彼女が無限ループを諦めない理由   作:( 눈_눈)

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彼女が無限ループを諦めない理由

 

彼女がそれを打ち明けたのは、朝食の皿を流しに運んだあとだった。

 

食後、なんとなくソファに身を預けた私の両頬に彼女は両手を添えて、そのままするりと頭を自分の膝へ導いた。

 

抗議するにはあまりに手つきがやさしくて、しかも一度そこに収まってしまうと、離れる理由のほうが見つからない。

彼女の腿は体温をきちんと持っていて、柔らかいのに不思議と落ち着く硬さがある。

耳の近くで衣擦れの小さな音がして、髪を梳く指先が、ひどく丁寧に頭皮をなぞっていく。

 

「……急に、…なに?」

 

そう言ったはずなのに、声は自分で思っていたよりずっと骨抜きで、咎める形になっていなかった。

 

「可愛かったので、つい」

 

彼女はそう答えて、少しだけ得意そうに笑った。

その笑みを見なくても分かるくらい、声がやわらかかった。

 

指先が前髪をかき分け、こめかみのあたりをゆっくり撫でる。

見上げれば、彼女の顎の線と、朝の光を受けた睫毛が近い。

こんな距離がもう、私たちには当たり前になって久しいのに、ときどき思い出したかのように胸の奥だけが遅れて熱を持つ。

 

自分のものだと言われているわけでもないのに、もっと深いところを静かに囲い込まれる。逃がすつもりなんて最初からないのだと、やさしさの形で教えられているみたいだ。

 

彼女の親指が、髪の生え際をそっとなぞる。

私がどのくらいの強さだと心地いいか、どこに触れられると肩の力が抜けるか、たぶん彼女は私自身より分かっている。

その事実が、くすぐったいくらい嬉しくて、同時に少しだけ怖いほど愛しかった。

 

彼女は何も言わず、私の手を包むように指を重ねてきた。撫でる手は止めないまま、もう片方の手だけで、私の指先を静かに握る。

 

食卓にはまだ、味噌汁の薄い湯気が残っていた。窓の向こうは曇り空で、白い光だけが部屋の輪郭をやわらかく撫でている。彼女は撫でる手を止めると、マグカップを両手で包み、少し冷めた紅茶を飲みもせず、ただその温度を確かめるみたいに持っていた。

 

「ねえ」

 

呼ばれて顔を上げる。彼女は微笑んでいたけれど、その笑みは妙に静かで、何かを決めたかのように澄んでいた。

 

「驚かないでください。たぶん、驚くでしょうけれど」

 

「前置きが長いな。…なに」

 

「わたし、今日一日を、何度も繰り返しています」

 

私は、顔を中途半端にあげたまま固まった。

 

最初に浮かんだのは心配でも恐怖でもなく、疲れているのだろうか、というありふれた推測。

 

睡眠不足。

あるいは熱でもあるのかもしれない。

 

彼女はもともと、どちらかといえば、静かに真顔で嘘をついて相手を困らせるのが好きだ。

…だが今日の声音は、そういういたずらの温度ではなかった気がしたんだ。

 

 

「……えと?」

 

「現実の話です」

 

「…いつものやつ?」

 

「…むぅ、……何回言われても不服ですねその言い草」

 

 

私は身体を起こして水を一杯飲んだ。喉が乾いていたわけではなくて、考えるための間が欲しかった。

けれど彼女はそれを見て、わずかに目を細めた。

 

 

「今のも、いつも同じです」

 

「…は?」

 

「君は何かを信じないとき、水を飲みます。納得できないことがあると、いったん、何かを飲み込む体の動きと一緒に、頭に落とし込もうとする。そして、それからもう一度考えをまとめ直すんです」

 

「…」

 

「…君は今、病院に連れていくべきか、眠れていないだけなのか、その二つで迷っている。わたしの顔色を見て、熱があるかどうかを判断しようともしている。けれど仮に熱があったとしても、わたしの言動を病気扱いにしてしまうのは誠実じゃない、とも思っている」

 

 

背中にひやりとしたものが走った。

 

当たっている。

 

どれもこれも仔細まで。

 

表情から読める範囲を超えている、とは言い切れないにしても、並べられると不気味なほど正確だった。

 

なにより、

 

