ショタ魔族ワイ、フリーレンに腰ヘコヘコして無事死亡   作:(⩌ˬ⩌)

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第二話 僕が魔族に生まれた日、世界は輝いていた(主に女の子が)

最初に覚えているのは、暗闇だった。

 

何もない。音もない。光もない。温度すらない。

 

果てしなく広がる虚無の中に、意識だけがぽつんと浮かんでいた。

 

自分が何者なのか分からなかった。

どこにいるのかも分からなかった。

なぜ存在しているのかも分からなかった。

 

ただ一つだけ、確かなことがあった。

 

腹が減っていた。

 

♢   ♢   ♢

 

僕が生まれたのは、いつだったのかも覚えていない。

 

何故かって?生まれたての魔族の脳みそなんてろくなもんじゃない。

本能と衝動だけで動く肉の塊。赤ん坊というより獣に近い。最初の数年間の記憶なんて霧の向こう側みたいにぼんやりしていて断片的な映像が時々ちらつく程度だ。

 

ママもいないしさぁ。

 

覚えているのは森。

 

深くて暗い、果てしない森の中で目を覚ましたこと。

自分の手が小さかったこと。

腹が減って仕方がなかったこと。

 

そして——近くに何か温かくて柔らかいものがあったこと。

 

「あむっ」

 

それが僕の最初の食事だった。

何を食べたのかは、あんまり詳しく語りたくない。

 

語りたくないんだけど、まあ、魔族だからね。しょうがないよね

 

森の近くにあった小さな集落から森に迷い込んだ人間の死——うん、やっぱりやめておこう。

ろくな話にならない。

 

ただ一つ言えるのは、美味しかったということだ。

 

温かくて、柔らかくて、噛むと甘い汁がじゅわっと広がって——。

 

「きゃは♡」

 

とにかく。魔族として生まれた僕は最初の数年間をほとんど獣のように過ごした。

森を歩き回り、腹が減ったら食べ、眠くなったら寝る。他の魔族と出くわすこともあったが、あいつらは基本的に同族にも容赦がない。

何度か殺されかけた。何度かは本当に死んだかもしれない。

 

でも気づいたら生き返ってた。

 

その頃はまだ自分が死なないだなんて分かっていなかったから、「あれ、死んだと思ったのに」くらいの認識だった。

 

まあ、こんな生活をしていたら頭のネジが飛んでもおかしくない。実際飛んでいた。最初からなかったのかもしれないけど。

 

変わったのは──そう、あの時だ。

 

♢   ♢   ♢

 

僕はその日、いつものように森を彷徨っていた。

 

腹が減っていた。ここ三日ほど何も食べていない。

 

近くの集落は前に襲ったせいで人間が逃げ出して空っぽになっていたし、動物は不味い。

魔族の味覚は人間の肉に最適化されている。当時はただ動物は何かイマイチくらいにしか思っていなかった。

 

ふらふらと森を歩いていると、木々の隙間から光が差し込んでいる場所があった。森の切れ目。その先に、開けた草原が広がっている。

 

草原の向こうに集落があった。

 

前に襲ったところとは別の集落だ。木の柵で囲まれた小さな人間たちの住処。

煙突から煙が立ち昇り、かすかに焼いた肉の匂いが風に乗って流れてくる。

 

きゅるるるる……。

 

腹が鳴った。

 

僕は森の縁に身を潜めて、集落を観察した。この頃にはさすがに「いきなり突っ込むと痛い目を見る」ということは学習していた。

人間は弱いが、群れると面倒くさい。石を投げてくるし、尖った棒で突いてくるし、火を使ってくる。

 

何度か焼かれて死んだ。痛かった。

 

柵の隙間から中を窺う。人間たちが行き交っている。男、女、老人、子供。日常の営み。

 

そのとき僕の目が一人の人間を捉えた。

 

集落の井戸端で水を汲んでいる女がいた。

 

若い女だった。長い黒髪を一つに結い、質素な麻の服を着ている。大昔だから、服飾なんてあってないようなものだ。粗末な布を体に巻いているだけに近い。

 

でも。

 

その女が井戸の桶を持ち上げたとき、腕を上げたその拍子に——麻の服の合わせ目がふわりとずれて、鎖骨から胸元にかけての白い肌がちらりと覗いた。

 

「——ッ!?」

 

僕の脳天に雷が落ちた。

 

比喩ではなく——本当に頭の中で何かがバチンと弾けた。

 

視界が白くなって、次に色が戻ったとき、世界の見え方が一変していた。

 

なんだこれ。

 

なんだこれは。

 

胸が早鐘のように脈打っている。手が震えている。全身が熱い。

腹の底からせり上がってくる衝動は、空腹のそれとは明らかに違う。

食欲ではない。

 

もっと別の——もっと根源的な、もっともっと……。

 

あ。

 

思い出した。

 

僕はこれを知っている。

 

知っている。確かに知っている。

 

どこで? いつ?

