彼女が無限ループを諦めない理由   作:( 눈_눈)

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こいついつも死ネタありの百合ばっか書いてんな異常性癖者め




彼女が無限ループを諦めなかった話

わたしがそれを打ち明けたのは、朝食の皿を流しに運んだあとだった。

 

食後、なんとなくソファに身を預けた君の両頬に、わたしはそっと両手を添えた。

 

そのままするりと頭を自分の膝へ導く。抗議されるかもしれないと思ったけれど、君はほんの少し目を丸くしただけで、あとはされるがままに体重を預けてきた。

 

かわいい、と思う。

 

そういうことを、もう何度思ったか分からない。それでもことある毎に、君は新しく胸の奥を柔らかく刺してくるから困る。

 

髪へ指を差し入れる。朝の光を少し含んだその髪は、撫でるたびに指のあいだを静かに流れていった。頭皮を傷つけないように、けれど心地よさがきちんと届くように、力を調整しながら梳いていく。君はそれだけで、少しずつ肩の力を抜いていく。

 

わたしは知っている。

君がどこを撫でられるのに弱いか。

どのくらいの強さなら安心して目を閉じるか。

どのくらいの間をあければ、名前を呼ばれなくても自分からこちらへ重心を預けてくるか。

 

「……急に、……なに?」

 

君はそう言った。表情はどこか不満げで、たぶん咎めるつもりだったのだろうけれど、声はきっと本人が思っているよりずっと柔らかく崩れていて、わたしは少しだけ口元を緩めた。

 

「可愛かったので、つい」

 

と答える。

 

ほんの少しだけ、得意げな響きが混ざってしまったかもしれない。

君はそれに気づいたらしく、むっとしたように眉を寄せたが、それでもそのまま膝から逃げようとはしなかった。

 

かわいい。

どうしようもなく。

 

前髪を指先でかき分け、こめかみのあたりをゆっくり撫でる。見下ろせば、頬の輪郭も、うっすら色づいた耳も、呼吸のたびに揺れる喉も近い。

こんな距離が、二人のあいだではもう珍しくなくなって久しいのに、わたしのほうだけが、いまだに何度でも胸を熱くしてしまう。

 

自分のものだと言ったことはない。

言うつもりもない。

 

けれど、逃がすつもりがないことだけは、

きっともう伝わっていて、

それでも、誰にも心を開かない彼女が、それを許して、わたしだけにされるがままにしている様子が、どうしようもなく愛おしい。

 

わたしの親指が、髪の生え際をそっとなぞる。君は目を閉じかけて、けれど何かを思い出したみたいに、もう一度こちらを見た。たぶん、こうして甘やかされる理由を探しているのだろう。

 

その仕草まで愛おしくて、わたしは君の手を取った。撫でる手は止めないまま、もう片方の手だけで包み込むように握る。君の指先は、朝のうちならまだ少し冷たい。

 

食卓にはまだ味噌汁の薄い湯気が残っていた。窓の向こうは曇り空で、白い光だけが部屋の輪郭をやわらかく撫でている。

 

わたしは撫でる手を止め、マグカップを両手で包んだ。少し冷めた紅茶を飲みもせず、ただその温度を確かめるみたいに持つ。

 

言わなければいけない。

今日も、誤魔化さずに。

きちんと、まっすぐに。

 

そう思っていたのに、胸の内側はあまりにも静かに震えていた。

 

「ねえ」

 

呼ぶと、君が顔を上げる。わたしは微笑んでいたと思う。

少なくとも君を怯えさせない程度には。けれど自分で分かるほど、その笑みは少し硬かった。

 

「驚かないでください。たぶん、驚くでしょうけれど」

 

「前置きが長いな。……なに」

 

わたしは息を吸った。喉がひどく狭かった。

 

「大事なお話があります」

 

君の表情が少しだけ改まる。冗談ではないと察したのだろう。わたしはマグカップを置いた。陶器が木へ触れる、小さな乾いた音がした。

 

「君は、ある事故のあとから、…新しい記憶をうまく定着できなくなりました」

 

一拍。

 

そして君の睫毛が震える。

 

「……え」

 

「…つまり、今の君は、前方性健忘症…なんです」

 

その瞬間、君の身体から熱が引いていくのが分かった。

 

さっきまで膝に預けられていた重みが、別の意味を持ちはじめる。君は起き上がろうとして、うまく力が入らないみたいに一度ソファへ手をつき、それからようやく身体を起こした。

 