「…いつも、相手が嫌な気持ちになるような嘘だけはつかないよね」

 

「ええ。だから、信じてください」

 

彼女はそこでようやく紅茶をひとくち飲んだ。冷めているはずなのに、その仕草だけはどこか慎重で、熱いものを飲み込むみたいに丁寧だった。

 

「わたしが今日を繰り返していること自体を、証明し続けることもできます。でも、それじゃあ意味がありません」

 

「どういうこと?」

 

「大事なのは、そこじゃないんです」

 

彼女はマグカップを置いた。陶器が木のテーブルに触れて、乾いた小さな音がした。

 

 

「当ててください。わたしが、今日を無限ループしている理由を」

 

 

それは酷く奇妙な問いだ。

抜け出したい、助けてほしい、どうしたらいいと思う、ではない。理由を当ててほしい、と来た。

 

「…うん?…理由が分かれば、抜け出せるの?」

 

そう口にした瞬間、彼女の指がほんの少しだけ強くマグカップの縁を握った。白くなるほどではない。けれど、何かを恐れるように強く。

 

「……そこを考えないでください」

 

「………は?」

 

「お願いです。抜け出す方法ではなく、理由を」

 

「…でも、無限ループしてるなら、まずはそこから出る方法を」

 

「それは、考えないでください」

 

息を呑んだ。

次の瞬間、椅子の脚が床を掠る小さな音を立てて、こちらへ身を寄せてくる。

 

抱きつく、というより、縋りつく、というほうが近いかもしれない。

両腕が私の背へまわり、細い指先が服をきつく掴む。胸元へ押しつけられた額がかすかに震えていて、その震えは、彼女がどれだけ切羽詰まっているのかを表しているようで。

 

甘えるときの抱擁とは違う。

けれど、嫌ではなく、むしろ、どうしようもなく愛しかった。いつもは私を愛おしそうに包み込むみたいに触れてくるひとが、いまは何かを恐れるようににこちらの温度を求めている。その事実だけで、胸の奥が強く締めつけられる。

 

「……ねえ」

 

掠れた声が、服越しに肌へ落ちる。私は考えるより先に彼女を抱きしめ返していた。背中へ腕を回し、その身体を締め付けるように抱きしめ、肩を撫でる。

 

そうすると彼女は逃げるどころか、ますます深く顔を埋めてきた。吐息が鎖骨のあたりに触れて、困るくらいくすぐったいのに、愛おしくてたまらない。

 

彼女の身体は細いのに不思議と熱くて、抱きしめるほど、失いたくないものの輪郭ばかりがはっきりしていく。

 

こうして抱き合っていると、私たちはちゃんと互いの帰る場所なのだと、言葉より先に身体が知ってしまう。彼女が好きだと、こんな瞬間にすら思い知らされる。たぶん彼女も同じで、だからこそこんなふうに、みっともないほど真っ直ぐこちらへ縋ってくるのだ。

 

やがて彼女は私の胸元に額を預けたまま、小さく息を整えた。服を掴んだ指先だけはまだ離れない。そのまま祈るみたいに、もう一度だけ。

 

「…お願いです」

 

声は静かで、それでいてはっきりしていた。

刃物みたいに薄くて冷たい拒絶。

 

彼女は少し俯き、それからまた私を見る。

 

自ずと部屋がしんとした。

外を走る車の音が遠くで流れていく。そのありふれた日常の音だけが、この場の異様さを浮き彫りにするように、嫌に目立つ。

 

「……ごめんなさい。言い方がよくなかったですね」

 

彼女はそう言い、腕の中で少しだけ首を傾げた。

 

「ルールがあります」と彼女は言った。

 

「君は今日中、何度でも質問していい。

わたしは、はい、いいえ、

もしくは、はいといいえでは答えられない、

の三つだけで返します」

 

「回数は?」

 

「制限はありません。…ただし日付が変わるまでなら、です」

 

「ずいぶん親切だね」

 

「わたしも、君に辿り着いてほしいので」

 

その言い方は、まるで道に迷った人間へ向けるかのようだった。

どうかこちらに来てください、と、霧の向こうから手を振っているみたいに。

 

「本番の前に、練習をしましょうか」

 

「練習?…まぁいいけど」

 

彼女は少しだけ口元をやわらげた。

 