 

分からない。

 

でも体が覚えている。

 

脳の奥の奥、魔族として生まれるよりもずっと前の。

 

遥か昔の——

 

「あ゛……」

 

映像が溢れ出した。

 

堰が切れたように。

 

白い天井。四角い光る板。柔らかい椅子。規則正しく並んだ机。

 

黒い文字。紙の匂い。チャイムの音。アスファルトの道。

 

信号機。電車。コンビニ。テレビ。スマートフォン——

 

そして。

 

女の子。

 

セーラー服の女の子。笑っている女の子。怒っている女の子。泣いている女の子。体育の授業でブルマを履いた女の子。

 

プールで水着を着た女の子。夏祭りで浴衣を着た女の子。

 

女の子。女の子。女の子。女の子。

 

記憶が洪水のように押し寄せる。溺れそうになる。息ができない。頭がぐるぐる回る。

 

僕は日本人だった。

 

日本という国のどこかの街で生まれて、どこかの学校に通って、どこかの会社で働いていた。

 

たぶん。

 

詳細は靄がかかったように朧げだ。名前も思い出せない。どうやって死んだのかも分からない。

 

でも。

 

女の子が好きだったということだけは、完璧に覚えていた。

 

井戸端の女はまだ水を汲んでいた。

 

僕はその姿を森の陰からじーっと見つめていた。心臓がばくばくいっている。

 

顔が熱い。たぶん真っ赤になっている。膝が震える。

 

前世の記憶が蘇る前、僕にとって人間は食べ物だった。

 

今は違う。

 

いや、食べ物であることに変わりはないんだが、それ以上に——それを遥かに凌駕する衝動が腹の底から突き上げてきている。食欲なんか吹き飛ぶほどの、圧倒的な……

 

腰ヘコヘコ衝動。

 

この一言に尽きた。

 

あの女の子と腰ヘコヘコしたい。ぎゅってしたい。すりすりしたい。

 

いい匂いを嗅ぎたい。柔らかいところに顔をうずめたい。

 

腰ヘコヘコしたい。

 

腰ヘコヘコしたい。

 

大事なことなので二回言った。

 

僕は自分の体を見下ろした。

 

小さい。ガリガリに痩せた子供の体。何歳くらいに見えるだろう。八歳? 九歳? 人間基準で言えば、まだまだ子供だ。

 

——いける。

 

何がいけるのかは自分でもよく分からない。でも、この見た目はいける。

 

前世の記憶が囁いている。子供の姿は武器になる。庇護欲を刺激する。警戒心を解く。近づける。

 

問題は僕がまだ人間の言葉をろくに喋れないということだった。

 

魔族は人間の言葉を模倣する能力を持っているが、それだって練習が要る。生まれて数年、獣同然に暮らしてきた僕の語彙力は壊滅的だ。前世では日本語ペラペラだったのに、この体の口と喉が言うことを聞かない。

 

だが——やるしかない。

 

僕は意を決して、森の陰から這い出した。

 

♢   ♢   ♢

 

結論から言おう。

 

大失敗だった。

 

集落に近づき、柵の前に立ち、井戸端の女に向かって渾身の笑顔を作り、精一杯の人間語で——

 

「ね——ねえ、お、おねえ——ぼ、ぼくと——こし、ヘコヘコ——♡」

 

きも。

 

自分で言っててきもかった。

 

でも、それ以前の大問題があった。

 

──言葉が通じなかった。

 

そもそも言語体系が違う。前世の日本語とこの世界の共通語は全くの別物だ。

 

僕の口から出てきたのは、人間の言葉と魔族の喉から発せられる不協和音と前世の日本語が混ざった、意味不明な奇声だった。

 

