悔いなき選択 ※休止   作:Jefflocka

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第7話 地図にない脈動、禁域への降下

第7話 地図にない脈動、禁域への降下

 

 星屑の庭の朝は静かだった。

 

 静かだが、穏やかではない。

 

 昨夜持ち帰った不穏が、庭の石畳の下にそのまま沈んでいる。ダイダロス通りの地下。あの不自然な石造の導線。荷の擦れた跡、複数人の足運び、補修材の流れ。あれは追い詰められた末端が逃げ込むための穴じゃない。人と物を継続的に流し込むための血管だ。

 

 つまり、街の下にもう一つの街がある。

 

 俺は早朝から中庭の片隅に粗末な机を引っ張り出し、羊皮紙を何枚も広げていた。昨夜見た入口の位置。見張りの目線。逃走経路。崩れた倉庫。半壊した工房跡。石材の沈み方。油の匂いがした場所。断片を線へ、線を面へ寄せていく。

 

 地図にならない地図だ。

 

 今の俺たちに、全体図なんて描けるわけがない。だからせめて、嘘でもいいから“仮の全体”を引く必要がある。仮説がなければ、次に何を確認すべきかも決められない。

 

 木炭の先で、俺はゆっくり線を足した。

 

 路地。

 袋小路。

 井戸。

 使われなくなった石階段。

 そして地下入口候補。

 

 一本、二本、三本。

 

「……やっぱり、街の下にもう一枚骨組みがあるつもりで考えた方が自然か」

 

 呟いたところで、背後から足音がした。

 

「レックス! 起きていたのか!」

 

 いや、起きていたも何も寝ていない。

 

 振り返るまでもなくパトーシェだった。朝の空気に遠慮なく裂け目を入れる声だ。悪意はない。ただ無駄に通る。

 

「起きてる。っていうか寝てない」

 

「なっ!? それはいかん! 睡眠不足は判断を鈍らせるぞ!」

 

「知ってる。だから、鈍る前に材料を揃えてる」

 

 パトーシェは机の上の羊皮紙を覗き込み、眉を寄せた。こいつは字を読むのは速い。だが、複数の情報を一枚へ重ねる作業にはまだ慣れていない。線の意味を一つずつ解いてから全体を見るタイプだ。

 

「これは……昨夜の路地か」

 

「ああ。見張りの目線と逃走経路、それから地下入口を引き直してる」

 

「敵拠点を突き止めるためか」

 

「正確には、“どこまで地下導線が広がってるか”を仮定してる」

 

 言い終わるのとほぼ同時に、もう一つの気配がぬるりと近づいてきた。

 

「……朝からうるせぇな」

 

 ザイロだ。

 

 寝癖もそのまま。片手で頭を掻きながら、露骨に機嫌の悪い顔で歩いてくる。だが、わざわざ起きてきた時点でこいつも同類だった。気になるから来た。来たくない顔をしているだけで。

 

「お前も寝てない顔してるな」

 

「誰のせいだと思ってやがる。昨夜拾った匂いが気持ち悪すぎて、逆に目が冴えた」

 

 ザイロは机に片肘をつき、地図を見下ろした。数秒で全体をざっと読み、それから短く言った。

 

「この入口だけじゃねぇな」

 

「だろうな」

 

 パトーシェが二人の顔を交互に見た。

 

「なぜそう断言できる」

 

 俺は羊皮紙の隅を指で叩いた。

 

「昨夜の入口は、逃げ込み先として整いすぎてた。追われた末端が迷わず飛び込めるってことは、周知されている導線だ。そんなものが一本しかないなら、逆に脆すぎる」

 

 ザイロが補足する。

 

「しかも見張りの置き方が点じゃなく線だ。地上側で監視を散らして、いざとなったら地下へ流す。そういう設計なら、入口は複数ある」

 

 パトーシェは腕を組み直した。今度は地図じゃなく、俺を見る。

 

「……いや、待て。理屈は分かる。だが、貴様はいつもそうだ」

 

「何が」

 

「盤面を見るのが早すぎる」

 

 ザイロが鼻を鳴らした。

 

「それは俺も思ってた」

 

 パトーシェは続けた。

 

「敵の視線、逃走経路、残す敵、捨てる敵。どれも判断が早すぎる。冷静というより、時々冷たすぎるほどだ」

 

「褒めてるのか」

 

「褒めてはいない」

 

 即答だった。

 

