第6話 迷宮の鼠と、泥の最初の牙
夕暮れの星屑の庭は、妙に静かだった。
西の空に溶けかけた赤が、石畳へ薄く流れ、井戸の水面を鈍く染めている。昼の熱が抜けきらない空気の中、草木だけが先に夜を知っていた。
その庭の中央に、ザイロとパトーシェが並んで立っていた。
並んでいる、というだけで、噛み合っているわけではない。
片方は、気怠げな目で世界の全部を面倒くさそうに見ている暴力の化身。
もう片方は、背筋を真っ直ぐに伸ばし、今にも王の前で宣誓でも始めそうな顔をしている女騎士。
水と油。
現実と狂信。
汚れ仕事と正面突破。
普通に考えれば、同じ場所へ置かない方がいい二人だった。
少なくとも、仲良くやれる類ではない。
だが、その正面に立つアストレア様は、そんな相性の悪さすら織り込んだ上で、静かに二人を見ていた。
純白の衣。
胡桃色の長い髪。
藍色の瞳。
庭の空気そのものみたいに澄んでいて、それでいて曖昧に揺れない。
俺は少し後ろに立って、その光景を見ていた。
ここまで連れてきたのは俺だ。
ザイロには、神嫌いと同族嫌悪を真正面から突きつけた。
パトーシェには、正義だけでは人を救い切れない現実を見せた。
綺麗な勧誘じゃない。
むしろ脅しと挑発と、悪魔の取引の合わせ技だ。
でも、だからこそここへ来た。
この二人は、情に流されてファミリアへ入るような人間じゃない。
理屈か、必要か、あるいは自分が呑み込めるだけの何かがなければ動かない。
アストレア様が、静かに口を開いた。
「ザイロ。パトーシェ。改めて尋ねます」
柔らかい声だった。
だが、神としての重みが確かにある。
「あなたたちは、私の眷属となり、この家で生きる覚悟がありますか」
パトーシェは即座に片膝をついた。
「あります、アストレア様! 私は貴女様の剣となり、盾となり、民を守るためこの命の全てを――」
「そこまででいいわ」
アストレア様が少しだけ困ったように笑う。
「命は、そこまで安くしてはいけないの」
パトーシェが顔を上げる。
目に迷いが走った。
「ですが、騎士たるもの主君のために命を賭すのは当然で――」
「命を賭けることと、命を投げることは違うわ」
穏やかな口調。
けれど、刃は入っている。
「正義のためなら死んでもよい。そう思ってしまうのは、あなたの美点でもあり欠点でもあるのでしょうね」
パトーシェの肩がわずかに震えた。
図星だった。
「でも、死ねばそこで終わりよ。あなたが守りたいものも、あなた自身が生きていなければ、次には繋がらない」
短い沈黙。
パトーシェは拳を強く握りしめて、それから頭を垂れた。
「……心得ました。ならば私は、生きて戻ることで貴女様の正義を支えます」
「ええ。よろしくね、パトーシェ」
そのやり取りを横目に、ザイロは露骨に顔をしかめていた。
「……俺は神ってもんが嫌いだ」
低い声。
吐き捨てるような言い方だった。
パトーシェが反応しかける。
俺は手で制した。
ザイロは続ける。
「今でもな。頭を下げる気もねぇし、綺麗事に付き合う気もねぇ。俺は俺のやり方でやる。気に食わねぇことがあれば噛みつくし、邪魔ならぶっ壊す」
「ええ」
アストレア様は頷いた。
否定しない。
叱責もしない。
ただ、その言葉をそこに置いたまま受け止める。
ザイロの眉間の皺が深くなる。
たぶん、それが一番やりにくいんだろう。
「……それでもいいのかよ」
「いいも悪いもないわ」
アストレア様は静かに言う。
「あなたはあなた。背負ってきたものも、嫌っているものも、今ここにあるのでしょう?」
ザイロは答えない。
「なら、そのままで来なさい。無理に綺麗になる必要なんてないわ。ただし」
藍色の瞳が、ほんの少しだけ鋭くなった。
「仲間を切り捨てるための力にはしないで。あなたの暴力は、踏み潰すためではなく、守るために振るってちょうだい」
ザイロの喉がわずかに動いた。
分かりやすい動揺じゃない。