「今日は何月でしょう?」

 

私は反射的に答える。

 

「九月」

「いいえ」

「…えぇ?」

 

間髪入れずに返ってきて、私は少し眉をひそめた。けれど、彼女の言い方に迷いはなかった。つまり、

 

「……あぁ…なるほど」

 

彼女は何も言わない。私が続きを考えるのを待っている。

 

ああ、そういうことか、と思った。

こちらが質問で範囲を絞り込み、三択の返答だけで彼女が決めた正解に辿り着く。

所謂水平思考クイズに近いモノ。

 

「じゃあ、その月は六月より前?」

「いいえ」

「十月より前?」

「いいえ」

「十一月?」

「いいえ」

「十二月だね」

「ふふ、…はい。正解です」

 

私は納得のいったように、小さくうなずいた。

 

「はい、いいえ、どちらでもない、で答えられる問いを積み重ねて、答えの空間を狭めていく。……まぁ、よくあるやつだよね」

 

彼女はうなずいた。

 

 

私は椅子に座り直した。彼女は向かいにいる。見慣れた顔だった。同棲を始めて一年と少し。

その顔で眠り、その顔で目を覚ます生活に、私はずいぶん救われてきた。なのに今、その見慣れたはずのひとが、妙にミステリアスで正体不明の存在に見える気がする。

 

「じゃあ、始めますか」

 

最初の質問は、自然と始まった。

 

「これは超常現象?」

「いいえ」

 

即答だった。

 

「呪いとか、神様とか、そういう類い?」

「いいえ」

「君にしか起きていない、科学では説明できない現象?」

「いいえ」

「でも、君はループしてると言った」

「はい」

 

はい、の一言で、さっきまでの否定が揺らぐ。言葉の地盤がぐらついている。

 

「夢の中ってことは?」

「いいえ」

「私が夢を見てる?」

「いいえ」

「君が夢遊病みたいになってる?」

「いいえ」

「私たちはどこか別の、仮想空間とか電脳世界にいる?」

「いいえ」

「寝たきりの私が見てる世界とか?」

「いいえ」

 

彼女は答えるたび、わずかに睫毛を伏せた。質問が予想通りなのかは分からない。ただ、迷いはまったくなかった。

 

「現実で、超常現象でもなくて、夢でもなくて、なのに君は今日を無限ループしてる」

 

「はい」

 

私は腕を組んだ。言葉に矛盾があるのに、嘘をつかれている感じはしなかった。

こちらの問い方がまだ的を外しているだけで、中心には一つの整合した真実がある、そんな感触だけがあった。

だから、ここで少しだけ、狙いを変えてみることにした。

 

「原因は君にある?」

「いいえ」

「じゃあ、私にある?」

「はい」

 

あっさりと胸の真ん中を刺された気がした。

 

「私が今日、何かした?」

「いいえ」

「今日より前?」

「はい」

「故意に?」

 

 

ほんの少しの間。

 

 

「…はい」

 

 

そこで初めて、彼女の声がわずかに掠れた。

 

 

「私が君を傷つけた?」

「はいといいえでは答えられない」

「身体的に?」

「いいえ」

「精神的に?」

「はい」

 

舌打ちしそうになるのをこらえた。

どんな罰ゲームだこれは。

自分で自分の首を締めていくような問答だ。

 

「別れ話をした?」

「いいえ」

「浮気した?」

「いいえ」

「暴言を吐いた?」

「いいえ」

「君を置いて行こうとした?」

「はいといいえでは答えられない」

 

その返しが、妙に引っかかる。

 

置いて行こうとした。はい、でも、いいえ、でもない。意思としてはそうだが、物理的には違う、そういうこと?