 ザイロも続ける。

 

「普通の新人は、もう少し目の前の血に引っ張られる。だが、お前は一歩引いて全体を見る。それも、嫌々やってる顔でな」

 

 嫌な言い方だが、外れていない。

 

 俺は木炭を指先で転がした。黒い先端が、地図にならない地図の上で乾いた音を立てる。

 

「……癖みたいなもんだ」

 

「癖で済ませるな」

 

 パトーシェが即座に切った。

 

「貴様の判断には、場数だけでは説明できないものが混じる。仲間を一歩退かせる時も、敵を一人あえて逃がす時も、まるで最初から“全体がどう崩れるか”を知っているように見える」

 

 ザイロが低く言う。

 

「誰かに叩き込まれたのか」

 

 少しだけ間が空いた。

 

 朝の光はまだ柔らかい。石畳は冷たく、湯気の立つカップだけが細く熱を昇らせている。その筋を見ながら、俺は言葉を選んだ。

 

 そのまま言うわけにはいかない。

 

 前世の記憶。夜更けのスマホ。壁の向こうの真実を知りたがって、何百、何千の屍の上に立ち続けた金髪の男。あの異常な好奇心と冷徹さを、そのまま説明してもたぶん伝わらない。

 

 だから、少しだけ濁す。

 

「……昔、知ったんだよ」

 

「何をだ」

 

「どれだけ正しいことを叫んでも、盤面を見誤れば全員死ぬってことを」

 

 二人とも黙った。

 俺は続ける。

 

「頭の中に、断片的な記憶がある。夢みたいなもんだ。そこで、ひどく厄介な教えを残した奴がいた」

 

「教え?」

 

「金色の髪をした、どうしようもなく厄介な団長だ」

 

 ザイロの目が少しだけ細くなる。

 パトーシェも先を待った。

 

「そいつは、綺麗事だけじゃ人は救えないと知ってた。情で突っ込めば兵は死ぬ。怒りに任せれば盤面が崩れる。だからまず全体を見ろって言ってた」

 

 木炭を一本、入口候補の線の上へ滑らせる。

 

「目の前の一人に引っ張られるな。だが、目の前の一人を切り捨てる時は、その意味を背負え。何を捨て、何を残すか、自分で決めろってな」

 

 パトーシェの喉がわずかに動いた。

 

「……その団長は、正義の人間だったのか?」

 

 その問いに、ほんの少しだけ笑いそうになる。

 

「さあな。少なくとも、綺麗な人間じゃなかった」

 

「では、なぜ貴様はその教えを信じる」

 

「結果的に、一番多くを生かすためだ」

 

 即答した。

 

「冷たく見えても、盤面を見て切るしかない時がある。全員を抱えて沈むより、何を残すか決めて進む方がまだマシだ。……そいつは、それを骨の髄まで知ってた」

 

 ザイロが小さく息を吐く。

 

「なるほどな。だからお前、時々やたらと腹括ってんのか」

 

「括りたくて括ってるわけじゃない」

 

「だろうな。お前は割り切ってる奴の目じゃねぇ。割り切れないまま切ってる目だ」

 

 その言い方は、妙に正確だった。

 

 俺は少しだけ目を伏せる。

 

「……俺は、そいつみたいにはなれないよ」

 

「なぜだ」

 

 パトーシェの問いに、俺は肩をすくめた。

 

「俺にはまだ温い部分が残ってる。切るたびに腹が立つし、仲間を駒として置くたびに気分が悪い。だからせめて、盤面だけは見誤らないようにしてる」

 

 風が庭の木立を揺らした。

 

 しばらくしてから、パトーシェが静かに言う。

 

「……なるほど。冷酷なのではなく、冷酷であろうとしているのか」

 

「違うな」

 

 ザイロが先に否定した。

 

「こいつは冷酷になりきれてねぇ。だが、判断だけは冷やすように自分へ言い聞かせてる。そういう感じだ」

 

「うるせぇ」

 

「図星だろ」

 

「半分はな」

 

 パトーシェは腕を組み直し、だが今度の視線にはさっきまでの刺がなかった。

 

「その金髪の団長とやら、気に食わん教えを残す男だな」

 

「同感だ」

 

「だが……嫌いではない」

 

 少し意外だった。

 

「貴様がただ人を切り捨てるために盤面を見るのではなく、生かすために見ているのなら、その教えにも騎士として学ぶ余地はある」

 

