第3話 汗と、星と、選ぶ理由
前世の記憶は断片的だ。
筋トレに明け暮れていたこと。
夜中、スマホの光だけを頼りに『ダンまち』を読み漁っていたこと。
それだけは、妙にはっきり残っている。
それ以外は霧の中だ。
大学の講義室。
誰かの顔。
コンビニの白い照明。
帰り道。
断片は浮かぶ。だが繋がらない。
自分がどう死んだのかすら、綺麗には思い出せない。
でも、体は覚えている。
腹が減れば動けなくなること。
眠れなければ判断が鈍ること。
鍛えなければ落ちること。
そして、動かなければ死ぬこと。
それだけは、骨の奥に残っていた。
だから俺は、朝から体を動かしていた。
*
星屑の庭の朝は静かだ。
まだ誰もいない。
ファミリアは小さいどころか、実質、俺一人だ。
それでも、ここには生活の音がある。
井戸の水音。
風に揺れる草木。
遠くから聞こえる街のざわめき。
そして、自分の呼吸。
息を吐く。
中庭の土の上で、腕立て伏せを繰り返した。
一、二、三。
数はもう途中から数えていない。
大事なのは、どこに負荷が乗っているかだ。
ただの腕立てではない。
前世の記憶が、筋肉の部位をやけに明確に意識させる。
大胸筋。
上腕三頭筋。
三角筋。
どこへ入るか。
どこが抜けているか。
どの角度で押せばどこへ効くか。
前世の俺は、そこをかなり細かく見る人間だった。
考えながら鍛える。
ただ回数をこなすんじゃなく、効かせる。
筋肉は裏切らない。
負荷をかければ応える。
積めば変わる。
その単純さが、好きだった。
だが、この世界で必要になる強さは、それだけじゃない。
立ち上がる。
汗を拭う。
昨日買ったばかりの短剣を抜いた。
軽い。
だが、まだ手の一部ではない。
昨日のアストレア様の言葉を思い出す。
剣は体の延長。
力でねじ伏せようとすると、動きが死ぬ。
構える。
踏み込む。
横に薙ぐ。
重い。
筋力がないわけじゃない。
問題はそこじゃない。
筋肉が、互いに噛み合っていない。
胸の収縮が腕へ綺麗に乗らない。
下半身の踏み込みが腰で止まる。
背中を通って剣先まで流れるはずの力が、体の中で小さく渋滞している。
部位ごとに鍛える感覚は分かる。
でも、戦う動きは部位じゃ終わらない。
全部が一本に繋がらないと意味がない。
これが今の現在地だ。
「力が、体の中で反発し合っているわ」
声がした。
振り返る。
アストレア様が立っていた。
純白の衣が朝の光を受けて、やわらかく揺れている。
藍色の瞳は静かだ。
だが、その静けさはただ優しいだけではない。
ちゃんと見て、ちゃんと指摘する目だ。
「おはようございます、アストレア様」
「おはよう、レックス。朝早くから熱心なのね」
その声音に茶化しはない。
ただ、事実として受け取っている。
アストレア様は俺の足元へ視線を落とした。
「地面を蹴る力。それが腰を回り、背中を通り、腕から剣先へ乗っていく」
ゆっくりと、筋道をなぞるように言う。
「でも、あなたの体の中では、その流れが途中でぶつかっているわ」
的確だった。
「筋肉を、別々に動かそうとしてるからですね」
「ええ」
アストレア様は頷く。
「あなたは自分の体を、少し部品の寄せ集めみたいに扱っている」
そこで一歩近づいた。
「でも体は一つよ」
俺は短剣を下ろした。
目を閉じる。
想像する。
足から剣先まで。
一本の流れ。
地面を押した力が、膝、腰、背中、肩、腕を通って、最後に刃へ抜ける感覚。
計画する。
どこで余計な力みが入っているか。
どこを抜けば流れるか。
どこを先に動かせば、全体が崩れずに済むか。
実行する。
もう一度、構える。
肩の力を抜く。
手は握り込まない。
足から入る。
踏み込む。
足。
腰。
背。
腕。
剣。
風を切る音が、さっきより少しだけ鋭くなった。
「……少し、ましになりました」
「ええ」
アストレア様が微笑む。
「その“少し”の積み重ねが、あなたを強くするのよ」
汗が土へ落ちる。
繰り返すしかない。
新しい回路を、この体へ刻み込むまで。
動かなければ死ぬ。
なら、動ける形へ変えるしかない。
*
昼前まで、基礎だけを反復した。
重心。
足運び。
踏み込み。
戻り。
握り。
また重心。
