オリトレ、夢主注意です。

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曇天、のち豪雨。時々の晴れと泥だらけの王冠をキミに

『泥被りの孤高な野犬と曰く付きトレーナー』

トレセン中央学園。

 

別世界の競走馬の名前と魂を受け継いだ少女たちが、ターフという光り輝く舞台で夢を掴むために集う、眩しすぎる青春の学び舎。

 

だが、光が強ければ強いほど、そこに落ちる影もまた濃く、黒くなる。

 

たとえば、この希望に満ちた学園で、まことしやかに囁かれているこんな噂を知っているだろうか?

 

曰く、『担当ウマ娘を深い恋沙汰の泥沼に引きずり込み、精神を壊して引退に追い込んだ、底辺のクズトレーナーがいる』と。

 

「……提出されたデータと今後のトレーニング計画、確かに受け取った。相変わらず、君の作成するメニューは完璧かつ……狂気的だな!!」

 

理事長室。

 

秋川理事長殿が、分厚いバインダーをパタンと閉じながら、呆れたような、警戒するような目を向けてきた。

 

「お褒めに預かり光栄です、秋川理事長殿。俺の『機能』から算出した、最も効率的で無駄のない稼働計画ですから」

 

俺――小鳥遊は、薄ら笑いを浮かべて肩をすくめた。

 

他人の目に映る俺の姿は、ひどく不健康で胡散臭いものだろう。シャープで骨ばった顎のラインに高い鼻梁、光を一切宿していない冷たい三白眼。センターパートで分けた黒髪は後ろが刈り上げられており、無造作に耳にかけた左耳には、無数のピアスが金属質な光を放っている。

どこからどう見ても、爽やかなスポーツの祭典には似つかわしくない、曰く付きの「底辺のクズ」を体現したような男だ。

 

隣に立っていた駿川たづなさんが、深く悲しげなため息をついた。

 

「小鳥遊トレーナー。貴方の手腕は誰もが認めています。ですが……復職して早々、また貴方の悪い噂が学園を回っていますよ。過去の悲劇を、また繰り返すおつもりですか?」

 

「あはは〜。悲劇だなんて人聞きの悪い。俺はただの『ウマ娘を勝たせるための装置』です、たづなさん。装置に心なんてないし、噂なんてどうでもいい。……ただ、結果を出すだけですよ」

 

たづなさんの真っ当な忠告をのらくらと躱し、俺は「じゃ、失礼しまぁーす」と手を振って理事長室を後にした。

 

背中に突き刺さる痛いほどの視線を扉で遮り、薄暗い廊下に出る。

ポケットから火のついていないシケモクを取り出し、唇に咥えた。

 

(……さて。ポンコツ装置の再稼働だ)

 

タバコを咥えたまま、俺は学園の裏手にある、普段は誰も使わない旧ダートコースへと足を向けた。

 

夕闇が迫る中、そこには奇妙な足音が響いていた。

ザッ、ザッ、と泥を蹴る音。だが、そのリズムはひどく乱れ、悲鳴を上げている。

 

フェンス越しに視線をやると、一人のウマ娘が、泥に塗れながら走り続けていた。

 

アドマイヤグルーヴ。

 

孤児院上がりで、周囲から腫れ物のように同情を集めている、天涯孤独の少女。

 

(……おいおい。右脚の踏み込みが完全に死んでるじゃねえか)

 

俺の眼が、客観的な事実として彼女の肉体の限界値を弾き出す。

規定のトレーニングメニューなどとうの昔に超えている。肺は焼け焦げ、筋肉の繊維は千切れる寸前だ。勝たなければ捨てられるという強迫観念が、彼女を自滅の淵へと追いやっている。

 

案の定、コーナーを回る直前、彼女の脚がもつれ、泥水の中へと無様に転がり込んだ。

 

「……っ! くそっ……!」

 

泥だらけの手で地面を叩き、立ち上がろうとする彼女。

 

その姿を見て、俺はフェンスに肘をつき、咥えていたシケモクを揺らしながら、ひどく軽薄な声を投げ落とした。

 

「あーあ。右脚の踏み込みが完全に死んでるね。そのフォームで走り続けたら、デビュー前に靭帯が弾け飛ぶよ。お嬢様」

 

彼女が鋭く視線を投げてくる。

氷のように冷たく、他者を拒絶する孤高の瞳が、俺の刈り上げられた髪や耳元のピアス、そして生気のない目元を警戒するように睨みつけた。

 

「……誰ですか、貴方は。私の練習の邪魔をしないでください」

「ん? ああ、俺は小鳥遊。一応、ここのトレーナーをやってる」

 

名前を聞いた瞬間、彼女の細い眉が微かにひそめられた。

 

俺の悪名はしっかり届いているらしい。

 

「……噂は聞いています。私に構わないでください。貴方のような怠惰な大人に、同情される筋合いはありません」

 

冷たく言い放ち、泥を払う彼女を見て、俺は喉の奥で「あはは」と乾いた笑い声を上げた。

 

「同情? 勘違いするなよ。俺は君の生い立ちなんて、これっぽっちも興味がない。ただ、目の前で『優秀なエンジン』が、無能なドライバーのせいで自壊しようとしてるのを見て、勿体ないと思っただけだ」

 

「……無能、ですって?」

 

「そう、無能だ。君は結果を出さなきゃいけないのに、焦って自分を壊そうとしてる。勝てないウマ娘に価値はない。壊れたおもちゃは誰にも見向きされない。……違うか?」

 

意図的に、彼女の痛い部分を無慈悲に抉り出す。

 

普通のウマ娘なら泣き出すか、怒り狂う言葉だ。

 

彼女は一瞬ハッとしたように息を呑んだが、すぐにその瞳に、他者を完全に拒絶する分厚い壁を作り上げた。

 

「……他人の粗探しをして悦に浸るのが、貴方の仕事ですか。なら、余計なお世話です」

 

泥だらけのまま、彼女は俺を真っ直ぐに、そして軽蔑するように見据えた。

 

「私は私のやり方で勝ちます。貴方みたいな、何かに真剣に向き合うことから逃げている薄汚れた大人に、とやかく言われる筋合いはありません」

 

それは、天涯孤独の野犬による、明確な拒絶だった。

俺のアドバイスなど微塵も聞き入れる気がない、孤高の牙。

 

「……あはは」

 

俺は目を細め、フェンスから肘を離して、大げさに両手を挙げて降参のポーズをとった。

 

「お〜こわ〜。孤高のお嬢様は牙が鋭くていけねぇや。……おっかねぇから、俺は大人しく仕事に戻るわ〜」

 

ヘラヘラとした薄ら笑いを顔に貼り付けたまま、俺は踵を返した。

 

背中越しに、彼女が再び泥だらけのコースへ駆け出していく足音が聞こえる。相変わらず、右脚を庇うような不格好なリズムのままで。

 

「ま、怪我して廃棄処分にならないよう、せいぜい頑張りなー」

 

ひらひらと手を振りながら、俺は一人、事務室へと続く薄暗い道を歩き出す。

夕闇の冷たい風が、咥えたままのシケモクの先を空しく揺らしていた。

 

 

到着して座ったのは事務室の隅。

 

俺のデスクには、他の担当持ちトレーナーたちから「暇だろうから」と押し付けられた、面倒な書類の山が積まれていた。

 

キーボードを叩き、データを処理し、必要な書類に次々と目を通していく。俺の『装置』としての機能は、こういう無機質な作業においては極めて優秀だ。思考を完全に切り離し、手早く、そして正確に他人の仕事の山を消化していく。

 

そんな俺の耳に、少し離れた給湯室のあたりから、ひそひそとした話し声が届いてきた。

 

「聞いたか? 小鳥遊の奴、謹慎明け早々にもう生徒に手を出してるらしいぞ」

 

「ああ、夕方のダートコースだろ。また自分の過酷なトレーニングで、ウマ娘を徹底的に追い詰めて壊す気なんだ」

 

「……それに、あいつ、『孤児』らしいぜ?親に捨てられた施設上がりだから、あんな風に生徒を道具みたいに壊しても、一切心が痛まないんだろ」

 

なるほど。俺の悪名は、この学園のネットワークにおいて相変わらず最高のエンタメとして機能しているらしい。

 

毒親に「成果を出せないならいらない」と呪いをかけられ、結果的に独りになった俺の過去は、周囲の連中にとって『孤独な生徒を狙う、感情の欠落した最悪の捕食者』というシナリオの最高のスパイスなのだろう。

 

俺はパソコンの画面から死んだ目を逸らすことなく、キーボードを叩く指の速度を一切落とさずに、喉の奥で「あはは」と音のない笑いをこぼした。

 

「――おや。随分と楽しそうな話題だな、先生方」

 

不意に、事務室の扉が開く音と共に、よく通る野太い声が室内に響いた。

 

噂話をしていたトレーナーたちの肩が、ビクッと跳ねる。

声の主は、服の上からでもわかるほど筋骨隆々とした分厚い身体を持つ大柄な男だった。背筋こそ軍人上がりのようにぴしっと伸びて隙がないが、顎には無精髭が生え、ワイシャツの首元のボタンは外されてネクタイもだらしなく緩められている。どこか気が抜けたような、それでいて逆らえばへし折られるような絶対的な威圧感を纏う男だ。

 

男は、引きつった笑いを浮かべるトレーナーたちに向かって、ニヤリと肉食獣のように笑いかけた。

 

「同僚の噂話で盛り上がるのも結構だが……他人のことをせっついて回る暇があるなら、ご自身の担当ウマ娘で『成果』を上げていただきたいもんだな。明日のメニューの見直しはもうお済みか?」

 

口調こそ笑っているが、その声の底に込められた「これ以上くだらない口を叩くなら容赦しない」という明確な圧(釘)に、トレーナーたちはそそくさと目を逸らし、「あ、ああ……」「仕事に戻るよ」と逃げるように自分のデスクへ散っていった。

 

事務室に静寂が戻る。

 

男は小さく息を吐くと、俺のデスクの背後に回り込み、その丸太のような腕でバシバシと遠慮なく俺の背中を叩き始めた。

 

「痛ぇよ。……肺が潰れる」

 

「がはは! やっと戻ってきやがったな、この不良め」

 

むせ返りながら俺が顔を上げると、悪友である神崎(かんざき)が、豪快に笑いながら見下ろしてきた。

 

この光の眩しいトレセン学園において、俺という曰く付きの「装置」の機能と過去を正確に把握し、こうして忌避することなく軽口を叩き合えるのは、昔から腐れ縁のこの男くらいのものだった。

 

俺は最後にエンターキーをターンと叩いて全ての作業を完了させると、椅子に深く背中を預け、目の前の悪友を見上げて薄ら笑いを浮かべた。

 

「あはは、お疲れさん。相変わらずガタイと態度のデカさだけは一級品だねぇ、神崎」

 

「減らず口を叩け。そんな死んだ目で、秒速で他人の仕事まで完璧に終わらせてる奴が不良なわけあるか」

 

神崎は呆れたように俺の刈り上げられたサイドの髪と、耳元で光る無数のピアスを一瞥し、やれやれと首を振った。

 

「ただ、お前なぁ……。相変わらず文句なしの成果を叩き出して、他人の仕事まで完璧にこなせる癖して、その不健康極まりない胡散臭い見た目はなんなんだ」

 

「あはは。俺は裏方の『装置』なんだから、機能さえ果たせば外装なんてどうでもいいでしょ〜」

 

俺は椅子の上で背伸びをしながら、神崎の顎に生えた無精髭と、だらしなく開いたワイシャツの首元を指差して薄ら笑いを浮かべた。

 

「それを言うならお前もだろ〜。そんなだらしない格好してたら、またお前の『嫁さん』にこってり絞られんじゃねぇの?」

「ばっ……! 馬鹿野郎!!」

 

図星……というか、地雷を踏み抜かれた神崎は、軍人顔負けの厳格な顔をボッと赤くして、俺の首にその極太の腕を回してきた。

 

「アイツ(エアグルーヴ)はまだ嫁じゃねぇし、俺の大事な担当生徒だっての!! 変な噂立てるな!」

 

「っ、がはっ……! ギブ、ギブ! 神崎、お前のヘッドロックはマジで頸椎もげる……っ!」

 

ゴツい丸太のような腕で締め上げられ、俺が机をバンバンと叩いて降参すると、神崎は「ふんっ」と鼻を鳴らしてようやく腕を解いた。

 

「……ったく。ほんっとに、謹慎明け早々減らず口だけは絶好調だな」

 

緩んだネクタイを締め直すフリをしながら照れ隠しをする神崎。

 

厳格で威圧感のある風貌のくせに、自分の担当であるエアグルーヴのこととなると途端に余裕をなくすこの悪友の姿に、俺は痛む首を擦りながら喉の奥で笑った。

 

そんな他愛のない戯れの後。

 

神崎は、ふと周囲から他のトレーナーたちが完全にいなくなったのを確認し、声のトーンを一段階落とした。

 

「……で? 実際のところ、どうなんだ」

 

「あ?何が?」

 

「とぼけるな。夕方のダートコースだ。……あの子に、接触したんだろ」

 

神崎の瞳が、悪友の顔から、一人の大人の顔へと切り替わる。

 

「アドマイヤグルーヴ。……孤児院上がりで、周囲の同情を嫌って誰にも心を開かない、孤高の野犬だ。お前、またあんな貧乏くじ引いて、泥被る気か?」

 

俺はパソコンのモニターから視線を外し、ポケットのシケモクを指で弄った。

 

「あはは、人聞きの悪い。ただの通りすがりだよ。右脚の踏み込みが完全に死んでたから、ポンコツエンジンが自壊する前に、ちょっとした無料のアドバイスをしてやっただけ」

 

「……アドバイス、ねぇ?」

 

神崎は、俺のそのヘラヘラとした薄ら笑いの奥にあるものを見透かすように、深く息を吐いた。

 

「お前……ああやって全てを『装置』だの『計算』だの言って嘯いてるが、本当はああいう不器用で崖っぷちの子供を、放っておけないだけだろ」

 

「……」

 

俺は答えず、ただ光のない瞳で手元のシケモクを見つめていた。

 

その沈黙をどう受け取ったのか、神崎は小さく息を吐き、さらに一歩踏み込んだアドバイスを口にしようとした。

 

「いいか、あの子のことは――」

 

ガラッ!!