 俺は一瞬だけ目を瞬いた。

 

 パトーシェがこういう形で折れるのは珍しい。

 ザイロは肩をすくめる。

 

「ま、要するにあれだろ。お前の頭の回し方には、出所不明のタチの悪い師匠がいるってことだ」

 

「だいたい合ってる」

 

「で、その師匠に習った結果がこの趣味悪い地図か」

 

「褒め言葉として受け取っとく」

 

「悪口だっつってんだろ」

 

 そこへ、ちょうどアストレア様が中庭へ出てきた。

 

 湯気の立つカップを三つ、盆に載せている。俺たちの空気を一目見て、少しだけ目を細めた。

 

「何だか、少しだけ互いを知れた顔をしているわね」

 

 ザイロがそっぽを向き、パトーシェが咳払いをする。

 

「ええ。少しだけ、ですけどね」

 

 アストレア様は小さく笑ってカップを置いた。

 

「それで、会議は進んでいるかしら」

 

 俺は羊皮紙を見せる。

 

「地下導線は複数あるはずです。昨夜の入口はその一つ。問題は、どこまで潜るか」

 

「あなたは、もう潜るつもりなのね」

 

「ええ。匂いを嗅いだ以上、放置する方が危ない」

 

 アストレア様は少しだけ黙った。藍色の瞳が、地図ではなく俺の顔を見ている。

 

「無茶はするの?」

 

「する」

 

 即答したら、パトーシェが「正直すぎる!」と額を押さえ、ザイロが鼻で笑った。

 

「だが無策ではない。今夜は入口の“使われ方”を確かめる。荷の流れ、人の流れ、監視線の重さ。そこまで」

 

 アストレア様はため息とも微笑みともつかない吐息を漏らした。

 

「分かったわ。ただし条件が二つ」

 

「聞きます」

 

「一つ。地下で未知の広域構造を見つけても、今日の時点では深入りしないこと」

 

「了解です」

 

「もう一つ。帰ってきたら必ず更新すること。昨夜の働きで、三人とも何かしら動いているはずよ」

 

 ステータス更新。

 神の恩恵は戦いの記録だ。血と泥と死線の結果を確認すること自体が、次の作戦の材料になる。

 

「了解」

 

「うむ!」

 

「……めんどくせぇ」

 

 三者三様の返事に、アストレア様はやはり笑った。

 

「では、朝食を摂ってから動きなさい。空腹の兵は、賢い兵ではないわ」

 

 柔らかい言い方だ。

 だが中身は戦場の命令に近い。飢えた人間は判断を誤る。

 

 朝食を終えた後、俺たちは市街へ出た。

 

 目的は二つ。

 一つは地上側の出入口候補をさらに洗うこと。

 もう一つは地下探索用の最低限の装備を揃えること。

 

 ダイダロス通り近辺は、朝だというのに空気が重い。市場は開いているし、人も多い。だが、その顔には薄い怯えが張り付いていて、笑顔の輪郭だけが浮いている。

 

「ここ、本当に昼間なのか?」

 

 パトーシェが小声で言う。

 

「暗黒期の裏通りに、健全な昼なんて期待すんな」

 

 ザイロが吐き捨てた。

 

 俺たちは露店をいくつか回り、油布、簡易ランタン、細縄、木炭、石片を買い集めた。木炭は壁へ印を残すため。石片は分岐ごとの足元へ落として戻る際の目印にするため。細縄は縦穴や崩落の確認用。ランタンは最悪の時だけ使う。普段は暗闇へ目を慣らす方がマシだ。

 

「まるで盗掘屋だな」

 

 ザイロがランタンを指で弄びながら言う。

 

「似たようなもんだ。違うのは、掘り出すのが金じゃなく敵の根ってだけで」

 

「趣味悪ぃ」

 

「褒め言葉か?」

 

「いや、普通に悪口だ」

 

 その横で、パトーシェは油布と縄を抱えてむすっとしていた。

 

「私は正義の騎士として、もう少し堂々とした装備が良いのだが」

 

「地下で槍が引っかかって死ぬよりマシだ」

 

「ぐっ……」

 

「今日は正面突破の日じゃねぇ。鼠みたいに潜る日だ」

 

 ザイロにまで言われて、パトーシェは露骨に不満そうな顔をした。だが、荷を放り出しはしない。気に食わなくても必要だと分かれば従う。そこは優秀だ。

 