彼女からはきっとこう聞こえただろう。

 

 

『ギギ……ボクト……コシヘコ……ギシャァァ♡』

 

井戸端の女が振り向いた。

 

ボロ雑巾みたいな格好の痩せこけた子供がにたにた笑いながら意味不明な音を発している。

 

女の顔にまず浮かんだのは驚き、次に困惑、そして——恐怖。

 

女が悲鳴を上げた。

 

集落の男たちが飛び出してきた。

 

石が飛んできた。

 

棒が飛んできた。

 

火が飛んできた。

 

僕はボコボコにされて集落から叩き出された。全身を殴られ、焼かれ、最後に崖から突き落とされて、たぶん一回死んだ。

 

気がついたら崖の下で仰向けに倒れていた。満天の星空が見えた。綺麗だった。体中が痛い。

 

でも。

 

崖の下で大の字になりながら、僕はへらへらと笑っていた。

 

「ひっ……ひひひ……」

 

——あの女の人の悲鳴、すごくいい声だったから。

 

我ながらどうかしている。でも仕方ないだろう。前世の記憶が戻ったせいで、僕の優先順位は完全にぶっ壊れてしまったのだ。

 

魔族としての捕食本能よりも、前世から引き継いだ性欲の方が遥かにデカい。これはもう設計ミスとしか言いようがない。

 

神様に文句を言いたい。こんな

 

とにかく、僕は決意した。

 

人間の言葉を完璧にマスターする。美少年の外見を最大限に磨き上げる。そして可愛い女の子と腰ヘコヘコする。

 

それが数千年前の夜、崖の底で僕が立てた人生の目標だった。

 

いま振り返ると壮大に間違っている。でも後悔はしていない。

 

♢   ♢   ♢

 

それから僕は——変わった。

 

いや、変わったと言っていいのか分からない。本質は何一つ変わっていないのだが行動様式が劇的に変化した。

 

まず、言葉を覚えた。

 

人間の集落の近くに潜み、何日も何週間も彼らの会話を聞き続けた。

 

魔族の言語学習能力は本来かなり高い。人間の言葉を模倣するのは僕らの本能みたいなものだ。

 

前世の記憶が戻って言語というものの構造を理解できるようになった今、習得速度は爆発的に上がった。

 

一年で日常会話。二年で流暢な会話。三年で女の子を口説く文句。四年でセクハラ発言。

 

次に外見を整えた。

 

僕の体はどうやら成長しないらしい。魔族の中でも個体差があるようで、僕は子供の姿で固定というタイプだったようだ。

 

最初はがっかりした。大人の体になれないのか、と。しかしすぐに考えを改めた。

 

子供の姿……それも美少年の姿は、とんでもない武器だ。

 

前世の記憶が教えてくれる。ショタは正義。可愛いは正義。人間の特に女性の庇護本能を刺激するのに、これ以上の外見はない。

 

泣き顔を見せれば助けてもらえる。笑顔を見せれば撫でてもらえる。お姉ちゃんと呼べば大抵の女の人は、優しくなる。

 

僕は泥を落とし、髪を整え、ぶっ殺して奪った服——いや、拾った服を着て鏡代わりの水面で自分の顔を確認した。

 

悪くない。いや、かなりいい。碧い目に蜂蜜色の髪。

透き通るような白い肌。睫毛が長くて、唇は薄い桜色。鼻筋は通っていて、輪郭は柔らかい。

このビジュアルで泣きながら「お姉ちゃん♡」と縋りついたら勝てる。

何に勝つのかは置いといて、とにかく勝てる。

 

「にこっ♡(美少年スマイル)」

 

僕は笑顔の練習を始めた。水面に向かって。何パターンもの笑顔を作り、角度を変え、目の開き方を変え、口元の力の入れ具合を調整する。

 

「お姉ちゃぁん……僕、一人ぼっちで……(上目遣い・涙目)」

「えへへ、お姉ちゃんの手、あったかいね♡(無邪気スマイル・首こてん)」

「お姉ちゃんのおっぱい、やわらかぁい……♡(発情顔・吐息多め)」

 

泣き顔も練習した。怯えた顔も。甘えた顔も。上目遣いも。首の傾げ方も。

 

森の中で一人、水溜まりに向かって表情筋を鍛え続ける魔族。

 

客観的に見たらかなり異様な光景だったと思う。

 