 

神崎の言葉を遮るように、事務室のドアが勢いよく開かれた。

 

そちらへ視線を向けると、そこには両耳をペタンと不機嫌そうに絞ったウマ娘――生徒会副会長であるエアグルーヴが立っていた。

 

彼女は室内を一瞥し、標的(神崎)を見つけるなり、ヒールの音を響かせてズンズンと迫ってくる。

 

「ゲッ!」

 

神崎は軍人上がりの巨体に似合わない情けない声を上げ、咄嗟に俺の背後へと隠れようとした。だが、そんな巨体が俺の陰に隠れ切るはずもなく、無慈悲に伸ばされたエアグルーヴの手によって、だらしないワイシャツの首根っこをガシッと掴み出される。

 

「ま、待て! 違うんだ、書類を取りに来たら偶然コイツが居てだな! アイツ……アルヴの事を話してやろうと思って、それでトレーニング室に戻るのが遅れて……!」

 

タジタジになりながら必死に言い訳を並べ立てる神崎。しかし、エアグルーヴは氷点下の瞳で彼を睨み下ろした。

 

「たわけが! 貴様のサボり癖の言い訳など聞いておらん! さっさと戻ってメニューの続きを見るぞ!」

 

一刀両断。見事なまでの一蹴だった。

 

「あはは。相変わらず完全に尻に敷いてるんスね〜、生徒会副会長殿」

 

俺がいつものヘラヘラとした薄ら笑いを浮かべて軽口を叩くと、エアグルーヴはふんと鼻を鳴らした。

 

「たわけ。貴様もだ、小鳥遊」

 

俺もまとめて一蹴されたが、彼女の視線はすぐに鋭さを増し、俺の光のない瞳を真っ直ぐに射抜いてきた。

 

「……あの子の事を、どうするつもりだ」

 

神崎もそうだが、彼女たちがあの天涯孤独の野犬(アルヴ)に向ける眼差しには、単なる先輩後輩や生徒会としての枠を超えた、どこか家族のような強い庇護欲が滲んでいる。だからこそ、俺のような曰く付きの泥沼に彼女が足を踏み入れることを、酷く警戒しているのだろう。

 

「…………」

 

俺はほんの一瞬だけ、言葉の間を空けた。

 

そして、すぐにいつもの虚無の仮面を被り直し、指先のシケモクをプラプラと揺らしてみせる。

 

「あはは。どうもこうも、ポンコツエンジンが壊れそうだったから、単に無料アドバイスしただけだよ〜。俺はただの通りすがりのクズですから」

 

のらくらと躱す俺を見て、エアグルーヴは深く、重いため息をついた。

 

そして――スッ、と手を伸ばし、俺の指先からシケモクを容赦なくもぎ取った。

 

「あ、ちょっとぉ」

 

「貴様が何を思うかは知らん。だが……彼女を扱うのなら、覚悟を持て」

 

それは生徒会としての警告ではなく、アドマイヤグルーヴを心から案じる一人のウマ娘としての、重く鋭い釘刺しだった。

 

エアグルーヴはそれだけ言い残すと、没収したシケモクをゴミ箱へ放り捨て、首根っこを掴んだ神崎を引きずりながら事務室を後にしていく。

 

「いてて……! 悪かった、俺が歩くから首は……!」

 

引きずられていく神崎は、ドアの向こうへ消える間際、俺に向かって『すまん!』と両手を合わせるジェスチャーを残していった。

 

バタン、と扉が閉まり、嵐は去った。

 

「……あーあ。最後の一本だったのになぁ」

 

俺は誰もいなくなった事務室で、ヘラヘラとその様子を眺めた後、ギシッと音を立ててパイプ椅子に身体を深く預けた。

 

天井の蛍光灯を、死んだ目で見つめる。

 

「──ほん、と。どいつもこいつも……お節介だよなぁ」

 

誰もいない空間にポツリとこぼれ落ちたその声には、先ほどまでの胡散臭い薄ら笑いではなく……どこか毒気を抜かれたような、ひどく人間らしい、不器用な苦笑が浮かんでいた。

 

それから翌日。

 

灰皿にシケモクを押し付け、紫煙の残り香を纏いながらダートコースの脇を通りかかると、またあの不格好な足音が聞こえてきた。

 

だが、今回はギャラリー付きだった。

 

コースの脇には数人のモブウマ娘たちが集まり、悲痛な顔でターフを見つめている。その視線の先には、相変わらず捨て身のペースで泥を跳ね上げるアドマイヤグルーヴの姿があった。

 

走り終えて荒い息を吐くアルヴの元へ、彼女たちが駆け寄る。

 

「大丈夫!? あんな走り方、脚を痛めちゃうよ!」

 

「少し休んだ方が……私、アイシング持ってくるし、マッサージもするから!」

 

純粋な善意と心配。だが、孤児院育ちのアルヴにとって、それは最も忌み嫌う『同情』の押し売りでしかない。

 

「……触らないで!!」

 

アルヴはその厚意を、氷のような視線で切り裂いた。

 

「えっ……?」

 

「私に同情しないでと言っているの。放っておいてちょうだい」

 

ギリッと牙を剥き出しにして威嚇するアルヴに、モブウマ娘たちは困惑し、おろおろと顔を見合わせている。

 

それを遠巻きに見かねた俺は、やれやれと首を振りながらコースへと足を踏み入れた。

 

「あはは、お疲れさん。随分と賑やかだねぇ?」

 

俺がのらくらと声をかけると、ウマ娘たちはギョッとして振り返った。

 

刈り上げられた髪、耳元の無数のピアス、そして光のない死んだ目。学園に轟く『曰く付きのクズトレーナー』の姿を認めた途端、彼女たちの顔に明らかな怯えが走る。

 

「あ、お、お疲れ様です、小鳥遊トレーナー……!」

 

「わ、私たち、そろそろ戻らなきゃ……!」

 

関わってはいけない劇薬を見つけたかのように、彼女たちは軽い挨拶だけを残し、蜘蛛の子を散らすようにあっという間に逃げ去っていった。

 

残されたのは、肩で息をするアルヴと俺だけだ。

 

彼女は俺のヘラヘラとした薄ら笑いがひどく気に食わないのか、ギリッと奥歯を鳴らし、明確な敵意を持って睨みつけてきた。

 

「……何しに来たの。貴方には関係ないでしょ」

 

突き放そうとする牙の鋭さ。だが、俺の『装置』としての眼は誤魔化せない。

 

「いやいや。せっかくの無料アドバイスをどう活かしてるか、ちょっと見学に来ただけだよ」

 

俺はポケットに両手を突っ込み、彼女の脚元を一瞥した。

 

「昨日言った右脚の踏み込み、ほんの数ミリだけ意識して重心ズラしてたろ。……不器用なりに、ちゃんと俺の言うこと聞いてたじゃん」

 

図星を突かれ、アルヴがハッと息を呑む。

 

周囲からの同情やアドバイスは全て撥ね除けるくせに、俺が提示した「勝つための客観的な事実」だけは、その身に刻み込もうとしていたのだ。

 

「だが、まだまだ修正箇所だらけだ。右を庇う分、左のストライドが死んでる。腕の振りも硬すぎるし、何よりコーナーでの減速の仕方が素人以下だ。……今のままじゃ、ただ自分の寿命を削ってるだけだね」

 

俺は次々と彼女の欠陥を的確に指摘し、わざと焚き付けるように鼻先で笑ってやった。

 

「そんなポンコツな走りじゃ、いつまで経っても勝てないよ? お嬢様。ま、俺には関係無いんだけどさ」

 

普通なら、心が折れるか、泣き出して逃げる言葉だ。

 

だが、その言葉を聞いたアルヴは、ふん、と鼻を鳴らして泥だらけの顔を上げた。

 

「……良いわ、そこまで言うのなら。貴方を踏み台にしてあげるわ」

 

真っ直ぐに俺を睨み返す、氷のような瞳。

 

その奥に、泥水の中でチリリと燃え上がるような、確かな『闘志』が宿っているのが見えた。同情を嫌い、孤独を噛み砕いてでも頂点に立とうとする、本物の野犬の眼だ。

 

途端に、俺の胸の奥でぞくりとした熱が跳ねた。

 

いつも顔に貼り付けている安っぽい薄ら笑いが剥がれ落ち、代わりに、他人の人生を蹂躙するような『悪辣な笑み』が自然と口角を持ち上げる。

 

「あはは……いいねぇ。最高だよ、お前!」

 

俺は彼女の目の前まで歩み寄り、冷たい三白眼で見下ろした。

 

愛も絆も介在しない、純粋な成果主義の泥沼へ引きずり込むための、最後の契約。

 

「なら覚えとけ。使えなくなったら捨てるのは、俺も同じだ。……成果を出せなければ、俺はお前を一切の躊躇なく切り捨てるぞ?」

 

夕闇のダートコース。

 

曰く付きトレーナーと孤高の野犬の、互いの首を絞め合うような歪な共犯関係が、決定的に結ばれた瞬間だった。

 

『血を吐くような成果主義』

 

俺とアドマイヤグルーヴが、あの夕闇のダートコースで歪な契約を結んでから数日が経った。

 

「……はぁっ……っ、がはっ……!」

 

昼下がりのトレーニングコース。

肺の底から血の味が込み上げてくるような、切羽詰まった激しい呼吸音が響いている。

 

俺の手元にあるストップウォッチの無機質な数字を見つめながら、俺はシケモクを咥えたまま、コースへ向かって冷酷に言い放った。

 

「遅い。規定タイムから0.2秒こぼれてるぞ。左の踏み込みが甘いから遠心力に負けてる。……息整える暇なんかないぞ、次、心拍数が160を切ったらすぐに無酸素インターバル3セット目だ」

 

「……っ、わかって、るわよ……ッ!!」

 

アルヴは膝に手をつき、滝のような汗を流しながらも、俺を鋭く睨み返して再びトラックへと駆け出していった。

 

俺が彼女に与えたメニューは、控えめに言っても『狂気』だ。

 

人間の――いや、ウマ娘の靭帯や筋肉の限界値を完璧に数値化し、壊れる一歩手前の「99.9%」まで意図的に負荷をかけ続ける、殺人的な行程表。

 

俺の『装置』としての機能が弾き出した、最も無慈悲で、最も確実に脚を速くするための劇薬である。

並のウマ娘なら、初日の午前中で泣きを入れて逃げ出すか、精神が耐えきれずに壊れる。

 

だが、あの天涯孤独の野犬は違った。

 

脚が悲鳴を上げようと、酸欠で視界が白濁しようと、アルヴは一切の弱音を吐かなかった。ただ俺の冷酷な指示を絶対的なものとして呑み込み、泥水ごと噛み砕くようにして喰らいついてくる。

 

「……あはは。本当に、可愛げのないエンジンだこと」

 

俺は喉の奥で笑い、ストップウォッチのボタンを押し込んだ。

 

だが、俺たち二人がその異常な『成果主義』の泥沼に深く沈めば沈むほど、周囲との温度差は絶望的なまでに開いていく。

 

「……おい、見ろよ。また小鳥遊の奴、あんな無茶なメニューをやらせてるぞ」

 

「いくらなんでもやりすぎだ……。アドマイヤグルーヴの脚、ガクガクじゃないか」

 

「やっぱり、あいつは担当を壊す気なんだ。施設育ちで身寄りがないからって、あんな道具みたいに扱うなんて……可哀想に」

 

コースのフェンス越しに、他のトレーナーやウマ娘たちが遠巻きに立ち止まり、ヒソヒソと非難の声を上げ始めていた。

 

俺の刈り上げられた髪や、ピアスだらけの耳元に向けられる嫌悪の視線。

そして、泥だらけになって走るアルヴに向けられる、生温かい『同情』の視線。

 

「小鳥遊!! いい加減にしろ!!」

 

ついに見かねたのだろう。

正義感の強そうな中堅のトレーナーが、フェンスを乗り越える勢いで俺に詰め寄ってきた。

 

「彼女の顔色が真っ青じゃないか! オーバーワークにも程がある! 謹慎明けで焦っているのか知らないが、自分の実績のために生徒を壊す気か!?」

 

「今すぐやめさせないと、生徒会か理事長に報告するからな……っ!」

 

周囲のモブウマ娘たちも、悲痛な顔でそれに同調する。

 

「あー……」

 

俺はツーブロックの前髪を適当に掻き上げ、面倒くさそうに首を鳴らした。

 

正論だ。100人いれば100人が俺を非難するだろう。光の当たる道を歩く彼らには、この泥沼の理論など理解できなくて当然だ。

 

「あはは、お節介どうも。でもねぇ、先生方」

 

俺がいつものヘラヘラとした薄ら笑いを浮かべ、彼らを嘲笑うための言葉(ヘイトを全て俺に向けるための防壁)を口にしようとした、その瞬間だった。

 

「……黙りなさいッ!!」

 

地を這うような、ひどく冷たく、凄みのある声が響いた。

 

中堅トレーナーたちがビクッと肩を震わせて振り返る。

そこには、無酸素インターバルを終え、全身を汗と泥に塗れさせたアルヴが立っていた。

 

息も絶え絶えで、立っているのがやっとのはずの身体。しかし、彼女の氷のような瞳には、周囲の大人たちを完全に威圧するほどの、強烈な『孤高の牙』が剥き出しになっていた。

 

「ア、アドマイヤグルーヴ……君、もう走っちゃ駄目だ! 今ならまだ引き返せる。あんなクズの言うことなんて聞く必要は……!」

 

「……クズ? 誰が、私の『装置』をクズだと呼んでいいと言ったの」

 

アルヴは、同情を寄せてくるトレーナーを、汚物でも見るかのように冷酷に睨みつけた。

 

「可哀想? オーバーワーク? ……ふざけないで。貴方たちのその安っぽい『同情』で、私の脚が0.1秒でも速くなるんですか」

 

「なっ……!?」

 

「私に泥を舐めさせて、私に限界を超えさせて、一番高い景色を見せる計算式を弾き出せるのは……この世で、この男だけよ!!」

 

アルヴは、フラつく足取りで俺の隣まで歩いてくると、俺の前に立ち塞がるようにして、周囲の連中をぐるりと見渡した。

 

「勝利という結果を出せないウマ娘に、価値なんてない。……私に同情する暇があるなら、自分の担当のタイムでも心配してあげたらどうなの?」

 

一切の反論を許さない、絶対的な拒絶。

 

純粋な善意と同情を、ここまで見事に、そして残酷に叩き斬られたトレーナーやウマ娘たちは、顔を青ざめさせ、あるいは怒りに震えながら、言葉を失って後ずさった。

 

「……勝手にしろ! 壊れてから泣きついても知らないぞ!」

 

「あんなの、異常よ……」

 

彼らは捨て台詞を吐き、蜘蛛の子を散らすように去っていく。

光の住人たちは、もう二度と俺たちに関わろうとはしないだろう。これで完全に、俺たちはこの学園で『孤立』した。

 

周囲から誰もいなくなり、静寂が戻ったコース。

 

「……っ、ふぅーっ……」

 

張り詰めていた糸が切れたように、アルヴがその場に膝をつき、激しく咳き込んだ。限界を超えた肉体が、悲鳴を上げている。

 

俺はポケットから手を出して、ゆっくりと彼女の隣にしゃがみ込んだ。

 

いつもの薄ら笑いを消し、ただの客観的な事実だけを告げる死んだ目で、彼女を見下ろす。

 

「……いいのかよ、お嬢様。あんなこと言って。これで完全に、周りは全員敵だぞ?」

 

「……はぁっ……別に、いいわ。最初から……友達ごっこをしにきたわけじゃない」

 

アルヴは、泥だらけの顔を上げ、乱れた前髪の隙間から俺を睨み返した。

 

「それに。私の前で、他人が貴方をクズ呼ばわりするのが……無性に、腹が立っただけよ」

 

「あはは。俺は正真正銘のクズだけどねぇ?」

 

「うるさい。……次、メニューの続きは?」

 

まだやる気か。

 

この孤児院の野犬は、俺という曰く付きの泥沼の中で、誰よりも気高く、美しく牙を研ぎ澄まそうとしている。

 

「……5分休憩。その後、右のストライド修正を兼ねた坂路トレーニングだ。死ぬ気でついてこい」

 

俺が冷たく言い放つと、彼女は「当然よ」と不敵に笑い、震える足で立ち上がった。

 

愛も、友情も、同情もいらない。

互いの首を絞め合うような過酷な成果主義の中でだけ、俺たちは確かに繋がっている。

 