地味だ。
地味で、退屈で、そして誤魔化しが利かない。
前世でもそうだった。
派手な重量や派手な見た目の変化ばかり追うと、土台が死ぬ。
土台が死ねば、いつか全部が崩れる。
アストレア様は短くしか言わない。
でも、その短さの中に無駄がない。
「今のは上体が早いわ」
「足を置き直して」
「肩で振らない」
「今の方がいい」
「止まりなさい、戻りが流れているわ」
一言ずつが、妙に重い。
ただ優しいだけの神じゃない。
ちゃんと、戦う子を育てる言葉を持っている。
昼前、ようやく止めが入った。
「今日はここまでにしましょう」
短剣を下ろす。
腕が重い。
脚も張っている。
だが、嫌な疲労じゃない。
ちゃんと積んだ疲れだ。
「一つだけ、見せるわ」
アストレア様が手を差し出す。
俺は短剣を渡した。
構える。
それだけで、違う。
同じ短剣なのに、まるで別物みたいだった。
力んでいない。
けれど緩んでもいない。
刃先が空気へ自然に溶け込み、そこにあるだけで“通る”と分かる。
次の瞬間、一歩。
たった一歩なのに、空気が変わる。
圧があった。
神の気配が、ほんの一瞬だけ剥き出しになったような感覚。
理屈より先に、体が後退を選びそうになる。
アストレア様はすぐに力を抜き、短剣を返した。
「これが、目指す先の一つよ」
穏やかな声。
でも、あまりにも遠かった。
「……遠いですね」
「そうね」
アストレア様は少しだけ笑う。
「でも、近づくことはできるわ」
その言い方が、この人らしかった。
できると断定しすぎない。
でも、前へ進む道は消さない。
*
昼間は街を走った。
持久力を鍛えるため。
地形を把握するため。
そして何より、生きるためだ。
暗黒期のオラリオは、どこに死が潜んでいるか分からない。
逃走経路の確保は、生存の絶対条件だった。
表通り。
横道。
酒場の並ぶ一帯。
荷車が詰まる路地。
巡回しやすい道。
逆に、一度入ると抜けづらい道。
頭の中へ地図を描く。
広く、浅く、だが見落とさないように。
酒場の裏手では、冒険者たちの会話が風に混じっていた。
「昨夜もダイダロス通りで殺しがあったらしいぞ」
「また闇派閥かよ……」
ダイダロス通り。
断片的な記憶が、その名だけに強く反応する。
複雑な路地。
迷路。
イヴィルスの影。
ろくでもない場所。
俺は脳内の地図へ、その一帯を危険地帯として刻み直した。
その時だった。
視線を感じた。
振り向く。
誰もいない。
だが、気配だけが残っている。
冷たい。
湿っていない。
むしろ、妙に乾いていて、計算され尽くしたような気配だ。
『一厘直観』が、ほんの一瞬だけ強く反応した。
敵意ではない。
殺気でもない。
観察。
値踏み。
そういう類だ。
路地の奥を睨む。
誰だ。
イヴィルスか。
暗殺者か。
それとも、ただの街の目端が利く人間か。
あるいは、俺と同じように何かの盤面を見ているイレギュラーか。
追う選択肢はあった。
だが、追わない。
今の俺に必要なのは、好奇心に任せた単独突入じゃない。
計画にない行動は、たいてい死を呼ぶ。
悔いなく選ぶというのは、やりたい方を選ぶことじゃない。
後で自分に説明できる方を選ぶことだ。
だから俺は、追跡を切った。
選ばなかった。
それもまた、選択だ。
*
夕方、星屑の庭へ戻る。
静寂が、街の喧騒をゆっくり剥がしていく。
井戸で水を浴び、汗と埃を落とす。
水が冷たい。
その冷たさでようやく、今日もまだ生きていると実感する。
腹が減っていることに気づく。
何かを食べなければ動けなくなる。
それは前世でも、この世界でも変わらない。
硬いパンを齧る。
水で流し込む。
味は大したことない。
でも、胃に落ちるだけで体は少し安心する。
体を維持する。
それが、最初の生存条件だ。
*
夜。
いつものベンチ。
星が瞬いている。
アストレア様が隣に座る。
届かない距離。
でも、体温とやわらかな香りはすぐそこにある。
「街は、どうだった?」
夜の静けさの中で、その声だけがやわらかく響いた。
「広くて、複雑で、狂ってました」
俺は答える。
「そうね」
アストレア様は否定しない。
「それが今のオラリオよ」
「イヴィルスの影が、街のあちこちに張り付いてる」