目だけが先にこちらを見る。焦点が合っていないみたいに、ひどく遠い。

 

「……なに、を」

 

「昔の記憶や、わたしのことや、自分のことは覚えていられます。…でも、その日あったことを、翌日まで…」

 

「待って…」

 

鋭い声だった。

反射で、わたしの言葉が止まる。

 

君は立ち上がろうとして、けれど膝がうまく言うことをきかなかったらしく、ソファの端へよろめくように寄りかかった。顔色が目に見えて悪い。呼吸が浅くなっている。

 

「やめて、……なにそれ、意味が分からない、だって、今こうして、覚えてる、全部覚えてるのに……」

 

「はい。今は、覚えています。でも日付が変わると――」

 

「……」

 

 

君の肩が小さく震えている。目の奥にあるのが怒りではなく、純粋な恐怖だと分かってしまって、心臓が潰れそうになる。

 

「ごめんなさい、でも、伝えなければと…そう思って…」

 

「…つまり明日の私は、今日の記憶を全部失くすの?」

「……はい」

 

言った瞬間、君の顔から血の気が失せた。

 

わたしはすぐに近づいた。逃げられるかもしれないと思ったけれど、君は逃げなかった。

 

逃げるどころか、座っていることすらできなくなったみたいに、その場で崩れかける。わたしは慌てて腕を回し、その身体を抱き留めた。

 

細い。

こんなときに思うことじゃないのに、そんなことを思ってしまうくらい、君は軽かった。

 

「大丈夫です、座りましょう。ね、ゆっくり」

 

「大丈、夫……」

 

君の声が掠れる。泣いているわけでもないのに、もう喉が壊れかけているみたいだった。

 

わたしは君を抱きしめた。

背中へ腕を回し、頭を胸元へ押し寄せるみたいにして包み込む。そうすると君はようやく、自分が震えていることに気づいたみたいに、細く息を乱した。指先がわたしの服を掴む。思い切り、みっともなく、縋るように。

 

「落ち着いてください。ここにいます。わたしはここにいます」

 

「……もう、……なにも…、できないん、…だ……私…」

 

それを聞いた瞬間、背骨の奥が凍った。

 

ああ、やっぱり。

そう思ってしまった自分が嫌だった。

予感していたくせに、まっすぐ言えば、今度こそはきっと大丈夫、なんて、まだどこかで都合よく信じていた自分が。

 

君の呼吸はますます乱れていく。過呼吸の手前だ。わたしは背中を撫で、肩をさすり、耳元で何度も名前を呼んだ。大丈夫なんて簡単な言葉では、まるで足りないのに。

 

「聞いてください。何があっても、君は君です。わたしのことも覚えています。いままで好きだったものも、嫌いだったものも、ちゃんと君の中にあります。」

 

「でも、でもそれって……」

 

「はい。分かっています。……分かっているつもりです」

 

つもり、でしかない。

本当は分からない。

毎晩自分が死ぬようなものだとかつての君がそう言った絶望を、同じかたちで引き受けることなんてできない。

 

それでも、離す訳にはいかなかった。

 

君の額がわたしの肩口へ押しつけられる。熱い呼吸が服越しに伝わる。そうしてようやく、君は声を殺して泣き始めた。ひどく静かな、ひどく幼い泣き方だった。

 

わたしは抱きしめる腕に力を込めた。

 

そのときにはもう、嫌な予感が、胸の底に根を張っていた。

 

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 

夜半すぎ、水音で目が覚めた。

 

最初は、君が眠れなくてお風呂にでも入っているのだと思った。事故のあと、眠りが浅くなっていることはよくあって、それ自体は珍しいことではなかった。

 

けれど、しばらくしても水音は止まらない。むしろ同じ調子で、際限なく流れ続けている。

 

胸の奥が、ひどく嫌なふうに縮む。

 

「……なにかありました?」

 

返事はない。

 

ベッドを出た足が冷たかった。廊下の暗がりが、やけに深い。浴室の扉の前に立ったとき、内側から漏れる水音に混じって、鉄みたいな匂いがした気がした。

 

咄嗟に駆け出して、乱暴に扉を開ける。

 

 

白いはずの床に、赤があった。

 

 

一瞬、何を見ているのか分からなかった。

赤い。

濡れている。

人が倒れている。

 

理解が追いついた瞬間、息が止まった。

 

「……っ、――っ、なん、で…!」

 

声がひどく上擦った。自分のものじゃないみたいだった。膝が抜けそうになるのを、壁に手をついてこらえる。

 