狂気的なトレーニングと、周囲との完全な断絶。それが、俺たち二人が選んだ、世界で一番泥に塗れた『共犯関係』の形。

 

『距離感のバグと、不器用な出迎え』

 

あれから、文字通り血の滲むような過酷なトレーニングの日々が続いた。

 

俺の弾き出した限界突破の数値を、アドマイヤグルーヴは文字通り命を削りながら喰らい尽くしていく。

その成果は、ストップウォッチの無機質な数字を見れば一目瞭然だった。彼女の実力は、日を追うごとにメキメキと、恐ろしいほどの速度で底上げされていった。

 

だが、彼女が血反吐を吐いて数値をクリアし、成果を出したとしても、俺は一切の賞賛を与えることなく、ただ無慈悲に「さらに限界を引き上げた次のノルマ」を課すだけだ。

 

常人なら三日で精神が壊れるか、逃げ出すような地獄のメニュー。しかし彼女は、何一つ文句を垂れることなく、その全てを泥水ごと飲み込むように完璧に熟していった。

 

(……本当に、凄まじい執念を持った野犬だ)

 

俺は内心でひどく感心していたが、もちろんそんな温い感情を口にすることはなく、ただ光のない瞳でストップウォッチを握り、ヘラヘラと笑いながら冷酷な数字だけを突きつけ続けて日々を過ごしていた。

 

そして――。

 

ターフを吹き抜ける風が、一人のウマ娘の圧倒的な暴力によって切り裂かれていく。

 

メイクデビュー戦。

 

結果から言えば、それはレースと呼ぶのもおこがましい、完全な『蹂躙』だった。

 

「……っ、アドマイヤグルーヴ、大差をつけての圧勝!! なんという末脚、なんという完成度か!!」

 

実況が悲鳴のような歓声を上げ、観客席がどよめきに包まれる。

 

ゴール板を駆け抜けた彼女は、後続に影すら踏ませない絶望的なタイムを叩き出していた。

 

俺は関係者席の片隅で、パイプ柵に肘をつき、手元のストップウォッチに表示された無機質な数字を見つめた。

 

肺を焼き、筋肉の繊維を千切る寸前まで追い込んだ、あの狂気的なトレーニング。その計算式が、1ミリの狂いもなく証明された瞬間だ。

 

「あはは。ポンコツエンジンも、限界までぶん回せばちゃんと走るじゃねえか」

 

俺はツーブロックの前髪を掻き上げ、光のない死んだ目で、ターフで荒い息を吐く彼女を見下ろした。

 

レース直後の検量室前。

 

圧勝を収めたアルヴの周りには、真っ当な光の住人たちが集まっていた。

 

「見事な走りだった。メイクデビューでこれほどの完成度を見せるとは……流石だな!アドマイヤグルーヴ!」

 

「ああ。素晴らしい才能だ。これからも怪我に気をつけて励むといい、アルヴ」

 

生徒会副会長であるエアグルーヴと、その担当トレーナーである神崎だ。

 

彼らは純粋な称賛と、才能に対する敬意を持ってアルヴに言葉をかけていた。普通なら、誇らしく頬を染めて喜ぶ場面だろう。

 

だが。

 

「……お褒めに預かり光栄です。ですが、私はただ指示されたタイム通りに走っただけですので。これで失礼します」

 

アルヴは、その温かい称賛の言葉を、文字通り『氷点下の壁』で冷酷に切り捨てた。

 

彼女の瞳には、一切の熱がない。同情も、温かい称賛も、孤児院上がりの彼女にとってはただの「他人の無責任なノイズ」に過ぎないのだ。

 

彼女は神崎たちの困惑を置き去りにして、足早に検量室の奥へと消えていった。

 

自分に『結果』を与えた、ただ一人の共犯者を探すように。

 

───

 

レース後。

 

シャワー室へと続く、薄暗く人気のない地下通路。

 

「……っ、ふぅ……」

 

シャワーを浴び終え、濡れた髪をタオルで拭きながら歩いてきたアルヴは、ふと足を止めた。

 

通路の壁に背を預け、咥えたままのシケモクを揺らしている男の姿を見つけたからだ。

 

「よぉ。お疲れさん、お嬢様」

 

俺は壁から背中を離し、ヘラヘラとした薄ら笑いを浮かべて彼女を見た。

 

「……見ていたの?」

 

「まあね。俺の『装置』としての機能チェックだからな。……タイムは規定通り。フォームの乱れも許容範囲内。デビュー戦の試運転としては、百点満点の出来だ」

 

俺はポケットから冷えたスポーツドリンクのペットボトルを取り出し、彼女に向かって軽く放り投げた。

 

パシッ、とそれを受け取ったアルヴは、ボトルの冷たい表面を見つめ、それから俺の顔――刈り上げられた髪や、左耳のピアス、生気のない目元を、じっと見つめ返してきた。

 

「……そう。貴方がそう言うなら、そうなんでしょうね」

 

アルヴはぽつりと呟き、ボトルのキャップをひねって一口飲んだ。

 

その瞬間。彼女の中で、何かが決定的に『壊れる(あるいは外れる)』音がしたのを、俺は確かに感じ取った。

 

「……ねえ。貴方、他のウマ娘の担当になるつもりはあるの?」

 

「は? ないない。俺みたいな曰く付きのクズに、これ以上部品が増やせるわけないだろ。お前一人で手一杯だ」

 

「……そう」

 

アルヴは、濡れた前髪の隙間から、ひどく真っ直ぐに俺を睨みつけた。

 

そこにあったのは、孤児院の野犬としての怯えや、他者を拒絶する氷のような冷たさではない。

 

自らに結果を与え、一切の嘘をつかなかったこの薄汚れた男に対する、絶対的な『所有欲』と『信頼』だった。

 

「なら、これからはもっと私の脚に集中しなさい。……私の『装置』なんだから、当然でしょ」

 

「……は?」

 

彼女から引かれていた分厚い壁が、完全に消え去っている。

 

俺が目を丸くしていると、アルヴはズンズンと距離を詰め、俺の手から奪うように、持っていたストップウォッチとバインダーをひったくった。

 

「ちょ、おま……!」

 

「明日のメニューは? まさか、これで満足して負荷を下げるなんて言わないわよね」

 

鼻先が触れそうなほど近い距離。

 

俺は一瞬たじろぎ、やれやれと頭を掻きながら、ヘラヘラとした笑いを深めた。

 

「……あはは。あのさぁ、お嬢様。俺に対する距離感、なんかバグってきてない?」

 

俺がわざとらしく揶揄うと、アルヴは全く悪びれる様子もなく、ふんと鼻を鳴らした。

 

「はぁ? 私を一番早く走らせるための『装置』なんだから、いちいち気を使っていられないでしょ。……それに、貴方がどんな底辺のクズだろうと、私の脚を任せた以上は、貴方は私のものよ。文句ある?」

 

一切の照れもなく、ひどく傲慢に、だが真っ直ぐな瞳で言い放つ。

 

孤高の野犬は、同情をくれる優しい大人たちには決して懐かなかったが、自分に血を吐かせ、泥を啜らせてでも「勝利」を与えたこの虚無の男だけは、自らの『群れ(共犯者)』として完全に認め、受け入れたのだ。

 

「あーあ。可愛げのない野犬に完全に懐かれちまったもんだ。……ほらよ、明日の地獄の片道切符だ」

 

俺はやれやれと首を振りながら、ひったくられたバインダーのページをめくって見せた。

 

アルヴはそれに目を通し、凶悪な笑みを浮かべる。

 

「……上方修正して。私の脚は、まだ回るわ」

 

「お前なぁ〜……。まあいいや、ぶっ倒れても運んでやんないからな」

言うだけ言って、アルヴは嵐のように俺の横を通り過ぎ、控室へと向かっていく。

 

俺はその後ろ姿を見送りながら、ポケットのシケモクを指で弄り、小さく息を吐いた。

 

「……距離感、バグりすぎだろぉ。アイツ」

 

一人ごちたその顔には、相変わらず光はない。

 

だが、その薄ら笑いの奥には、彼女のその『傲慢な信頼』を何よりも重く受け止めている、不器用な男の覚悟が静かに沈んでいた。

 

これ以降、俺とアルヴの関係は、周囲の理解を完全に置き去りにしたまま、狂気的で、けれどどこよりも密接な『共犯関係』へと変貌を遂げていくことになる。

 

 

『ライバルの登場と、血に染まる掌』

 

メイクデビューでの圧倒的な蹂躙劇から数ヶ月。

 

アルヴの快進撃は止まらなかった。俺が弾き出す常軌を逸した限界突破の数値を、彼女は血反吐を吐きながらも完璧にトレースし、次々と他を寄せ付けない圧倒的な『結果』をターフに刻み込んでいった。

 

だが、頂点への道は決して孤独な一人旅ではない。

 

光が強ければ強いほど、同じくらい強烈な輝きを放つ『星』が、必然として交わっていく。

 

「……っ!」

 

ある日の学園のモニター前。

 

他レースの映像を食い入るように見つめていたアルヴが、ギリッと奥歯を鳴らした。

 

画面の中で優雅に、一切の無駄なくターフを駆け抜け、トップでゴール板を駆け抜けたウマ娘。

 

『スティルインラブ』

 

泥まみれで暴力的な末脚を武器にするアルヴとは完全な対極。静かで、美しく、それでいて揺るぎない完璧なレース運びをする「静かなる才媛」。

 

同世代にして、最強のライバルの出現だった。

 

「……見たか、お嬢様」

 

俺は隣でシケモクを咥え、画面の中で微笑むスティルインラブを死んだ目で見つめながら、ぽつりとこぼした。

 

「右回りのコーナリング、一切のブレがない。心肺機能のペース配分も機械みたいに正確だ。……今のままじゃ、あいつの背中を捕らえる前に、お前のポンコツエンジンが先に焼き付くぞ」

 

客観的な事実。

 

だが、その言葉を聞いたアルヴは、俺を睨みつけることもなく、ただ画面から目を逸らさずに低く唸った。

 

「……メニューを再構築して。負荷は今の1.5倍……いや、2倍でいいわ。あの子(スティルインラブ)を喰いちぎるための牙を、今すぐ私によこしなさい」

 

「あはは。言うねぇ。2倍の負荷なんてかけたら、今度こそお前の脚の靭帯は千切れてスクラップだぞ?」

 

「私が壊れる前に、貴方が完璧な計算式を弾き出せばいいだけの話でしょ。……私の『装置』なら、その程度の計算、命を削ってでもやり遂げなさいよ」

 

ひどく傲慢で、絶対的な信頼。

 

俺はツーブロックの前髪を掻き上げ、耳元のピアスをチャラリと鳴らして薄ら笑いを浮かべた。

 

「……御意。じゃあ、せいぜい明日は地獄を見る覚悟をしておきな」

 

─────

 

その日の深夜。

 

ウマ娘たちの寝息が静まる、消灯時間をとうに過ぎたトレセン学園の地下トレーニングルーム。

 

「……っ、がはっ……!!」

 

薄暗い部屋の中に、人間の、血の混じった激しい咳が響き渡っていた。

 

──俺だ。

 

「……はぁっ、はぁっ……くそっ、やっぱり人間の身体じゃ、ウマ娘のプレス重量は……関節がイカれるな……っ」

 

俺は、ウマ娘専用の高負荷トレーニングマシンから転げ落ち、冷たい床に這いつくばっていた。

 

全身の筋肉が断裂するような激痛。呼吸をするたびに、肺の奥から鉄の匂いがせり上がってくる。

 

アルヴに課す、常軌を逸した限界突破のトレーニングメニュー。

 

俺の『装置』としての眼は、確かに彼女の限界値の99.9%を見極めることができる。だが、それはあくまで机上の空論、数値上の話だ。

 

0.1%でも計算を間違えれば、彼女の脚は本当に壊れてしまう。あの野犬の誇りを、俺の計算ミスでスクラップにするわけにはいかない。

 

だから俺は、毎晩こうして深夜のトレーニングルームに忍び込み、自らの『人間の肉体』を使って、彼女に課す予定の狂気的なメニューの被検体(テスト)を行っていた。

 

人間の身体でウマ娘の負荷を受ければどうなるか。当然、身体は悲鳴を上げ、あちこちの毛細血管が千切れ、ボロボロに壊れていく。

 

だが、その「肉体が壊れる瞬間のフィードバック」こそが、彼女のメニューを1ミリの狂いもなく安全なギリギリのラインで調整するための、最も正確なデータとなるのだ。

 

「……っ、よし。右脚の踏み込み角度、あと3度下げれば……大腿筋への負荷は分散できる……っ」

 

床に滴る自らの汗と血を拭いもせず、俺は震える手でバインダーを掴み、ペンを走らせる。

 

ウエイトマシンの分厚いグリップを無理やり握りしめ続けた俺の両手の掌は、摩擦で皮がめくれ、ひどく赤黒い血に染まっていた。

 

「……これなら、あいつのエンジンは……っ」

 

「……何、を……しているの?」

 

不意に。

 

静まり返ったトレーニングルームの入り口から、震える声が落ちてきた。

 

「―――アルヴ!?」

 

俺がビクッと肩を跳ねさせて振り返ると、そこには、ジャージ姿のアルヴが立ち尽くしていた。

 

喉が渇いて自販機にでも来たのだろう。だが、彼女の視線は、俺の血に染まった掌と、ボロボロになった身体、そして床に散らばった計算式のメモに釘付けになっていた。

 

「ぁー……ンンッ!お嬢〜、夜更かしはお肌と明日のタイムに響くぞ」

 

俺は咄嗟にバインダーを背後に隠し、刈り上げられたサイドの髪から滴る汗を拭って、いつものヘラヘラとした薄ら笑いを顔に貼り付けた。

 

「ちょっと夜の散歩のついでに、マシンのメンテナンスをしてただけでね。オイルで手が汚れちまっ――」

 

「嘘をつかないでッ!!」

 

アルヴの悲痛な叫びが、薄暗い部屋に木霊した。

 

彼女はズンズンと俺に歩み寄り、背後に隠そうとした俺の腕を、力強く引っ張り出した。

 

「……いっ!!」

 

隠しきれるはずがなかった。

 

赤黒く血が滲み、肉が裂けた無惨な掌。それが「オイルの汚れ」などではないことくらい、ウマ娘である彼女が見間違えるはずもない。

 

「……貴方。これを、毎晩……?」

 

アルヴの声が、微かに震えていた。

 

孤児院で育ち、「結果を出さなければ見捨てられる」という恐怖の中で生きてきた彼女。

 

誰も自分を助けてなどくれない。だから、他人の同情なんて反吐が出る。そう信じていた。

 

だが、目の前のこの薄汚れた男は。

 

「結果を出せなければ切り捨てる」と冷酷に嘯きながら。

自分というウマ娘を壊さないためだけに、自らの人間の肉体をクッションにし、血を吐きながら深夜に限界値の計算を続けていたのだ。

 

「……あはは。勘違いするなよ、アルヴ」

 

俺は、彼女に掴まれた血まみれの手を誤魔化すように、ひどく冷たく、虚無の仮面を被って笑った。

 

「言ったろぉ、俺は『装置』だ。お前を最高速度で走らせるためのな。……これは、ただの稼働テストだ。お前みたいなポンコツ部品をぶっ壊して、俺の評価を落とすわけにはいかないからな。俺の保身のための、ただの計算だよ」

 