 昼前、俺たちはギルドにも寄った。

 

 依頼を受けるためじゃない。ダイダロス通り近辺の未解決案件、失踪報告、資材流通の異常。そういった“数字になっている歪み”を拾うためだ。

 

 受付には、以前登録した時と同じ疲れた顔の職員がいた。俺を見るなり、わずかに眉を上げる。

 

「……アストレア・ファミリアの新人さん、でしたね」

 

「レックスです」

 

「ええ、覚えています。生きて戻ってきているようで何よりです」

 

 それだけで十分だ。暗黒期のギルド職員にとって、「また生きていた」は立派な挨拶なんだろう。

 

「少し確認したいことがある。ダイダロス通り近辺の物資流通と、失踪件数の傾向を教えてほしい」

 

 職員は露骨に怪訝そうな顔をした。

 

「なぜそんなものを?」

 

「地下の匂いがするから」

 

 正直に言ったら、パトーシェが横で「もう少し言い方というものが!」と小声で抗議した。だが職員は、むしろ一瞬だけ真面目な顔になった。

 

「……あなたたちも感じていましたか」

 

 その一言で、空気が変わる。

 

 彼女は周囲を見てから声を落とした。

 

「最近、妙なんです。ダイダロス通り近辺で消える人間の数に対して、地上で処理される遺体が少なすぎる。逆に、下層で見つかる不自然な死体が増えている。誰かが地上と地下を意図的に繋いでいるような……そんな感じがしています」

 

「資料は」

 

「正式には見せられません」

 

 当然だ。

 だが彼女は続ける。

 

「でも口頭なら。……三日前から、建築用資材と油の流れが増えています。帳簿上は別地区向け。でも、運んだ人夫が帰ってこないことがある」

 

 建築資材。油。

 補修、灯火、機構、増設。用途はいくらでもある。

 

 俺は頭の中で仮説の線を引き直した。

 

「十分だ。ありがとう」

 

「……無茶はしないでください」

 

 思わず少しだけ笑いそうになった。最近、いろんな人間に同じことを言われている気がする。

 

 ギルドを出た後、ザイロが言う。

 

「当たりだな」

 

「ああ。誰かが地下を動かしてる。しかもかなり大規模に」

 

 パトーシェが槍の柄を握り直す。

 

「なら、一刻も早く潰さねばならん」

 

「そうだな。ただし今日の仕事は潰すことじゃなく、見ることだ」

 

「分かっている」

 

 口では苛立っている。

 だが行動は前より理に寄ってきた。

 

 夜を待って、俺たちは再びダイダロス通りへ入った。

 

 今夜の入口は、昨夜の倉庫裏ではない。あえて避ける。同じ入口ばかり使えば、逆にこちらが読まれる。

 

 だから今日は、もう一つの線を追う。

 

 昼に洗った候補の一つ。古びた工房跡。半壊した壁。打ち捨てられた石材の山。人の気配はないように見えるが、土の沈み方が妙だ。踏まれないはずの場所だけが不自然に締まっている。

 

「ここだ」

 

 俺が囁くと、ザイロが先に影へ溶けた。パトーシェは槍を抱えたまま息を浅くする。大声を我慢しているだけでも上出来だ。

 

 工房跡の奥。崩れた石材を一つずつずらす。

 その下に木板。

 さらにその下に金属の取っ手。

 

「……露骨だな」

 

 ザイロが呟く。

 

「隠し方が雑すぎる。ってことは、見つけても生きて戻れないと思われてる類だ」

 

 俺は取っ手に手をかけ、ゆっくり引き上げた。

 

 軋む音。

 冷たい空気。

 下へ続く石階段。

 

 昨夜の入口より“使われ方”が新しい。壁の削れ方、足元の摩耗、油の匂い。こっちの方が今も生きている導線だ。

 

「行くぞ」

 

 ザイロが先に降りようとしたのを手で止める。

 

「待て。順番を変える。先頭は俺。中衛ザイロ。最後尾パトーシェ」

 

 パトーシェが目を瞬く。

 

「私が先頭ではないのか?」

 

「狭い地下でお前の槍を先に置くと、反転が遅れる。最後尾なら追手への牽制に最適だ。ザイロは近接対応が速いから中衛。俺が先頭で罠と分岐を見る」

 

 ザイロは一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに肩をすくめた。

 

「合理的だな。気に食わねぇけど」

 