シャワーの水がまだ流れたままで、床の赤を薄めながら広げていた。わたしは震える手で止水栓を回した。指が滑って、一度でうまく止まらない。二度、三度、やっと水音が途切れる。

 

静かになった途端、耳鳴りだけが残った。

 

君の名前を呼ぶ。返事はない。

しゃがみ込んで肩へ触れる。冷たくはない。まだ、温度がある。

それだけで涙が出そうになった。

 

「やだ、やだ、……お願い、お願いです、ねえ、ねえ……!」

 

手が震えて、スマートフォンを落としかける。画面がうまく見えない。数字が滲む。何度も押し間違える。やっと繋がって、けれど最初の一声が出てこない。

 

『救急ですか、火事ですか』

 

「きゅ、救急、です、たすけて、ください……!」

 

自分でも驚くほど声が壊れていた。言葉が喉につかえて、うまく出ない。それでも伝えなければいけないことだけを必死で紡ぐ。

 

指示に従って、タオルを取る。手元がおぼつかなくて、棚に肘をぶつけた。

 

タオルを押し当てる。顔色が悪い。睫毛が濡れて頬に張りついている。唇の色が薄い。

 

「だめです、だめ……」

 

誰に言っているのか分からなかった。

君にか、自分にか、この世界にか。

 

救急車のサイレンが聞こえるまでの時間が、永遠みたいに長かった。君の手を握る。返してはくれない。わたしはそのたびに、もっと強く握った。こんなところで離れるなと、祈ることしかできなかった。

 

その夜の記憶は、ところどころ破れている。

 

ストレッチャー。

眩しい白い光。

説明を求める声。

サイン。

君の家族への連絡。

医師の口から告げられた「命に別状ない」という言葉。

それを聞いた瞬間、床へ崩れ落ちそうになった身体。

 

助かった。

 

けれど、もう分かってしまっていた。

 

君は、わたしが思っていたよりずっと、簡単に生きるのを諦めてしまう。

 

 

憔悴しきったわたしは病院から一度だけ部屋へ戻った。

 

着替えと、入院に必要だと言われた書類を取りに来ただけの、短い帰宅だった。

 

玄関を開ければ、室内へ入った瞬間に足が止まってしまう。

 

昨日までと同じ部屋のはず。

脱ぎっぱなしの部屋着、飲みかけの水、ソファの端に寄ったクッション。

 

生活の余韻がそのまま残っていて、君が今にも「おかえり」と言いそうなくらい、日常の姿に揺蕩うまま。

 

「……」

 

ローテーブルの上に、書類が重ねられている。

 

病院で必要になるものを探すつもりで近づいたわたしは、しかしそのまま息を呑む。

 

賃貸契約書。

保険証。

通帳のコピー。

職場関係の連絡先を書いたメモ。

扶養や名義変更に関する書類。

 

順番に、ひたすら見やすく揃えられている。

 

乱暴に放り出した形跡なんて、どこにもない。

泣きながら掻き集めたのでも、

衝動のまま途中で投げたのでもない。

 

必要なものを、必要な順に。

残される人間が困らないように。

そういう並べ方だった。

 

わたしはその場に立ったまま、ただ眺める。

 

昨夜のあれは、発作的な絶望ではなかったのだと、そこでようやく分かってしまったから。

 

ただ怖くなって、ただ苦しくなって、逃げるみたいに死のうとしたわけじゃない。

 

君はちゃんと考えたのだ。

 

考えて、考えて、考えた末に、

わたしが困らないように、

わたしが後始末に追われないように、

 

そして何より、わたしが君の介護という役目に生涯縛られることのないように。

そんなことばかり整えてから、自分を消そうとした。

 

喉の奥が、ひどく狭くなる。

 

君は、わたしが君を見捨てないことを知っていたのでしょうか。

 

記憶の途切れる朝を何度迎えることになっても、

わたしが君のそばにいようとすることを、疑わないでいてくれたのでしょうか。

 

…きっとだからこそ、こんな方法しか思いつかなかったのだろう。

 

言葉で離れてと告げても、きっとわたしは頷かない。

泣いて縋られても、怒って拒まれても、それでもわたしは手を離さない。

そう分かっていたから、

自分ごと消えることでしか、わたしを未来へ押し出せないと思ったのだ。

 

それはあまりにも不器用で、

あまりにも勝手で、

あまりにも、君らしい。

 

責める気持ちは、不思議なくらい湧かなかった。

 