ただの計算。ただの保身。

 

そう突き放して、俺はこの奇妙な事実を終わらせようとした。

だが、アルヴは俺の手を離さなかった。

 

それどころか、彼女は両手で、俺のその血に染まった汚い掌を、ギュッと強く、大切に握りしめたのだ。

 

「……っ!おいおい、お嬢様?」

 

俺が驚いて目を見開くと、アルヴは濡れたような、それでいてひどく熱を持った狂暴な瞳で、俺の死んだ目を真っ直ぐに見つめ返してきた。

 

「……馬鹿な男。自分の命をすり減らしてまで弾き出した計算式を、『ただの保身』だなんて。……本当に、呆れるほどのクズね」

 

彼女の冷たい手が、俺の掌の傷から流れる血の熱に触れる。

 

「……でも、わかったわ」

 

アルヴは、俺の血で自分の手が汚れることなど一切気にせず、むしろその血の匂いを自らの魂に刻み込むように深く息を吸い込んだ。

 

「同情なんてしない。心配もしない。……貴方がそうやって血反吐を吐いて、自分の人生をドブに捨ててまで私に『結果』を捧げるというのなら」

 

彼女は、ぞっとするほど気高く、そして世界で一番傲慢な笑みを浮かべた。

 

「貴方のその命ごと、私が全部、喰らい尽くしてあげる」

 

それは、ただのトレーナーと担当ウマ娘の枠を完全に逸脱した宣言だった。

 

俺が彼女に注ぎ込む狂気的な自己犠牲を、彼女は「重い」と拒絶するのではなく、己の血肉として丸ごと飲み込むことを選んだのだ。

 

「私がスティルインラブを叩き潰して、一番高い景色を見せてあげる。……だから貴方は、そのまま這いつくばって、私のために血を流し続けなさい」

 

薄暗い地下室。

 

俺の血に染まった掌を握りしめる、孤高の女王。

 

「……あはは。言うねぇ」

 

俺は、繋がれた手から伝わる彼女の圧倒的な熱に当てられ、胸の奥底で完全に狂った歯車が回り出すのを感じた。

 

「上等だ!……お前が同世代の頂点に立つまで、俺の血の一滴まで全部、お前のエンジンに注ぎ込んでやるよ」

 

愛なんて言葉では、到底表現できない。

 

呪いのように重く、泥のように汚く、そして血の匂いがする歪な共犯関係は、この夜を境に、二度と後戻りできない領域へと足を踏み入れたのだった。

 

『敗北のち、雪降る夜の不器用なエスコート』

 

ターフを揺るがす大歓声が、残酷なほど明確な『勝敗』を告げていた。

 

G2・チューリップ賞。

 

同世代の完璧なる才媛、スティルインラブとの初めての直接対決。結果は『ハナ差』での敗北だった。

 

だが、敗北という泥水を飲み干したアルヴの瞳に絶望はなく、むしろ首元に迫った獲物を次こそ確実に喰いちぎるための、狂暴な闘志だけが燃え盛っていた。

 

─────

 

それから数日後の、ひどく冷え込んだ夕暮れ時。

トレセン学園の薄暗い事務室。

 

俺は自分のデスクに齧りつき、パソコンのモニターと睨み合いながら、アルヴの次なる限界突破メニューの再構築を煮詰めに煮詰めていた。スティルインラブの走りを0.1秒凌駕するための、裏方の作業だ。

 

「……まだ帰らないの?」

 

不意に。

 

タイピングの音だけが響く静寂の中に、ひどく澄んだ声が落ちてきた。

 

「ん……?」

 

俺がモニターから死んだ目を引き剥がして振り返ると、そこには制服姿のアルヴが立っていた。定時間をとうに過ぎたというのに、鞄を提げたまま俺のデスクを覗き込んでいる。

 

「あー……お嬢様か」

 

俺は壁掛け時計に目をやり、自分が完全に時間と現実世界から切り離されていたことに気づいて、軽く首の骨を鳴らした。

 

「悪いな、俺はあと少し計算の辻褄を合わせたら終わる。……冷えるから、お前は先に寮に帰ってろ。気を付けてな〜」

 

「……そう? それじゃあ」

 

俺があしらうように手をヒラヒラと振ると、アルヴはそれ以上踏み込んでくることはなく、あっさりと踵を返して事務室を出て行った。

 

バタン、と扉が閉まる音。

 

俺は残された静寂の中で、小さく息を吐いた。

 

「……あいつもホント、昔とは比べられないくらいに懐に入ってくるようになったと言うか……」

 

出会った当初の、周囲の全てを氷のように拒絶していた野犬の姿を思い出す。

 

それが今や、こうして定時外にわざわざ俺の様子を見に来るほどに距離感がバグっているのだ。

 

「一体、何処のウマ娘に似たんだかなぁ」

 

脳裏に、同じように不器用で気高く、そしてやたらと俺や神崎の世話を焼きたがる『生徒会副会長殿』の顔が浮かんだ。

 

俺は思わず喉の奥でくつくつと笑い、ヘラヘラとした薄ら笑いを浮かべたまま「さてと」と気合を入れ直す。愛だの絆だのとは無縁の底辺のクズだが、あの野犬の期待にだけは、何が何でも応えてやらなければならない。

 

キーボードを叩く指の速度を上げ、残りの仕事を一気に片付けにかかった。

 

⏱️

 

それから、1時間ほどが経過した頃。

 

「……よし、完璧だ」

 

限界値の再計算を終えた俺は、パソコンの電源を落とし、凝り固まった肩を回しながら事務室を出た。

 

建物の外に出ると、いつの間にか冬の夜空から、白い雪がチラチラと舞い落ち始めていた。

 

「うっわ、冷え込んできたなぁ……さむっ!」

 

俺がよれよれのジャケットの襟を立て、吐く息の白さに身震いした、その時だった。

 

「……遅い」

 

校舎の入り口の死角。

街灯の薄明かりの下に、見慣れたシルエットがポツリと立っていた。

 

「―――は!?」

 

俺は我が目を疑った。

 

そこには、厚手のコートを着込んではいるものの、寒さで身を小さく震わせ、鼻の先をほんのりと赤くしたアルヴが立っていたのだ。

 

「おま……っ! 先に帰ってろって言っただろ!!??」

 

俺は慌てて距離を詰め、彼女の前に立った。

 

『ウマ娘を勝たせるための装置』としての冷徹さなど完全に吹っ飛び、ただ一人の大人の男として、風邪でも引いたらどうするんだと、無意識のうちに世話を焼くように彼女の肩に触れそうになる。

 

だが、アルヴは俺の焦りなどどこ吹く風で。

 

「……あと少しで終わるって言ったのは、貴方でしょう?」

 

彼女は少しだけ口を尖らせ、俺と目を合わせないように明後日の方向を見つめながら、ひどく不満げに、拗ねたような表情でそう言い放ったのだ。

 

「へ……?」

 

俺は、文字通り『鳩が豆鉄砲を食らったような顔』で硬直した。

 

(あと少しって……いや、俺は先に帰ってろって言ったし、そもそもコイツ……)

 

『一緒に帰るために、この雪の中で1時間も待っていた』という事実に、俺の脳の処理能力が完全に追いつかなくなった。同情を嫌い、一人で生き抜くことを信条としていたあの気高き野犬が、ただ俺の仕事が終わるのを、寒空の下でじっと待っていたのだ。

 

「っぷ、……あはっ、はははははっ!!」

 

数秒の空白の後。

 

俺はこらえきれず、腹を抱えて盛大に吹き出した。

 

冷薄な薄ら笑いでも、人を食ったような嘲笑でもない。出会ってから初めて見せる、心の底からの不格好な大爆笑だった。

 

「な、何が可笑しいのよ!!」

 

アルヴは両耳をペタンと絞り、顔を真っ赤にして「グルルッ」と牙を剥いて唸り声を上げた。

 

「いや! ごめん、悪かった! ……お嬢〜。一緒に帰りたいなら、最初からそう言えよなぁ!」

 

俺が涙目になりながら本心から笑いかけると、アルヴは図星を突かれたのか、さらに顔を赤くして「そ、そんなんじゃないわよ!」とそっぽを向いてしまった。

 

その、あまりにも年相応で不器用な反応が愛おしくて、俺はもう一度小さく笑いをこぼした。

 

「……ったく。世話が焼ける野犬だこと。」

 

笑いが収まった後。

 

俺は自分が羽織っていたよれよれのジャケットを脱ぐと、寒さに震える彼女の肩に、迷うことなくバサリと被せた。

 

「ちょっと。貴方、風邪引くわよ?」

 

「俺は装置だから風邪なんか引かないの。お嬢様の極上エンジンが冷える方が、俺の評価に関わる大問題なんでね」

 

俺はジャケットの襟を彼女の首元にしっかりと合わせ、ほんのりと赤い鼻先を見下ろして、どこか照れくさそうに、穏やかな笑顔を向けた。

 

「んじゃ。エスコートしますかねぇ? ウチの我儘お嬢様のご命令とあらば」

 

いつものヘラヘラとした軽口。

 

だが、そこにはもう、虚無や自己犠牲の影はなかった。

 

アルヴは俺の被せたジャケットの温もりに少しだけ目を瞬かせ、やがて、その傲慢で美しい顔に、ほんの少しだけ嬉しそうな笑みを浮かべた。

 

「……ええ。私の歩幅に合わせなさい、トレーナー」

 

雪がしんしんと降り積もる、冬のトレセン中央学園。

 

底辺のクズトレーナーと、孤高の女王。

 

互いに愛を知らない二人は、一つのジャケットに身を寄せ合うようにして、冷たい雪道を肩を並べて歩いていく。

 

その足跡は不器用で歪だったが、どんな綺麗な絆よりも深く、そして確かに、同じ未来へと向かって刻まれている。

 

『忍び寄るは悪意の影と泥被りの覚悟。そして、細やかな幸せを』

 

雪降る夜の不器用なエスコートから、季節は少しずつ巡り。

アルヴの快進撃は、あの一つの敗北誰にも止められないものとなっていた。

 

G2をはじめとする重賞レース。

 

彼女は俺の弾き出した狂気的な限界突破メニューを全て己の血肉とし、次々と他を寄せ付けない圧倒的な『結果』をターフに刻み込んでいった。

 

同世代の頂点に立つ日は、もうすぐそこまで迫っている。

 

だが、光が強ければ強いほど、そこに落ちる影もまた濃く、どす黒くなるものだ。

 

─────

 

ある重賞レース後の、関係者専用エリア。

 

無事にレースと定例の記者会見を終えたアルヴが「少し汗を流してくるわ」と席を外し、俺は一人、壁に背を預けて火のついていないシケモクを咥えていた。

 

「いやぁ、素晴らしいレースでしたねぇ。おめでとうございます」

 

不意に、ひどく耳障りな、ねっとりとした声が鼓膜を撫でた。

 

視線を向けると、そこには首からプレス用のパスを下げた、くたびれたスーツ姿の男が立っていた。手にはボイスレコーダーと薄汚れたメモ帳。大手スポーツ紙の人間が纏うような熱気はなく、ただ他人の粗探しをして生きるハイエナ特有の、腐臭のような空気を漂わせている。

 

「あー……どうしたんスか? 取材なら、学園の広報を通してもらわないと受け付けてな――」

 

俺がいつものようにのらくらと手を振って追い払おうと言いかけた、その時だった。

 

「貴方、担当を再起不能に追い込んだ『クラッシャー』の小鳥遊トレーナーですよねぇ?」

 

「―――」

 

男の口元に浮かんだ、下世話で粘着質なニヤつき。

 

それは明らかに、アルヴのレースの感想や、スポーツマンシップに則った取材などではない。純粋な『悪意』の塊だった。

 

俺は一瞬だけ、咥えていたシケモクを噛み潰しそうになるほど表情を訝しめる。

 

だが、すぐにそれを薄ら笑いの奥へと押し込み、刈り上げられた前髪を掻き上げて、大げさにおどけてみせた。

 

「え〜、どうしてそう思うんスかぁ? 俺ってそんな有名人? いやぁ、ただのしがない裏方なんですけどねぇ。困ったなぁ〜」

 

「ははは、ご謙遜を。業界じゃ有名ですよぉ。……かつて将来有望だったウマ娘を深い恋沙汰の泥沼に引きずり込み、精神を壊して引退に追い込んだ、悪逆非道なクズトレーナーである、と」

 

記者は、俺のヘラヘラとした防壁など気にも留めず、ズカズカと俺のパーソナルスペースに踏み込んできた。

 

「それにしても、不思議ですよねぇ。そんな曰く付きの人間が、どうしてまたトレセン学園で教鞭を執れているのか。……ああ、そういえば貴方、親に捨てられた『孤児院育ち』だそうですねぇ?」

 

「……」

 

その言葉が出た瞬間。俺の顔から、作り物の薄ら笑いが完全に消え失せた。

 

「愛されずに育ったから、生徒を道具のように使い潰しても心が痛まない。……いやぁ、実に興味深い生い立ちだ。読者が喜びそうな悲惨なストーリーじゃないですかぁ」

 

この男は、俺の噂レベルの悪名だけでなく、学園の厳重なプライバシーの壁を越えて、俺の『孤児』という戸籍上の情報まで掘り起こしてきている。

 

それはつまり、俺と同じ境遇であるアルヴの過去――「孤児院出身」という彼女が最も抉られたくない事実にも、すでにこの男の手が届いている(あるいは届きかけている)という明確なサインだった。

 

俺は壁から背中を離し、光の一切ない、深海よりも冷たい三白眼で記者を見下ろした。

 

「……何が目的だ」

 

声のトーンから一切の感情を削ぎ落とし、ただ純粋な殺気だけを込めて問う。

 

だが、記者は怯むどころか、さらにその下世話な笑みを深めた。

 

「いやね。ここ最近、貴方の担当が目覚ましい活躍をされているじゃないですかぁ」

 

記者のねっとりとした、湿度の高い不快な眼差しが、俺の肩越し――遠くの通路から、こちらに向かって歩いてくるアルヴの姿へと向けられた。

 

「美しく、気高く、そしてどこか影のある孤高の天才ウマ娘。……そんな彼女が、実は過去に担当を壊した孤児の悪徳トレーナーに心身共に依存し、支配されているとしたら?」

 

「てめぇ……」

 

「彼女のこと……深ぁ〜く、記事にしたいんですよねぇ〜」

 

記者は意味深な、そしてアルヴの全てを泥で汚すようなおぞましい発言を口の中で転がすと、「それじゃあ、また後日。楽しみにしていてくださいねぇ」と、薄汚い笑い声を残して踵を返した。

遠ざかる記者の背中を、俺は一歩も動かずに見送った。

 

ポケットの中で握りしめた拳の爪が、血が出るほど掌に食い込んでいる。

 

「……トレーナー? どうしたの、そんなゴミを見るような目をして」

 

タオルを首にかけたアルヴが、俺の元へと戻ってきた。

 

俺はゆっくりと息を吐き出し、振り返って、いつものヘラヘラとした薄ら笑いを完璧に顔に貼り付けた。

 

「おや、お帰りお嬢様。いやいや、ちょっとしつこいセールスマンに絡まれてただけだよぉ。……それより、今日のタイムも完璧だったな。ご褒美に、明日のメニューはさらに地獄の釜の蓋を開けてやるよ」

 

