の延長。

 力でねじ伏せようとすると、動きが死ぬ。

 

 構える。

 踏み込む。

 横に薙ぐ。

 

 重い。

 

 筋力がないわけじゃない。

 問題はそこじゃない。

 筋肉が、互いに噛み合っていない。

 

 胸の収縮が腕へ綺麗に乗らない。

 下半身の踏み込みが腰で止まる。

 背中を通って剣先まで流れるはずの力が、体の中で小さく渋滞している。

 

 部位ごとに鍛える感覚は分かる。

 でも、戦う動きは部位じゃ終わらない。

 全部が一本に繋がらないと意味がない。

 

 これが今の現在地だ。

 

「力が、体の中で反発し合っているわ」

 

 声がした。

 

 振り返る。

 アストレア様が立っていた。

 

 純白の衣が朝の光を受けて、やわらかく揺れている。

 藍色の瞳は静かだ。

 だが、その静けさはただ優しいだけではない。

 ちゃんと見て、ちゃんと指摘する目だ。

 

「おはようございます、アストレア様」

 

「おはよう、レックス。朝早くから熱心なのね」

 

 その声音に茶化しはない。

 ただ、事実として受け取っている。

 

 アストレア様は俺の足元へ視線を落とした。

 

「地面を蹴る力。それが腰を回り、背中を通り、腕から剣先へ乗っていく」

 

 ゆっくりと、筋道をなぞるように言う。

 

「でも、あなたの体の中では、その流れが途中でぶつかっているわ」

 

 的確だった。

 

「筋肉を、別々に動かそうとしてるからですね」

 

「ええ」

 

 アストレア様は頷く。

 

「あなたは自分の体を、少し部品の寄せ集めみたいに扱っている」

 

 そこで一歩近づいた。

 

「でも体は一つよ」

 

 俺は短剣を下ろした。

 目を閉じる。

 

 想像する。

 

 足から剣先まで。

 一本の流れ。

 地面を押した力が、膝、腰、背中、肩、腕を通って、最後に刃へ抜ける感覚。

 

 計画する。

 

 どこで余計な力みが入っているか。

 どこを抜けば流れるか。

 どこを先に動かせば、全体が崩れずに済むか。

 

 実行する。

 

 もう一度、構える。

 肩の力を抜く。

 手は握り込まない。

 足から入る。

 

 踏み込む。

 

 足。

 腰。

 背。

 腕。

 剣。

 

 風を切る音が、さっきより少しだけ鋭くなった。

 

「……少し、ましになりました」

 

「ええ」

 

 アストレア様が微笑む。

 

「その“少し”の積み重ねが、あなたを強くするのよ」

 

 汗が土へ落ちる。

 

 繰り返すしかない。

 新しい回路を、この体へ刻み込むまで。

 

 動かなければ死ぬ。

 なら、動ける形へ変えるしかない。

 

 

 昼前まで、基礎だけを反復した。

 

 重心。

 足運び。

 踏み込み。

 戻り。

 握り。

 また重心。

 

 地味だ。

 地味で、退屈で、そして誤魔化しが利かない。

 

 前世でもそうだった。

 派手な重量や派手な見た目の変化ばかり追うと、土台が死ぬ。

 土台が死ねば、いつか全部が崩れる。

 

 アストレア様は短くしか言わない。

 でも、その短さの中に無駄がない。

 

「今のは上体が早いわ」

「足を置き直して」

「肩で振らない」

「今の方がいい」

「止まりなさい、戻りが流れているわ」

 

 一言ずつが、妙に重い。

 

 ただ優しいだけの神じゃない。

 ちゃんと、戦う子を育てる言葉を持っている。

 

 昼前、ようやく止めが入った。

 

「今日はここまでにしましょう」

 

 短剣を下ろす。

 腕が重い。

 脚も張っている。

 だが、嫌な疲労じゃない。

 ちゃんと積んだ疲れだ。

 

「一つだけ、見せるわ」

 

 アストレア様が手を差し出す。

 俺は短剣を渡した。

 

 構える。

 

 それだけで、違う。

 

 同じ短剣なのに、まるで別物みたいだった。

 力んでいない。

 けれど緩んでもいない。

 刃先が空気へ自然に溶け込み、そこにあるだけで“通る”と分かる。

 

 次の瞬間、一歩。

 

 たった一歩なのに、空気が変わる。

 