 

仕事で家を出る程度なら答えはいいえで済む。もっと決定的な何か。

 

「…前提として、私は、君を助けようとした?」

「…はい」

 

その一言で、さらに足元が崩れた気がする。

 

彼女を傷つけた。だが助けようともした。故意に。今日より前に。私に原因がある。

 

彼女の表情を見る。

彼女は逃げなかった。ただ静かに待っている。私が自分で辿り着くのを。

 

「……一つ確認したい」

「はい」

「君は本当に、その理由を私に当ててほしいだけなんだよね。解決策を探すんじゃなく」

 

「はい」

 

「…なんで……」

 

 

彼女は細い息を吐いた。

 

 

「…一つだけ言えます。君がどうすればこのループを終わらせられるかを先に考えると、だめなんです」

 

「それは、…どうして」

 

「その考え方自体が、間違いだから」

 

私は眉をひそめた。彼女の目が、かすかに揺れたように見えたから。

泣きそうに見えたのに、涙は落ちなくて、その危うさが、かえって彼女を強く見せる。

 

昼前、私たちはいったん黙った。

 

私は質問を紙に書き出すことにした。会話だけでは、答えの輪郭が頭の中で曖昧になっていく。彼女は反対しなかった。むしろ、その紙を見てほっとしたようにさえ見えた。

 

紙の上に並べてみると、分かることは少ない。

 

超常現象ではない。

夢でも仮想世界でもない。

原因は私にある。

今日より前、故意に、彼女を傷つけながら助けようとした。

彼女は、ループから抜け出す方法を考えてほしくない。

 

文章にするとますます分からない。恋人の人生を壊すタイプの善意、という嫌な言葉が浮かんだ。

 

「すこし、外に出ない?」

 

考えが煮詰まってきた私がそう言うと、彼女は少しだけ驚いたような顔をしたあと、うなずいた。

 

「いいですよ」

 

「ルール違反じゃないよね」

 

「ええ。君が考えるためなら」

 

コートを取ろうとして、なぜか一瞬ためらった。まだ秋だと思っていたからだ。だが玄関を開けて、外気が頬を切った瞬間、その認識が間違っていたことを知った。

 

寒い。

 

刺すような冬の冷たさだった。思わず肩をすくめる。吐いた息が白い。

 

「……寒っ」

 

彼女が黙って、私のコートの襟を整えた。指先がやたらと慣れていた。その慣れ方が、恋人として自然なそれより、もっと何度も繰り返した動作のように思えた。

 

歩き出してすぐ、私は違和感を覚えた。街の様子が、知っているようで少しずつずれている。自販機の位置、信号の脇に新しく立っている工事の柵。

見たことの無い建物が建っているなんて、浦島太郎みたいな大きな違いではない。けれど、私の頭の中にある街と、目の前の街は、薄皮一枚ぶんだけ時期が違った。

 

 

「…ねぇ」

 

 

「はい」

 

 

 

 

「君は、今日一日を無限ループしている?」

 

 

 

 

彼女は足を止めた。

 

妖しげな笑みを浮かべながらこちらを見つめ、

 

そして、約束通りの三択で答えた。

 

 

 

「…はいといいえでは答えられない、です」

 

 

 

その瞬間、世界の骨組みが間違っていたことに気づいてしまった。

 

言葉の罠だ。彼女は最初から、時間が巻き戻るとは言っていない。今日一日を繰り返している、としか言っていない。実際に同じ時刻を反復しているのではなく、別の意味で同じ一日が何度も訪れているのだ。

 

「……つまり、同じ日付じゃない」

「はい」

「でも君にとっては、同じような一日が延々続いてる」

「はい」

 

風が吹いた。彼女の髪が頬にかかる。彼女はそれを払わず、ただ私を見ていた。

 

「私と何度も、同じ一日を過ごしてる?」

「はい」

 

背筋が冷えた。外気のせいじゃない。

 

 

 

「……私だけが、それに気づいてない?」

 

 

 

「…はい」

 

 

 

あまりに静かな肯定だった。

 

私は立ち尽くした。通り過ぎる自転車のベルが耳元で鳴って、ようやく歩道の端に寄る。彼女は何も言わず、私に合わせて歩き出した。

 

同じような一日。何度も。私だけが気づいていない。

 

 

「……私は毎朝、何かを失ってる?」

「はい」

「記憶?」

「はい」

 

そこまで来ても、まだ私は核心の手前にいた。

或いは認めたくなかったのかもしれない。

だって、いまこの瞬間の会話だって覚えている。彼女の顔も、自分の名前も、住んでいる家も分かる。

 

「昔のことは覚えてる?」

「はい」

「君のことも?」

「はい」

「………新しい記憶を、明日に持ち越せない?」

「はい」

 

足が止まる。

 