「ふん。望むところよ。私のエンジンを出し惜しみしないで」

アルヴは何も知らずに、傲慢で美しい笑みを浮かべて前を歩き出した。

 

(……この野犬が、ようやく自分の脚で掴み取ろうとしている眩しい未来を)

 

俺は、彼女の細く、けれど誰よりも力強い背中を見つめる。

彼女は、同情や哀れみという泥を最も嫌う。あの記者が書こうとしているのは、彼女の努力の全てを「可哀想な生い立ちと、悪徳トレーナーへの依存」という三流の悲劇にすり替える、最悪の猛毒だ。

 

(あんな薄汚ぇクソ虫どもに、汚させてたまるか)

 

俺の機能は、ウマ娘を勝たせるための『装置』だ。

 

彼女の視界にチラつく不純物は、俺が全て、俺自身の泥と血を使ってでも、完全に包囲し、社会的に殲滅する。

 

誰も知らない薄暗い通路で。

 

俺は一人、静かに、そして絶対的な『殺意』を宿した目で、暗躍への決意を固めたのだった。

 

『聖夜の贈り物』

 

また季節は進み、街全体が浮かれたようなクリスマスムードに染まり始めていた頃。

 

俺は、トレセン学園の空き教室の冷たい床に、両膝と額を擦り付けていた。

 

いわゆる『土下座』である。

 

「……一生のお願いだ。アルヴへのクリスマスプレゼントを選ぶのを、手伝ってくれ!!!」

 

「ぶっ……! げほっ、がはははははっ!! おいマジかお前!!」

 

腹を抱えて爆笑する神崎の野太い声が、教室中に響き渡る。

 

一方、その隣に立っていたエアグルーヴは、あのプライドばかり高くて他人に頭を下げることなど絶対にない『底辺のクズ』の俺が、よりによって担当生徒のために土下座をしているという異常事態に完全に目を丸くし、言葉を失ってフリーズしていた。

 

「な、何を……たわけ、いきなり何をしている! 早く顔を上げろ!!」

 

数秒後、ようやく我に返ったエアグルーヴが、ひどく慌てた様子で俺の肩を掴み、無理やり床から引き起こした。

 

俺は気恥ずかしさからツーブロックの前髪をガシガシと掻きむしり、視線を明後日の方向へと逃がした。耳元のピアスがチャラチャラと情けない音を立てる。

 

「いや、その……いつも地獄みたいなメニュー押し付けてるし、機嫌損ねてポンコツエンジンに焼き付かれても困るからな。機嫌取りというか、メンテナンスの延長線上というか……」

 

往生際悪く、ヘラヘラした薄ら笑いで言い訳を並べ立てる俺。

そんな俺の顔を、神崎がニヤニヤと意地悪く覗き込んでくる。

 

「……まあ、本音を言えば」

 

俺は観念して小さく息を吐き、光のない目で窓の外の冬空を見つめた。

 

「俺みたいな曰く付きの泥沼のクズに、あいつ、文句一つ言わずに長く付き合ってくれてるからな。……その、感謝のしるし、的なもんだよ。ただ、俺はああいう年頃のウマ娘が喜ぶようなキラキラしたモンなんて、何一つ分からねぇからさぁ」

 

俺がボソッと柄にもない本心をこぼすと。

神崎とエアグルーヴは、ほんの少しだけ驚いたように目を見開き、そして……互いに顔を見合わせて、ふっと柔らかく笑った。

 

「……ふん。あの小鳥遊が、ずいぶんと人間らしい顔をするようになったものだ。……よかろう。彼女のためだ、この私が一肌脱いでやる」

 

「がはは! まあ、あの不器用な野犬を手懐けたお前へのご褒美だ。付き合ってやるよ!」

 

こうして、光の住人である真っ当な二人の協力を得て。

アルヴには完全に内緒で、休日に四人で街へ出かけるための『極秘スケジュール』が調整された。

 

───

 

そして迎えた、休日の当日。

 

クリスマスソングが流れ、煌びやかなイルミネーションで彩られたショッピングモール。

 

「それじゃあ、私たちは少しあちらを見てくる。アルヴ、行くぞ」

 

「えっ、でも……」

 

エアグルーヴが、見事な手際でアルヴの腕を引いた。

 

「私たちも、あの愚かなトレーナーたちに、日頃の労いとして何か見繕ってやろうじゃないか」という、アルヴのプライドを絶妙にくすぐる完璧な口実だ。

 

「……わかりました。トレーナー、 私がいないからって、神崎トレーナーの邪魔をしてサボらないで頂戴よ!」

 

アルヴは俺をギロリと睨みつけ、威嚇するように牙を見せてから、エアグルーヴと共に女子高生たちの波へと消えていった。

 

残されたのは、巨体で無精髭の神崎と、不健康でピアスだらけの俺。

 

周囲はカップルか、楽しそうな家族連ればかりだ。俺たちのようなむさ苦しい男二人の組み合わせは、完全に浮いている。

 

「……あーあ。それにしても」

 

俺はポケットに両手を突っ込み、ため息混じりに苦笑を浮かべた。

 

「クリスマスに、オッサン二人でジュエルショップ巡りとはなぁ……。何の罰ゲームだよな、マジで」

 

「ばっかお前! 俺だって嫌だっつーの!!」

 

神崎が、顔を真っ赤にして俺の背中をバシッと遠慮なく小突いた。

 

むせ返る俺の首根っこを、太い腕でガッチリとホールドしてくる。

 

「そもそもお前が始めた話なんだ! 男なら、お前が責任持って最後までケリつけやがれ!! ほら、行くぞ不良!!」

 

「いててっ! 押すな、引っ張るな! 殺す気か脳筋!」

 

文句を言い合い、悪態をつきながらも。

 

神崎は周囲の奇異の目を一切気にすることなく、俺のクリスマスプレゼント選びに、真剣に付き合ってくれた。

 

ショーケースに並ぶ、宝石やアクセサリー。

 

どれもこれも、俺のこれまでの薄汚い人生には縁のなかった、眩しすぎるものばかりだ。

 

(……アルヴ。お嬢様、あの深い蒼に似合うものは)

 

俺はショーケース越しに、あの気高く、同情を嫌い、俺の血まみれの手を迷わず握り返してくれた少女の顔を思い浮かべる。

 

あの記者の悪意が、もうすぐ俺たちを包み込もうとしている。

 

俺がいずれ彼女の盾となって、全ての泥を被って消え去るその日までに。彼女の首元を飾る、ただ一つの美しく冷たい「鎖」を贈るために。

 

俺は、死んだ目を細め、ショーケースの中の輝きを真剣に見つめ続けた。

 

神崎との地獄のような(そしてひどく真剣な)ショーケース巡りの末、俺はついに一つのアクセサリーを選び出した。

 

それはシルバーのネックレス、冷たく美しい輝きを放つ、まさにアドマイヤグルーヴにピッタリのアクセサリーだった。

 

「かしこまりました。こちら、プレゼント用にお包みしますね」

 

にこやかに微笑む店員に対し、俺は「あー、ちょっと待って」と声をかけ、よれよれのジャケットの懐から、ちぎったメモ帳の切れ端を取り出した。

 

俺の『装置』としての計算式がびっしりと、それでいて乱雑に書き殴られた、血と汗の匂いが染み付いているような薄汚い紙切れだ。

 

「悪いけど、これも一緒に箱の隅に突っ込んどいて」

 

「えっ……? あ、はい。こちらのメモですね。かしこまりました」

 

高級店には全く似合わない代物に店員は一瞬ギョッとしたが、プロの愛想笑いでそれを受け取り、綺麗な化粧箱の中へと忍ばせてくれた。

 

隣で見ていた神崎が「お前、せっかくの綺麗なプレゼントに何しこんでんだよ……」と呆れ顔で小突いてきたが、俺はヘラヘラと薄ら笑いを浮かべてそれを躱した。

 

それから数十分後。

 

ショッピングモールの巨大なクリスマスツリーの前で、俺たちはエアグルーヴとアルヴの二人と合流した。

 

「……遅いわね。まさか神崎トレーナーに奢らせて、どこかでサボってたんじゃないでしょうね?」

 

アルヴが俺の顔を見るなり、両耳を絞って疑いの目を向けてくる。

 

「あはは、人聞きの悪い。俺は神崎の買い物に付き合わされてただけだよ。……なぁ、神崎?」

 

俺が話を振ると、神崎は「おっ、おう!」とわざとらしく大声を上げ、隣のエアグルーヴとバチッと視線を合わせた。

 

「あーっ!! いけねぇ、俺、今日中にたづなさんに提出しなきゃいけない書類があるの完全に忘れてた!! おいエアグルーヴ、生徒会権限でハンコがいる! 今すぐ戻るぞ!!」

 

「えっ? ……あ、ああ! 全く、貴様という奴は! だから出かける前に確認しろと言っただろう! ほら、走るぞたわけ!!」

 

軍人上がりの巨体と、厳格な生徒会副会長。

 

二人はまるで三文芝居のような大根役者ぶりで口裏を合わせると、俺の背後で親指をグッと立てる『サムズアップ』を残し、嵐のような勢いで駅の方へと走り去ってしまった。

 

「…………なんなの、あの二人。」

 

取り残されたアルヴが、ポカンとした顔でその後ろ姿を見送る。

俺はツーブロックの前髪を掻き上げ、喉の奥で笑いを殺した。

 

「あはは、忙しいこって。……さて。完全に置いてけぼり食らったわけだが、どうするお嬢様」

 

「どうするって……」

 

アルヴは周囲を見渡す。

 

すっかり日の落ちた街並みは、一面のイルミネーションに彩られ、行き交う人々は皆、幸せそうに肩を寄せ合っている。

冷たい冬の風が吹き抜け、アルヴが小さく身震いをした。

 

「……あー、冷えてきたな。ちょっとそこ入るか」

 

俺は彼女を促し、近くにあった落ち着いた雰囲気のコーヒーショップのドアを開けた。

 

─────

 

暖房の効いた店内。

窓際の席に陣取った俺たちは、湯気を立てるブラックコーヒーと、アルヴが頼んだ甘いショートケーキをテーブルに並べていた。

 

窓の外には、粉雪が舞い散るクリスマスの街並みが広がっている。

 

アルヴはフォークでケーキをつつきながら、その光の海を静かに眺めていた。孤児院で育ち、クリスマスなどという行事とは無縁だった彼女にとって、こうして誰かと過ごす聖夜は、ひどく新鮮で、どこか落ち着かないものなのかもしれない。

 

俺も何も言わず、ただシケモクを指で弄りながら、死んだ目でコーヒーの黒い水面を見つめていた。

 

血反吐を吐かせるような成果主義で結ばれた俺たちの間に、本来こんな穏やかな時間は存在しないはずなのに。今だけは、その静寂がひどく心地よかった。

 

「……ねえ」

 

ふとした拍子に。

アルヴが窓の外から視線を戻し、俺を真っ直ぐに見つめた。

 

「ん?」

 

「はい、これ」

 

彼女は、テーブル越しに、小さな紙袋を無造作に押し出してきた。

 

「私が出かけてる間、貴方はずっと私の計算式を組み立ててたんでしょ? ……どうせペンもバインダーもボロボロに使い潰してるだろうから、新しいのを買ってあげたわ」

 

「……は?」

 

俺が目を丸くして中を覗き込むと、そこには俺が普段使っているような安物とは違う、上質で重厚感のあるボールペンと、頑丈そうな革張りのバインダーが入っていた。

 

「……私の『装置』が、いつまでも安っぽい道具を使っていたら、私の品格に関わるからね。……大切に使いなさい」

 

アルヴはそっぽを向き、コーヒーカップを両手で包み込みながら、ほんの少しだけ頬を赤くして言い放った。

 

『メリークリスマス』なんて甘い言葉は、この気高き野犬の口からは絶対に出てこない。だが、その不器用すぎるプレゼントには、俺という底辺の男に自分の未来の全てを預けるという、確かな信頼が込められていた。

 

「……っ、あはは!」

 

俺は、その重みを受け止めるように、声を出して笑った。

 

いつものヘラヘラとした防壁ではない。俺の冷え切った胸の奥底を、どうしようもなく温めてしまうような、そんな笑いだった。

 

「……ったく。世話が焼けるお嬢様だ。ありがたくポンコツ装置の拡張機能に使わせてもらうよ」

 

俺はもらったペンを指先でクルクルと回し、それから、意を決して自分のジャケットのポケットに手を入れた。

 

「……ほら。俺からもだ」

 

テーブル越しにコトリと置かれたのは、小さなベルベットの化粧箱だった。

 

「え?」

 

アルヴが目を丸くして、その箱と俺の顔を交互に見る。

俺から彼女へプレゼントを渡すのは、出会ってからこれが初めてのことだった。

 

「中身はシルバーのネックレスだ。……お前のあの黒と紫の勝負服には、首元に冷たいシルバーがあった方が、他者を威圧する『女王』っぽくて似合うだろ。そういう、装備品のアップデートだ」

 

俺はツーブロックの前髪を掻き上げ、照れ隠しのように死んだ目を窓の外の雪景色へと逃がした。

 

「ただ……ここで開けるなよ。帰ってから、一人で開けろ。」

 

「……どうして?」

 

「ガラじゃねぇからだよぉ。オッサンが女子高生にアクセサリー渡してるとこなんて、周りから見たら事案でしかねぇだろ。……いいから、しまっとけ」

 

俺がわざとらしくぶっきらぼうに言うと、アルヴは少し不満げに口を尖らせたが、やがてふっと口角を上げ、その箱を大切そうに自分の鞄の中へと仕舞い込んだ。

 

「……わかったわ。寮に帰るまでの楽しみに取っておいてあげる」

 

⏱️

 

コーヒーショップを出た後、俺たちは少しだけ遠回りをして、クリスマスの熱気に包まれた街並みを歩いた。

 

腕を組むわけでも、手を繋ぐわけでもない。

 

ただ、肩と肩が触れそうな距離で、イルミネーションの光の海を無言で通り抜けていく。周囲の恋人たちのような甘い空気は一切ないが、血反吐を吐かせるような成果主義で結ばれた俺たちの間には、今だけは、雪のように静かで穏やかな時間が流れていた。

 

「……冷えるわね」

 

「だな。さて、到着だ。風邪引くなよ、お嬢様」

 

やがて学園の敷地が見えてきて、俺たちは寮へと続く道の分岐点で足を止めた。

 

「それじゃあね」と短く告げて背を向けるアルヴの足取りは、心なしかいつもより少しだけ弾んでいるように見えた。

 

─────

 

トレセン学園、ウマ娘の学生寮。

自室に戻ったアルヴは、コートを脱ぐのもそこそこに、鞄の中から俺が渡した小さな箱を取り出した。

 

部屋の明かりの下で改めてその箱を見た瞬間、アルヴは小さく息を呑んだ。

 

箱に刻まれたロゴは、孤児院育ちの彼女でも知っているような、誰もが憧れる有名なハイブランドのものだった。万年床の安いアパートに住み、シケモクをふかしているあの不健康な男が、一体どれだけの給料を叩いて、あるいは俺や神崎に頭を下げてまでこれを用意したのか。外装の重厚感だけで、それが痛いほどに伝わってくる。

 

「……本当に、馬鹿な男」

 

アルヴは震える手で、ゆっくりと箱を開けた。

 

黒いベルベットのクッションの上で、小ぶりで洗練されたデザインのシルバーネックレスが、冷たく、そしてひどく美しい光を放っていた。

 