でも、刺さったのは見て取れた。
この男は神を嫌う。
だが同時に、目の前で納得のいかない死に方をされることも嫌う。
だから、その言葉だけは無視できない。
「……勝手にしろ」
ようやく出た声は、少し掠れていた。
「俺は誰にも従わねぇ。俺のやり方でやる」
「ええ。それで十分よ」
アストレア様は笑った。
拒絶しきれなかった。
それで足りる。
俺は心の中で小さく息を吐く。
これで形だけは整った。
後は刻むだけだ。
アストレア様が銀の針を取り出す。
「レックス。あなたも見ておきなさい」
「……はい」
「これが、あなたが最初に仲間を迎える夜なのだから」
その言い方に、少しだけ妙な感覚が走る。
俺にとって、この二人はもう戦力だった。
配置を考えるべき駒で、うまく噛み合えばイヴィルスへ刺さる牙だ。
でもアストレア様は違う。
彼女はまず家族として迎える。
まだその感覚は、俺にはよく分からない。
分からないが、必要なんだろうとは思う。
最初に恩恵を刻まれたのはパトーシェだった。
上着をずらし、背を見せる。
女の身体だ。
だが細いだけではない。
鍛えられている。
それ以上に、無数の浅い傷が目についた。
迷いなく前に出て、迷いなく削ってきた身体だ。
「少しだけ、痛いわよ」
「望むところです!」
「そういう元気は抑えてもいいのよ?」
針が落ちる。
血が一滴。
神聖文字へ変わる。
アストレア様の指先が滑るたび、パトーシェの肩がかすかに震えた。
やがて光が収まり、アストレア様が読み上げる。
【名前】パトーシェ・キヴィア
【Lv.1】
【力】I
【耐久】H
【器用】I
【敏捷】I
【魔力】I
【スキル】
『正断強化』
――己が「正しい」と信じた行為に対し、白兵戦闘能力へ補正。
パトーシェは目を見開いた。
「……これが、神の恩恵……」
「あなたの正しさは、もう形になっていたのね」
アストレア様の言葉に、パトーシェは唇を引き結ぶ。
「私はまだ未熟です。ですが、この力、必ず正しきために振るいます!」
「ええ。期待しているわ」
次はザイロ。
最後まで嫌そうな顔をしていたが、逃げはしなかった。
観念したように上着を脱ぎ、背を向ける。
傷の質が違う。
剣傷や打撲だけではない。
潰された痕。
砕かれた痕。
自分の身体を壊してでも前へ出た者の傷。
アストレア様の目が、ほんの一瞬だけ痛ましげに揺れた。
「……重いものを背負っているのね」
「知ったような口を利くな」
「知ったような口ではありません。見たままを言っただけよ」
ザイロは黙る。
針が落ちる。
血が滲む。
神聖文字が浮かぶ。
ザイロの肩がぴくりと震えた。
こいつはたぶん、言葉より現実の方を見る。
神の慈悲だとか、優しさだとか、そういうものより、今背に刻まれている変化そのものを。
光が収束する。
【名前】ザイロ
【Lv.1】
【力】H
【耐久】H
【器用】I
【敏捷】I
【魔力】I
【スキル】
『冷静算定』
――戦場における情報処理能力、肉体運用精度、暴力行使の最適化に補正。
「……嫌な名前しやがる」
ザイロが鼻で笑う。
「まるで俺が根っから計算高いみてぇじゃねえか」
「違うのか?」
俺が言うと、ザイロは露骨に嫌そうな顔をした。
「お前にだけは言われたくねぇよ」
「でも、あなたらしい力ね」
アストレア様がそう言うと、ザイロは一瞬だけ目を細めた。
「……らしい、ねぇ」
皮肉半分。
困惑半分。
完全には否定しなかった。
最後に、俺。
アストレア様が俺を見た。
「レックス。あなたも更新しておきましょう」
「今ですか」
「今よ。三人が並んで始まるのなら、三人とも同じ夜に刻んでおきたいもの」
背を向ける。
針が落ちる。
痛みはもう、最初ほどではない。
血が落ち、神聖文字が浮かぶ。
【名前】レックス
【Lv.1】
【力】I
【耐久】I
【器用】H
【敏捷】H
【魔力】I
【スキル】
『一厘直観』
