ショタ魔族ワイ、フリーレンに腰ヘコヘコして無事死亡 作:(⩌ˬ⩌)
北へ向かった。
ひたすら北へ。来る日も来る日も北へ。
太古の大陸には道なんてものはほとんど存在しなかった。獣道すら途切れがちな原生林を掻き分け、凍てつく山脈の峠を越え、名前のない河を何本も渡った。
途中で三回死んだ。一回は崖から落ちて、一回は魔物に食われて、一回は河の急流に巻き込まれて溺れた。死ぬたびに復活して復活するたびに北へ歩いた。
何ヶ月かかったか分からない。季節が二回ほど変わった気がする。
でも足を止めようとは一度も思わなかった。
だって北にエルフがいるんだから。
♢ ♢ ♢
噂は道中の集落で断片的に拾い集めた。
「北の山脈の向こうに、恐ろしい魔法使いが住んでいる」
「エルフだ。長い耳の、金色の髪をした女だ」
「近づいた魔族は一匹残らず灰になった。人間でも無礼を働けば消し飛ばされるそうだ」
集落の人間たちは怯えた顔でそう語った。恐怖。畏敬。崇拝に近い感情。彼らにとってそのエルフは、天災と同義の存在らしい。
僕はそれを聞きながら、林檎をかじっていた。
——金色の髪。
——エルフの女。
——恐ろしいほど強い。
情報が入ってくるたびに僕の心臓はどくんどくんと脈打った。腰もヘコヘコした。
怖いからじゃない。断じて怖いからじゃない。
美人のという情報がまだ未確認であることに対する焦りだ。美人じゃなかったらどうしよう。すっげぇブスだったらどうしよう。
いや、エルフで美人じゃないってことある?
ない。ないはず。
エルフはみんな美しい。
前世の知識がそう言っている。
信じろ、僕。
♢ ♢ ♢
最後の山脈を越えたのは、空が燃えるような夕焼けに染まった日の夕方だった。
峠を越え、眼下に広がる景色を見た瞬間。僕は息を呑んだ。
谷間に森があった。だだっ広い原生林とは明らかに質の違う空気そのものが重い森。
木々の一本一本が尋常ではない太さで、梢は空を覆い隠すように広がっている。森全体から魔力が立ち昇っている。肌がぴりぴりする。空気の味が変わる。
この森にいる。
分かる。分かってしまう。この異常な魔力の密度、この空間そのものを支配するような圧倒的な存在感。
森の中心に、途方もない何かがいる。
魔族としての本能が警鐘を鳴らしている。
逃げろと。
ここは危険だと。
お前の手に負える存在ではないと。
だが断る。
うるせェ!!! いこう!!!!(某海賊漫画風)
僕は生存本能を物理でミュートにして、腰ヘコ衝動だけを携えて山を駆け下りた。
♢ ♢ ♢
森に足を踏み入れた瞬間、世界が変わった。
音が消える。鳥の声も、虫の羽音も、風が枝を揺らす音も。
木々の間を縫って差し込む光は薄く、苔むした地面は湿っていて、一歩ごとに靴の裏がじゅくりと沈んだ。
魔力が濃い。呼吸するだけで肺の中に魔力が流れ込んでくるような錯覚。
いや、錯覚ではない。この森そのものが一人の魔法使いの魔力に浸されている。
何百年、何千年とかけて、この土地の隅々にまで魔力が染み渡っている。
怖い。
正直に言えば怖い。
僕は弱い。戦闘力は底辺もいいところで、その辺の人間の兵士にすら負ける。
唯一の取り柄は死なないことだけ。この森の主がどれほどの存在か。足元から這い上がってくる魔力の圧だけで、大体の見当はつく。
次元が違う。
僕なんかとは比べものにならない、途方もない強さの持ち主だ。
足が震えた。一歩を踏み出すたびに膝が笑う。逃げ出したい。戻りたい。安全な場所で丸くなって無機物に腰ヘコヘコしたい。
——でも。
美人のエルフが太腿を露出しているかもしれない。
それだけで、僕の足は前に進んだ。人類は偉大な発見のために命を懸ける。
僕は太腿のために命を懸ける。方向性は違うが、情熱の密度は負けていないはずだ。
♢ ♢ ♢
森の奥へ奥へと進む。
どれくらい歩いただろう。
時間の感覚が曖昧になっていた。木々の密度がさらに増し、頭上は完全に梢で覆われて昼か夜かも分からない。
唐突に森が開けた。
巨木に囲まれた円形の空間。天然の広間のような場所。
梢の隙間から一条の光が差し込み、空間の中央をスポットライトのように照らしている。
そこに、いた。
最初に見えたのは金色だった。
陽光を受けて輝く、長い長い金色の髪。
光の中で風に靡き、一本一本が絹糸のように艶やかに煌めいている。
次に見えたのは白だった。
白い衣。古い時代の神殿に仕える巫女のような、神話に描かれる女神のようなゆったりとした白い布をまとった姿。
布は体に緩く巻かれているだけで、あちこちに大胆な隙間がある。
そして。
見えた。
太腿が見えた。
白い衣のスリットから覗く、白磁のような肌。すらりと伸びた脚線。
膝から太腿にかけての布で隠しきれていない無防備な曲線。光が当たって、肌が仄かに透けるように輝いている。
頭が真っ白になった。
心臓が止まった。いや、止まったのは心臓ではなく思考だ。
前世と今世の全ての記憶、全ての知識、全ての経験が瞬時に吹き飛び、脳のメモリが一つの映像だけで完全に埋め尽くされた。
太腿。
太腿太腿太腿太腿太腿。
エルフの。美人の。金髪の。大魔法使いの。太腿。
噂は本当だった。いや、噂なんか生温い。目の前の光景は、噂の百倍、千倍……いや数値化できない。