 パトーシェは不満そうだったが、数拍の後に頷いた。

 

「……分かった。最後尾を守る」

 

 隊列が決まる。

 

 階段を降りるたび、地上の音が遠ざかる。人の話し声、酒場の笑い、市場のざわめき。全部が削がれて、代わりに石と土の沈黙が満ちてくる。

 

 俺は壁へ木炭で小さく印を刻んだ。

 

 入口。

 十段降下。

 緩い左曲がり。

 

「毎回それやるのか」

 

 ザイロが低く訊く。

 

「当然だ。帰れなきゃ意味がない」

 

「几帳面だな」

 

「生き汚いと言え」

 

 暗闇の中、ザイロが小さく笑った気配がした。

 

 通路はしばらく真っ直ぐだった。

 やがて分岐。右は土の匂いが強い。左は石と油の匂い。人の流れは左。足跡の擦れが微かに残っている。

 

「左だ」

 

 進む。

 

 さらに奥。

 壁の造りが変わる。自然洞窟みたいな粗さから、明らかに人工的な石組みへ。古いのに崩れていない。補修され、使われ続けてきた構造だ。

 

 パトーシェが後ろで息を呑んだ。

 

「これは……」

 

「ただの隠し通路じゃねぇな」

 

 ザイロの声にも、さすがに緊張が混じる。

 

 俺の中で、断片だった前世知識が嫌な形で現実と噛み合い始めていた。

 

 ダイダロス。

 地下人工迷宮。

 イヴィルスの根城。

 

 クノッソス。

 

 まだ断定はしない。

 だが、その名前が一番自然に収まる。

 

 通路の先で、微かな光が揺れた。

 

「止まれ」

 

 三人とも静止。

 

 壁へ身体を寄せ、呼吸を殺す。前方には小空間があり、その奥に二人の男がいた。黒いローブ。片方は荷札付きの木箱を運び、もう片方は床の石版へ何かを書きつけている。

 

「補修材、こっちに置け。今日中に運ぶって話だろ」

 

「ちっ……また上が増設だの何だの言い出したんだろ。オーブ持ちに文句言えよ」

 

「言えるかよ。末端が口出して消えた奴、何人いると思ってんだ」

 

 それだけ。

 十分だった。

 

 補修材。

 増設。

 オーブ持ち。

 

 ここがただの隠れ穴じゃない証拠としては十分すぎる。

 

 ザイロが横目でこっちを見る。

 殺るか、と目が言っている。

 

 俺は首を振った。

 まだだ。

 

 男たちは木箱を置き、別の通路へ消えていく。俺たちは距離を保って追う。

 

 そこから先は、もうただの地下道ではなかった。

 

 広い。

 

 縦にも横にも、人工的な導線が伸びている。古い石造の通路、増設された木の足場、補強のための鉄材、灯火を吊るすための金具。継ぎ接ぎで歪なのに、全体として迷宮として成立している。

 

 ただし、まだ外縁だ。

 そう直感できた。

 

 人の流れはある。

 だが濃くない。

 作業用の導線、補給の末端、外周の保守路。

 本体はもっと奥だ。

 

 それでも、十分すぎた。

 

 人の手で作られた地下構造物。しかも一朝一夕じゃない。何代にも渡って掘り、継ぎ足し、使い潰してきた執念の塊。

 

 クノッソス。

 

 今度は、確信に近い重さで腹へ落ちた。

 

「……狂ってやがる」

 

 ザイロが珍しく素で漏らした。

 

 パトーシェは声を失っている。無理もない。街の秩序を信じてきた人間が、その足元にこんな異物が埋まっていると知れば、吐き気もするだろう。

 

 俺は壁へ手を当てた。

 

 冷たい。

 だがその冷たさの奥で、確かに脈打っている。人の往来。補修。命令。物流。ここは死んだ遺跡じゃない。今まさに生きている敵の体内だ。

 

 その瞬間、喉がひどく乾いた。

 

 想像はしていた。

 警戒もしていた。

 でも、実物を前にすると違う。

 

 ここは路地裏の根城じゃない。三人で噛み砕ける相手じゃない。踏み込み方を一つ誤れば、そのまま綺麗に呑み込まれて終わる。

 

 背筋が冷えた。

 ここで死ねる、と本能が理解する。

 

 それでも声だけは震わせない。

 

「ここから先は、見るだけで帰る」

 