通りの向こうで、小学生が雪の残りを蹴っていた。

そう、雪だ。

そんなものがある季節なのか、と、

なんで気づかなかったんだ、と、

今さらみたいに思う。

私の頭の中では、まだ冷たい雨くらいまでしか許容されていないのに、現実はそこを追い越していた。

 

喉が詰まる。

 

 

 

 

「…前方性健忘症、か」

 

 

 

 

私の震えた声に、彼女は静かに目を閉じた。

 

 

「…はい」

 

 

あまりに小さな声で、あまりに確かな肯定だった。

 

ふと、自分の脳みそが嫌に具体的に、生々しくグロテスクに浮かび上がった。

その脳みその何処かに、決定的な、そして致命的な損傷がある様子を想像してしまう。

 

身体の感覚が酷く遠のいて、それすらもその傷のせいに思えてしまい、余計に意識が遠のく。

 

冷たく凍える世界で数秒立ち尽くして、気持ち悪く歪む世界が、

やっと、一つに繋がった気がした。

 

同時に、その繋がり方が最悪すぎて、何も嬉しくなかった。

 

そこで、朝のやり取りが不意に別の意味で蘇った。

 

今日は何月でしょう。

 

あれは、ただの練習問題なんかじゃなかったのだ。

 

私は九月だと答えて、いいえを返されたあと、勝手に彼女が頭の中で決めた月を当てるゲームだと思い込んだ。そう解釈したほうが、自分の認識が揺らがずに済んだからだ。

 

でも違う。

 

本当に十二月だった。

 

だから外はあんなに寒かった。吐く息は白く、街には雪が残っていて、私の知っている季節だけが取り残されていた。最初から答えは出ていたのに、間違っていたのは世界のほうじゃなく、私の現在地のほうだったのだ。

 

私はしばらく呼吸の仕方を忘れたみたいに立っていた。彼女がそっと手を引くまで、自分が寒さに震えているのか、別の何かで震えているのかも分からなかった。

 

介抱されるように、背中に軽く手を添えられながら、近くの公園のベンチに座った。縋り付くように握りしめる彼女の手は暖かいのに、冬の金属は皮膚を刺すように容赦なく冷たかった。

 

「いつから」

「それは、はいといいえで答えられません」

 

「…もう、そのクイズはいいから」

 

思わずそう言っていた。

 

「君が同じ一日を繰り返してるように感じる理由は、私が新しい記憶を持ち越せないから。毎朝、同じところからやり直しになるから。もうクイズの答えは出てる。三択で答える必要はないでしょ」

 

彼女は、静かに首を横に振った。

 

「いいえ」

 

「……は?」

 

「それは、答えじゃありません」

淡々とした声だった。

 

「君に何が起きているのか、わたしがどういう状態に置かれているのか、…確かにその説明にはなります。

でも、最初に聞いた質問の答え、理由ではありません」

 

「…同じようなものじゃないの?」

 

「違います」

 

その一言だけが、やけにはっきりしていた。

 

「わたしがなぜここにいて、なぜ諦めずに同じ朝を迎え続けているのか。その理由は、まだ君の口から出ていません」

 

私は息を詰める。

紙に書いた問いの断片が頭の中で並び直される。

前方性健忘症。事故。毎朝失われる記憶。そこまではたしかに分かった。だが、それだけでは彼女の言う「理由」にはならない。

 

まだ残っているものがある。

 

私が、今日より前に、故意に、彼女を傷つけながら助けようとしたという話だ。

 

そこだけが、まだ空白のままだった。

 

質問の形式を守るしかないのに、急にそれがもどかしくなった。

 

「原因は事故?」

「はい」

「そのあと、私は自分の病気を知った?」

「はい」

「知ったうえで、その後に君を傷つけた?」

「はい」

 

 

「それは……君を私から解放するため?」

 

 

「…はい」

 

 

彼女の睫毛が、そこで震えた。

 

頭の中で、一つの最悪な可能性が形を取る。あまりにも安直で、あまりにもありがちな悲劇だが、ここまでの答えに一番きれいに収まる形でもあった。

 

 

 

「…私は、自殺しようとした?」

 

 

 

彼女は、目を逸らさなかった。

 

 

 

「はい」

 

 

 

遠くで、子どもが笑う声がした。冬の空は高くて、薄い。人が一人、自分の命を捨てようとした事実なんて、空の色は知らないふりをしている。

 