「綺麗……!」

 

指先でそっと銀のチェーンに触れた時。

 

アルヴは、箱の隅に、小さく折りたたまれた紙切れが突っ込まれているのに気がついた。

 

それは、綺麗なメッセージカードなどではない。

 

俺がいつもバインダーに挟んでいる、安物のメモ帳の切れ端だった。

 

不思議に思ってその紙切れを開いたアルヴの瞳が、ふらりと揺れる。

 

そこには、俺のひどく乱雑で、泥臭い字で、こう書き殴られていた。

 

『文句一つ言わずに、俺の地獄みたいなメニューに付き合ってくれて感謝してる。

お前は、俺の装置としての機能が弾き出した、最高の傑作だ。

これからも、俺に一番高い景色を見せろ。――小鳥遊』

 

「―――っ!!」

 

「成果を出せなければ切り捨てる」と嘯き、絶対に甘い言葉など吐かなかった虚無の男。

 

そんな彼が、不器用な文字で初めて綴った、担当への「感謝」と、ウマ娘としての最大の「賛辞」。

 

アルヴは、その汚いメモ帳の切れ端を両手で包み込むように握りしめると、そのままベッドの上に崩れ落ちた。

 

「……っ、クズのくせに……装置のくせに……っ!!」

 

首元にネックレスを当て、手の中のメモ帳を胸に強く押し当てる。

 

誰の同情も嫌い、孤高に生きようとしていた彼女の強がりが、そのたった数行の泥臭い言葉によって、完全に溶かされていく。

 

「こんなもの……重すぎるじゃない……っ」

 

誰もいない部屋の中で。

 

気高き女王は、嬉しさと、どうしようもない愛おしさに顔を歪ませ、その夜、声も出さずに静かに泣いた。

 

あの男に自らの命と未来の全てを懸けると、永遠に外れない銀の鎖を首に巻き付けながら。

 

『泥を被る盾と、狂気のチキンレース』

 

聖夜の不器用な誓いを経て、季節は決戦の秋――運命の「エリザベス女王杯」へと向かって、容赦なく時計の針を進めていた。

 

ターフの上では、アルヴが同世代の頂点であるスティルインラブを喰いちぎるため、俺の弾き出した極限の限界突破メニューを血反吐を吐きながら消化している。

 

そして俺は、彼女に『最高傑作のエンジン』を完成させるための計算式を深夜まで組み上げながら、もう一つの顔――彼女の視界に忍び寄る悪意を完全に殲滅するための『泥を被る盾』としての準備を、冷酷に進めていた。

 

「……ええ。証拠は全て揃っています。ええ、金ならいくらでも積む。……俺の全財産と、この先の人生を全てベットしてでも、奴らを社会的に殺すための完璧な盤面を作っていただきたい」

 

人気のない学園の裏庭で、俺はシケモクを咥えながら携帯電話越しに低く囁いた。

 

相手は、俺が過去の曰く付きのツテと、これまでに稼いだなけなしの全財産を注ぎ込んで雇い上げた、確実な実績と冷酷な手腕を持つトップクラスの弁護士団だ。

 

あの下世話な三流週刊誌の記者団。

 

あいつらがアルヴの「孤児院出身」という過去を掘り起こし、俺という悪名高いクズトレーナーへの依存という最悪のストーリーをでっち上げようとしていることは、すでに把握している。

 

彼女の気高い心に、あんな薄汚い連中の泥をたった一滴たりとも跳ねさせるわけにはいかない。俺は、法と社会の力を使って奴らを根絶やしにするための罠を、何重にも張り巡らせていた。

 

─────

 

そして、ある休日のこと。

 

俺は一人で都内の雑居ビルを訪れていた。カビとタバコの匂いが染み付いた、例の三流週刊誌の編集部だ。

 

「おやぁ? これはこれは、悪徳トレーナーの小鳥遊さんじゃないですか。わざわざこんなむさ苦しい所へどういったご用件で?」

 

薄暗い室内で、あの時の記者が下世話なニヤつきを浮かべて俺を迎えた。

 

周囲には、同じようなハイエナの目をした同僚たちが、獲物を品定めするように俺を見ている。

 

「いやぁ、ちょっとご挨拶にね。……あんたたち、ウチのお嬢様の記事を書いてくれてるらしいじゃないスか。どこまで進んでるのかなーって」

 

俺がいつものヘラヘラとした薄ら笑いを浮かべてカマをかけると、記者はまるで勝利を確信したような、ねっとりとした優越感に浸る笑い声を上げた。

 

「くくっ……気になりますか? いやぁ、素晴らしいスクープになりそうですよぉ。施設育ちの孤独な天才少女と、彼女を洗脳する曰く付きのトレーナー! ……これ、次の『エリザベス女王杯』が終わった直後に、大見出しでバーン!と出そうと思ってるんです」

 

記者は、わざわざ両手を広げて、見出しの大きさをアピールするように挑発してきた。

 

「彼女が同世代の頂点に立ち、最も光り輝く最高の瞬間に……その足元から、最も汚い泥をぶちまけてやるんですよ。最高にドラマチックな悲劇のヒロインの誕生だ! 読者もさぞかし喜ぶでしょうねぇ!」

 

アルヴのこれまでの血の滲むような努力も、あの雪降る夜に俺に見せてくれた気高い笑顔も、全てを嘲笑い、金のための娯楽として消費しようとする悪意。

 

「―――はぁ。」

 

俺は、ツーブロックの前髪の隙間から、その記者をじっと見つめた。

 

そして、ゆっくりと天を仰ぎ。

 

「……ッ、あーっはっはっはっ!!」

 

薄暗い編集室に、俺の高らかな、そしてひどく狂気的な爆笑が響き渡った。

 

「な、何がおかしい……!」

 

記者が気味悪そうに顔を引きつらせる。

 

俺は笑い声をピタリと止め、顔に貼り付けていた「ヘラヘラとした薄ら笑い」と「取り繕った丁寧な言葉」を、文字通りドブに捨てた。

 

「……いいねぇ。最高に薄汚くて、吐き気がするほど分かりやすい悪意だ」

 

一切の光を宿さない、絶対零度の三白眼。

俺はポケットに両手を突っ込んだまま、かつてないほど悪辣で、他者の人生を蹂躙することに一切の躊躇を持たない『本物のクズ』の顔で、記者たちを睥睨した。

 

「これで、徹底的にテメェらを叩きのめす布石が出来た訳だ」

 

「なっ……テメェ、自分がどういう立場か分かって……」

 

「良いよ。楽しみに待っててやるよ。……お前らが死ぬか、俺が死ぬか。どっちが先かのチキンレースだなぁ?あ?」

 

「ヒッ……!」

 

俺から放たれた、純粋で絶対的な『殺意』に当てられ、記者たちは思わず後ずさった。ペンという安全圏から他人を石で叩くことしか知らない連中に、命ごと相手を道連れにする覚悟を決めた人間の狂気など、理解できるはずもない。

 

「せいぜい、首洗って記事の仕上げでもしてな。……じゃあな、クソ虫ども」

 

俺は喉の奥で低く笑い、怯える記者たちを一瞥もせずに踵を返して、雑居ビルを後にした。

 

⏱️

 

その足で学園に戻った俺は、まっすぐに理事長室へと向かった。

コンコン、とノックをして扉を開ける。

 

「おお、小鳥遊! 本日はどうしたのだ?」

 

「小鳥遊トレーナー。休日にわざわざご苦労様です」

 

秋川理事長殿と、たづなさんが不思議そうにこちらを見る。

 

俺は黙って彼女たちの前まで歩み寄り、懐から取り出した『白い封筒』を、デスクの上にコトリと置いた。

 

「……退職願、です」

 

「なっ……!?」

 

「小鳥遊さん!? 突然、一体何を……」

 

驚愕に目を見開く二人に、俺は先ほどまでの狂気を完全に隠し、再びいつものヘラヘラとした「装置」の仮面を被って、これまでの経緯――三流週刊誌がアルヴの過去を暴こうとしていること、そして俺が自らを餌にして奴らを社会的に抹殺する準備を整えたことを、淡々と説明した。

 

「そんな……! それなら、学園側から顧問弁護士を立てて、広報を通した全面的な支援と抗議を行います! 何も、貴方が一人で泥を被って学園を辞める必要など……!」

 

たづなさんが血相を変えて立ち上がり、秋川理事長殿も扇子を強く握りしめて「いかにも! 学園の生徒と指導者を守るのが我々の――」と口を開きかけた。

 

だが、俺はそれを片手で制止した。

 

「お気持ちはありがたいですが、不要ですよ」

 

俺は、ツーブロックの前髪を掻き上げ、耳元のピアスをチャラリと鳴らした。

 

「これは、俺が始めた戦争なんで。……学園側に掛かる火の粉は、一つも出しませんから」

 

「小鳥遊……」

 

俺の決意が絶対に覆らないものであることを悟り、二人は痛ましそうに顔を歪めた。

 

学園を巻き込めば、少なからずアルヴの耳にもこの騒動が入ってしまう。彼女がエリザベス女王杯という最高の舞台に集中するためには、俺が誰にも知られずに、たった一人でこの泥沼を引き受けて消え去るのが、最も完璧な『計算式』なのだ。

 

「それに……」

 

俺は、窓の外に見える夕暮れのターフに目をやった。

そこには、エリザベス女王杯に向けて、あの気高い野犬が一人、美しいストライドで駆け抜けていく姿が見えるはずだった。

 

「俺ぁ、もう十分なんです」

 

あの日、俺の血まみれの掌を握りしめてくれた熱。

 

雪降る夜に、俺のよれよれのジャケットを被って笑ってくれた顔。

 

そして、あの聖夜に俺の汚いメモ帳を胸に抱きしめ、最高だと笑ってくれた、あの美しい表情。

 

「アイツが……アドマイヤグルーヴが俺にくれた、『愛』ってモノが……俺みたいな空っぽの装置には、ちょっと重すぎたので」

 

俺は最後に、これ以上ないほどひどく不器用で、どうしようもなく人間らしい、ヘラヘラとした薄ら笑いを浮かべた。

 

「そういうわけなんで。エリザベス女王杯が終わったら、俺は消えます。……あとは、よろしくお願いしますね〜」

 

俺は深く一礼をすると、引き留める二人の声を背に受けながら、理事長室を後にした。

 

薄暗い廊下に出る。

 

ポケットからシケモクを取り出し、唇に咥えた。

火は、点けない。

 

(……これでいい。俺の機能は、あいつを一番高い景色に連れて行くことだけだ)

 

頂点に立つ孤高の女王の隣に、曰く付きの泥沼のクズが立っていてはいけない。

 

愛を知らない男の、最初で最後の、狂気的で絶対的な自己犠牲。

運命のエリザベス女王杯の足音が、もうすぐそこまで迫っている。

 

全てを終わらせるための完璧な計算式。

 

それを胸の中で反芻し、足を踏み出そうとした、その瞬間だった。

 

「……ッ!」

 

背後の死角から、突如として巨大な影が覆い被さってきた。

 

丸太のような太い腕が、俺のよれよれのジャケットの襟首を乱暴に掴み上げる。

 

「なっ……お、おい!?」

 

抵抗する間もなく、俺はそのままズルズルと引きずられ、近くにあった旧トレーニング室の扉の中へと力ずくで投げ込まれた。

 

ドンッ!!

 

「……っ、がっ!?」

 

床に倒れ込むよりも早く。

 

視界を覆った巨体の男――神崎の容赦のない右ストレートが、俺の頬を思い切り殴り飛ばした。

 

「……っは、ぁっ……!!」

 

俺の身体は派手に吹き飛び、機材のマットに叩きつけられた。口の中に鉄の味が広がり、咥えていたシケモクが床に転がる。

 

「……っはは。いてぇな。絶賛活躍中の同僚にいきなり暴力かよ、脳筋……」

 

マットに倒れたまま、俺は痛みをごまかすために、いつものヘラヘラとした薄ら笑いを顔に貼り付けて見上げた。

 

だが。

 

「……」

 

俺を見下ろす神崎の顔には、いつものような呆れ顔も、プロレスごっこのような怒りもなかった。

 

そこにあったのは、自分ごと破滅しようとしている悪友に対する『深い悲しみ』と『哀れみ』。そして、底知れぬ静かな怒りだった。

 

「神崎……お前」

 

「……立ち聞きする気はなかったが、聞こえちまったよ。全部な」

 

神崎は、だらしなく開いたワイシャツの胸元を揺らしながら歩み寄り、マットに倒れる俺の胸ぐらを両手でガシッと掴み、ギリギリと締め上げた。

 

「……あ〜あ!趣味悪いぜ!神崎。俺の完っ璧な退き際を――」

 

「ふざけるなッ!!」

 

神崎の怒声が、旧トレーニング室の空気を震わせた。

 

「全部一人で泥被って、学園もあの子も捨てて消えるだと!? ……お前が消えた後、残されたあの子の心の『責任の在り処』はどうなる! 頂点に立ったあの子の隣から、お前が消えることが……!」

 

神崎の太い腕が小刻みに震えている。

 

「それが、あの子(アルヴ)の望んだことなのか!? お前が勝手に自己犠牲に酔って、あの子から一番大切なものを奪ってるだけだろうがッ!!」

 

「――――」

 

悪友からの、血を吐くような重い問い詰め。

 

俺はいつものように『俺はただの装置だから』と即答して、のらくらと躱してやるつもりだった。愛なんて知らない、底辺のクズの顔をして。

 

だが。

 

「おれ、は……」

 

言葉が、出なかった。

 

口を開こうとした瞬間、喉の奥が引き攣ったように固まり、声が詰まった。

 

脳裏に過ぎったのは、雪の降る夜に俺のジャケットを被って笑った、ほんのり赤い鼻先。そして、あの汚いメモ帳を抱きしめて「最高のプレゼントよ」と笑ってくれた、孤高の女王の顔。

 

(……あぁ、そうか)

 

視界が、急に歪んだ。

 

自分がガタガタと無様に身体を震わせていることに気づく。俺の光を失っていたはずの三白眼から、後から後から、制御の効かない熱い雫がボロボロと溢れ落ちていた。

 

「……っ、おい、小鳥遊……」

 

俺が泣いていることに気づき、胸ぐらを掴んでいた神崎の力がフッと緩む。

 

俺は、震える手でその腕をゆっくりと振り払った。

 

「……あはは。ほんと……参るよなぁ」

 

俺は床に手をつき、ボロボロと涙を流しながら、それでもひどく不器用に、顔を歪めて『泣き笑い』を浮かべた。

 

「……あいつは、アルヴが俺に向けてくれる愛ってやつは……泥沼でしか生きてこれなかったクズの俺には、あまりにも眩しすぎたんだよ」

 

光の世界で生きる神崎には、きっと分からないだろう。

 

汚れきった俺が彼女の隣にいれば、いつか必ずその眩しい光を曇らせてしまう。俺が彼女にできる最後の「装置としての機能」は、全ての泥を引き受けて、その光の届かない場所へ消え去ることだけなのだ。

 

俺はふらつく足取りで立ち上がり、乱れたツーブロックの前髪を掻き上げた。

 

「……悪いな、神崎。……あいつが頂点に立つ瞬間、絶対に見届けてやってくれよ」

 

俺は、涙で濡れた顔にひどく人間らしい苦笑を貼り付けたまま、神崎に背を向けてトレーニング室を後にした。

 

───────

 