 俺が囁くと、パトーシェが小さく頷いた。

 

 だが、その瞬間だった。

 

 右手の通路から甲高い音が響いた。金属が床を転がる音。次いで怒号。

 

「誰だ!?」

 

 やらかした。

 

 たぶん足元の石片か、槍の石突か。いや、もっと単純だ。ここは想定以上に音が響く構造なんだ。消したつもりの微音が、通路全体へ反響した。

 

「走るな」

 

 即座に言う。

 

「目の前の監視だけ潰す。長居しない。最短で戻る」

 

 次の瞬間、三つの影が動いた。

 

 俺は前へ。

 ザイロは横へ。

 パトーシェは一歩下がって通路幅を確保し、槍を構える。

 

 来たのは三人。

 一人は短剣。

 一人は棍棒。

 一人は後ろで笛を構えている。

 

 警報役が最優先。

 

『一厘直観』が、一瞬で解を叩き出す。

 

「ザイロ、後ろ!」

 

 叫ぶより早く、ザイロは動いていた。笛を持った男の懐へ滑り込み、喉を掴む。鳴る前に潰す。響いたのは短い呻きだけ。

 

 俺は短剣持ちへ踏み込む。狭い通路では横薙ぎが死ぬ。なら縦。手首。膝。視線。全部を最短で潰す。

 

 パトーシェは棍棒の男を槍の柄で弾き、壁へ叩きつける。致命傷じゃない。だが、動けない。

 

「撤収!」

 

 叫んだ。

 

 だが、通路の奥から別の足音が幾つも跳ね返ってきた。

 まずい。笛は止めた。だが怒号はもう響いている。

 

 ザイロが舌打ちする。

 

「面倒だ、殺して抜けるぞ」

 

「ダメだ、戦線が伸びる!」

 

「じゃあどうすんだよ!」

 

 その瞬間、パトーシェが前へ出た。

 

「私が塞ぐ!」

 

「待て――」

 

 言い切る前に、彼女は槍を最狭部へ突き立て、通路中央を占拠した。狭い直線通路。長柄武器。突きと牽制。ここに限って言えば、こいつの槍は最悪じゃなく最適だ。

 

 先頭の敵が飛び込んだ瞬間、穂先が喉元を掠め、二人目の肩を貫き、三人目の足を払う。

 

「戻れ、レックス! ザイロ! ここは私が――」

 

 その叫びを聞いた瞬間、ザイロの顔が獣みたいに歪んだ。

 

 他人の自己犠牲を嫌悪するこの男に、その台詞は最悪の地雷だ。

 

「ふざけんな!」

 

 ザイロが逆方向へ踏み込み、パトーシェの横をすり抜ける。敵の先頭を肘で叩き潰し、そのまま頭を壁へ打ち付ける。狭所での近接暴力としては、こいつが最悪だ。

 

「一人で背負うなっつってんだろ、この自殺騎士!」

 

「自殺ではない! これは合理的な遅滞戦闘――」

 

「言葉だけ賢くなってんじゃねぇ!」

 

 俺は二人の横を抜け、後方へ木炭の粉袋を投げた。床へ散る黒い粉。次いでランタンの火種を弾く。

 

 爆ぜるほどじゃない。

 だが、一瞬だけ視界を黒煙で奪うには十分だった。

 

「今だ、走れ!」

 

 ようやく三人の足並みが揃った。

 

 前へ走る。

 分岐。左。右。直進。

 木炭の印を頼りに戻る。

 

 背後から叫び声と咳き込みが響くが、追撃の速度は落ちている。

 

 ザイロが走りながら言う。

 

「お前、そんなもん持ってたのか」

 

「最初から煙幕のつもりで買った」

 

「趣味悪ぃ!」

 

「褒め言葉だな」

 

「普通に悪口だ!」

 

 後ろからパトーシェが叫ぶ。

 だが、その声にほんの少しだけ笑いが混じっていた。

 

 命を賭けた撤退戦の最中に笑うとか、どうかしている。

 でもたぶん、三人とも少しだけ高揚していたんだろう。土壇場で、“勝手に死ぬ”方じゃなく“生きて戻る”方へ噛み合ったからだ。

 

 階段を駆け上がる。

 取っ手を押し上げる。

 地上の冷たい夜気が肺に刺さるように入ってきた。

 

 俺たちは工房跡の石材の陰へ転がり込み、しばらく呼吸を整えた。

 