信用してくれなかった、なんて、思いやしない。

だってこれは、むしろ逆だ。

わたしが絶対に君を見捨てないと信じていたからこそ、

わたしのその先の人生までを案じてしまったのだ。

 

愛されている、と思った。

 

ひどい形だ。

こんなの、愛し方としてはあまりに下手だ。

 

それでも、書類の端を指先で揃えた跡みたいな几帳面さに、

わたしの扶養関係まで気にしていた痕跡に、

自分がいなくなったあとのわたしの暮らしを、君が最後の最後まで考えていたことが滲んでいて、

 

それがどうしようもなく痛く、

そしてどうしようもなく愛しかった。

 

わたしはそっと、その束のいちばん上へ触れた。

 

紙は冷たい。

でも、その整い方だけが、君の手つきをありありと思い出させる。

 

昨夜、血の気の引いた顔で横たわっていた君と、

こうしてわたしのために事務的な準備を済ませていた君が、

ひとつの線で繋がってしまって、

目の前が少し滲む。

 

君が思い詰めた果てに残したのが、

恨みでも、絶望の叫びでも、遺書めいた感傷でもなく、

わたしが少しでも困らないための、静かで、そして丁寧な身辺整理だったことが、

あまりにも君らしくて、愛おしかったんだ。

 

 

冷めきった紅茶の香りが僅かに巡る。

 

君のいない部屋。

それでも隅々に君の気配だけが残っている部屋。

 

わたしはぐしゃぐしゃの泣き笑いを何とか落ち着かせるように胸に手を当てた。

 

何度やり直しになったって、

やっぱりわたしは、君が大好きみたいです。

 

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 

 

それから何日かして、また朝を迎えた。

 

同じようでいて、同じではない朝を。

 

わたしは台所に立って、卵を焼きながら、ずっと考えていた。

 

きちんと説明したほうがいいのか。

それともしないほうがいいのか。

 

医師には、本人の理解が大切だと言われた。家族も、隠し続けるわけにはいかないと言った。それはきっと正しい。

 

でも正しさは、どうしても、どうしようもなく君を傷つける。

 

わたしは小さく息を吐き、包丁を置く。少しだけ頭が痛かった。鏡を見なくても分かる。目の下に薄い隈がある。このところ眠れていない。

 

君が起きてくる気配がした。

 

振り向くと、寝癖のついたままの君が立っていて、こちらを見る。見覚えのない朝に立ち尽くすような顔ではなくて、ただ少しぼんやりした、いつもの君の顔。

 

「おはよう」

 

そう言われて、胸の奥がきりりと痛んだ。

 

おはよう。

たったそれだけの言葉が、どうしてこんなに難しいのだろう。

 

「……おはようございます」

 

いつも通りに返す。君は少し笑って、テーブルへ向かった。その自然さに、わたしのほうが救われそうになってしまう。

 

説明しなければ。

今のうちに。

この穏やかさが離れがたくなってしまう前に。

 

そう思ったのに、口が動かなかった。

 

代わりにわたしは、

「今日はフレンチトーストにしてみました」

なんて、ひどくどうでもいいことを言っていた。

 

君は椅子に座りながら、少し目を丸くしたあと、素直にうれしそうな顔をした。

 

それだけで、もうだめだった。

言える気がしなかった。

 

卑怯だと分かっていた。

先延ばしだとも分かっていた。

けれど、また君にあんな顔をさせるくらいなら、せめて今日一日だけでも、知らないまま穏やかに、健やかにいてほしかったんだ。

 

食卓で向かい合って朝食をとる。君はメープルシロップをかけすぎて、かすかに眉を寄せた。わたしが笑うと、君は少し不服そうにしながらも、結局最後まで全部食べた。

 

そのあと、二人でスーパーへ行った。特売の卵を買って、切らしていた生活用品を買い足して、ついでに君が新作のお菓子をかごへ入れる。

 

帰り道、コンビニで温かいカフェラテを買って、ひと口飲んだ君が舌を軽く火傷して、ケラケラと笑うわたしを軽く睨んだ。

 

わたしは「言ったでしょう、熱いって」と心底楽しそうに笑いながら言い、蓋を少し開けて一緒に息をふきかけて湯気を逃がしてやった。

 

午後にはソファでだらだらと映画を見た。内容は正直、あまり頭に入ってこなかった。君が途中でわたしの肩へ凭れて、そのまま眠ってしまったからだ。

 

寝息が規則正しく続くたびに、

…そして優しく頭を撫でるたびに、泣きたくなるほどに安堵した。

 