前世で見た全てのコンテンツ、全てのイラスト、全ての映像、その全てを足し合わせても、この一瞬の衝撃には遠く及ばない。
だって本物だ。二次元じゃない。画面越しじゃない。今、目の前に生身の本物の完璧な太腿がある。
——あぁ。僕は。
この瞬間のために生まれてきた。
前世で死んで、魔族に転生して、獣のように森を彷徨って、人を食べて、何度も死んで、何ヶ月もかけて北を目指した。その全てが、この瞬間のためだった。
「感謝するぜ……お前と出会えた、これまでの全てに」
体が動いていた。
考えるより先に。恐怖よりも先に。本能の警告よりも、魔力の圧よりも、生存本能よりも——遥かに速く。
僕は駆け出していた。
全力で。
金色のエルフに向かって。
「うおおおおおお!! 生きた神話だ!! 世界遺産が歩いてるぞぉぉ!!」
涙を流しながら突進する美少年の魔族(ぼく♡)。
森の静寂が絶叫で粉砕された。
♢ ♢ ♢
金色のエルフが魔族の少年──リヒトを見た。
若干タレ目気味の、冷たい瞳。
美しかった。恐ろしいほどに、美しかった。
金色の瞳が突進してくる小さな影を捉えた。
魔族。
この領域に踏み込んだ時点で検知していた。取るに足りない魔力。
虫けら同然の存在。殺すまでもない——と思っていたが、向こうから来るのなら話は別だ。
「汚らわしい」
一言。
ゼーリエの口から零れたのはその一語だけだった。
杖はない。腕すら動かさなかった。
ただ視線を向けて瞳に……ほんの微かな嫌悪の色が浮かんだだけ。
それだけで十分だった。
不可視の斬撃がリヒトの体を襲った。
「腰ヘコ──うぼぁ!?」
腕が飛んだ。脚が飛んだ。胴体が三つに裂けた。
一瞬にして……正確には一瞬にも満たない時間で。
少年の体はバラバラの肉塊に変わり、血飛沫が木漏れ日の中を赤く染めた。肉片が苔むした地面にべちゃべちゃと落ちる音だけが、静寂の中に響いた。
ゼーリエは見もしなかった。
視線はすでに元の位置に戻っている。興味を失った目。路傍の虫を踏み潰したことにすら気づかなかった、というような無関心。
終わり。
それで終わるはずだった。
♢ ♢ ♢
異変は数秒後に始まった。
「……?」
ゼーリエの金色の瞳がわずかに揺れた。
地面に散らばった肉片が——動いている。
いや、「動いている」という表現は正確ではない。
散らばった血が、逆流していた。
苔に染み込んだはずの赤い液体が、重力に逆らって浮き上がる。ぼたぼたと地面に落ちたはずの肉片が、ゆっくりと虚空に集まり始める。
千切れた筋繊維が空中でぞろぞろと互いを手繰り寄せ、骨の破片が軋みながら元の位置に戻っていく。
治癒魔法ではない。
再生能力ではない。
ゼーリエの瞳孔がほんの一瞬だけ収縮した。千年を超える生の中で、この反応が出ることは極めて稀だ。
「これは——巻き戻り?」
死んだという結果が、世界から取り消されていく。
散った血飛沫が空中で静止し、逆再生のように元の血管へと吸い込まれていく。
裂けた皮膚の断面が両側から閉じていき、切り口が繋がり、傷痕すら消える。
骨が再接合し、筋肉が編み直され、臓器が元の位置に収まる。蒸発したはずの体液が虚空から凝結して体内に戻る。
死という事象そのものがこの世界から強制的に削除されている。
時間の逆行。因果の否定。結果の消去。
ゼーリエは知っている。あらゆる魔法を網羅したエルフの大魔法使いは、この現象の正体を即座に看破した。
呪い。それも自身に掛けるタイプ。
女神の法則に正面から唾を吐きかけるような、極めて悪辣で悍ましい大呪いだ。
死を否定する。結果を拒絶する。この世界の根源法則。
生あるものはいずれ死に、起きた事象は覆らないという大前提そのものを力ずくで踏みにじる呪い。
その代償がどれほどのものか。そんな呪いを自身に刻み込むために、この魔族はいったい何を差し出したのか。
「……」
ゼーリエの目が細くなった。
再構成が完了する。数秒前までバラバラの肉塊だった場所に、傷一つない美少年が立っている。
蜂蜜色の髪も碧い瞳も、何事もなかったかのように元通り。衣服にすら血痕はない。死んだという事実が、そもそもこの世界に存在しなかったかのように。
「ひっ……ひひっ……痛い……痛いよぉ……」
ゼーリエは初めて矮小な魔族に正面から意識を向けた。
呪い。あの悍ましい呪いを自らに施し、完全なる不死を手に入れた存在。
この魔族は何を成そうとしている?
世界の破滅か。秩序の崩壊か。あるいは己の魔法を奪うためか。
復活した少年が目を開けた。
碧い瞳がゼーリエを捉える。
少年は鼻息を荒くしていた。
頬を紅潮させ、目をぎらぎらと輝かせ、両手をわなわなと震わせながら——叫んだ。
「あの、すいません。一回だけ腰ヘコヘコしていいですか?」
「は?」
ゼーリエの口から間の抜けた音が漏れた。
数千年を生きた大魔法使いの口から。全知全能の女神に最も近いと称される存在の口から。
「は?」と。
それはゼーリエの長い人生の中で珍しい瞬間だった。
だが少年は、大魔法使いの戸惑いなど一切お構いなしに、ぺこりと軽く頭を下げる。
「あ、ダメですか? じゃあ半ヘコでもいいんで。ちょっとだけ太腿に挟ませてもらえれば」