♢   ♢   ♢

 

準備が整った僕は、満を持して人間の集落に潜入した。

 

旅の途中ではぐれた子供。この設定は、この時代すでに完成していた。戦乱、飢饉、魔物の襲撃。親とはぐれた子供なんて掃いて捨てるほどいる。怪しまれる要素がない。

 

集落の入口で、ぽつんと立ち尽くす。目に涙を溜めて、唇を震わせて、きょろきょろと不安そうに周りを見渡す。

 

三分で保護された。

 

駆け寄ってきたのは、集落の女たちだった。

 

「まあ可哀想に」

「こんな小さな子が一人で」

「お腹空いてない?」

「怪我してない?」

 

怒涛の母性爆撃。僕は内心でガッツポーズしながら、外面ではひっくひっくと嗚咽を漏らした。

 

「おねえちゃん……ぼく、こわかったよぉ……」

 

完璧だった。

 

我ながら完璧な演技だった。女たちは目頭を押さえ、代わる代わる僕を抱きしめてくれた。

 

柔らかい。温かい。いい匂い。天国。

 

前世の記憶が蘇って以来、ずっと渇望していたものが今、こうして——

幸福だった。純粋に、圧倒的に、幸福だった。

腕の中に抱かれて、頭を撫でられて、大丈夫だよと囁かれて。

 

僕の中の前世の自分が、スタンディングオベーションで涙を流していた。

 

『(ブラボー! おお、ブラボー!!)』

 

ああ、これだ。

これが欲しかった。

 

女の子の温もり。女の子の優しさ。女の子の柔らかさ。

 

——ただし。

 

ここで止まれないのが僕という存在の業の深さだった。

 

保護されて三日目の夜。

 

僕の面倒を見てくれていたのは、二十歳くらいの若い女だった。

栗色の髪を肩まで伸ばした、素朴だが目鼻立ちの整った女。

名前は——なんだっけ。忘れた。まぁ名前とかどうでもいいか。

とにかく優しい女だった。

 

毎晩、寝る前に僕の布団を整えてくれて、額にそっと手を当てて「熱はないね、よかった」と微笑んでくれる。

前世込みの僕の人生で、初めてまともに世話を焼いてくれた女性だった。感謝している。本当に。

 

だからこそ——

 

「おねえちゃん」

 

「ん? どうしたの?」

 

「……あのね。ぼく、夜こわいの。一緒に寝ても、いい……?」

 

僕は碧い目をうるうるさせて、両手を前に出して、おねだりのポーズを取った。

完璧な上目遣い。完璧な甘え声。何百回と練習した断れない顔の中でも、最上級のやつ。

 

女は一瞬きょとんとして、それからくすっと笑った。

 

「いいわよ。おいで」

 

勝った。

 

いや何に勝ったのか分からないけど、とにかく勝った。(二回目)

 

僕は女の寝台にするりと潜り込んだ。

薄い毛布一枚の向こうに、女の体温がある。背中がすぐそこにある。吐息が聞こえる。

女の人特有の甘い匂いが鼻腔を満たした。

 

心臓が爆発しそうだった。

 

落ち着け。落ち着け僕。ここで暴走腰ヘコヘコしたら全部台無しだ。

今は信頼を積み重ねるフェーズだ。焦るな。千里の道も一歩から。

 

腰ヘコヘコへの道もまた一腰ヘコヘコから。

 

——駄目だった。

 

落ち着けるわけがなかった。

 

だって目の前に女の子の背中があるんだ。薄い寝巻き一枚の向こうに、柔らかい女の子の肌があるんだ。

無理。絶対無理。魔族として生まれてからの数年分の衝動が、今この瞬間に全部合流して一つの巨大な奔流になっている。

 

僕の腰が動いた。

 

自分の意思ではない。いや、嘘です。自分の意思だ。

 

でも理性では止められなかった。体が勝手に……。

 

そう、これは僕が悪いんじゃない。前世のDNAが悪いのだ。僕はいい子なんだ。

 

僕の身体は悪い奴なんだ。僕はいい子なんだ。

 

そーっと、そーっと、女の背中に近づく。

 

毛布の中でもぞもぞと距離を詰める。体が触れる。女の体温が直接伝わってくる。柔らかい。温かい。最高。

 

ヘコ……♡

 