――不利な状況下において、直観・判断速度・解決精度に大幅補正。
「……器用と敏捷、また伸びてるな」
俺が小さく呟くと、アストレア様が言った。
「あなたは、力で押し切るタイプではないのね」
「嬉しくねえ分析だな」
「でも、あなたらしいわ」
その一言が妙に残った。
儀式が終わり、三人とも服を整える。
夜風が中庭を抜けた。
パトーシェは、新しい勲章でも得たみたいに背筋を伸ばしている。
ザイロは、余計な鎖を一本つけられたみたいな顔だ。
俺はその中間で、現実だけを見ていた。
三人になった。
一人ではできないことが増える。
同時に、失うものも増える。
アストレア様が俺たちを見回した。
「今日から、あなたたちは私の眷属です。そして、同時に家族でもあるわ」
ザイロが露骨に眉をひそめる。
「家族ごっこは勘弁しろ」
「ごっこじゃないのよ」
「……」
「家族だからこそ、ぶつかるし、呆れるし、腹も立つ。時には殴り合うことだってあるでしょう。でも、それでも帰ってくる場所を同じにするのが家族よ」
ザイロは何も言わない。
パトーシェは少し潤みかけている。
俺はやはり、その感覚に半歩だけ置いていかれる。
けれど、悪くないとも思った。
そこでアストレア様が俺を見る。
「あなた、もう次のことを考えている顔をしているわね」
図星だった。
ザイロが笑う。
「はっ。こいつ、儀式の途中から次の盤面見てたぜ」
「悪いか」
「別に。そういうとこが気持ち悪いだけだ」
パトーシェが一歩前へ出る。
「ならば次の任務を告げろ、レックス! この新たな力、民のために一刻も早く使うべきだ!」
「お前はもう少し余韻に浸るとかできねえのか」
「できるが!? だが行動は早い方がよい!」
「できてねえだろ、それは」
アストレア様が小さく笑う。
「もうだいぶ賑やかね」
その笑いを背に、俺は現実へ頭を切り替えた。
「任務はある」
空気が締まる。
「ダイダロス通り周辺で、ここ数日イヴィルスの下っ端の動きが増えてる。荷の運び込み、見張り、巡回ルート。雑魚の動きにしては統率が綺麗すぎる」
ザイロが目を細めた。
「巣があるな」
「ああ。しかも一つや二つじゃない。路地単位じゃなく、もっと深い導線で動いてる」
パトーシェが問い返す。
「どう動く」
「今夜から探る」
「今夜?」
アストレア様が少しだけ眉を上げた。
「夜の方が連中も動くし、こっちも尾行しやすい。正面から行っても、尻尾は掴めない」
パトーシェがむっとする。
「まるで私の正面突破が悪いみたいに言うな」
「悪い」
「即答か!?」
「強いが雑だ。だから役割を分ける」
俺は三本指を立てた。
「ザイロ。お前は影だ。殺気を殺して尾行しろ。見つかるな。見つかっても、見つかったと思わせるな」
「注文が細かいな」
「お前ならできる」
ザイロは鼻を鳴らした。否定しない。
「パトーシェ、お前は囮だ」
「囮!?」
案の定、声が裏返る。
「路地の連中に見える位置で巡回しろ。正義の騎士らしく堂々とな。お前が表に出れば、連中は必ず様子を見る。その視線の流れで監視線が割れる」
「私は斬らなくていいのか」
「必要なら斬れ。だが今日は殺しすぎるな。逃がせ」
パトーシェの顔が明らかに曇る。
「逃がした敵が、別の誰かを襲ったらどうする」
いい質問だった。
「だから、逃がす奴は俺とザイロで選ぶ」
俺は即答した。
「傷を負わせて、焦って巣へ戻る雑魚だけ残す。殺意の強い奴、一般人に流れる奴、統率役は潰す」
ザイロが小さく笑う。
「えげつねぇ」
「必要なことだ」
「分かってる。だから笑ってんだ」
「俺は全体を見る。お前らの動きと、敵の逃走経路を繋いで巣穴を割る」
アストレア様が、俺たち三人を見た。
「それが、あなたたちの初任務になるのね」
「ああ」
「では、その班にはもう名前があるのかしら」
少しだけ間があいた。
さっきザイロに言われたことを思い出す。
名はある。