バタン、と重い扉が閉まる。

 

薄暗いトレーニング室に取り残された神崎は、バツが悪そうに、そしてひどく悔しそうに、ガシガシと自分の無精髭と後頭部を掻きむしった。

 

「……大ッッッ馬鹿野郎が……っ」

 

自分の無力さと、親友のあまりにも不器用な生き方に、神崎が天を仰いだその時。

 

「……神崎」

 

部屋の死角から、音もなく一人の影が現れた。エアグルーヴだった。

 

彼女の瞳もまた、ひどく哀しげに揺れている。きっと、今のやり取りを全て聞いていたのだろう。

 

彼女は静かに歩み寄ると、やり場のない感情に苛立つ神崎の広い背中に、そっと、労うように身を寄り添わせた。

 

「……エアグルーヴ……」

 

「貴様のせいではない。……あの男が、どこまでも不器用で、真っ直ぐすぎただけだ」

 

神崎の背中に顔を埋めるようにしながら、エアグルーヴは、たった今、小鳥遊が消えていった扉の向こうを見つめた。

 

自分自身を犠牲にしてでも、愛する生徒の光を守り抜こうとした底辺の男。

 

「……本当に。どうしようもない、たわけだ」

 

彼女の口から零れ落ちた、小さく、不器用な親愛と哀れみを込めたその言葉だけが。

 

誰もいなくなった旧トレーニング室の冷たい空気に、静かに溶けて消えていった。

 

 

『予報は豪雨、そして孤高の女王』

 

空は、今にも泣き出しそうなほど重く、分厚い鉛色の雲に覆われていた。

 

運命の「エリザベス女王杯」当日。

 

ニュースの天気予報は、午後からこの一帯に『豪雨警戒』の警報が出されるだろうと、無機質な声で繰り返し告げていた。

 

ターフを吹き抜ける風はひどく冷たく、湿り気を帯びている。まるで、これから起こる泥沼の激闘と、決定的な別離を予感させるような、ひどく不穏で息苦しい空気だった。

 

───

 

大歓声が分厚い壁の向こうでくぐもって聞こえる、関係者専用の控室。

 

その張り詰めた静寂の中で、アドマイヤグルーヴは、研ぎ澄まされた名刀のように静かな闘気を放っていた。

 

彼女の肉体は、俺が組んだ狂気的なメニューを全て血肉とし、限界を超え、今まさにウマ娘としての絶頂期(ピーク)を迎えようとしている。黒と紫の勝負服に身を包んだその姿は、孤児院上がりの野犬などではなく、他者を圧倒する『真の女王』の威厳に満ちていた。

 

「……おはよう、トレーナー。今日の私の状態、数値通りかしら?」

 

アルヴが振り返る。

 

その視線の先には、いつも通りよれよれの服を着て、ツーブロックの前髪を適当に掻き上げながら、バインダーを見つめる俺の姿があった。

 

俺の手にあるのは、あの聖夜に彼女が贈ってくれた、上質な革張りのバインダーとボールペンだ。

 

「あはは。おはようさん、お嬢様。……ああ、完璧だよ。右脚の踏み込みも、心肺機能も、俺の想定したリミットの上限に完全に張り付いてる。文句なしの、俺の最高傑作だ」

 

俺は、顔にいつものヘラヘラとした薄ら笑いを貼り付けて、バインダーをパタンと閉じた。

 

これが、俺が彼女に『装置』として接する最後の日。

 

彼女の視界にチラつくはずだった、あの下世話な記者団。奴らの息の根を止めるための法的な包囲網は、すでに昨日の夜の時点で完全に作動している。今日、このエリザベス女王杯が終わると同時に、奴らの社会的地位は跡形もなく消し飛ぶ。

 

そして、その『呪い』の中心にいる俺自身も、学園から姿を消す。

 

だが、そんな血みどろの裏工作も、俺自身の退職も、彼女は一切知らない。

 

「……ありがとう、トレーナー」

 

アルヴは、真っ直ぐに俺を見つめた。

 

氷のように冷たかったはずの瞳の奥に、かつてないほどの絶対的な信頼と、俺がこれまで自分に注いできた泥臭い献身への、言葉にならない重い愛情が滲んでいる。

 

彼女の指先が、勝負服の首元で冷たく光るシルバーのネックレスにそっと触れた。

 

「貴方という最高の装置のおかげで、私はここまで来られたわ。……孤児院の野犬が、真の女王になれる。貴方の計算通りに、あの子(スティルインラブ)を喰いちぎって、私が一番高い景色を見せてあげるわ」

 

(――――あぁ)

 

俺の胸の奥底で、完全に死滅していたはずの感情が、血を流しながら悲鳴を上げていた。

 

自分と同じ欠落を抱え、それでも気高く走り抜き、ついに真の頂点へと手をかけたこの美しい少女を。俺は、どうしようもなく愛してしまった。

 

だからこそ、ここで突き放さなければならない。

 

愛というものを知らず、「成果」でしか他者と繋がれない空っぽの男が、彼女の光り輝く未来にこれ以上こびりついてはいけない。過去の泥沼の噂も、俺自身という『呪い』も、彼女の美しい脚に絡みつく足枷にするわけにはいかないのだ。

 

「……あはは。仰る通りで、お嬢様。俺の機能に『二度目の敗北』は計算に実装されてないんでねぇ?」

 

俺はその押し潰されそうな感情を一言も口にはせず。

 

ただ、どこまでも冷薄な笑みを貼り付けたまま、パドックへと向かうための扉を開けた。

 

「さあ、行ってこい!!俺の計算式が世界一だってこと、ターフの連中に証明してきな!!」

 

「……ええ。見ていなさい」

 

アルヴは、俺のその見え透いた虚無の仮面に気づくことなく、自信に満ちた傲慢な笑みを浮かべた。

 

そして、すれ違いざまに、彼女の艶やかな尻尾が、俺の腕を愛おしむようにふわりと撫でていく。

 

「……行ってくるわ、私のトレーナー」

 

バタン、と。

 

彼女の背中が扉の向こうの眩しい光の中へと消え、控室には再び重い静寂が降り降りた。

 

「…………」

 

一人取り残された俺は、顔に貼り付けていた薄ら笑いを、泥のように剥がれ落とした。

 

握りしめた革張りのバインダーに、ギリッと爪が食い込む。

 

「……勝てよ、アルヴ」

 

誰に届くこともない、低く掠れた声。

 

窓の外では、空を覆う分厚い雲がいよいよ黒さを増し、今にも冷たい豪雨をターフに叩きつけようとしていた。

 

運命のエリザベス女王杯が、ついに幕を開ける。

 

『豪雨の死闘と、終わりのガッツポーズ』

 

ザアアアアアッ……!!

 

事前の予報通り、空が完全に割れたかのような無慈悲な豪雨が、ターフを白く染め上げていた。

 

視界すら覚束ないほどの土砂降りの中、エリザベス女王杯のゲートが開く。泥水を激しく蹴り立てながら、ウマ娘たちが一斉に飛び出していった。

 

その凄絶な激闘の裏側で。

 

歓声が遠く響く、競馬場の屋外モニターが設置された裏路地。俺は傘も差さず、土砂降りの雨に全身を打たれながら、血相を変えて詰め寄ってくる数人の男たちに取り囲まれていた。

 

「おい……ッ! どういうことだ、てめぇ!! 編集長から連絡があって、ウチの会社に警察のガサ入れが入っただと!? スポンサーも一斉に撤退して、記事も全部差し止められたって……!!」

 

あの下世話な三流週刊誌の記者団だった。

 

彼らは俺の胸ぐらを乱暴に掴み、雨水と冷や汗に塗れた顔で唾を飛ばして凄んでくる。

 

金で雇ったゴロツキのような連中も混ざっており、俺の腹や肩に容赦のない打撃(弾圧)が加えられていた。

 

「がはっ……っ、げほっ!」

 

胃液が込み上げるほどの痛みに一瞬顔を歪めたが。俺は雨に濡れたツーブロックの前髪の隙間から、絶望に顔を青ざめさせる彼らを死んだ目で見つめ……やがて。

 

「……っ、あーっはっはっはっ!! いやぁ、傑作だねぇ!!」

 

土砂降りの雨音を切り裂くような、腹の底からの爆笑をゲラゲラと響かせた。

 

「な、何がおかしい……ッ!!」

 

「いやいや、あんたたちのその間抜けな顔がさぁ! ……言っただろ、チキンレースだって。お前らがアルヴの過去を暴く記事を出すより先に、俺が雇った弁護士団が、お前らのこれまでの違法な取材や恐喝の証拠を全部、関係各所にバラ撒き終わった後だよ」

 

俺は胸ぐらを掴む記者の腕を冷たく払いのけ、狂気を孕んだ薄ら笑いで宣告した。

 

「ゲームセットだ、クソ虫ども。……もう少しで、君達の会社は完全に倒産、あんたたちも揃って仲良くお縄に掛かる頃だよ〜?」

 

「て、てめぇ……! 自分が何をしたか分かって……!!」

 

「うるせぇよ」

 

俺は光のない三白眼で、記者を冷酷に睨み据えた。

 

「俺の最高傑作の視界を、薄汚いテメェらの泥で汚させるとでも思ったか。……せいぜい、冷たい檻の中で自分の書いた三文芝居の続きでも読んでな」

 

完全に詰み(チェックメイト)であることを悟った記者たちは、「くそっ……!」「逃げるぞ!」と恐慌状態に陥り、俺を突き飛ばして蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。

 

「……あはは、無様だな」

 

路地に一人残された俺は、腹の痛みを堪えながら、泥だらけの壁に背を預けた。

 

そして、雨に打たれる屋外の大型モニターへと視線を向ける。

 

『――最終直線!! 抜け出したのはスティルインラブ!! しかし外から、泥だらけの黒い影が猛追してくる!! アドマイヤグルーヴだ!!』

 

実況の絶叫が、雨音を超えて響き渡る。

 

画面の中では、美しい軌道で逃げる完璧な才媛に、全身を泥と雨に塗らせながら、文字通り「狂暴な牙」を剥き出しにして並びかけるアルヴの姿があった。

 

俺が深夜に血反吐を吐いて弾き出した、右脚の踏み込み角度。限界を超えた心肺機能のペース配分。その全てを、彼女は寸分の狂いもなく、完璧なストライドで体現している。

 

(……行け。俺の計算式が、お前が、世界一だってことを、証明してこい)

 

残り100メートル。

 

50メートル。

 

二人の意地と誇りが激突し、火花が散るようなデッドヒート。

 

だが、あの雪降る夜に「絶対にG1を獲る」と誓った彼女の執念と、俺が自らの命を削って組み上げた狂気の計算式が、ついに完璧な才媛の数値を……わずか『0.1秒』だけ凌駕した。

 

『――アドマイヤグルーヴ、差し切ったァァァァッ!!! スティルインラブを破り、見事、悲願のエリザベス女王杯を制覇ぁぁぁッ!!』

 

「――――ッ!!」

 

ゴール板をトップで駆け抜けたその姿を見た瞬間。

俺は、冷たい土砂降りの雨の中。

誰の目もない裏路地で、天に向かって両手を高く、力強く突き上げた。

 

「……っしゃあッ!!!」

 

ただの『装置』としての冷薄な笑いでも、クズを装うためのヘラヘラとした態度でもない。

 

一人の大人の男としての、不格好で、泥臭くて、心の底からの歓喜のガッツポーズだった。

 

俺の最高傑作が、孤児院の野犬が、ついに同世代の頂点(女王)へと上り詰めたのだ。

 

だが。

 

その高く突き上げた両手から、ゆっくりと力が抜け、だらりと下ろされていく。

 

雨が、俺の火の点いていないシケモクを濡らし、体温を奪っていく。

 

「…………ああ。終わったな」

 

歓喜の絶頂と同時に、俺の胸の中に押し寄せてきたのは、ぽっかりと穴が空いたような、果てしない『虚無感』だった。

 

記者の脅威は去った。

 

アルヴは頂点に立った。

 

俺のウマ娘を勝たせるための「装置」としての役割は、たった今、全て完全に終了したのだ。

 

(……もう、俺があいつの隣に立つ理由は、どこにもない)

 

俺は、モニターの中で歓喜に沸き、勝利の証として首元のシルバーネックレスを誇らしげに握りしめるアルヴの姿を、死んだ目で静かに見つめた。

 

これでお別れだ。愛なんて知らない男の、最初で最後の計算式は、完璧に解き明かされた。

 

俺は誰にも見送られることなく、土砂降りの雨に溶けるように、その場から一人、静かに立ち去ろうと踵を返した。

 

『豪雨の表彰式と、パドックの平手打ち』

 

ザアアアアアッ……!!

 

予報通りの容赦ない豪雨がターフを打ち据える中、エリザベス女王杯の表彰式は執り行われていた。

 

俺は関係者席の片隅に立ち、雨に打たれながらも、一番高い表彰台の真ん中で誇らしげにトロフィーを掲げるアドマイヤグルーヴの姿を見上げていた。

 

黒と紫の勝負服。泥だらけの頬。

そして、その首元で気高く光る、あのシルバーのネックレス。

 

(……ああ。完璧な景色だ)

 

孤児院の野犬が、ついに同世代の頂点(女王)へと上り詰めた。

俺が深夜に血反吐を吐いて組み上げた計算式は、何一つ間違っていなかったのだ。

 

記者たちを社会的に抹殺する手はずはすでに完了し、学園には俺の退職願が出されている。俺の『ウマ娘を勝たせるための装置』としての役割は、今、この最高の瞬間をもって完全に終了した。

俺は、歓喜に沸く観客席と、眩しすぎる光を放つアルヴの姿を最後にこの死んだ目に焼き付けると。

 

誰にも気づかれないよう、ひっそりと背を向け、その場から姿を消した。

 

─────

 

「……トレーナー?」

 

表彰式と定例のインタビューを終え、関係者エリアに戻ってきたアルヴは、困惑したように周囲を見渡していた。

 

いつもなら、レース直後に真っ先に現れて「規定タイムから0.1秒遅いぞ」などと憎まれ口を叩きに来るはずの、あのよれよれのジャケットを着た男の姿がどこにもない。

 

「あの人……私の最高の晴れ舞台の後に、どこで油を売ってるのよ……」

 

アルヴが不機嫌そうに耳を絞り、舌打ちをしたその時だった。

 

「……ハァッ、ハァッ……!! アルヴッ!!」

 

「え……神崎、トレーナー?」

 

土砂降りの雨の中、スーツをずぶ濡れにさせた巨体の男――神崎が、血相を変えてアルヴの元へと駆け込んできた。

 

「小鳥遊は!? あいつはまだここにいるか!?」

 

「え? い、いえ……表彰式の後から姿が見えなくて……。一体どうしたんですか、そんなに慌てて」

 

アルヴの言葉に、神崎は「やっぱりか……!」とギリッと奥歯を噛み締め、雨に濡れた顔を歪ませた。

 

「……あいつから、エリザベス女王杯が終わったら、自分で全てお前に話すって言われてたんだ。だが……どうにも嫌な予感がして、学園から無理言ってここまで飛んできた」

 

「自分で全て話す……? 何をですか」

 

怪訝な顔をするアルヴに対し、神崎は両手で彼女の肩をガシッと掴み、真剣な、そしてひどく悲痛な声で全てを打ち明けた。

 