この人と過ごす日々は、本当にここにあったのだと思う。

事故の前にも、事故のあとにも。

たとえ記憶が繋がらなくても、失われたわけではない。はずだったんだ。

 

夕方、目を覚ました君が「結末はどうなった?」と聞くから、わたしは適当にあらすじをでっち上げた。君は「絶対嘘でしょ」と笑って、それでも細かくは追及してこなかった。

 

夜には一緒に簡単な鍋を作って、同じ器から豆腐をさらって取り合うようなやり取りをして、食後にアイスを半分こした。

 

普通だった。

 

残酷なくらい、普通だった。

 

もし、と思う。思ってしまう。

もしこの人が明日も今日を覚えていられたなら。

もしあの事故がなかったなら。

 

…けれど、ないものばかり数えても仕方がない。

 

大事なのは、今、ここにあるもの。

君が笑ってくれること。

 

わたしの淹れた紅茶を飲み、

膝枕をすると、文句を言いながら結局じっとしていて、

愛していると言えば、少し照れて、それでもちゃんと抱きしめ返してくれる。

 

それらは確かに毎日失われるのかもしれない。

でも、毎日失われるからといって、毎日生まれていないわけではなかったんだ。

 

夜更け、君が眠ったあとも、わたしはしばらくリビングに残っていた。薄暗い部屋に、鍋の匂いだけが残っている。テーブルには、今日のレシート、スーパーのポイントカード、半分だけ読んだ雑誌。そんな何気ない生活の痕跡ばかりだ。

 

ふと気づく。

 

ただの説明だけではだめなのだ。

 

医師の言葉をそのまま渡しても、

病名をまっすぐ教えても、

病気は伝えられても、

 

決して、その先でどう生きるかまでは届かない。

 

でも今日、何一つ説明しなかった一日で、わたしは見た。

 

わたしに笑いかけてくれた。

わたしに甘えてくれた。

わたしの隣を選んでくれた。

 

必要なのは、一方的な説明ではなく、

君自身が、自分の足で辿り着くための道筋なのではないか。

 

君がわたしを愛していること。

わたしが君を愛していること。

 

そこへ辿り着くための道。

 

わたしはノートを開いた。

ペン先を紙へ当てる。

書きかけて、止まる。

 

病名から始めるのは違う。

現状説明からでも足りない。

たぶん、もっと手前から。

 

君が少しずつ世界のずれに気づいて、

自分の中の答えへ辿り着いて、

その先でなお、生きるほうを選べるように。

 

そのための手順。

そのための問い。

そのための、傷つけすぎない導き方。

 

わたしはそこで初めて、ほんの少しだけまともに息ができた気がした。

 

わたしは君をどこまで傷つけずに連れていけるでしょうか。

どこまで、絶望より先へ案内できるでしょうか。

 

自分で自分の現在地を認め、そのうえで、それでも生きる理由へ手を伸ばさせるには、どんな順番が必要だろう。

 

正解を押しつけるのではなく、

誘導するでもなく、

それでも、君の口から言わせる。

 

それなら、

もしかしたら、死へ飛びつく前に、

 

愛されているという事実を、君自身の声で掴めるかもしれない。

 

少しずつ、少しずつ、中心へ。

 

窓の外。白んでいく空。

夜が薄れていく。

 

また朝が来る。

 

怖かった。

たまらなく怖かった。

明日の君がまた何も知らない顔で起きて、わたしを見上げることが。

わたしが君を試すみたいに問いを差し出さなければならないことが。

正解に辿り着いた先で、また泣かせてしまうかもしれないことが。

 

それでも、何もしないよりはいい。きっと。

 

わたしは立ち上がって、洗面所の鏡の前に立った。ひどい顔だった。目の下は暗いし、唇の色も悪い。それでも、声だけは整えなければいけない。君を怯えさせないように。いつものわたしでいるために。

 

一度、深呼吸をする。

少しだけ、口元を緩める。

泣きそうな顔のままでは、だめだ。

 

わたしは目を閉じた。

次の朝に、愛する人を今度こそ連れ戻すために。

…そして、たとえ永遠に連れ戻せなくても、ずっと諦めないでいるために。

 

何度でも。何度でも。

 

君が生きるほうを選べるように。

そして願わくば、その先で、

わたしを選ぶ理由にまで、もう一度辿り着けるように。

 

たとえその答えが、

ひどく青臭くて、

ひどく個人的で、

ひどく救いがたく愛しいものであったとしても。

 

わたしはきっと、それが正解だと思うから。

 

 

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