もう置いた。
だったら、ここで口にすべきだ。
「ブラックスター・ヴァンガード」
俺は言った。
「通称、シャドウコア」
パトーシェが小さく息を呑む。
「影の中核、か」
「裏で動く。泥を啜る。誰かが見たがる名じゃない。でも、必要な名だ」
ザイロが肩をすくめた。
「長ぇが、嫌いじゃねぇ」
「私も異論はない」
これで決まった。
まだ三人だ。
まだ中身は歪だ。
だが、名がついた。
動いたことは消えない。
*
夜が落ちる。
ダイダロス通りは、昼よりさらに腐っていた。
酒。
汗。
血。
安い香。
どこかで刃物が石を擦る音。
建物は密集し、灯りは少ない。
視線の抜けが悪い。
いい場所だ。
敵も味方も化けやすい。
俺たちは散った。
パトーシェは隠れない。
銀の籠手も槍も隠さず、堂々と路地を巡回する。
あまりに分かりやすい。
だから餌になる。
ザイロは消えた。
あの体格で気配を殺せるの、本当に質が悪いなと思う。
俺は屋根伝いに動く。
高所から路地の流れを追う。
『一厘直観』が、微かなざらつきを拾い始めた。
いる。
酔っ払いを装う男。
窓際の老婆。
物乞いの子ども。
配置が綺麗すぎる。
雑魚の置き方じゃない。
パトーシェが、ちょうどその視線の交差点を横切る。
酔っ払いが顔を上げる。
老婆が窓を閉じる。
子どもが立ち上がる。
線が繋がった。
「ザイロ」
小さく呼ぶ。
返事はない。
だが、気配が一つ動いた。聞こえている。
パトーシェが足を止める。
「出てこないのか、悪党ども!」
ほんとに馬鹿正直だ。
だが、餌としては一級品だった。
奥の通路から二人。
横の階段から一人。
背後の路地から二人。
イヴィルスの下っ端がじわじわ集まってくる。
数は五。
でも本命はそいつらじゃない。
さらに奥。
暗がりに、動かない一人がいる。
指示役だ。
俺は屋根から降りた。
「パトーシェ、正面の二人だけ潰せ」
「了解!」
槍が閃く。
一人目の手首を砕く。
二人目の膝を払う。
殺していない。
ちゃんと命令を守っている。
残り三人のうち、一人が走った。
「ザイロ、そいつだ」
闇が動く。
逃げた男の影が、不自然に止まり、裏路地へ吸い込まれるように消えた。
悲鳴はない。
口を塞いで連れていったんだろう。
残り二人が俺へ来る。
短剣を抜く。
想像する。
距離。
腕の長さ。
路面。
腰の向き。
計画する。
一人目の刃を半歩で外し、二人目の視界に一人目の身体を挟む。
実行する。
刃を躱す。
懐へ入る。
柄で顎を跳ねる。
二人目の棍棒を一人目へぶつけさせる。
膝裏を切る。
崩す。
血。
叫び。
『一厘直観』が、不利な状況だからこそ研ぎ澄まされる。
殺さない。
今日は殺しすぎない。
俺は一人の肩を深く裂き、あえて逃げられる傷に止めた。
「行け」
男は一瞬だけ戸惑った。
だが次の瞬間には、本能のまま走った。
俺は追う。
路地。
階段。
崩れかけた倉庫裏。
そこで男は、古びた石蓋みたいな床板を叩いた。
内側から開く気配。
地下。
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
自然じゃない。
隠れ家にしては、構造が綺麗すぎる。
階段。
石組み。
古い。
だが、最近使われている痕跡がある。
靴底の泥。
荷の擦れ。
油の匂い。
「……なるほど」
匂いが濃くなった。
まだ名前までは断定しない。
だがこれはただの隠れ家じゃない。
街の下に、もっと大きなものが走っている。
逃げ込もうとした男の首根っこを、闇から伸びた手が掴んだ。
ザイロだ。
「ここでいいか?」
「ああ。そいつは潰せ」
「最初からそう言えよ」
嫌な音。
男が泡を吹いて落ちる。
少し遅れてパトーシェが追いつく。
「地下通路……!」
彼女の声に、わずかな緊張が混じった。
「まさか、こんなところに」
「入口の一つだろうな」
俺は石組みをなぞる。