そこで言葉を切る。
藍色の瞳が、まっすぐ俺を見る。
「レックス」
「はい」
「あなたは、なぜ戦うの?」
唐突な問いだった。
だが、それを軽く流す気にはなれなかった。
俺は夜空を見上げる。
断片的な前世の記憶が、頭の奥で揺れる。
夜中。
スマホ。
読み漁った物語。
暗黒期の惨状。
イヴィルス。
アストレア・ファミリアが辿る残酷な終わり。
俺は、この世界についての知識を少し持っている。
だが、それは文字の上の知識だ。
ページの中で切り取られた、誰かの痛みだ。
今の俺は、血と肉を持った側にいる。
そして、もう一つ、ずっと残っている断片がある。
金髪の男。
真実を知りたがった男。
壁の外に何があるのか、それを知りたいというただそれだけのために、無数の命の先頭へ立った男。
正義でもない。
慈悲でもない。
もっと純粋で、もっと危ういもの。
好奇心。
その狂気的な渇きに、俺は前世で妙に惹かれていた。
そして、今の自分の中にも、たぶん同じものがある。
「……知りたいからです」
断言する。
「知りたい?」
アストレア様が少しだけ首を傾げる。
「俺は、彼らのことを文字の上でしか知らない気がしてるんです」
「彼ら」
「イヴィルスです」
言い切る。
「暗黒期と呼ばれるこの時代。あいつらが、なぜそこまで狂えるのか。街を壊し、人を殺し、混沌を撒き散らす。その根幹に何があるのか」
想像する。
悪意。
信仰。
思想。
絶望。
どれか一つじゃないかもしれない。
でも、そこを知らずに切るのは、たぶん浅い。
「もし根幹がただの悪意なら、俺は躊躇なく切ります」
夜の空気は静かだった。
「もし別の“正しさ”があるなら、それは俺の正しさとぶつけるしかない」
だから知りたい。
スマホの画面越しじゃ絶対に分からないものを。
敵の、本当の核を。
「好奇心が、戦う理由の一つです」
俺は言う。
「知らなければ、計画も実行もできない」
アストレア様は静かに聞いていた。
表情は大きく変わらない。
でも、聞いているのは分かる。
「……危うい理由ね」
「そうですか」
「ええ」
アストレア様は少しだけ視線を落とした。
「深淵を覗く者は、深淵からも見つめ返されるわ。好奇心は、人を遠くまで連れていく。でも時々、そのまま戻れなくする」
藍色の瞳が、もう一度こちらへ向く。
「でも」
その“でも”が静かに落ちた。
「嘘はないわね」
その一言が、妙に重かった。
「正義を探すために、まず悪の根幹を知ろうとする。まっすぐではないけれど、あなたらしいのかもしれない」
「アストレア様も、知りたいですか」
「私は神だから」
少しだけ笑う。
けれど、その笑みは遠い。
「子どもたちの行く末を見守る立場よ。でも……」
そこで、俺へ体を向けた。
「あなたがその答えを見つけるまで、私はここで、あなたの話を聞くわ」
受け取る練習。
俺はその言葉を、そのまま受け取る。
疑わない。
謙遜しない。
逃がさない。
「やります」
短く言った。
「俺が答えを見つけて、ここへ持ち帰ります」
アストレア様が小さく頷く。
「ええ。約束よ、レックス」
星明かりの下で、自分の核が少しだけ形になる。
正義。
好奇心。
生存本能。
綺麗ではない。
でも、たぶん嘘ではない。
*
「明日は、ギルドへ行ってきます」
俺が言うと、アストレア様は静かに頷いた。
「いよいよ、ダンジョンへ繋がるのね」
「はい。実戦で、この体がどう動くか見ます」
「気をつけて」
アストレア様の声が少しだけ低くなる。
「ダンジョンには、街とは違う狂気があるわ」
「やります」
立ち上がる。
「必ず、生きて戻ります」
アストレア様はベンチに座ったまま、俺を見上げた。
「待っているわ、レックス」
その一言が、妙に背中へ残る。
届かない距離。
でも、この人は確かにここで待っている。
俺はダンジョンへ続く明日を想像した。
汗。
星。
少しずつ積み上げたもの。
それが初めて試される場所。
何も分からないままではない。
でも、十分に分かっているわけでもない。
だから選ぶ。
今の自分で踏み込むと。
悔いなく。
少なくとも、あとで自分に嘘をつかずに済むように。
第3話 汗と、星と、選ぶ理由 了