私は前を向いたまま、しばらく何も言えなかった。

頭の中で、見たことのない情景がいくつも生まれては消えた。風呂場。薬。ロープ。刃物。どれが本当か分からない。或いは全て本当なのかもしれない。

ただ一つだけ確かなのは、私は彼女を無限ループから解放するために、自分を消そうとしたのだということ。

 

だから彼女は、最初にあんなふうに言ったのだ。抜け出す方法を考えないでくれ、と。

 

私がまた同じ答えに飛びつくから。

 

「助けるつもりで、か」

「はい」

 

彼女がようやく、両手を膝の上で組んだ。

私の手から離れたそれは、触らなくても分かってしまうくらい、もう、冷たそうだった。

 

「ねえ」

 

今度は彼女のほうから口を開いた。

 

「ここから先は、もう質問じゃなくてもいいですか」

「……うん」

 

彼女は、かすかに笑った。

いまにも泣き出しそうな顔で。

 

「わたし、最初は誰かにちゃんと説明してもらえばいいと思ったんです。わたしでも、お医者さんでも、君のご家族でも、誰でも。

君に、病名を、現状を、全部、まっすぐ伝えてもらえばいいって」

 

「でも、違いました」

 

彼女は遠くの曇天を見た。

 

「当然です、あなたは前方性健忘症ですと言われて、絶望しない人なんてきっといません」

 

「……だからクイズで、自分で辿り着いて認めさせれば、自殺に走らないかもしれないと思ったわけだね…」

 

「…はい。残酷、ですね…」

 

「…そうだね」

 

彼女は小さくうなずいた。

 

「毎朝、わたしを見る目だけは変わらないのに、昨日まで積み上げたはずの会話が、全部どこかへ落ちている。買い物の約束も、映画の感想も、夜中に二人で笑ったどうでもいい話も、全部」

 

そこで彼女は一度息を切った。話し続けるために呼吸が必要なのだと、初めて分かるくらい、かすかだった。

 

「同じ日じゃないんです。天気も違うし、季節も少しずつ変わる。君の服も、スーパーの特売も、テレビのニュースも変わる。

 

でも、わたしにとっては似ているんです。

毎朝、君がわたしの顔を見る。そのたびに、わたしはまた最初から説明するか、説明しないかを選ばなきゃいけない」

 

彼女の横顔を見ながら、私は何も言えなかった。

彼女は私を責めていない。それがいちばん痛かった。なにより痛かった。

 

「でも」と彼女は言った。

 

「…実はまだ、今話した内容を仮に君が答えていたとしても、それでもまだ正解には辿り着けていません、70点です」

 

「…」

 

「だから、そろそろ、…答え合わせをしましょうか」

 

 

彼女はそこで、優しく微笑み、私をまっすぐ見た。

 

 

「わたしが無限ループを諦めない理由は」

 

 

 

 

 

「……君を、ずっと愛しているからです」

 

 

 

 

 

冬の空気のように澄んだ告白だった。

そんなことを思ったんだ。

彼女の声は柔らかいのに、逃げ道がなかったから。

 

「介護だとか、責任だとか、情だとか、そういう言葉で片づけられるのが、いちばん嫌でした」

 

「……でも、だとしても、そもそもの原因は私なんでしょ?」

 

 

「ループの原因と、ループを諦めない理由は似てるようで違いますから」

 

 

彼女はいつもの口調で、静かに言い切った。

 

 

「君が病気だから、わたしはここにいるんじゃなく、君が自殺しようとしたからでもなく、…わたしは、君と生きるためにここにいるんですよ?」

 

 

雪が降りそうな帰り道、私たちは手をつないだ。たぶん彼女が先に握った。正確にはもう覚えていない。

 

そういう曖昧さが、今の私にはあまりに多い。

 

部屋に戻ってからも、私は何度か追加で質問をした。もっと細かく、自分の状態を知りたかったからだ。彼女は律儀に、或いはいたずらっぽく三択で答え続けた。

 

「日付が変わると、今日のことは全て失う?」

「はい」

 

「消える記憶は、増えたりしない?」

「いいえ」

 

「今この会話は、覚えていられる?」

「いいえ」

 

 

 

「君を愛してることも、いつか分からなくなる?」

 

 

「…ふふっ………絶対に、いいえです」

 