「……生きてるな」

 

 俺が確認すると、ザイロが乱暴に笑った。

 

「おかげさまで」

 

 パトーシェは膝をつき、槍を地面に立てたまま息を整えている。肩で息をしているが、左の袖口が少し裂け、浅く血が滲んでいた。

 

「腕、やられたか」

 

「掠り傷だ」

 

「ならいい」

 

 そう言った直後、工房跡の下から鈍い音が響いた。次いで、木板の裏側から金属が噛み合うような重い音。

 

 顔から血の気が引いた。

 

「下から閉じた……?」

 

 ザイロが振り返る。

 

「封鎖か」

 

「ああ。少なくともこの入口は、もう使えない」

 

 それだけじゃない。逃げる時、黒煙の向こうでこっちを見た男がいた。距離はあった。顔を完全に見られたかは分からない。だが、まったく痕跡を残さず帰れたわけでもない。

 

 つまり、代償はある。

 

「……今のは、たしかに一人で残るのは悪手だったな」

 

 パトーシェが肩で息をしながら言う。

 

「ようやく分かったか」

 

「だが、私の遅滞がなければ撤退は間に合わなかった」

 

「それも正しい」

 

 ザイロが少しだけ目を見開いた。俺が全面否定しなかったのが珍しかったんだろう。

 

「お前の判断自体は悪くなかった。ただ、“一人でやる”が余計だ」

 

 俺は立ち上がった。

 

「今日はここまでだ。収穫は十分ある。地上で整理する」

 

 パトーシェは今度は食い下がらなかった。

 

 俺たちは星屑の庭へ戻った。

 

 アストレア様は、まだ起きていた。中庭のベンチで、三つのカップを用意して待っている。

 

「おかえりなさい」

 

 その一言に、今度は三人とも即座には返せなかった。疲労もある。だが、それ以上に持ち帰った情報が重い。

 

「見つけた」

 

 俺が短く言う。

 

 アストレア様は静かに頷いた。

 

「ええ。顔を見れば分かるわ」

 

 まずは怪我を洗う。浅い切り傷、打撲、擦過傷。致命的ではない。だが、地下での一瞬の判断ミスがどれだけ響くかは十分すぎるほど分かった。

 

 処置が終わり、三人ともベンチと石段へ腰を下ろす。中庭の夜は静かだ。なのに、さっき見た地下の迷宮の気配がまだ耳の奥で鳴っている気がする。

 

 俺はアストレア様に向き直った。

 

「ダイダロス通りの地下に、大規模な人工構造がある。複数の出入口。補修材と油の流通。オーブ持ちの存在を示す会話。末端じゃない、明確な指揮系統が動いてる」

 

 アストレア様の瞳が、わずかに細まる。

 

「……それは、確信に近いのね」

 

「ああ」

 

「名前は?」

 

 数拍、間が空く。

 

「……たぶん、クノッソスだ」

 

 その名を口にした瞬間、中庭の空気が少しだけ重くなった気がした。

 

「そこまで行ったのね」

 

「入口に触れた程度だ。中枢はまだ遠い。今回は外縁の補給導線を覗いただけだ」

 

 そう。そこを誤魔化してはいけない。

 俺たちが見たのは巨体の表皮に近い。

 それだけで息が詰まったのなら、奥はもっとひどい。

 

「だが、存在はほぼ確定だ。それと代償もある。工房跡の入口は下から封鎖された。たぶん、次は使えない」

 

「敵も警戒を強めるでしょうね」

 

「ええ。今後はもっと慎重にやる必要がある」

 

 アストレア様はしばらく黙っていた。

 それから、小さく息を吐く。

 

「では約束通り、更新しましょう」

 

 驚愕に飲まれず、次へ使う記録を取る。

 そこが彼女らしい。

 

 俺たちは順番に背を見せた。

 

 まずパトーシェ。

 

 昨夜と今夜の実戦で、彼女の動きは明らかに変わっていた。正義感はそのまま。だが、それを単独突撃ではなく、隊としての働きへ少しずつ寄せ始めている。

 

【名前】パトーシェ・キヴィア

【Lv.1】

【力】H

【耐久】G

【器用】H

【敏捷】H

【魔力】I

【スキル】

『正断強化』

 

「耐久が一段、器用と敏捷も伸びているわ。単純に踏ん張っただけじゃなく、隊列の中で動いたことが反映されてる」

 