 圧があった。

 神の気配が、ほんの一瞬だけ剥き出しになったような感覚。

 理屈より先に、体が後退を選びそうになる。

 

 アストレア様はすぐに力を抜き、短剣を返した。

 

「これが、目指す先の一つよ」

 

 穏やかな声。

 でも、あまりにも遠かった。

 

「……遠いですね」

 

「そうね」

 

 アストレア様は少しだけ笑う。

 

「でも、近づくことはできるわ」

 

 その言い方が、この人らしかった。

 できると断定しすぎない。

 でも、前へ進む道は消さない。

 

 

 昼間は街を走った。

 

 持久力を鍛えるため。

 地形を把握するため。

 そして何より、生きるためだ。

 

 暗黒期のオラリオは、どこに死が潜んでいるか分からない。

 逃走経路の確保は、生存の絶対条件だった。

 

 表通り。

 横道。

 酒場の並ぶ一帯。

 荷車が詰まる路地。

 巡回しやすい道。

 逆に、一度入ると抜けづらい道。

 

 頭の中へ地図を描く。

 広く、浅く、だが見落とさないように。

 

 酒場の裏手では、冒険者たちの会話が風に混じっていた。

 

「昨夜もダイダロス通りで殺しがあったらしいぞ」

 

「また闇派閥かよ……」

 

 ダイダロス通り。

 

 断片的な記憶が、その名だけに強く反応する。

 複雑な路地。

 迷路。

 イヴィルスの影。

 ろくでもない場所。

 

 俺は脳内の地図へ、その一帯を危険地帯として刻み直した。

 

 その時だった。

 

 視線を感じた。

 

 振り向く。

 誰もいない。

 

 だが、気配だけが残っている。

 

 冷たい。

 湿っていない。

 むしろ、妙に乾いていて、計算され尽くしたような気配だ。

 

 『一厘直観』が、ほんの一瞬だけ強く反応した。

 

 敵意ではない。

 殺気でもない。

 観察。

 値踏み。

 そういう類だ。

 

 路地の奥を睨む。

 誰だ。

 

 イヴィルスか。

 暗殺者か。

 それとも、ただの街の目端が利く人間か。

 あるいは、俺と同じように何かの盤面を見ているイレギュラーか。

 

 追う選択肢はあった。

 

 だが、追わない。

 

 今の俺に必要なのは、好奇心に任せた単独突入じゃない。

 計画にない行動は、たいてい死を呼ぶ。

 

 悔いなく選ぶというのは、やりたい方を選ぶことじゃない。

 後で自分に説明できる方を選ぶことだ。

 

 だから俺は、追跡を切った。

 

 選ばなかった。

 それもまた、選択だ。

 

 

 夕方、星屑の庭へ戻る。

 

 静寂が、街の喧騒をゆっくり剥がしていく。

 井戸で水を浴び、汗と埃を落とす。

 水が冷たい。

 その冷たさでようやく、今日もまだ生きていると実感する。

 

 腹が減っていることに気づく。

 

 何かを食べなければ動けなくなる。

 それは前世でも、この世界でも変わらない。

 

 硬いパンを齧る。

 水で流し込む。

 味は大したことない。

 でも、胃に落ちるだけで体は少し安心する。

 

 体を維持する。

 それが、最初の生存条件だ。

 

 

 夜。

 

 いつものベンチ。

 星が瞬いている。

 

 アストレア様が隣に座る。

 届かない距離。

 でも、体温とやわらかな香りはすぐそこにある。

 

「街は、どうだった?」

 

 夜の静けさの中で、その声だけがやわらかく響いた。

 

「広くて、複雑で、狂ってました」

 

 俺は答える。

 

「そうね」

 

 アストレア様は否定しない。

 

「それが今のオラリオよ」

 

「イヴィルスの影が、街のあちこちに張り付いてる」

 

 そこで言葉を切る。

 

 藍色の瞳が、まっすぐ俺を見る。

 

「レックス」

 

「はい」

 

「あなたは、なぜ戦うの?」

 

 唐突な問いだった。

 

 だが、それを軽く流す気にはなれなかった。

 俺は夜空を見上げる。

 

 断片的な前世の記憶が、頭の奥で揺れる。

 

 夜中。

 スマホ。

 読み漁った物語。

 暗黒期の惨状。

 イヴィルス。

 アストレア・ファミリアが辿る残酷な終わり。

 

 俺は、この世界についての知識を少し持っている。

 だが、それは文字の上の知識だ。

 ページの中で切り取られた、誰かの痛みだ。

 今の俺は、血と肉を持った側にいる。

 

