意識が浮かび上がってくる感覚は、眠りから覚めるそれに似ていた。
ただひとつ違ったのは、目を開ける前から、身体の重さが“自分のものではない”と分かっていたことだ。
まぶたの裏に、薄い朝の光が滲んでいる。
遠くで車の走る音。
どこかの部屋のテレビ。
配管を流れる水の音。
白い部屋ではない。
あそこみたいに、何もかもが嘘くさい静けさに包まれている場所じゃない。
理久はゆっくりと目を開けた。
最初に見えたのは、ひびの入った安っぽい天井だった。
真っ白でもなければ綺麗でもない。生活に擦り減った色をしている。蛍光灯の縁には埃が溜まり、天井の隅にはうっすらと湿気の染みまで見えた。
「……うわ」
思わず漏れた声は、ちゃんと自分の声だった。
けれど、どこか少しだけ高い。若い。喉の鳴り方も軽い。
身体を起こす。
薄い布団がずれる。背中に安物のマットレスの感触。狭い。部屋が狭い。
六畳一間。
そんな言葉が頭に浮かんだ。
部屋の左手に簡素な机。安そうな本棚。壁際にカラーボックス。小さな冷蔵庫。
洗濯物が半乾きのまま吊られていて、部屋の隅にはコンビニ弁当の空容器が二つ転がっている。
生活感はあるが、丁寧さはない。生きるために最低限回しているだけの部屋だった。
理久は両手を見た。
指が細い。
肌が若い。
手の甲の骨の出方も、自分の知っているものより少し幼い。
「……転生、したのか?」
口に出した瞬間、胸が跳ねた。
そうだ。転生だ。
白い部屋。女神。ギーツの力。ヒーローがいる世界。
理久は勢いよく布団から立ち上がろうとして、すぐにふらついた。
「うおっ……」
バランスを崩し、机に手をつく。
その瞬間、視界の奥で何かが弾けた。
知らない記憶が流れ込んでくる。
通学路。
コンビニ。
スーパーの半額シール。
学校の教師の顔。
病院の白い壁。
「無個性」という医師の声音。
両親の葬儀。
一人になった部屋。
「っ、あ……!」
理久は頭を押さえた。
痛いわけじゃない。
けれど、自分のものじゃない記憶が一気に押し寄せてくる感覚は、気持ちのいいものではなかった。自分が自分の頭の中から押し出されかけるような、不快な酔いに似ている。
しばらく息を整えているうちに、それは少しずつ落ち着いた。
新しい自分の輪郭が、ようやく形になっていく。
年齢は十六。
一人暮らし。
中学卒業を控えた時期。
親はいない。事故で死んだ。
親戚とは疎遠。生活費は保険金と最低限の公的支援で何とか回している。
そして――
「無個性」
理久はその言葉を呟いた。
机の上に、開きっぱなしのクリアファイルがあった。
書類が何枚か挟まっている。
理久はそれを乱暴に引き抜く。
住民票。
健康保険の控え。
学校の進路希望調査。
それから、プラスチックの学生証。
学生証の写真の中で、理久によく似た顔をした少年が、気の抜けた表情でこちらを見ていた。
名前の欄には、はっきりと印字されている。
三条 理久
理久はしばらくそれを見つめた。
喉が、妙に乾いている。
「……名前は同じなんだな」
その一言だけが、ぽつりと部屋に落ちた。
転生した。
世界が変わった。
身体も、立場も、環境も変わった。
それなのに、名前だけは同じだった。
少し気味が悪い気もした。
けれど、すぐに別の感情がそれを押し流す。
むしろ都合がいい。
名乗り直す必要もない。
新しい人生でも、自分は自分のままでいられる。
理久は口元を歪めた。
「いいじゃん」
誰にともなく呟く。
「名前まで変わってたら、なんか別人っぽかったし」
それより大事なのは、今の自分が何を持っているかだ。
理久は弾かれたように周囲を見回した。
そして布団の脇、壁際の床に置かれているものを見つけた。
黒いベルト。
白い狐のコア。
マグナム。
ブースト。
デザイアドライバー一式が、まるで最初からそこにあるべきものだったみたいに、当たり前の顔をして置かれていた。
「……っ!」
理久は駆け寄った。
手が震える。
持ち上げる。
冷たい。重い。ちゃんと本物だ。
夢じゃない。
本当に転生して、本当にギーツの力を持ってきたのだ。
「はは……」
笑いが漏れる。
止めようと思っても止まらなかった。
最悪の死に方をしたはずなのに、今の理久の頭の中にはもう“勝ち”しかなかった。
無個性?