 

 

その答えに、私はしばらく黙った。

 

夕方になって、窓の外はさらに白く鈍った。部屋の中には、沸かした湯の匂いと、彼女の使うハンドクリームの甘い匂いが混ざっていた。こんな普通の生活の中に、私だけが知らない底があったのだと思うと、床が抜けそうな気がした。

 

彼女はソファで膝を抱えていた。隣に座るこちらを見て、儚く笑う彼女を、私は甘えるように抱き締めた。

 

そのつもりだったのに、腕を回した瞬間、自分が思っていたよりずっと強い力で彼女を掻き抱いていたことに気づく。まるでこの身体の熱ごと覚えておかなければ、本当に次の朝には何もかも失くしてしまうと、もう身体のほうが知っているみたいだった。

 

「……いた、かったら、ごめん」

 

掠れた声でそう言うと、彼女は私の胸元に頬を寄せたまま、小さく首を横に振った。

 

「いいえ。…もっと強くでもいいですよ」

 

その返事があまりにやさしくて、たまらなくなる。

 

私は彼女の背中へ回した手に少しだけ力を込めた。薄い部屋着越しに伝わる背骨の感触。肩甲骨の小さな硬さ。呼吸のたびにわずかに上下する体温。そういうものを一つひとつ拾い集めるみたいに、指先で確かめる。

 

明日には忘れるのだとしても、いまこの瞬間だけは、たしかに私の腕の中にいる。

 

それがひどく、救いだった。

 

彼女の髪から零れる甘い匂い。鼻先が触れそうな距離でそれを吸い込むと、胸の奥がどうしようもなく軋んだ。

 

「……ねえ」

 

「はい」

 

「…大好き」

 

「はい、…わたしもです」

 

即答だった。

 

その迷いのなさが、泣きたくなるほど愛しかった。

 

彼女は私の背に腕を回し返し、子どもをあやすみたいにゆっくりと肩を撫でた。一定の速さで、何度も、何度も。何周も同じ朝を越えてきた手つきなのだと思うと、心臓の奥に鈍い痛みが落ちる。

 

私は彼女の胸元へ顔を埋めた。もう少し深く、この温度の中へ沈んでしまいたかった。忘れたくない。忘れると分かっているからこそ、今さらみたいに全てが惜しい。

 

「……明日になったら」

 

言いかけて、喉が詰まる。

 

明日になったら忘れる。

明日になったらまた初めからになる。

明日になったら、抱きしめた熱も、忘れてしまう。

 

そんな当たり前を、声にしてしまうのが怖かった。

 

彼女は何も急かさず、ただ背を撫で続けてくれる。私はそのやさしさに甘えて、とうとう彼女の胸へ額を押しつけたまま目を閉じた。

 

好きだ、と思う。

怖い、と思う。

消えたくない、と思う。

消えてしまう、と思う。

 

ぐちゃぐちゃになった感情のいちばん底で、それでも最後に残るのが彼女への執着なのだと、嫌というほど思い知らされる。

 

私は少しだけ身体を離した。鼻先が触れそうな距離で彼女を見る。近すぎて、焦点が合わないくらい近い。彼女の睫毛の影も、瞳の揺れも、唇のわずかな湿り気も、全部見えて。

彼女は泣きそうな目のまま、ほんの少し笑った。

 

その表情に誘われるみたいに、私はそっと彼女の頬へ触れた。指先が冷えていたのか、彼女がわずかに目を細める。親指で目尻のあたりを撫でてから、ゆっくりと唇を重ねた。

 

柔らかい。あたたかい。生きているひとの唇だと思う。そんな当たり前のことが、胸を潰しそうなくらい切実だ。

 

離れようとした瞬間、彼女の指が服の裾をきゅっと掴んだ。

 

呼吸が止まる。

 

見下ろすと、彼女は目を閉じたまま、ほんの少しだけ顎を上げていた。行かないで、と、言葉もなく縋るみたいに。

 

その仕草があまりに愛しくて、私はもう一度、さっきより深く口づけた。

 

角度を変えて重ねるたび、彼女の息が小さく乱れる。触れ合った唇の隙間から洩れる呼吸まで愛おしくて、どうしようもない。

 

こんなふうに私から彼女に甘えるのは、たぶん初めてだった。ただ失いたくない一心でしがみつくみたいに。

 