「……あいつは、小鳥遊はな。今日、このエリザベス女王杯が終わったら、お前の元を離れて、学園を去るつもりだ」

 

「――――な、に?」

 

アルヴの時間が、ピタリと止まった。

 

「お前を泥で汚そうとした三流記者たちを社会的に殺すために、小鳥遊は自分の過去も全財産も、全てを餌にして罠を張った。……お前に一切の火の粉をかけないために、全ての泥を一人で被って、お前の前から消え去る準備を整えたんだよ!!」

 

「な……ッ!」

 

「あいつなら、まだこの競馬場(ハコ)のどこかにいるはずだ! 完全に姿を消す前に、見つけ出すぞ!!」

 

神崎の怒声にも似た叫びを聞き、アルヴの頭の中は完全に真っ白になった。

 

あの薄汚れた男が、自分の誇りと未来を守るためだけに、一人で全てを背負って消えようとしている。

 

「……ッ、ふざけないでよ……ッ!!」

 

アルヴは、泥だらけの勝負服のまま、神崎と共に土砂降りの競馬場へと駆け出した。

 

─────

 

一方、その頃。

 

俺は一人、歓声から遠く離れた、誰もいない雨のパドックの屋根の下にいた。

 

「……っ、ふぅー……」

 

火の点いていないシケモクを咥えるというマイルールを破り、俺はポケットからライターを取り出して、カチリと火を点けた。

 

深く吸い込んだ紫煙が、冷たい雨の匂いと混ざり合って白く溶けていく。

 

(……明日には、あいつの隣にはいられないんだな)

 

煙を吐き出しながら、雨に沈むパドックのターフを死んだ目で眺める。

 

記者たちを葬り去るためとはいえ、全ては自分の意志で決めた退き際だ。完璧な計算式だったはずなのに。

俺の冷え切った胸の奥底には、どうしようもない感傷と、心臓を直接鷲掴みにされたような、ひどく重い『寂しさ』が渦巻いていた。

 

あいつの生意気な声も。俺のメニューを血反吐を吐いてこなす姿も。

 

もう、二度と見られない。

 

「……あはは。装置のくせに、未練たらしいな。俺はよぉ」

 

自嘲気味に笑い、もう一口煙を吸い込もうとした、その瞬間だった。

 

「――――小鳥遊ッ!!!」

 

背後から、雨音を切り裂くような、狂暴で、悲痛な叫び声が響き渡った。

 

「えっ……!?」

 

俺はビクッと肩を跳ねさせ、声の主が誰であるかを瞬時に悟り、激しく動揺した。

 

何でここにいる?神崎に止められていたはずじゃ――いや、そんな思考を巡らせる暇はない。

 

俺は慌てて咥えていた煙草を携帯灰皿に乱暴に捩じ込み、顔の筋肉を無理やり動かして、いつもの『ヘラヘラとした虚無の薄ら笑い』を完璧に貼り付けた。

 

「あはは。おやおや、主役がこんな所で油を売ってちゃ〜――」

 

俺がのらくらと振り返り、言葉を紡ごうとした、その刹那。

 

パァァァァンッ!!!!!

 

「――――っ!?」

 

甲高く、ひどく重い打撃音が、パドックに響き渡った。

 

俺の顔は横に激しく弾き飛ばされ、口の中に鉄の味が広がる。

 

よろめきながら視線を戻すと、そこには。

 

肩で荒い息を吐き、振り抜いた右手を震わせながら、大粒の涙を雨水と混ぜてボロボロとこぼしている……俺の愛した、孤高の女王が立っていた。

 

俺の顔は横に激しく弾き飛ばされ、口の中に鉄の味が広がる。

 

「……あはは。傑作だな。まさか、真の女王様から直々にビンタをいただけるとはね」

 

ジンジンと痛む頬を片手で押さえ、俺は口の中の血をペッと吐き捨てると。顔の筋肉を無理やり動かして、いつもの『ヘラヘラとした虚無の薄ら笑い』を完璧に貼り付けた。

 

「お嬢──いや、女王様。表彰式の主役が、こんな雨のパドックで何やってるんだ。風邪引いたら、せっかくの極上エンジンが台無しだろ」

 

俺はツーブロックの前髪をガシガシと掻き上げ、耳元のピアスをチャラリと鳴らして、いつもの『装置』としての言葉を投げつけた。愛なんて知らない、冷酷なクズトレーナーを演じ続けるために。

 

(……くそっ。神崎の野郎、エリザベス女王杯が終わったら自分で話すって言っただろ。余計なお節介を……!)

 

内心で悪友へ毒づきながら、俺はこのまま彼女をのらくらと躱し、明日には彼女の前から永遠に姿を消す完璧な計算式を完遂させようとした。

 

だが。

 

「……神崎トレーナーから、全部聞いたわ」

 

アルヴの声は、ひどく澄んでいて、そして、とてつもない熱を孕んで震えていた。

 

「貴方……今日で学園を辞めて、私の前から消えるつもりなんでしょ」

 

「――――」

 

俺の時間が、ピタリと止まった。

 

コイツには、アルヴには知られず一人で消え去る完璧な計算式だったはずなのに。

 

「……あはは。何のことやら。俺ぁただの装置だぜ? お前が頂点に立った今、俺の稼働計画はすべて終了――」

 

「黙りなさいッ!!!!!」

 

俺ののらくらとした皮肉を、アルヴの怒号が完全に切り裂いた。

 

「……ッは、ぁっ……!!」

 

俺を見据えるアルヴの瞳には、かつてないほどの怒りと、悲しみ、そして――獲物を絶対に逃さないという、狂暴なまでの『殺意』に似た鋭い光が宿っていた。

 

まさに、俺という存在をその魂ごと射殺さんとばかりの、圧倒的な眼差し。

 

「……何が、完璧な退き際よ。何が、お前を守るための計算式よ」

 

アルヴの瞳から、雨水と混ざり合った大粒の雫が、ボロボロと溢れ落ち、俺の顔にかかる。

 

「全部一人で泥被って、私を守って消える? ……ふざけないで。貴方がいない頂上なんて……私には、一銭の価値もない!!」

 

彼女は俺の胸ぐらを掴んだまま、顔をギリギリまで近づけ、震える声で、だが、確固たる『覚悟』を秘めた言葉を俺に叩きつけた。

 

「貴方が、私の隣に立つの。……お前の曰く付きの噂も、過去の泥も、全部私が飲み干して、真の女王の隣に立つ『王』にしてあげる。……文句ある?」

 

一切の照れもなく、ひどく傲慢に、だが、世界で一番真っ直ぐな瞳で言い放つ。

 

孤高の野犬は、同情をくれる優しい大人たちには決して懐かなかったが。自分に血を吐かせ、泥を啜らせてでも「勝利」を与えたこの虚無の男だけは、自らの『群れ(共犯者)』として完全に認め、その命ごと、これから先の未来を全て共にすると誓ったのだ。

 

「―――っ!」

 

俺は、言葉を失った。

 

いつものように皮肉を言って、のらくらと躱してやるつもりだった。愛なんて知らない、底辺のクズの顔をして。

 

だが、彼女のその、あまりにも強く、歪で、真摯な愛(所有欲と信頼)に。

 

俺の、冷薄な『装置』としての仮面は、粉々に砕け散った。

 

愛を知らない底辺のクズが。愛が眩しすぎて隣に立てない臆病な男が。ついに、自分の命ごと喰らい尽くそうとする、この狂暴な女王の愛に、完全に包囲されたのだ。

 

「……あはは。ほんと……参るよなぁ」

 

俺は、ボロボロと涙を流しながら、それでもひどく不器用に、顔を歪めて『泣き笑い』を浮かべた。

 

「……お前が、俺に向けてくれる、愛ってやつは……泥沼でしか生きてこれなかったクズの俺には、あまりにも眩しすぎたんだよ」

 

愛なんて言葉では、到底表現できない。

 

呪いのように重く、泥のように汚く、そして血の匂いがする歪な共犯関係は、この夜を境に、二度と後戻りできない領域へと足を踏み入れたのだった。

 

俺はゆっくりと、乱れたツーブロックの前髪を掻き上げた。

 

頬は腫れ上がり、口の中は血で汚れ、全身は雨に塗れている。

 

だが、その光を失っていたはずの三白眼には、これまでとは違う、静かで、冷酷な、そして絶対的な『王』としての光が宿っていた。

 

「……いいねぇ。上等だよ、女王様」

 

俺は、いつものヘラヘラとした薄ら笑いを消し去り、他者の人生を蹂躙することに一切の躊躇を持たない『泥被りの王』の顔で、アルヴを見つめた。

 

「なら覚えとけ。使えなくなったら捨てるのは、今までの俺と同じだ。……お前が同世代の、全ての頂点に立つまで、俺の血の一滴まで全部、お前のエンジンに注ぎ込んでやるよ」

 

俺は、彼女に掴まれた胸ぐらの手を、自らの血まみれの掌でギュッと強く、大切に握り返した。

 

「……私の隣で泥を被り続けなさい、トレーナー」

 

「あはは。仰せのままに、我儘女王様」

 

土砂降りの雨の中。

 

底辺のクズトレーナーと、孤高の女王。

 

愛を信じない二人は、互いの首に決して外れない見えない鎖を絡ませながら。

 

終わりの計算式を、永遠に終わらない、泥だらけの美しい共犯関係へと昇華させたのだった。

 

俺たちは誰もいないパドックの外へ。

 

手と手を繋ぎ、一つのジャケットに身を寄せ合うようにして。

冷たい土砂降りの雨道を、肩を並べて歩いていく。

 

俺の機能は、あいつを一番高い景色に連れて行くこと。

 

そしてあいつの機能は、俺という泥沼のクズを、その光の隣に、永遠に立たせ続けること。

 

爱なんて言葉では、到底表現できない。

 

呪いのように重く、泥のように汚く、そして血の匂いがする歪な共犯関係は、この夜を境に、二度と後戻りできない領域へと足を踏み入れ、永遠に終わらない、泥だらけの共犯関係へと昇華したのだった。

 

 

『エピローグ』

 

あの大雨のエリザベス女王杯から、数週間が過ぎた。

 

「――続いてのニュースです。複数の恐喝および違法取材の疑いで家宅捜索を受けていた〇〇出版ですが、本日、元編集長ら幹部数名に実刑判決が下されました。余罪も多数あると見て……」

 

トレセン学園の事務室。

 

壁掛けの薄型テレビから流れる無機質なニュース音声をBGMに、俺は自分のデスクで、クリスマスに貰った重厚なボールペンを指先でクルクルと回していた。

 

あの後、俺が叩きつけた辞表は、神崎の野郎とアルヴの猛烈な抗議(というよりはほとんど脅迫に近い直談判)によって、見事に白紙撤回された。

 

そもそも、秋川理事長殿もたづなさんも、最初から俺の辞表を受理する気など毛頭なかったらしい。「貴方が彼女の隣から消えることなど、学園の総意として認めません」と、にこやかな笑顔で退けられてしまったのだ。

 

テレビの中では、俺たちを泥で汚そうとしたハイエナどもが、手錠をかけられてフラッシュを浴びている。

 

「……あはは。せいぜい、冷たい檻の中で反省会でもしてなぁ」

 

俺はニュースの画面から興味なさげに視線を外し、手元の革張りバインダーへと目を落とした。

 

俺の全財産と引き換えに消し飛んだ三流週刊誌の末路など、もうどうでもいい。今の俺にとって最も重要なのは、このバインダーに記された『極上エンジンのさらなる限界突破メニュー』だけだ。

 

俺はデスクを立ち上がり、コーヒーを片手に窓の外――昼下がりのトレーニングコースを見下ろした。

 

「……っ、はぁっ、はぁっ……!!」

 

「ふふっ……まだまだ。アドマイヤグルーヴさん、足音が少し乱れてますよ」

 

ターフの上では、心地よい汗を流すウマ娘たちの姿があった。

 

アルヴと、同世代の完璧なる才媛・スティルインラブだ。

 

エリザベス女王杯での死闘を経て、二人は今でも最高のライバルであり、同時に、互いを高め合う「良き友」として切磋琢磨している。

 

同情を嫌い、誰とも群れようとしなかったあの孤高の野犬が、今ではあんな風に、同年代のライバルと肩を並べて笑い合いながら走っているのだ。

 

「……本当に、立派な女王様になっちまったもんだ」

 

俺が死んだ目を細めて窓枠に肘をついていると、やがてトレーニングを終えたアルヴが、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。

 

俺は事務室を出て、コースの脇で彼女を出迎える。

 

「お疲れさん、お嬢様」

 

「……ええ。今日のメニューも完璧に消化したわ」

 

アルヴは肩で荒い息を吐き、首にかけたタオルで汗を拭いながら、俺の前に立った。

 

首元にはあのシルバーネックレスが、冬の柔らかい日差しを受けてキラキラと光っている。

 

俺はバインダーに目を落とし、いつものようにツーブロックの前髪を掻き上げながら小言を並べた。

 

「タイムは規定通り。だが、第3コーナーの入り口でスティルインラブのプレッシャーに負けて、ほんの数ミリ、重心が外に逃げてたぞ。あんなブレじゃ、春のG1戦線でまた足元を掬われる。もっと正確に俺の計算式をトレースしろ」

 

「……相変わらず、口を開けば小言ばっかりね。貴方という装置は」

 

アルヴが不満げに口を尖らせる。

 

だが、俺はいつものヘラヘラとした薄ら笑いを消して、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

 

「――だけど。最後の直線の伸びは、前よりずっと鋭くなってた。……悪くない走りだ。最高に綺麗だったぜ、アルヴ」

 

俺がふっと顔を綻ばせて、純粋な賞賛の言葉を口にした、その瞬間。

 

ピシャリッ!!

 

「ってぇっ!?」

 

アルヴの艶やかな尻尾が、鞭のようにしなって、俺の脚を強めに叩き据えた。

 

「な、何すんだよ! 素直に褒めてやっただろうが!」

 

俺が痛む脚を摩りながら抗議すると、アルヴはタオルで顔の汗を拭きながら、ピンと立てた耳と尻尾を機嫌良さそうにゆらゆらと揺らした。

 

「ふん。クズの不良装置のくせに、いっちょ前に甘い言葉なんて吐くからよ。……気持ち悪いわ」

 

口ではそんな憎まれ口を叩きながらも。

 

タオルから覗く彼女の顔は、ほんのりと赤く染まり、これ以上ないほど美しく、心からの喜びに満ちた笑顔を浮かべていた。

 

「……ほんッと、我儘な女王様だな」

 

「ええ。その女王様の泥を被るのは、貴方の役目でしょ? 覚悟しなさい」

 

冬の澄んだ青空の下。

 

ピアスだらけの不健康な男と、気高き黒と紫の女王は、他愛のない軽口を叩き合いながら、ゆっくりと歩き出す。

 

愛などという温かいものを知らず、成果という泥水の中でしか生きられなかった空っぽの男と、孤高の少女。

 

歪で、不器用で、どうしようもなく泥臭かった二人は。

互いの首に巻き付けた銀色の鎖の重さを心地よく感じながら、本当の『愛』とはなんなのかを、これからゆっくりと時間をかけて知り、育てていくのであった。

 

 

 

 




小鳥遊「……それはそれとして。最近はアルヴからゼク◯ィやらEL◯E Mar◯ageなんかの雑誌を無言で押し付けられたり、寝てる隙に指のサイズを測られたりしてるんだけど……俺、完全に詰んでね?」

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