腰が、前に出た。ほんの少しだけ。

 

ヘコ……♡

 

もう一回。もう少しだけ。女の背中に腰が当たる。

 

ヘコ……♡ ヘコ……♡

 

止まらない。止められない。前世の三十年と今世の数年分の全てが腰に集中している。

頭は真っ白で、体は灼熱で、心臓はもうとっくに破裂しているんじゃないかと思うくらいの心拍数で——

 

「リヒト?」

 

女が振り向いた。

 

暗闇の中で栗色の目が僕を見ていた。

 

固まった。

 

完全に固まった。今まさに腰ヘコヘコの真っ最中の姿勢のまま、氷漬けのように固まった。

 

「どうしたの? 怖い夢でも見た?」

 

女が優しい声で聞いてきた。暗闇のおかげで僕の顔色は見えなかったらしい。そして毛布の中で何をしていたかにも、気づいていないらしい。

 

「う、うん……こわい夢、見たの……」

 

咄嗟に嘘をついた。声は震えていた。嘘泣きではなく、本気の動揺で。

 

「そう。大丈夫だよ、私がいるからね」

 

女が僕を抱き寄せた。ぎゅっと。顔が女の胸元に埋まる。柔らかい。あったかい。いい匂い。心音が聞こえる。とくん、とくん、と穏やかなリズム。

 

僕はぎゅっと目を閉じた。

 

ああ、幸せだ。

 

こんなに幸せでいいのだろうか。僕は魔族だ。人を食う化物だ。

この温もりを享受する資格なんてないんじゃないか。この女の人は、僕が何者か知らない。

知ったら、きっとこうして抱きしめてはくれない。

 

まあ、それはそれとして。

 

顔が胸に埋まっている。

最高だ。

罪悪感は一瞬で吹き飛んだ。

前世の業と今世の業が合算されて地獄に落ちるかもしれないが、この瞬間だけはそれでもいい。

 

♢   ♢   ♢

 

その集落には、一ヶ月ほどいた。

 

楽しかった。本当に楽しかった。

 

女の人たちに可愛がられ、撫でられ、抱きしめられ。「リヒトは本当にいい子ね」と言われるたびに、僕は内心の下心を完璧に隠して天使の微笑みを返した。

 

でも。

 

腹は減るのだ。

 

魔族の体は、人間の食事では満たされない。

 

パンを食べてもスープを飲んでも、空腹はほんの一時凌げるだけで根本的な飢えは消えない。

 

魔族が真に求めるのは人間そのもの。

 

一ヶ月が経つ頃には、飢えは限界に達していた。

 

視界がぐらぐらする。思考がぼんやりする。集落の人間たちを見るたびに前世の自分が必死に抑え込んでいたはずの本能が、ずるりと鎌首をもたげる。

 

食べたい。

 

あの男の腕。太くて筋肉質で、噛みちぎったら歯応えがありそうだ。

 

あの老人の足。柔らかくて、煮込んだら骨から肉がほろほろと——

 

吐き気がした。

 

前世の倫理観が悲鳴を上げている。人間を食べ物として見るな。

 

彼らは食料じゃない。人だ。心がある。名前がある。家族がいる。笑う。泣く。怒る。僕に優しくしてくれた。

 

でも腹が、減っている。

 

魔族の本能は、前世の倫理なんかよりずっと深い場所に根を張っている。

 

理性の土台を突き破って、地の底から這い上がってくる。抗えない。腕力で言えば、象にアリが立ち向かうようなものだ。

 

ある夜。

 

僕は集落を出た。

 

正確には集落の反対側、森との境界近くにある、少し離れた民家に向かった。

 

そこには名前も知らない男が住んでいた。

 

一人暮らしの無愛想な中年の男。僕に水をくれたこともなければ、声をかけてきたこともない。

 

僕のことを、最初から少しだけ怪しんでいる目で見ていた男。

 

選んだ理由?