 パトーシェは目を見開く。

 

「隊列の中で……」

 

「ええ。あなたは“単独で正しいことをする”から、“仲間と一緒に正しい結果を作る”へ動き始めている」

 

 その言葉は、彼女にとって何よりの褒美だったらしい。声には出さないが、握りしめた拳が震えていた。

 

 次はザイロ。

 

【名前】ザイロ

【Lv.1】

【力】G

【耐久】G

【器用】H

【敏捷】H

【魔力】I

【スキル】

『冷静算定』

 

「順当に全部伸びてるわね。特に器用と敏捷。破壊だけじゃなく、仲間との連動を前提にした動きが精密になっている」

 

 ザイロが舌打ちする。

 

「仲間との連動、ね。気色悪ぃ単語だ」

 

「でも事実でしょ」

 

「……否定はしねぇ」

 

 最後に俺。

 

 アストレア様が背を見て、わずかに息を止めた。

 

「レックス、あなた……」

 

「また異常ですか」

 

「少しね」

 

 神の血が背をなぞる。

 

【名前】レックス

【Lv.1】

【力】H

【耐久】H

【器用】G

【敏捷】G

【魔力】I

【スキル】

『一厘直観』

 

「……器用と敏捷がGまで上がったか」

 

「ええ。それに力と耐久もHへ。あなた、自分では策ばかり回しているつもりでしょうけれど、普通に前へ出て死線を踏み越えすぎているのよ」

 

 それは自覚があった。

 

 ザイロが横から笑う。

 

「はっ。口じゃ一番頭使ってる風なのに、やってることは割と前衛だよな」

 

「うるせぇ。お前らが好き勝手やるからだ」

 

「誰のせいだ!」

 

「お前だよ騎士女」

 

 また始まる。

 だがアストレア様は止めず、ただ静かに見ていた。

 

 更新が終わる。

 

 数値はまだ低い。

 だが、確実に積み上がっている。

 

 問題は、進んだ先に待っているのが普通の敵じゃないことだ。

 

 クノッソス。

 

 その名を頭の中で繰り返す。迷宮。中枢。オーブ。イヴィルスの根。ここから先は、路地裏のチンピラ狩りとは違う。必要な手札の数も、戦術の密度も、一気に変わる。

 

「レックス」

 

 アストレア様が呼ぶ。

 

「今、何を考えているの?」

 

「足りないものを数えてる」

 

「何が足りないの?」

 

「全部だ」

 

 即答した。

 

「入口は見つけた。地下の存在も掴んだ。だが、潜って壊すには戦力も情報も足りない。俺たち三人でできるのは、せいぜい外縁を齧るところまでだ」

 

 パトーシェが悔しそうに唇を噛む。

 ザイロは目を伏せたまま黙っている。

 二人とも、同じ結論には辿り着いているはずだった。

 

「でも、入口まで来た」

 

 俺は言った。

 

「なら次は、戦い方を広げる。今の三人で届く範囲を鍛え直して、その上で、必要な札を増やす」

 

 ザイロが鼻を鳴らす。

 

「ようやくそこか」

 

「遅ぇくらいだ」

 

「うるせぇ。だが、もう“その場の噛みつき”だけじゃ足りないのは分かった」

 

 パトーシェも静かに頷く。

 

「私もだ。一人で正しいことをするだけでは、地下の根には届かん」

 

 アストレア様は、俺たち三人を静かに見た。

 

「……それでも、ちゃんと帰ってきたのね」

 

「ええ」

 

「なら、次を考えましょう。今のあなたたちに届く次を」

 

 その言葉に、ようやく少しだけ息を吐いた。

 

 今夜、俺たちは禁域へ一歩踏み込んだ。

 そして、その一歩で思い知った。

 

 三人では足りない。

 だが、三人だから見えたものもある。

 

 地下の匂いを嗅ぎ当て、帰還し、次に何が足りないかを知った。

 それだけでも、今夜は十分だ。

 

 地図にない脈動は、確かに街の下で生きている。

 なら俺たちも、それに対抗するための形へ変わらなきゃならない。

 

 もっと鍛える。

 もっと噛み合わせる。

 もっと増やす。

 

 そのために、まずは次の一手を選ぶ。

 

第7話 地図にない脈動、禁域への降下 了




8話については展開変更の為、削除いたしました。次の更新まで今しばらくお待ちください。
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