 そして、もう一つ、ずっと残っている断片がある。

 

 金髪の男。

 

 真実を知りたがった男。

 壁の外に何があるのか、それを知りたいというただそれだけのために、無数の命の先頭へ立った男。

 

 正義でもない。

 慈悲でもない。

 もっと純粋で、もっと危ういもの。

 好奇心。

 

 その狂気的な渇きに、俺は前世で妙に惹かれていた。

 

 そして、今の自分の中にも、たぶん同じものがある。

 

「……知りたいからです」

 

 断言する。

 

「知りたい?」

 

 アストレア様が少しだけ首を傾げる。

 

「俺は、彼らのことを文字の上でしか知らない気がしてるんです」

 

「彼ら」

 

「イヴィルスです」

 

 言い切る。

 

「暗黒期と呼ばれるこの時代。あいつらが、なぜそこまで狂えるのか。街を壊し、人を殺し、混沌を撒き散らす。その根幹に何があるのか」

 

 想像する。

 悪意。

 信仰。

 思想。

 絶望。

 どれか一つじゃないかもしれない。

 でも、そこを知らずに切るのは、たぶん浅い。

 

「もし根幹がただの悪意なら、俺は躊躇なく切ります」

 

 夜の空気は静かだった。

 

「もし別の“正しさ”があるなら、それは俺の正しさとぶつけるしかない」

 

 だから知りたい。

 

 スマホの画面越しじゃ絶対に分からないものを。

 敵の、本当の核を。

 

「好奇心が、戦う理由の一つです」

 

 俺は言う。

 

「知らなければ、計画も実行もできない」

 

 アストレア様は静かに聞いていた。

 表情は大きく変わらない。

 でも、聞いているのは分かる。

 

「……危うい理由ね」

 

「そうですか」

 

「ええ」

 

 アストレア様は少しだけ視線を落とした。

 

「深淵を覗く者は、深淵からも見つめ返されるわ。好奇心は、人を遠くまで連れていく。でも時々、そのまま戻れなくする」

 

 藍色の瞳が、もう一度こちらへ向く。

 

「でも」

 

 その“でも”が静かに落ちた。

 

「嘘はないわね」

 

 その一言が、妙に重かった。

 

「正義を探すために、まず悪の根幹を知ろうとする。まっすぐではないけれど、あなたらしいのかもしれない」

 

「アストレア様も、知りたいですか」

 

「私は神だから」

 

 少しだけ笑う。

 けれど、その笑みは遠い。

 

「子どもたちの行く末を見守る立場よ。でも……」

 

 そこで、俺へ体を向けた。

 

「あなたがその答えを見つけるまで、私はここで、あなたの話を聞くわ」

 

 受け取る練習。

 

 俺はその言葉を、そのまま受け取る。

 

 疑わない。

 謙遜しない。

 逃がさない。

 

「やります」

 

 短く言った。

 

「俺が答えを見つけて、ここへ持ち帰ります」

 

 アストレア様が小さく頷く。

 

「ええ。約束よ、レックス」

 

 星明かりの下で、自分の核が少しだけ形になる。

 

 正義。

 好奇心。

 生存本能。

 綺麗ではない。

 でも、たぶん嘘ではない。

 

 

「明日は、ギルドへ行ってきます」

 

 俺が言うと、アストレア様は静かに頷いた。

 

「いよいよ、ダンジョンへ繋がるのね」

 

「はい。実戦で、この体がどう動くか見ます」

 

「気をつけて」

 

 アストレア様の声が少しだけ低くなる。

 

「ダンジョンには、街とは違う狂気があるわ」

 

「やります」

 

 立ち上がる。

 

「必ず、生きて戻ります」

 

 アストレア様はベンチに座ったまま、俺を見上げた。

 

「待っているわ、レックス」

 

 その一言が、妙に背中へ残る。

 

 届かない距離。

 でも、この人は確かにここで待っている。

 

 俺はダンジョンへ続く明日を想像した。

 汗。

 星。

 少しずつ積み上げたもの。

 それが初めて試される場所。

 

 何も分からないままではない。

 でも、十分に分かっているわけでもない。

 だから選ぶ。

 今の自分で踏み込むと。

 

 悔いなく。

 少なくとも、あとで自分に嘘をつかずに済むように。

 

 第3話 汗と、星と、選ぶ理由 了

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