彼女の手が私の首筋へ伸びる。指先が髪をかき上げ、耳の後ろを撫で、そのまま後頭部を包み込んだ。その導かれるままに、私はさらに彼女へ沈む。

 

何度か深く唇を食んで、ようやく離れた頃には、二人とも息が上がっていた。

 

彼女の目元が赤い。

 

泣きそうなのか、もう泣いているのか、その境目が分からないまま、私は額を合わせた。

 

 

「君は、明日の私に今日を思い出してほしい?」

 

「……………はい…とても」

 

 

彼女のその返事を聞いたとき、たぶん私は初めて、彼女が本当に無限ループの中にいるのだと理解したんだ。

終わらせるつもりのない人間だけが持つ覚悟で、同じ朝を迎え続けていたから。

 

夜、彼女は風呂に入った。浴室の向こうで水の音がしている。

私はダイニングテーブルに座っている。白いノートを開いて、ペンを握っている。

手が震える。寒さのせいじゃない。忘れることが決まっている一日を書き留めるというのは、妙な行為だ。

 

流れる水を素手で掬って瓶に詰めるようなものだ。こぼれるほうが多いに決まっている。

 

それでもやるしかない。

 

書かなければ、明日の私はまた、彼女の目の下が薄く腫れている理由を知らないまま、のんきにおはようを言うのだろう。

 

書かなければ、彼女が冬の空の下で何度も私に与えてくれた答えが、私の中でただの空白になる。

 

書かなければ。私はまたどうやって彼女の無限ループを終わらせるかを先に考えるかもしれない。

 

だから書く。

 

今日の朝の湯気も、

彼女の紅茶の冷めた匂いも、

コートの襟を直した指先も、

公園のベンチの冷たさも、

全部、できるだけ残す。

 

忘却に奪われる前に、紙へ縫いつける。

これは記録であり、抵抗だ。

残酷な無限ループに対する、あまりに貧弱で、それでもいまの私にできる唯一の反逆だ。

 

たとえ明日になれば、今の私が死ぬとしても。

何度死んでも、紙の上でだけは、かろうじてでも生き延びさせるんだ。

彼女にばかり、同じ朝の責任を負わせないために。

 

……さて、ここまで読んでいるなら、君はたぶん、朝から何をと、少し混乱しているかもしれない。

 

落ち着いて読んでね。

これは大げさな創作なんかじゃない。

昨夜の、…いや、或いは数十日前の君が書いた抵抗の記録なんだ。

 

端的に伝える。

君は前方性健忘症だ。

事故のあと、新しい記憶を長く定着させられなくなった。

 

念の為大事なことをもう一度。

 

彼女が無限ループに陥った理由は、

君が病気だからじゃない。

君が自殺しようとしたからじゃない。

 

ひたすらに彼女が

君のことを愛してくれているからなんだ。

 

この一文を、都合のいい免罪符にするなよ。

甘えていいという意味でも、全部任せていいという意味でもないから。

 

彼女は君の隣に、自分の意思でいる。

何度でも説明すると言ってくれた。

何度でも朝をやり直すと言ってくれた。

その覚悟を、勝手に否定するな。

 

君がやるべきなのは、死んで彼女を解放することじゃない。

生きて、何度でも受け取ること。

何度忘れても、また受け取るんだ。

 

何回余命1日を宣告されたって、

Good morningからRest in peaceまでを何度だって。

 

恥ずかしくても、惨めでも、みっともなくても、生きろ。

 

青臭い言葉でごめん。汚い字でごめん。

でもしょうがないでしょ?

そりゃあ私だって怖い。

震える手で綴るこれを書き終えて、そして眠ってしまえば私は死ぬ。

 

それでも書くんだ。

それでも足掻くんだ。

 

だから、

 

だからお願い。

 

君も、諦めないで欲しい。

 

何をしたっていいさ。

 

出かけてもいい。家でのんびりしてもいい。

 

何度忘れ、何度死のうとも、

 

生きろ。

 

 

頑張れ、私。

 






あの!このノートを読んだ後とりあえずわたしのことを襲いに来るのやめませんか!!もう5日も連続で寝起きから君に襲われてるんです!

追記、なんですか昨日の自分に嫉妬したって…
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