 

男だったからだ。

 

女の人は食べたくなかった。食べたくなかっただけで食べなかったとは言わない。

 

でも、あの夜に限って言えば——男を選んだ。

 

暗い部屋。寝息。近づく足音。目を覚ました男の、恐怖に見開かれた瞳。短い悲鳴。それから——沈黙。

 

食事はすぐに終わった。

 

血の匂いが鼻に残った。口の中に鉄の味が広がっている。腹は満たされた。体に力が戻る。視界がクリアになる。思考が冴える。

 

満腹だった。

 

そして——空っぽだった。

 

前世の記憶を持つ僕にとって、人間を食べるという行為は、どこまでいっても慣れるものではなかった。

 

本能が求め、体が歓び、飢えが消える。でも心の片隅で——前世の日本人だった僕が、静かに泣いている。

 

……なんて感傷的なことを言ってみたが、ぶっちゃけ三日もすれば忘れる。僕はそういう生き物だ。

 

前世の倫理観はあるが、それは殺すなと叫ぶ声であって殺さない力ではない。

 

腹が減れば食べる。食べたら少し凹む。凹んでもすぐ忘れる。そしてまた腹が減る。

 

その繰り返し。

 

僕は人間で魔族だ。どっちか片方なら楽だったのに両方を抱えて生きている。

 

永遠に折り合いなんてつかない矛盾を胸に飼いながら、それでも……

 

それでも、可愛い女の子を見ると腰がヘコヘコしたくなる。

 

この欲求だけは、人を食った後でも、罪悪感に沈んだ後でも何があっても消えなかった。人としての倫理も魔族としての本能も、どっちも僕の腰ヘコヘコへの渇望には勝てなかった。

 

我ながらどうかしている。

 

でもまあ……これが僕だ。

 

数千年後も本質は一ミリたりとも変わっていない。

 

♢   ♢   ♢

 

集落を出た後、僕は放浪を続けた。

 

集落から集落へ。街から街へ。時には人間に紛れて暮らし、時には森の奥で獣のように眠り。

 

腹が減れば食べ、女の子を見つければ全力でアプローチし、バレて殴られ、逃げ、また別の場所で同じことを繰り返した。

 

成功率は壊滅的だった。

 

腰ヘコヘコどころか、手を握るのすら至難の業。美少年の外見は確かに武器だったが、いかんせん僕のアプローチが直球すぎた。

 

「ねえお姉ちゃん、僕と腰ヘコヘコしな——ぐふっ!?」

「ひぃ! バケモノ!!」

 

前世で女性経験ゼロだった男の口説きスキルは、転生してもゼロのままだったのだ。容姿のおかげで最初の好感度は高いのに、開口一番「お姉ちゃんと腰ヘコヘコしたい♡」では台無しだ。

 

何がいけないのか、当時の僕には本気で分からなかった。

 

——ちなみに。この頃の僕はまだ弱かった。すごく弱かった。

 

魔族としての戦闘力はてんで駄目で、ちょっと強い人間の戦士にも普通に負けた。

 

何度も殺された。首を刎ねられたり、体を焼かれたり、川に沈められたり。そのたびに復活したが復活する場所も時間もまちまちで、死ぬたびに数日から数週間のロスが発生した。

 

殺されるのは痛い。すごく痛い。何回経験しても慣れない。

 

♢   ♢   ♢

 

そんな日々の中で。

 

僕は一つの噂を耳にした。

 

——どこかにとんでもなく強いエルフがいるらしい。

 

とても美しいエルフ。生きとし生ける者の中で最も魔法の才に恵まれた存在。大陸最強の魔法使い。

 

名を——

 

「ゼーリエ、っていうらしいよ」

 

集落の酒場で酔っぱらった冒険者が語っていた。

 

「エルフってだけでも珍しいのに、ゼーリエ様は桁が違うって話だ。魔族の大物だって束になっても敵わない。しかもとんでもない美人だって——」

 

僕の耳がぴくりと動いた。

 

エルフ。美しい。最強。美人。

 

美人?

 

酒場の隅っこで保護してもらった家族のふりをして林檎をかじっていた僕の目が、ぎらりと光った。

 

美人のエルフ。

 

最強の美人のエルフ。

 

最強の美人のエルフがいる。

 

その瞬間、僕の中で何かが決定的に動き出した。運命の歯車が噛み合うように、かちりと音を立てて。

 

会いに行こう。

 

そして腰ヘコヘコしよう。

 

最強? 知ったことか。こっちには無限の残機があるんだ。

 

僕は自分の運命の本当の意味を、この時は理解していなかった。この先どれほど途方もない旅路の始まりになるのかを。

 

でも——知っていたとしても、行っただろう。

 

だって、美人のお姉さんがいるんだから。

 

 

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