関係ない。
この世界で一番大事なのは、何を持っているかだ。
そして理久は、もう手に入れている。
ギーツの力を。
「やっぱ俺、選ばれてたんじゃん」
誰もいない部屋で、理久は本気でそう言った。
机の上の書類を、もう一度あさる。
進路希望調査の紙。
学校名。
担任の丸文字。
下書きのように書かれた志望欄には、第一志望も第二志望も空白だった。
まだ出していないのだろう。
理久は、にやりと笑う。
「そりゃそうだよな」
前の理久――この身体の持ち主だった理久は、無個性だった。
だったら、雄英なんて最初から現実的じゃない。挑戦するだけ恥をかくと思っていたのかもしれない。
でも、今は違う。
「空けといて正解だわ」
理久はペンを手に取った。
そして進路希望調査の第一志望の欄へ、ためらいなく書き込む。
雄英高校 ヒーロー科
書いた瞬間、自分でも少し笑った。
いくらなんでも、あまりに躊躇がない。
でも、それが気持ちよかった。
「余裕だろ」
口に出す。
「だって、これあるし」
理久はベルトを見た。
無個性なんて、もはや設定の一部だ。むしろおいしい。
無個性の俺が、誰も知らない異質な力で雄英に入って、周囲を圧倒する。
めちゃくちゃ主人公じゃないか。
そこでふと、机の上の一枚の紙が目に入った。
健康診断の結果。
個性判定の欄には、はっきりと印字されている。
無個性
その二文字は、見れば見るほど癪に障った。
この身体の理久は、この世界で“何も持たない側”だった。
だから部屋もこんなに薄暗くて、書類もどこか諦めた感じで、未来の輪郭が全部ぼやけている。
――なら、俺が変えてやる。
理久はその紙を机に叩きつけた。
「無個性がどうしたよ」
誰に向けたわけでもない。
けれど、それはこの身体の元の持ち主に向けた言葉でもあったし、この世界で“持たざる者”として生きてきた全てに対する、雑で、薄っぺらくて、でも理久らしい宣言でもあった。
「結局、勝つやつが正解なんだよ」
そう言い切ったところで、腹が鳴った。
盛大に。
「……」
理久は少しだけ気まずい顔になった。
勝者の第一声が空腹の音というのは、さすがに締まらない。
冷蔵庫を開ける。
ペットボトルの麦茶。
賞味期限が今日までの食パン。
よく分からない安いハム。
以上。
「終わってんな、この生活」
それでも文句を言いながらパンをかじる。
もそもそしている。あまりうまくはない。
だが食べながら、理久はテレビのリモコンを取った。
電源を入れる。
朝の情報番組が流れていた。
街頭インタビュー。
ヒーローランキングの話題。
新設された避難誘導システム。
ヴィラン犯罪の速報。
スタジオの背景には、当たり前みたいにプロヒーローの写真が並んでいる。
理久は食パンをくわえたまま見入った。
これだ。
本当に、こういう世界なのだ。
画面の中では、コメンテーターが真面目な顔で「最近は若年層のヴィラン化も問題視されており」とか何とか話している。
だが理久の頭に入ってくるのは、もっと表層の部分だけだった。
ヒーローが当たり前にいる。
人々がその強さを知っていて、評価していて、注目している。
強い者が目立つ。勝つ者が称賛される。
最高じゃないか。
「やっぱこの世界、俺向きだわ」
食パンを飲み込みながら言う。
前の世界では、何者でもないまま埋もれて終わった。
でもここでは違う。
最初から舞台がある。観客がいる。ヒーローという分かりやすい“勝者の枠”がある。
そして何より、自分にはギーツの力がある。
そこまで考えたところで、番組の途中にヒーロー用品のCMが入った。
耐火スーツだのサポートアイテムだの、いかにもこの世界らしい商品が流れる。
理久は鼻で笑った。
「そんなもん要る?」
ベルトを軽く持ち上げてみせる。
「こっちは完成品なんだけど」
まだ変身もしていない。
まだ戦ってもいない。
でも理久は、もう自分の勝利を疑っていなかった。
そういう人間だった。
努力する前に向いているかどうかを気にするくせに、
都合のいい材料が一つ転がり込んだだけで、自分は本物だと信じられる。
根拠は薄い。
でも本人の中では、もう十分だった。
その時だった。
テレビのテロップが変わる。
速報の赤い帯。
『○○区でヴィラン騒動 現在ヒーローが対応中』
理久の目が、すっと細くなった。
現場映像に切り替わる。
煙。
人だかり。
規制線。
ヒーローの後ろ姿。
それだけで、胸が熱くなった。
理久は食べかけのパンを机に放り出し、立ち上がる。
「……来た」
誰に言うでもなく呟いた声は、ひどく興奮していた。
分かりやすい。
あまりにも分かりやすい導入だった。
転生して、力を手に入れて、最初に飛び込んでくるヴィラン事件。
こんなの、ほとんど“どうぞ主人公してください”って言われてるようなものじゃないか。
理久はもう、ニュース画面の向こうにいる自分を想像していた。
人々が騒然とする中、颯爽と現れる白い狐。
プロヒーローも驚く力。
ヴィランを圧倒。
見物人は騒ぐ。
「あのヒーロー誰!?」
ネットで拡散。
謎の新星。
完璧だ。
「よし」
理久はベルトを持った。
その金属の重さが、むしろ心地よかった。
「まず一発、見せてやるか」
もちろん、頭のどこかに、ほんの少しだけ別の声もあった。
初めてだろ。
いきなり現場に行って大丈夫なのか。
力の使い方もちゃんと知らないのに。
だが、その程度の声はすぐに潰れた。
大丈夫に決まってる。
ギーツだぞ。
理久は玄関に向かう。
靴を履く。
ドアノブに手をかける。
そこでふと、鏡が目に入った。
玄関脇の、安っぽい姿見。
そこに映る自分の顔は、前の人生の理久によく似ていた。けれど少し若く、少し細い。
目つきだけがやけに浮ついている。
理久は鏡の中の自分に向かって、口角を上げた。
「無個性だろうが何だろうが、関係ねえよ」
そして、得意げに言った。
「俺は最強になるんだから」
ドアが開く。
外の空気は少し冷たかった。
朝の街は、何も知らない顔で動いている。
その中へ、理久は飛び出していった。
まだ何者でもないくせに、
もう自分が何者かになったつもりの顔で。