「俺たちが見てたのは表面だけだ」
ザイロが珍しく真面目な声を出した。
「レックス」
「何だ」
「お前、最初からこれを疑ってたな」
「確信はなかった。だが、連中の消え方が変だった」
パトーシェが地下口を見つめたまま問う。
「潜るのか」
その問いには、期待も混じっていた。
ここで踏み込めば、悪を断てる。
そう思っている顔だ。
「潜らない」
即答した。
パトーシェの顔が少し曇る。
「何故だ。今なら――」
「準備が足りない」
切る。
「戦力も、地図も、逃げ道も、何もない。ここで正義感だけで潜れば、三人まとめて死ぬ」
パトーシェは反論しかけて、止まった。
苦い顔だ。
飲み込みきれていない。
でも、分かってはいる。
「……了解した」
それでもちゃんと引いた。
そこは成長だ。
俺は少しだけそいつを見る。
「学習したな」
「当然だ。私は愚かではない」
「声がでけえ」
「貴様がいちいち煽るからだ!」
ザイロが肩を回した。
「帰るぞ。眠ぃ」
*
星屑の庭へ戻る頃には、夜は深くなっていた。
アストレア様は、まだ中庭で待っていた。
ベンチの上に、三つのカップ。
「おかえりなさい」
その一言に、パトーシェの顔が少し緩み、ザイロは露骨に視線を逸らした。
俺は簡潔に報告する。
「監視線を確認。逃走経路を追って地下入口を一つ割った。まだ全容は不明だが、路地の拠点って規模じゃない」
アストレア様の目が細くなる。
「……地下都市のようなもの、かしら」
「まだ分からない。だが、そういう類の匂いはする」
軽々しくは言わない。
そこがいい。
「でも、見つけたのね」
「ええ」
「あなたたち三人で」
カップを受け取る。
温かい液体が冷えた喉を落ちていく。
沈黙。
嫌な沈黙ではない。
死地から戻った人間だけに許される、短い休戦だった。
しばらくして、アストレア様が言う。
「初任務、お疲れさま。今日は三人ともよく動いたわ」
パトーシェが少しだけ誇らしそうに胸を張る。
ザイロは何も言わない。
ただカップを傾ける。
俺は夜気を吸い込んだ。
これで終わりじゃない。
むしろ始まりだ。
地下がある。
イヴィルスの根は、思っていたよりずっと深い。
なら、こっちも潜るしかない。
光で届かないなら、泥の側から喉笛を食い破る。
「アストレア様」
「なあに、レックス」
「シャドウコア、って呼び方。使わせてもらう」
アストレア様が小さく笑う。
「ええ。あなたたちらしいわ」
「らしい、か」
「星の光が届かない場所へ潜っていく子たちの名としては、悪くないでしょう?」
その言葉を、俺はそのまま受け取る。
疑わない。
謙遜しない。
受け取る練習だ。
ザイロがカップを置いて立ち上がる。
「明日も行くんだろ」
「ああ」
「なら寝る。お前ら二人の相手してると余計に疲れる」
「待てザイロ! 誰がお前の疲労の原因だ!」
「お前以外にいるかよ」
また始まる。
でも、そのやり取りを聞きながら、俺は少しだけ思う。
悪くない。
綺麗な戦隊じゃない。
正義だけで組まれた部隊でもない。
業を抱えた暴力と、不器用な正義と、俺みたいな泥まみれの指揮役。
その三つが、今夜ようやく一つの形になった。
俺は立ち上がる。
視線の先には、静かな星空。
その下に、地上からは見えない地下の闇。
想像する。
その中にある中枢を。
そこへ至る導線を。
俺たちが踏み込む未来を。
計画する。
戦力。
囮。
追跡。
制圧。
撤退。
代償。
実行する。
その時は、もう近い。
動いたことは消えない。
今夜の発見も、今夜刻んだ恩恵も、俺たち三人の歪な始まりも、全部が次の盤面へ繋がっていく。
暗黒期のオラリオで、正義はまだ細い。
細いからこそ、折らせない。
その裏側を、俺たちが泥まみれで支える。
ブラックスター・ヴァンガード。
通称、シャドウコア。
その最初の牙は、今夜、確かに地下の闇を捉えた。
第6話 迷宮の鼠と、泥の最初の牙 了